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![]() あなた自身のすてきな「時間の国」にステイされているときに 前稿の最初のフレーズから あなたの時間にあわせて読んでいただければ光栄です。金魚 ![]() 悠久のときを生きつづけるモンタナの大森林の樹木たち 10万年まえに大噴火したというイエローストーンのスーパー・ヴォルケーノ そして何度も訪れた気高きプエブロの聖地 タオスの山々を越え この平べったい大陸を 東へ 東へ 20年まえの ぼくのモモさがし・大陸横断の旅はつづいた ![]() TVゲームをよそおった湾岸戦争の大量殺戮 石油をはじめ この世の物質というものをすべて 自分のものにしようとする超大国 そのとき もはや新大陸と呼ぶことすらむずかしく思えてきたこのアメリカに まだぼくの魂のモモが 存在していると確信できたのは もう一冊の本を読んだからなんだ 文字を持たないイロコイの末裔 ポーラ・アンダーウッドが 父親と かの女の5代前の祖父の祖母からの口伝によって書いた 「一万年の旅路 —ネイティヴ・アメリカンの口承史」 太古の日本列島周辺に住んでいた部族が 当時まだかろうじて繋がっていたベーリング陸橋を越えて この新大陸に移住し ついに五大湖周辺にイロコイ連邦をつくったという 一万年のドキュメント。 ![]() かれらの一万年の歴史の冒頭「石の雨が降った日」の章では 当時の日本付近に大地震と大津波 大地殻変動が起こり いったんは西に逃げた一族が そのあと水のない土地を離れて進路を北にとり 新天地を求めてアメリカ大陸まで歩きはじめることになる ![]() そのきっかけとなった 石の雨が降り 海が襲ってきた日の伝承がある そして人びとの目の前に、身を守ってくれるはずの海が見えた。食べ物や泳ぐ喜びを与えてくれる恵みの海が見えた。かれらの世界の中心であるはずのその海が、怒れる山のごとく、憤る熊のごとく、荒れ狂う嵐のごとく立ち上がったのだ。 それはすべてを踏みしだく死のように押し寄せ、<長びと(おさびと)>たちを、病人たちを、学び手たちを、石つぶてから身を隠そうとする者たちを呑み込んだ。かれらをことごとく呑み込んで、また沖へ引いていった。そして、この水の山から大地の山の高みへ逃げおおせた人びとは、それより下にいるすべての者たちが波にさらわれていくのを、おののきながら見守った。 一瞬のうちに<長びと>たちが消えていた。一瞬のうちに病人たちが消えていた。一瞬のうちに、学び手たちが消えていた。一瞬のうちに、われらの知恵がすべて洗い流され、一族はこの異変に裸でまみえていたのである。(「一万年の旅路」ポーラ・アンダーウッド 星川淳・訳 翔泳社 p-12) ![]() 西にある<大いなる乾き>(砂漠)まで引いたと伝えられている 一万年 いやそれよりうんと昔から この星の地殻は大変動をくりかえし そのころの日本列島は大陸と地続きだったという 3-11の日の さらに何百倍 何千倍というエネルギーが 当時の列島の地殻を大きく動かした それは大地の神の怒りとか 人間の業などとは まったく関係のない次元の 地球星の成長や衰退の過程で いくつかの細胞が入れ替わるほどの変化でしかなかった ![]() ひとはそれでもなりわいをつづけ よりよき環境を求めて歩く <大いなる乾き>から進路を北にとり ベーリング陸橋を越え 新天地をめざした この50数人の部族は 幾多の苦難を積み重ね 歩きつづけることで 生きつづける知恵を 得つづけることになる 一万年近くも以前の話なのに かれらのなかに「魂のモモ」の姿を見る 「星の時間」のはじまりを観る そしてそのきっかけをもう一度くりかえせば おおぜいの仲間の命を奪った「大地震」と「津波」とが かれらを「立ち上がらざるをえない」状況にした ということだ ![]() 「これは星の時間をあらわす時計だ」マイスター・ホラは言いました。「めったにあらわれないような星の時間を、確実におしえてくれる時計なんだが、ちょうどいまそういう一時間がはじまったところなのだよ。」「星の時間て、なんなの?」とモモはききました。 「いいか、宇宙には、あるとくべつな瞬間というものがときどきあるのだ。」とマイスター・ホラは説明しました。「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったく一回きりしか起こりえないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。そういうときには、あとにもさきにもありえないような事態が起こることになるんだよ。だがざんねんながら、人間はたいていその瞬間を利用することを知らない。だから星の時間は気がつかれないままに過ぎさってしまうことが多いのだ。けれどもし気がつく人がだれかいれば、そういうときには世の中に大きなことが起こるのだ。」(以下、緑字の部分は「モモ」ミヒャエル・エンデ 大島かおり・訳 岩波書店 からの引用。p-194 モモ、時間の国につく) Read More つづきを読む ![]() 1月からMoMAで、ジェームス・ローゼンクイストの巨大代表作 F-111が展示されているのだが、何度訪れてもどこにあるかわからない。場所を尋ねてやっと出会った作品は、ぼくの盲点である4階の窓際正面の細い入り口からチラリと覗いていて、小さな正方形の部屋の壁4面を内側から巻き込むように鎮座ましましていた。![]() 1965年、この作品が最初に展示されたSOHOのレオ・キャステリ・ギャラリーの雰囲気を再現しているつもりだろうが、今回は入れ物全体が巨大美術館なので、作品の大きさを測る感覚がまるでちがう。これではこのジャイアント・ビルボード作家の代表的超巨大作品のイメージはまったくなく、つまらない小規模な作品4点が並んでいるとしか認識できない。あきらかに展示ミスではないだろうか。 ![]() MoMA NYの代名詞であったモネの大睡蓮も、一部屋に一作品だけの展示だが、天井の低い小部屋に押し込められた印象があり、かって旧館での、睡蓮の強い香りが漂うような華麗な展示とはほど遠い。旧館でのモネはさほど大きな部屋ではなかったが、壁面にピッタリつけないで、かなりの曲面壁に、部屋に対して斜めに、宙空に吊られていたと記憶している。空間の大きさだけが問題なのではない。モネの故郷パリにあるOrangerie Museumには大きく負けてしまっているが、大きなホリゾンタル・イメージの作品を曲面壁に貼るアイディアはMoMAがはじめたのではないか。以前のその空間には、絵を観つめつづけているだけで天国の睡蓮池のそばにたたずんでいる風情があった。改装後のMoMAでは、もはやその天国は片鱗すら見あたらない。 ![]() ![]() 大観客をかかえた高層ビル内の展示スペースでの詰め込みは仕方がない、と建築家の友人はいうが、すべての作品が、入れ物と展示する側のイメージの小ささによって去勢されている印象がある。数年前の大拡張の際の日本人建築家によるインテリアのひどい改悪のあと、アート作品と観客のあいだにいつも摩擦と軋轢が多く、落ちついて作品を鑑賞できない。数年後に建築開始予定の巨大MoMA Towerに期待するしかないが、建築家やキュレーターがおなじ発想で作品を詰め込めば、アートが発するオーラは極端に萎縮する。 ![]() この巨大美術館の巨大展示室にもおさまりきらなかったローゼンクイストの巨大作品は、かっての巨大アメリカの象徴であったわけだが、いまやMoMAの小仕切り室に鎮座していることが、さまざまな意味で現代のアメリカを象徴しているように感じる。この巨大作品の萎縮した展示をパースペクティヴに見せようとコラージュをしはじめたら、上のタイトル写真のように、まるで福島の原発建屋が爆発したような図になった。もちろん途中から意識しはじめた結果ではある。ついでに爆発した建屋の写真まで入れたら、これから何を言うべきかが実にはっきりしてきた。 ![]() 思いおこせば、福島第一原発の原子炉はすべて、アメリカGEで設計されたものを基本としている。もともと太陽神のエネルギーを地上に復元するという実にアメリカ人的な発想は、火力発電と同じタービンを回すという部分で現世プラグマティズムの洗礼を受けて挫折した。(尤もプラグマティストの原発開発者は、まったく挫折などとは感じてはいない。)原爆を開発した晩年のオッペンハイマーがほとんど神経症になりながら、クリシュナ神と人類全員に懺悔した原子の火。アメリカ政府はその核に「平和利用」という新たなお墨付きをつけたことで、人類となかよく歩みはじめた印象を植えつけた。その言葉はもちろん、まったく「平和」ではない、核技術の習得と、核兵器に転用ができるというウラの意味を内包していた。 日本政府は、世界唯一の核被爆国というかって味わった恐怖を、国民に対してあらん限りに覆い隠し、その巨大な危険建造物をアメリカのいうままに建てた。被爆国という意識の隠蔽は、その危険性そのものの隠蔽となり、フワフワ、ペラペラ、グニャグニャと軽佻浮薄な意識のままで核をいじりつづけてしまった。いっぱしの核保有国になったつもりで、自分たちの開発した原発を、事故後のいまも発展途上国に売りつけている。原発事故という未曾有の人災の責任を、世界に対してもまったく感じていないことのあらわれである。まことに不思議というしかない物語は、まだ続行している。今回はあの文字どおりペラペラの意匠のまま天井が吹っ飛んだ福島の原子炉建屋と、ペラペラのアメリカ物質文明を風刺することからはじまったポップ・アートを、象徴的に並列させ、われわれがいかに貧困なイマジネーションの世界に住んでいたかを検証する。 昭和19年、岡本天明は成田の神社境内で、神の啓示から自動筆記された「日月神示」を記す。その後日本の立て替えが二度あると示されている。日本は太平洋戦争に負けても再び勢力を盛り返すが、結局また同じことを繰り返す。そして破壊の程度は2度目の方がはるかに深刻なものになるという。同じこと二度繰り返す仕組みざぞ。 このことよく腹に入れておいてくだされよ。出てきてからまた同じようなこと繰り返すぞ。今度は魂抜けているからグニャグニャぞ。グニャグニャ細工しか出来んぞ。それに迷うでないぞ。いま一度、悪栄えることあるぞ。心して取り違いないように致されよ。神の国、一度負けたようになって、しまいには勝ち、また負けたようになって勝つのざぞ。(日月神示) おっと、日本での巨大な原発事故のことを書き出すと、金魚の神経は尋常でなくなり、結論を急ぐあまり、記憶のなかの呪術的預言をつぶやいてしまった。この預言は太平洋戦争末期になされたものだが、将来二度目の敗北のようなかたちのあと、日本は最終的に勝利すると書かれているが、それすら信じられなくなる現在の日本の様相である。 Read More つづきを読む ![]() 1985年、サンフランシスコ近代美術館旧館で、上のタイトルバックのシンディ・シャーマンの写真「 Untitled-153 」をはじめて観たときのショックは、その後四半世紀を経てもそのまま持続していて、ことし3-11の記念日にここNYCのMoMAで再会した瞬間にも、更なる新しい衝撃をうけることになった。当時、自分の肉体をマテリアルにしてすでに多くの写真作品を創りつづけていたシンディは、自身を死体に見立てたこの作品によって、一躍脚光を浴びることになる。ぼくにとっては、フィラデルフィア美術館で永久展示されているマルセル・デュシャンの「遺作」を観たときの衝撃と、まさに双璧であったといえる。その巨大な壁に開けられた小さな穴からの覗きカラクリは、やはりこの世ではない場所=彼岸と此岸の中間にあるお城のなかの「中庭(コートヤード)」のようにも観えた。生と死の宙空に浮く空中庭園。 「死」ということが、魂が肉体を離れ「本来の場所への帰還」であるとすれば、このふたつの作品は、地上に残された、いまやモノとなってしまった肉体を忠実に再現することによって、去ってしまった「魂」をもう一度引き返させ、いまだに地上に生息をつづける生物に対して、そのことを告知する役割をもつ。彼岸がどのようなユートピアであれ、どのような地獄であれ、いったんそこにたどり着いたことのある「魂」からのメッセージは、万人に響き渡る。死体をフェイクした上の写真だけでなく、シンディが扮するさまざまな「現世の肉体」を観るときさえも、これと似たメッセージが、まるでケータイのヴォイス・メイルのように、現世に響き渡る。リーーーン、リーーーン、あるいは受け手のリンガトーンのメロディに乗って、さわやかに、気軽に、鳴り響く。「よう、死神だけどよう、今晩デートしようよ」「キミをつれて行きたいとっておきの場所があるんだ。」 われわれはそのデートの場所にいくことを猛烈に希求する。それはその場所が「死」と対応する「生」を謳歌する「性の祭典」を強くイメージさせるからだ。そこに行き着くには、いかなる交通機関の切符も、カレシのクルマも必要ない。ただそれには最低の条件があり、いままでン十年間もつきあってきたこの自分の身体というモノを、どこかそこいらに置いていかなくてはならない。魂がそのデートに出かけたあとの肉体はといえば、完全にモノと化し、そのまま放っておけば腐敗し、やがては土に還る。そのことを聞いただけでわれわれは立ちすくみ、異次元でのデートはやはりもう少し先にしよう、とばかり、現世での異性(あるいは同性)との交わりを先行させてしまう。どうやらモノであるわれわれの肉体は、魂のお世話にならなければ、一瞬たりとも生き延びられないらしいのだ。 ものとこころの対立について、中国でのもっとも古い記述を,岡倉天心が「茶の本」のなかで英文に記した。今回もしつこく引用する。道教徒はいう、「無始」の始めにおいて「こころ」と「もの」が決死の闘争をした。ついに「大日輪黄帝(こうてい)」は闇と地の邪神「祝融(しゅくゆう)」に打ち勝った。その巨人は死苦のあまり,頭を天涯に打ちつけ、硬玉の青天を粉砕した。星はその場所を失い,月は夜の寂寞(せきばく)たる天空をあてもなくさまようた。失望のあまり黄帝は、遠く広く「天の修理者」を求めた。捜し求めたかいはあって、東方の海から「女媧(じょか)」という女皇帝、角をいただき竜尾をそなえ、火の甲冑をまとって燦然たる姿で現れた。その神は不思議な大釜に五色の虹を焼き出し、シナの天を建て直した。 しかしながら、また女媧は蒼天(そうてん)にある二個の小隙(しょうげき)を埋めることを忘れたと言われている。かくのごとくして、愛の二元論は始まった。すなわち二個の霊は空間を流転してとどまることを知らず、ついに合して始めて完全な宇宙をなす。人はおのおの希望と平和の天空を新たに建て直さねばならぬ。 ここからは金魚の解釈: 天の修理者・女媧の手中、泥から創られた人類は、まさにそのように愛を営みつづけた。その愛営から生まれた新しい人類は、泥の性格を色濃く残す「身体」いう半物質を抱えたまま旅をつづける。持ち主の人間の意識としては、身体は内界であり、同時に外界であるともいえる不可思議な物体である。たとえばその部品である手足を切り離しても、場合によっては生きつづけることができる。そして「こころ」の方といえば、ひどく繊細にその身体というものに気くばりをつづけ、ときにその半物質を過剰にスポイルし、猫なで声で「おまえ(身体)だけが大切なのだ」と愛を語る。「おまえ(身体)がなければ、俺は一瞬たりとも生きて行けない、どうか逃げないでおくれ」。 しこうして「こころ」は自分のなかの愛人である「身体」にプレゼントを与える。食べモノ、着モノ、住むモノ、飾るモノなどである。ときに母がわが子を育てるよりも愛を注ぐ。 身体がなくなればこころはたちまち上述の三途の川の先、生と死の宙空に浮く空中庭園まで死神とデートに出かけるはめになる。この部分では「もの」はこころと身体の両方を養う必需品。身体とこころは持ちつ持たれつ、二人三脚でひょこひょこ足取り重く、モノのためにうまくやっていくしかない。 そこに突然、前世以来あったこともない「他者」= 絶世の美女(or 白馬に乗った王子)に遭遇する。出会いの場所は学校だったか、職場だったか、動物園だったか、美術館だったか、それとも合コンの場であったのか、いまとなっては実にあいまいな記憶。とにかくふたりはなぜか突然、魂と魂の強いふれあいを感じてしまったのです。もうドウニモトマラナイ。思えば長い道のりであった。いまやふたりの距離はものすごいスピードで近づいておりまする。 ついさっきまでキミは、あの銀河系のかなたにいて、ぼく(あたし)の目にはふれることなどあり得なかった。いまあなたはぼくの半径2mの距離に近づいています。手を握ることも、口づけもすることができる。いったいどんな方法でここまで来てくれたんだい。銀河鉄道に乗ってきたのかい。いやそんなことはドーデモいい。はやくそこの円山町のラヴホテルに行こう。いやだわ、あなたは嫌いじゃないけど、さっき出会ったばかりじゃないの。お食事をして、ブティックに寄って、そうそうまだ時間が早いから、六本木ヒルズのティファニーも開いているわ、わワワワワ♡。かくして主人公は自分の身体のためだけでなく、相手の身体のためにおカネを使いはじめるはめになるのでした。 Read More つづきを読む ![]() 実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。 まことにこれらの天人たちの 水素よりもっと透明な 悲しみの叫びをいつかどこかで あなたは聞きはしませんでしたか。 まっすぐに天を刺す氷の鎗(やり)の その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。 ![]() けれども堕ちるひとのことや 又溺れながらその苦い鹹水(かんすい)を 一心に呑みほさうとするひとたちの はなしを聞いても今のあなたには たゞある愚かな人たちのあはれなはなし 或は少しめづらしいことにだけ聞くでせう。 けれどもたゞさう考へたのと ほんたうにその水を噛むときとは まるっきりまるっきりちがひます。 それは全く熱いくらゐまで冷たく 味のないくらゐまで苦く 青黒さがすきとほるまでかなしいのです。 ![]() そこに堕ちた人たちはみな叫びます わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか 堕ちたといふことがあるのかと。 全くさうです、誰がはじめから信じませう。 それでもたうたう信ずるのです。 そして一さうかなしくなるのです。 ![]() こんなことを今あなたに云ったのは あなたが堕ちないためにでなく 堕ちるために又泳ぎ切るためにです。 誰でもみんな見るのですし また いちばん強い人たちは願ひによって堕ち 次いで人人と一諸に飛騰しますから。 一九二二、五、二一、 宮沢賢治 Read More つづきを読む ![]() 先年他界した母親が、久々に夢枕に立ち「実は霊界で『遺伝子組み換え生卵』なるものを開発したから、それをこの浮き世で流行らせ、大儲けすればよい」と息子である金魚に語りかけた。ここ(夢の中)だけの話だが、この一世代限りの生卵は、地球星で最大の細胞・ダチョウの卵の数倍の容積をもち、成鳥の暁にはラドン(*後述)ほどの大きさになり、親子丼を千人前ほども作ることができるという。継続的波状的根源的脱資本主義的大不況に苦しみ、苦しまぎれにOWSのデモにまで参加して、かろうじて気勢をあげている金魚にとって、まさに夢のような(夢の中なので当然なのだが)この金の卵の話をもちかけてきた。 「そ、そんなセッショーな、おかあちゃん!」 と金魚であるぼくは夢の中で素直に叫び「実は現在、悪徳グローバル企業のモンサントの巣窟である米国に乗り込み、遺伝子組み換えなるものを弾劾しておる最中なのです」と反論する。「ウエスト・チェスターにある友人の土地の一角を、日本人発案の有機栽培で野菜が自然なるがままに育て、少しの鍬を入れることだけで「自然」にもどるのを見守っているのです。」「神から与えられた遺伝子なるものをいじくりまわして、なんの因果は皿の縁」と更なる抵抗を試みる。 即座に、さしものわがグレート・マザー動ぜず「息子である金魚よ、お前と私は歴代の強い遺伝子で結ばれており、ユングいわくのこの普遍的無意識関係は不変である。モンサントなどというくだらない企業のことはすっぱりと忘れなさい。われらが浪速船場の土地に「丸金魚商会」を創設し、この遺伝子組み換え生卵を一手に巨鳥ラドンにまで育てあげ、卵とともに大盛り親子丼を量産すればよいではないか。」夢の中にいつづけたまま、かの女の一言一句をユング風に夢分析している自分がいる。卵・遺伝子・巨鳥ラドンとくれば、わが男性性の中の女性像=アニマ、生み出すとともにすべてを飲み込もうとするわがアートの創造性を司るグレート・マザー、すべてがその天才深層心理学者のいう「普遍的無意識」の元型へとつながっている。 その夢の中で「まずい! 生前のおかあちゃんなら必ずやってしまう。」と気づいて、真剣に対峙したときはすでに遅く、かの女の両手にはすでに大きな金色の卵がかかえられている。「ほらこれを育ててみんかい!」とボンと押し付けられたその卵の重さたるや尋常ではなく、もう一度「そんなセッショーな」と形だけ押し返してみるが、あわれ巨大卵はふたりの手からベッドサイドのハードウッド・フロアに転げ落ち、ゴロン、グシャンと生々しい音とともに割れてしまった。あわててベッドから跳ね起き「子育て、よろしゅうな!」という母親の声を後ろに聞きながらその大きな卵を見ると、なかから産毛に包まれたなにやら怪しげな始祖鳥の雛のようなものが鎮座ましましておる。 実際に見た夢を亡母の想念という形で語りはじめたが、このストーリーにはだれでも分かる欺瞞と責任転嫁がある。霊界の母親の意志などほとんど関係なく、実はぼく金魚の表層意識のすぐ下にある潜在意識に浸透した「物欲」が具現化しただけのことである。ふだんは、行きすぎた資本主義を問う、格差社会をなくそう、We are the 99%、などとエエカッコばかりを述べたてていても、一皮むいて夢の世界に漂えば、この過剰金融社会に毒された「自我」(大文字のSELF)のマネートリップがにょきにょきとなにやらのように顔を出し、このていたらくとなってしまうのである。「やれやれ」この大きなお荷物は、ソラリスの海がぼく自身に課した欲望のツケというわけである。殻からでて来たばかりの雛鳥をそこに座らせたまま、自分の潜在意識を解剖された疲れで、なんと朝までぐっすり眠り直してしまった。Read More つづきを読む ![]() 2月下旬の日本公開より一足早く、ヴィレッジIFC劇場で、ヴィム・ヴェンダースの3Dダンス映画「Pina ピナ・バウシュ・踊り続けるいのち」を観た。映画とは「人の心」のなかをわかりやすく観せるためのアートだが、ヴェンダースの魔術にかかったぼくたちには、例によってその人間たちをあやつっている「天使の心」までが観えてくる。さらに言えば、3Dの箱の中で「ぼくたちの心」をそっくりそのまま「天使の心」に変えてしまうマジックまでが仕掛けられている。そんなふうに感じてしまうなにかが、踊り子の動きのすべてからほとばしり出ている。少なくともぼくたちの心の片隅に必ず存在している「天使の心」を意識させ、触発させるなにかがある。観ているだけでこちらの魂が錬金されてしまうことについてなにかを書かなければ、天使と人間の宙間にブラリと留まったままとなる。その「魂の錬金術師」とはヴェンダースのことなのか、それともこの映画の撮影開始直後に急逝した天才ピナ・バウシュのことを指しているのか。映画のなかで踊る人びとはもちろん、この巨大な作品にかかわったすべての人たちにその称号を与えたい気持ちになる。 映画館という闇箱に入ったとたん、ぼくたちの無意識は闇の空間を自由に泳ぎはじめる。個々の無意識は、その闇の空間を煙のように、あるいはさざ波のように、千差万別に、無方向に広がっていく。映画がはじまる直前の、一瞬の完全な暗黒は、これから眩しい光が満ちあふれた2時間のユートピアを予感させる。そして正面のスクリーンに光は溢れはじめるのだが、予感とはちがって、無意識とは真逆の作為的な世界へと奔りだし、せっかくその空間に溢れかかったおおぜいの無意識は、ほとんどがスタートラインである内臓の奥底へと逃げもどってしまう。監督をはじめおおぜいが関わった光の芸術は、配給会社のロゴと映画タイトルなどの文字からはじまり、たいていの場合、お仕着せがましくたったひとつの現実的ストーリーを語りはじめる。先ほどまでの無意識が感じたユートピアは、奇妙にゆがめられてしまうのだが、窓口で払った18ドル(3D特別料金)という大枚のために、ほとんどはまだその箱から出て行くことなど考えていない。 このたびはふだん掛けている眼鏡の上にもうひとつのサングラスをかけての闇箱である。この行為が果てしなく作為的な世界への導入であると悟り、またどこかの感覚器官の一部が滅入る。別な部分で少しの期待もある。箱のなかで、ふたつの眼鏡をかけたぼくの肉体は急に縮んでいく。「また来たか」とほとんど舌打ちをするように、自分の縮められた肉体を観つめている。身体が縮んで小人になったかわりに、前方にあるスクリーンまでの距離はずいぶん伸びきったように感じる。やがてひどく奥行きの深い舞踏場の箱の中から、踊り子たちが飛び出してくる。 故寺山修二は「ステージのことをなぜ『舞台』というのだろう。私は、俳優に舞わせようと思ったことなど一度もなかった。」と疑問を呈しているが、もともと舞台は人間が踊るために創られたことはまちがいがない。ただ、いまここに現出した舞台という閉鎖空間で、ヴッパタール舞踊団によって行なわれていることが、どうも「踊り」という人間の身体行為のようには思えないのだ。極端にパースペクティヴな世界から飛び出てきた踊り子たちは、それぞれが思い切りのパッションをぶつけながら観客の心に襲いかかる。先ほどあわてて身体のなかに逃げ帰った無意識の居場所ははっきりとわからないが、たとえばそれが心臓の裏にあると仮定すると、踊り子たちの激情はそこに向かって矢のように突き刺さる。どうやらこの3D映画は、いままでのようなヴァーチャル・アトラクションなどではなく、観客に向かって仕掛けられた真剣勝負なのだということがわかりはじめる。 実際の映画館の最前列より前の、舞踏場を撮影した3D画面の一番下の部分には、数列の観客席に客が座っているのが映されており、映画館の奥行きもヴァーチャルに誇張されている。ぼくが入ったヴィレッジの劇場は30数席の小劇場だったが、かれら「サクラ」観客が観えているために実際の数倍のスペースではないかと錯覚する。この閉鎖空間だけでなく、世界中がこの映画を鑑賞しているのだから、こぞって更なる天使の心に参加してくれたまえ、というわけである。それ以上に驚いたのは、踊り子たちがそのヴァーチャル観客を飛びこえて、わが内なる無意識界に飛び込んでくる様相である。たとえは悪いが「カミカゼ特攻隊」に攻撃されている空母の乗組員の心境である。ただその攻撃が痛いと感じるのは、自分のなかに深く浸透した他者への憎しみや恨みに対してだけであり、愛や慈しみの感情はまったく攻撃を受けないのだ。たとえを変えれば、まさに愛の天使キューピッドがぼくたちの心に放った、即効性のある猛毒ならぬ猛愛を注入する矢のようである。 男は女と、女は男と、愛をかわし、その反動として憎しみ、またその反動として哀し、相し、合いす。ときに強く接合し、ときにはおたがいがそばにだれもいないように振る舞い、降る邁い、狂る(ふる)眩(ま)う。眼鏡の底から飛び出てくるその姿は、まるでそのどちらか片方が(あるいは両者が)人間ではなく、相手を支えつづけている天使ではないかと思えてくるのだ。このあいだも3Dの眼鏡は、ヴェンダースの視点とカメラの同視角からふたりを執拗に追い回す。人間の心をもつ天使と、天使の心をもつ人間との絡みを。 遠い記憶、1987年のヴェンダースの「ベルリン・天使の詩」とすべての映像が寄り添っているように感じる。サーカスの空中ブランコ嬢に恋をした中年の天使が最後に自ら堕天使となって人間界に堕ちて来るお話。人間たちの考えていることを天使がすぐそばで聞き耳を立てて聴いている。ほとんどのひとには天使は見えないし、天使がそばにいることにも気がつかない。ひとの考えていることは独白という言葉となって、天使の耳を通ってわれわれ観客にまで聴こえる。この新作「ピナ」のなかでも踊り子たちは、思い出したように言葉を吹き出しはじめる。撮影がはじまったとたん他界したピナ・バウシュは、自分の舞踊団の踊り子たちが、ダンスしているあいだ中、声を発することを許していた。それは他者に対して自分の愛や踊りを解説するのではなく、すぐそばにいる天使に対して語ることなのだから。Read More つづきを読む ![]() 実は いつのまにかぼくのこころの中からいなくなった モモを捜しにきたんだ かの女が地球星のどこにいるかなんて まったくわかんなかったけど サンタフェ近くのタオスの山々から だだっぴろいメサを見渡してると もうモモはゼッタイこの平らな大陸のどこかにいるって カクシンしたわけさ ![]() まぁそのプエブロ族のむかしの聖地では 生きものという生きものが種族を超えて夜ごと話しあってる感じがしたね それどころか 自然と呼ばれる 山や川や谷・森・風・空気・水・太陽や月までもが いつも ほかのだれかと話そうとしてる そのむかし あるいは何万光年も離れた宇宙のあちこちの星から いろんなものが飛んできて この星に降りたってから それぞれのことばを越えてコミュニケーションをとれる場所が ここだったんだ テントのなかにいてもうるさいぐらいのいろんな声が聴こえてくる でももちろんだれも「うるさい」なんて叫ばずにおたがいの声に聴き耳を立ててる そういった いわば異星生物同士(生物以外も含めて)のような会話に モモが一枚加われば 一気にまとまってしまうだろうな と思ったわけさ かって地球星と月が交わり はじめて双子星の家族となったころには きっとこんな場所がほかにもたくさんあったんだろうな ![]() モモは犬や猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や、木々にざわめく風にまで、耳をかたむけました。するとどんなものでも、それぞれのことばでモモに話しかけてくるのです。友達がみんなうちに帰ってしまった晩、モモはよくひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちの中にすわっていることがあります。頭の中は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは荘厳な静けさにひたすら聞きいるのです。 こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな耳たぶの底にいるようです。そしてひそやかな、けれども壮大な、えもいわれずこころにしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。そういう夜には、モモはかならずとてもうつくしい夢を見ました。さあこれでもやっぱり、ひとに耳をかたむけるなんてたいしたことではないと思うひとがいますか? そういうひとは、モモのようにできるかどうか、いちどためしてみることですね。(ミヒャエル・エンデ「モモ」 大島かおり訳 岩波書店 p-29 めずらしい性質とめずらしくもないけんか) ![]() 一日何万人というひとたちと肩すりあって生きていると かれら人間ひとりひとりを土手カボチャだと思わないと生きていけない思いにかられる ところがアパートに帰って、大きな耳たぶのようなソファーに寝そべり くすんだ星空を見上げていると 今日すれちがったひとりひとりが 星々のひとつづつように崇高なひとに思えてくる 交差点でぶつかり、その瞬間いがみ合ったおじさんからも 実にすばらしいエネルギーをもらっていたことに気がつくんだよ ![]() ぼくがはじめて ぼくの心のモモにあったのは そのころまだボンベイと呼ばれていた西インドの大都会だった インドではじめての夜 ホテル代をぼったくられそうになって 深夜の混沌の街に飛び出したぼくとベッポに ついてきたかわいい女の子ってわけさ 結局3人は 翌朝までボンベイの路上を徘徊するはめになり ゆえにその一晩で 怪物や魑魅魍魎 その他インドのなに者が来ようとも 怖くなくなっちゃった 「アタシにはアイヌの血が流れてるんだよ」と少し自慢げにいいながら モモは屋台うらで買った 正露丸みたいなボンベイ・ブラックを 短い指でこねて チロムに詰める 北海道には麻の大草原があってね 金魚さん 一度ご招待したいなぁ ぼくのアタマのなかでは モモのことばから ローマ郊外のコロシアムの廃墟と 北海道の麻の大草原と いまいるインドの大都会の映像が スライドショーになり とてもいそがしい でもそんないそがしい感覚のなかで そのときのほんとに多彩な地球星 各地に点在した多彩な聖地に住んでることが ほんとうに幸せだと実感できたんだ ![]() 格差を全然カクサないことが人びとの意識からその問題をカクサんさせてしまっている ゲート・オブ・インディアのそばの超豪華ホテルにたむろするハリジャンたち 節分恵のようにかれらに大量のコインをまき散らすヨーロッパからの貴婦人ばばぁ かの女が天たかくパイサ・コインを撒くたびに、まわりの数百人から喚声があがるんだ オニィ ワァ ソトゥ ! 実に嫌な、差別のかたまりのような漢字の羅列「不可触賎民」 英語ではアンタッチャブルという 触れることのできないほどの差別 人間以下とか 動物以下とかの感情にも入れてもらえない それはわが人生で それほどの激しい差別曼荼羅を観た最初だった ![]() ヒンドゥーの輪廻転生は この世にいちどハリジャンとして生まれた者は 永遠にハリジャンにしか生まれ変われないという ひどく不公平なものだ その教義はここに生きるかれらを より深い絶望のなかに囲い込む新たな差別となる 現世でのカースト制は崩壊したというが おカネでの差別−この極端な資本主義的転生は いましばらくつづく 地獄の沙汰もカネ次第 ぼくら三人は かれらの生活にできるだけ近づこうと試みたが かれらにとっては 触れることさえできない観察者の立場を強調したにすぎない Read More つづきを読む ![]() ドナルド・キーン先生が昨年9月初旬、永住のために日本に旅立たれて、もはや4ヵ月がたった。混乱の2011年が暮れ、新しい年がはじまった。もともとNYCには年のうち半分ほどしか住んでおられず、ほんのときたまなにかのイヴェントの際に顔を会わせる程度でほとんどお逢いできる状況ではなかったのだが、僕にとってはなぜかNYCがからっぽになってしまった感がある。キーン先生とともにこの地での「日本学」が消えてしまうような被害妄想に襲われる。かわりに日本が、と言ってはNYCに住む者の僻みのように受け取られるが、日本各地のメディアは先生が全国を飛び回ってご活躍されていることを伝えている。 ![]() 11月、瀬戸内寂聴氏とキーン先生の中尊寺対談が「東北はよみがえる」という大見出しで読売新聞に掲載された。以下抜粋。 —— キーンさんが大震災後に帰化を表明され、日本人は大変感激しました。キーン:意識的に勇気を与えようとしたのではありません。第二次大戦末期、詩人の高見順は上野駅で静かに順番を待つ人々を見て、私はこの人たちと一緒に生きたい、一緒に死にたい、と日記に書いた。私も大震災で、同じ気持ちになりました。家族を失い家を流されても、じっと耐え忍ぶ東北の人々の姿を見て、日本人になりたいと思ったのです。黒い津波が押し寄せる映像を何度も見ながら、松島は、中尊寺はどうなっただろうと眠れなかった。私のこころはすでに日本人です。 瀬戸内:(中略)この世は諸行無常だという日本人の諦念は、数知れない天災からもたらされたでしょう。でも、無常は常ならず。万物は生々流転。常に流れて動くから、どん底は続かない。どうか絶望しないでください、と激励するんです。 キーン:あらゆるものは移り変わる……。それを一種の美学とするのは日本だけです。今あるものを守る、捨てる、あきらめる。古いものと新しいもの、はかなさと永遠。矛盾するものを全部抱えるから、日本文化は豊かになりました。 昨年9月、キーン先生が旅立たれる数日前に連絡があり、「金魚さんのブログのタイトルの英語と日本語に、意味の違いがあります」。あわててその箇所を見たら、だれが見てもまちがいのないはっきりしたまちがいであった。Oh No!「洪水からの目醒め」のタイトルの横に「Wake of the Flood」の英文字が貼ってある。いうまでもないがこのときの「Wake」は、「目醒める」とか「活気づく、 生き返る、よみがえる」という動詞ではなく 「通った道・跡」という意味の名詞。この場合「Wake of the Flood」は「洪水の爪痕」という意味のイディオムである。いうまでもないのになぜまちがえたのか。電話口での瞬間赤面症とともに、高校の授業で習った記憶が明快によみがえった。 弁解にもならないが、このシリーズ・タイトルをはじめて付けたとき、東北の海岸はまさに瓦礫と化し、原発から放射能が溢れ、目を覆う悲惨な状況で、こちらの精神も泥水にまみれていた。そんなとき生涯の音楽の友、グレートフル・デッドのポジティヴな曲の詰まったアルバム「Wake of the Flood」を聴いていて、この悲惨な災害のあとに日本は必ず明るく目醒める、輝く未来がある、という宣言をしないではいられなかったわけだ。その瞬間閃いた「Wake」はもうだれがなんと言おうが「目醒め」という意味しか思い浮かばなかった、というわけだ。創世記のなか、ノアの一族が体験した洪水からの目醒めの一節も、思い込みの原因になっている。日本語のタイトルからイメージした英語のイディオムだから、それだけを削除すればいいのだが、わざわざここで恥の上塗りをしたのは、脱原発の問題を含めて、現在もほとんど信念のように、その列島に対して「洪水(津波)からの目醒め」さらにこの地球星が、脱原発、核廃絶、戦争放棄の「高次元の意識集合体」となることを切望している自分がいるからだ。 この自分の大失敗を早々に棚に上げてしまい、キーン先生が、ほんのときどきではあろうが、このブログに目を通していただいているという事実に、ほとんど舞い上がる思いでもあったことを告白する。日本に出発される前日に「いってらっしゃいコール」をしたら、例によって子供のように目を輝かせて(スカイプではないのでお顔を見たわけではないが、そう感じた)まるではじめて日本に行く少年のようにはしゃいだ口ぶりであった。この方と話をするたびにどんどん若返られている感覚があり、ある日アパートに訪ねて行くと、ゆりかごのなかのキーン先生と対面するのではないかと思ってしまう。あるいは、いま生まれたばかりのようなキーン先生が日本に永住されることは「列島の目醒め」に大きく繋がっていく気がしてならない。 日本語を話すことがたまらなく楽しい、という前提で会話がはじまるから、おたがいの言葉が弾むように、踊るように、中空を飛び交う。一度か二度しかなかった先生との会話を思い出して、その世間話のひと言づつがふしぎな芸術性を帯びて心にとどまっていることに今さらながらに驚いている。司馬遼太郎は「ニューヨーク散歩」の中でこう述懐する。「キーンさんのものごとをとらえる基本的な感覚は「悲しみ」というものだと私は理解している。むろんここでいう悲しみは悲劇性というものではなく、人間はなぜ生まれてきて、なぜけなげに、あるいは儚く生きるのかという人間存在の根源そのものについての感応のことである。その感応は、芸術のみがあつかう。」 なるほど、たとえばひとの生活習性のようなことを話していても、そのことが象徴された芸術に包まれた時間になり、濃厚に流れていく。こちらの俗な質問の答が、まるで能舞台を司る者からのメッセージのように深みを持って返ってくる。いつのまにかふたりの中空にアートが現出している。 僕が30年まえにこの大陸に足を踏み入れたときは、現代を象徴する巨大文明にあこがれ、同時に激しく卑しんだ部分をもちながらであった。その大国の重圧にほとんど乗っ取られかかっている日本列島に嫌気がさし、さまざまな感情を抱え込んでの渡米だった。あこがれの部分では、モダンアートやジャズ・ロックといったいわば昇華されたアメリカ文化(アタマの中で勝手に昇華させていただけで、どれもがいまだに混乱のただ中だからおもしろいのだ、ともいえる)を空気の中に追いかけ、その実体のない宙空を自分の手元に引き寄せようと、あがいていたような気がする。そこ=アメリカには、日本やヨーロッパ諸国のように歴史に繋がったひとかたまりの「文化」などというものはなく、世界中から僕のようにあこがれ、あるいは憎しみながら押し寄せた、移民たちの文化を寄せ集めた集積としての「巨大文明」がそびえ立っているだけだった。Read More つづきを読む ![]() 何から何までつくりもの でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる It's a Barnum and Bailey world, Just as phony as it can be, But it wouldn't be make-believe If you believed in me. "It's Only a Paper Moon" (E.Y. Harburg & Harold Arlen 村上春樹・訳) — 「1Q84」BOOK 1・扉 新潮社 ![]() 年のはじまりから 中東でツイッター革命がたてつづけに起こり 3月の大地震・大津波 原発が放射能をまき散らす そしてきちがい沙汰の不景気 いつのまにか 月がふたつある世界に移動してしまったことに やっとみんなが気づきはじめた 青豆と天吾という恋人たちにつづいて 99%ものひとびとが気づきはじめた それまで「のほほん」としていたアメリカの多数派も気づきはじめた ![]() 多数派はふつう「のほほん」としている、と司馬遼太郎は「ニューヨーク散歩」の中で語りはじめる。アメリカで少数派のユダヤの血をひくノーマン・メイラーは、「少数派は共和政体の芸術的根幹である」といった。同時にメイラーは、ユダヤ人ほど自分を、厳密には自分の精神を日夜敵意をこめて見つめ、分析するひとびとはいない、ともいう。芸術は、この塩分からうまれる。(朝日文庫 p-35) ![]() ブルックリン橋をわたる抗議者たちが 99%と刻印された小さな紙のような月を観たとき その場の全員があらためて感じた 99%はもちろん多数派ではあるのだが やはり少々塩分が足りんのじゃないか もともと多数派のアメリカ料理に 塩分以外の調味がされていないことも理由がある まあ集まった人びとを眺めなおせば 千差万別の顔つきでそれぞれがまったくもって少数派の代表選手のようであり それらをおおざっぱにまとめて多数派と呼ぶのは乱暴とも感じる ![]() 日本の多数派といえば あんなにひどい目にあわされているのに 「のほほん」度は以前にも増して上がっているようだ 「忙しくて考える暇なんてないのよ!」が言い訳だが なんのことはない 時間泥棒にすべてを捧げた上で自分の意識を放り投げている怠慢である ときあたかも 村上春樹「1Q84」英語版はアメリカの本屋に山積みされ 分厚い本が飛ぶように売れつづける ![]() 人びとの意識が宇宙を変える そんなあたりまえのことが 科学的でないという理由で遠ざけられていた 思えば「科学的でないという理由で」いろんなものがずいぶんながいこと隠蔽されたままだ 核廃棄物とおんなじで 十万年も隠し徹せるわきゃないだろ ![]() 人びとの意識が宇宙を変えたとたん 科学教という宗教のインチキ性が暴露される ゆえに崖っぷちに立った科学教徒は 科学以外をすべて珍奇な宗教なのだと揶揄し その相手の「非科学性」を追求することに専念する 異教徒を排除する儀式 Read More つづきを読む ![]() ニューヨーク近代美術館 MoMAの常設階で、この2点がとなりあわせに展示されたのは、確かことしの東日本大震災、3-11の直後ではなかったか。もはや9ヵ月になろうとする。オルテンバーグのジャイアント・ソフト扇風機については、デンキというものの狂気について、酷暑の七月に、扇風機すらもない倉庫で暑さに倒れた親族の訃報とともに浮遊的無計画性散文詩歌として詠った。 いまとなっては、まさに原子力までを使って貪り喰う、われわれ人類のエネルギーに対する飽食欲望を、決定的に象徴する名作であると感じる。完全にメルトダウンしてしまった巨大扇風機は、コンセントも外されて、いまやそよ風すらも起こしようがない。 そのすぐ風下の位置の壁に張られたリキテンシュタインの作品には、津波の洪水に溺れそうな美女が涙ぐんでいる。"I don't care! I'd rather sink than call Brad for help!"「気にしないわ! ブラッドを呼んで助けられるより、溺れて沈んだ方がマシよ!」とカゲキに宣うかの女。 吹き出しのなかの「ブラッド」というのはかの女が冷たくされたモトカレの名だと想像するが、Bradにはさっぱくぎ、 無頭くぎ、坊主くぎ、クリップなどという意味もある。たとえこのまま溺れ沈もうとも、坊主くぎなど無用のものに頼り、ワラをもつかむ思いで助かろうなどと思うものか、という個人主義大国の気丈な女性像がうかがえる。かの女はとなりの巨大扇風機に向かって叫んでいるのである。 そのメルトダウンしたソフト扇風機といえば、いまや蚊を吹き飛ばすほどの風をも起こせるわけなどないのだが、私どもはとなりの美女にやさしいそよ風を送りつづけているのですよ、というふりをしているようにも見える。ダマされたらいかんぞナ! この扇風機の所有者である日本国と東京電力は、壊れた巨大扇風機から大量に放出される放射能で遅延的無差別大量殺人をつづけている。除染も囲い込みも子どもたちの疎開も、なんにも積極的に行なわれいまま、無能無策、意味不明な戯れ言を吐きつづけ、ほかの原発の稼働と新規原発の輸出だけを承認する。70年前の歴史をまったくなぞってくり返している。こんなケッタイな国、世界中にあるか! 放射能からの避難旅行でも、年始旅行でもなんでもいいから、少しのあいだ日本を離れてみてください。 少し離れて客観的に観ると、騙しつづける国家と、騙されつづける国民像が、はっきりと観えてきますぜ。このMoMAの広い空間のなかでのオルテンバーグとリキテンシュタインの作品のように、絶妙な組み合わせとしてね。 今日の近代美術批評ショート講座はこれだけ。 数日後に「洪水からの目醒め」続編をアップする予定です。
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