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夏場の賃仕事に追われて、自由な時間が極端に少ないのだが、「合間を縫う」という、いわば男性の針仕事のような感覚で、年とともにけっこう時間をうまく使えるようになってきた。 村上春樹の新作「1Q84」は、モーレツにおもしろいのだが「海辺のカフカ」初読のときのように2晩も徹夜して読み終えてしまう、などという愚はせず、一日一章づつ、ウシさんが広い草原を最後には食べ切るように、もぐもぐと、ときに反芻し、消化しつづけている。 そういえばむかしカリフォルニアの牧場にまぎれ込んで、寝転がって本を読んでいると、近くにいたウシさんがベリベリと草を食べていた。かれが地球の表皮から、食料をひきちぎるベリベリのたびに、僕のアタマの下の地面も細かい悲鳴を上げていた。そうだ、ウシさんたちは人間に食べられるために草を食んでいる。その不条理に抗議するかのように、かれらはゆっくりと、そのうち地球の表皮を全部食べつくしてしまい、赤裸になった地球さんは、新たに通りかかる宇宙からの大国主命を待つことになる、と牧場の夢のなかで、SFのショート・ストーリーを綴りおえた。 地下鉄に乗るときは、レイ・ブラッドベリ「火星年代記」の文庫本とペーパーバッグを交互に、これまたもぐもぐと、モーレツな騒音や、モーレツに太ったおばさんの半分はみ出た大きい乳房などにも惑わされず、短時間に意識を集中することができる。こちらの方は英語版と照らし合わせながら、何度も読み直しているから、もう少しがんばれば、この小説の暗唱ができて、前稿の「華氏451度」のなかのブック・ピープルの一員に入れてもらえるかもしれない。この年代記に関してはのちほど。 若いときには、なんでおばあちゃんが食事のあいだ長いこと、もぐもぐやっているのか不思議でたまらなかったが、そのうち、歯が悪くなるのと正比例して、ゆっくりと吸収するしかないことが理解できるようになった。さいわい僕の歯はまだ健在だが、思考の消化速度のほうはそろそろスロー・ダウンしはじめているのではないか。かえっていいことじゃんか、などとひとり悦に入ったりする。しゃにむに知識を取り込んでも、それにかかった時間と正比例して忘れてしまうのが、世の常である。もぐもぐもぐもぐとやっていると、そのひとつの主題以外のことをいろいろ考えてしまう。とんでもない奇妙な考えがアタマをよぎることもある。ときにはかなりフィットしたふたつの主題が、あたかも足を交互にふり出し、重心を前に移動しつつ、アタマだけが歩くように動いていく。春樹風物語のはじまりである。 牧場でウシさんといっしょに食べていたのは、確かハインラインの「夏への扉」だったと思うが、中学時代からオヤジの読み捨てたハヤカワSF新書(文庫になる以前)を大量に読みあさり、これが僕のアメリカ文学(あらゆる文学)の初体験となった。春樹氏のご両親は教師ということなので、きっとお宅にはサリンジャーやフィッツジェラルドの著作が置いてあって、氏は子供時代から、正当な(?)アメリカ文学を読まれていたにちがいない。 とはいえ、文学事始めに、大量の50年代のアメリカSF黄金時代の洗礼を受けたことは、僕の子供時代の大幸運だと、いまだに天国のオヤジに感謝している。 「1Q84」はまだ最初の数章を読んだだけなので、もちろん批評などできるはずもない。この新作に関して今回は触れないが、この著者の表現はいつも、いま自分がおかれた環境/社会状況を、まず肯定してから書きはじめている、ということだ。その環境とは現在の地球号に乗船している全員が共有している、というべきもので、まずこの最初の発想が、文明批評を優先する他の文学(文学にはすべてそういった宿命のようなものがあり、春樹文学も最終的にその目的はちゃんと果たしているのだが)と大きく異なる。ヤクルト・スワローズも、讃岐うどんも、イジメも、猫も、オウムも、野菜サラダも、殺人も、マツダのロードスターも、自殺も、そして著者が感じた文学や芸術/音楽作品も、まずそれら現実にみえるものの存在ディテールだけを、はっきりと肯定してから、物語がはじまる。 だれかのように最初から「もの申す日本」などと野暮なことは言わない。ここが春樹氏の賢くも世界に幅広くモテる第一の秘訣である。 ロシアやアメリカに住む人は、春樹氏の書くプライベートな物語世界を「現代日本の普遍的現実」のように捉える。それは日本の読者が捉えた氏の物語性とは、少しずれている。そしてその現実的な物語は徐々に、どこに住む読者にとっても、現実とずれた夢のような世界に移行していく。空から魚が降る話、言葉を話す猫、カーネル・サンダースが街を歩く、など。それでもそれは決して夢のなかの物語(ファンタジー)ではなく、日本の社会のなかでの現実のように進行する。(実際、最近の日本では空からオタマジャクシが降ってきたという。)ときには猛烈な緊張感と残虐性が地球の裏にまで伝わる。そしてまた遠くロシアの読者は、そのなかにも日本の夢を共有する。なぜなら、遠くの場所での幻想風景は、どういうわけか自分の近くのものよりはるかに現実味が多量に感じられることにもよる。 村上春樹氏が、プリンストン大学でのかなり長期の滞在の時期—「ねじまき鳥クロニクル」の執筆時—このままアメリカに住まれるのではないか、という勝手な想像をしていたが、やはり仕事が済むとそそくさと日本に帰られてしまった。そのとき確か「日本語で小説を書くためには、日本に住むことが不可欠」というようなことを、書かれていたと思う。そのときは、なんとなく違和感があったが、「海辺のカフカ」以降の作品を読むと、これはやはり海外にいつづけていては書けない、と理解できる。 海外から日本をみると、実に客観的に手に取るようにわかる。孫悟空がお釈迦様の手のひらに閉じ込められたように、小さな列島をポンポンと放り投げられそうな錯覚が起こる。ところがこれはやはり日本の現実的なディテールを度外視した錯覚であり、帰郷旅行で成田空港に着いたとたん「あぁ、それは、どうしようもない日本という国の現実であり、どうしようもなく、どうしようもないのだ」と思うにいたるのである。 おなじことが日本にいて海外の国を観ることにもいえる。日本人のアメリカ評は、一見実に的を得ているようにも観えるが、実はほとんどが細かい部分を全部度外視した妄想に変化している。でなければ、そんなにアホで呑気で怠慢なアメリカ人に、ほとんど国を占領されそうになるわけはないではないか。またちがう評で語られるように、アメリカは大妖怪で他国を一瞬に呑み込む巨大ウツボだとしたら、日本なんてとっくにその1州に成り下がっているはずだ。 この場合、日本人はその高すぎる感受性で見たままを語りすぎる。その誠実なアメリカ評に同調した人びと(これがまた実にすごい数のひとが同調する)を通過し、尾ひれがつきはじめ、どうでもいい部分だけがなぜか思いきりコチョーされる。ここではアメリカの現実のディテールは日本風に加工されつくし、その真実の物語はほとんど消えうせている。もちろん日本に限らずどこでも、外国のものは理解しにくいのだが、輸入品が大好きな日本人は、 好きというだけで、すべてを理解したつもりになる。ゆえに外国からモノが輸入され、その実像が現出したあと、そのモノ自身のイメージも実像も、日本風に変化していく。言葉もそうである。あらゆる英単語がさまざまに変化して日本語になっていくが、たとえば「ムード」なんていうことばはまったく拡大誤用されたまま、日本語になってしまった。僕個人的には「雰囲気」という立派な日本語の方がとても好きである。アメリカナイズされたもののジャパナイズ、それをまたアメリカ人がアメリカナイズする。 似非グローバリゼーションとやらでいくら地球が小さくなり、距離感がなくなった、といっても、何度もいうようにそれは似非体験(ヴァーチャル)であり、それ以外の、その土地に生活している者たちでないと理解できない、自分のまわりのローカルなディテール情報の方が圧倒的に多くて深くて、そしてホンモノなのだ。 そしてもう一度このことの反論をくりかえすことになるが、もう一歩踏み込むと、現代人はそれだけではまた満足できない。北国に住んで、南国の甘い香りの極陰性マンゴに惹かれ、ブルーマウンテンのコーヒー豆を求める。物語も、自分の国では収穫できないエキゾティックなものに奔る。 要するに、うんと遠くからその遠い国を観ると、手に取るように客観的に把握できる、と錯覚するほど小さいから、その全体像がカンタンに掴めると思い込む。論理的に考えれば、遠くに霞んで観えにくいことさえ、どこかでホントは霞んでいない、近くより遠くの方がはっきり観えている、という連鎖的確証に繋がっていく。ごく近くの、ホントにすぐそこに実体として観えているものや場所と「比較」すると、やはりどこかがズレている。ズレているから間違いかと言えばそうではない。マジックのようだが、絵画や図学の「パースペクティヴ」perspective という概念で実証されている。このことばを辞書で引くと「透視画法・遠景・眺望」などという意味とは別に「予想・将来の見通し・展望・視野」という意味がある。遠近の全体を把握することによって、より客観的認識に通じる、というわけである。もうひと言つけ加えるならば、日本人はどういうわけか、このパースペクティヴという概念で思考することに非常に弱い。この弱みにつけ込んで、このブログ「NY金魚」は成り立っていて、徐々に読者数をのばしている????? 物語の話である。どのように孤独な人間にも、大きな物語がある。が、かれらはそのむかし、その孤独がどこからやってきたかを知らない。あるいは知ろうとしないだけなのだが、もしかれらがそれに気がついたとき、孤独なひとほどに大きな物語を憶い出すことになる。 ビートルズ時代のジョン・レノンは、エレノア・リグビーという主人公を創ってこのことを語る。この歌のなかでは、エレノアも、ファーザー・マケンジー氏も、物語を構成できずに、その孤独の才能を内包したまま人生を終わることを暗示している。 ジョンは自分も飛び抜けて孤独であった子供時代を振り返り、人びとにそこから抜け出るように強く諭す。抜け出るには、自身の物語を綴ればいいのだ。いまいる場所の物語を紡ぐのがむずかしければ、過去に住んでいた、あの遠くの場所をパースペクティヴに描けばいい。 ジョン・レノンがまだ幼いころ、両親はかれのもとを去り、アーント・ミミに育てられた。かれが両親のことを唄った「マザー」は痛々しい絶叫で、魂を揺さぶる物語である。 Mama don't go...! Daddy come home...! 孤独は物語の重要なエレメントだが、許容範囲を超えた壮絶な孤独感は、当然ながら受け手を苦しくさせる。が、どんなにひどい場合にでも、作者自身は、その物語を唄うことによって、大きく次の、そしてまたその次の、と物語をつむぎ出すことができる。 この稿の趣旨は、そのように孤独なあなたに、孤独のなかに沈み込まず、ジョンのように遠くにいる両親や愛する人にむけた物語を、つむぎ、あやなすことのススメである。 レイ・ブラッドベリ「火星年代記」に登場する、火星人も、地球人も、双方の全員がひどく孤独である。このクロニクル風短編集は、火星という星を舞台にした一大叙情詩である。最初に火星を訪れた、第一次、第二次探査隊の地球人クルーは、火星人との奇妙なディスコミュニケーションから、全員が殺されてしまう。第三次探査隊も、地球人の植民政策を悟った火星人たちの巧妙な罠にかかってやはり全員死亡。 そしてそのあと、第四次探査隊が着いたころには、この空気の薄い惑星で、数千年前からの古代文明を誇った火星人は、それら初期地球人探査隊の持ち込んだ「水疱瘡菌」によってあえなく滅亡してしまう。 それでも、かれらが滅亡以前にもっていたテレパシー能力で、時空を超えてさまざまなかたちで移住してきた地球人たちと交信ができ、あるいは多分にもの悲しい、孤独な精神感応の詩が、くり返し語り継がれる。地球人による火星移民はやがて本格的になり、火星人が絶滅したあとにも、濃厚に、もしくは淡く、残されたかれらの精神感応のちからは、地球人のこころを打つ物語となる。 僕がこの新大陸に上陸して、この本の何度目かを読み終えたとき、この物語のなかの「火星人」とは、この大陸にもともと住んでいた「ネイティヴ・アメリカン」で、そこに移住してきた「地球人」とは、暴漢コロンブスに扇動されて来た「ヨーロッパからの移民たち」のことではないか、と強く感じた。この大陸の住人たちは、双方ともに淋しく、孤独な人生をおくっているひとがあまりにも多い。いまもう一度、ここNYCの地下鉄のなかで読み直して、執筆時のブラッドベリの意図を再確認した。 レヴィ=ストロースの記述によると、アマゾン流域のインディオの部落の多くが、実際ヨーロッパ人たちが持ち込んだ、天然痘菌などで全滅したという。北米のネイティヴ・アメリカンたちの崇高な文明も、銃によって壊滅状態になり、生き残った少数も、やはり旧大陸にしかなかったアルコールという最強のドラッグで、ほとんど滅びつつある。 「物質文明」ということばを「精神世界」と対応させて批判の対象となリ、当時の多くのアメリカの若者は、新たなる精神の「火星」を求めて、世界へと旅立ち、彷徨った。ヒッピーと呼称され、キョートまでやってきたかれらのバックパックになかに、ちゃんとこの「火星年代記」が入っていたのには感激をした。 「火星年代記」のなか「月は今でも明るいが」(バイロンの詩の一節からの引用)の物語。 まだ地球からの移民が本格的にはじまる直前に、第四次探査隊は、火星人のたくさんの文明跡を発見する。それらのほとんどは、実に美しい水晶の塔などを含めて数千年前に絶滅してしまったものだが、そのうちのひとつの遺跡には、なんとつい一週間まえまで生きていた火星人の遺体と、生活の痕跡があった。数次前の地球からの探査隊が持ち込んだ水疱瘡菌で、つい最近、絶滅したらしい。隊員のなかのスペンダーは、仲間のまえでバイロンの詩を朗読するほどの知性派だが、ある夜突然姿を消し、ひとりで火星人の遺跡探査に出かけてしまった。 次の週、突然戻ってきたスペンダーは「私は最後の火星人だ!」と叫びながら、それまで火星の遺跡を冒涜していた仲間の隊員たちを、次々と銃で撃ち殺していく。スペンダーには火星人の魂が宿ってしまったのか、それともかれらの強力な精神感応力がかれを動かしているのか。 銃撃戦の最中、理知的な隊長が銃を捨て、火星の遺跡のなかにいるスペンダーとの会話を試みる。スペンダーが遺跡に描かれた壁画を観ながら説明する。 — スペンダー:この彫像と、動物たちのシンボルは、神のシンボルであり、生のシンボルです。火星でも、人間はあまりにも人間的になり、動物ではなくなりました。そこで火星人たちは、生き残るために「なぜ生きるのか」というあのひとつの疑問を忘れることにしました。生そのものが答えなのです。生とは、さらに多くの生を生みだすことであり、よりよい生を生きることです。火星人は戦争と絶望のさなかに、「一体なぜ生きるのか」を考え、その答えが得られないことに気づきました。しかし、ひとたび文化がおだやかなものになり、戦争が終わると、その疑問は新しい局面では無意味なものになりました。すでに生はよきものであり、論争の必要は消滅していたのです。 —隊長:火星人はそれほどナイ—ヴなひとたちだったのか。 —スペンダー:ナイ—ヴであることが得なときはね。すべてを破壊し台なしにすることを火星人はやめました。宗教と芸術と科学を融合したのも、つまるところ科学というものは、私たちに証明できない奇蹟を研究することであり、芸術というものは奇蹟を解釈することであるからです。火星人は、科学が美を破壊することを決して許さなかった。それは単に程度の問題です。地球人ならば、こんな考え方をするでしょう。「この絵に色彩は実は存在しない。科学者の証明によれば、色彩とは、ある種の物質における、光を反射するための細胞の配置なのだ。したがって色彩とは、目に見える物質の具体的な部分ではない」ずっと悧巧な火星人はこう考えるでしょう「これはいい絵だ。これはインスピレーションを受けた人間の手と頭から出来あがったものだ。これの思想と色彩は、生活からでて来た。これはいいものだ」。 沈黙が流れた。昼下がりの日ざしのなかで、隊長は珍しそうにその静まりかえった涼しい町を見まわしていた。「ここに住みたい」と隊長は言った。(R・ブラッドベリ「火星年代記」小笠原豊樹・訳 ハヤカワ文庫 p-115) 隊長が火星人の文化を理解したものの、やがてロケットの乗組員との銃撃戦は再開し、この火星文化の真の理解者=スペンダーは死んでいく。ただしその直前に、その惑星を今後50年間、地球からの移民を遅らせ、荒らさないようにして、考古学者たちの調査の機会を与えるという約束を、隊長に取り付けてからの死だった。 まるで火星が舞台の西部劇映画を観ているようだ。スペンダーは旧大陸ヨーロッパから仲間とやって来た移民なのだが、ネイティヴ・アメリカンの文化に魅せられ、その強い理解者となり、それゆえに仲間の白人たちと戦って死に、その遺跡の壊滅を多少は遅らせた、というストーリーとほぼ相似形である。 このショートストーリーには、この年代記の後半に、同じロケットの乗組員の後日談がふたつある。もはや精神的な存在のみとなった孤独な火星人たちと、孤独な地球人たちのふれあいが、20以上の叙情詩のような短編に延々と描かれていく。 孤独ということばをより深く考えるのに、もうひとつだけ、年代記中盤の「火星のひと」の物語を抜粋する。 — 青い山脈が雨のなかに消え、雨は長い運河の中に降りそそいだ。老いたラ・ファージュとその妻は家の中からでてきて、眺めた。 「この季節で最初の雨だな」とラ・ファージュが言った。 「いい雨だわね」窓を通して、遠くの方に、かれらは地球から乗ってきたロケット船の横腹に、雨が光っているのを見ていた。 地球からの移民は、とうとうラ・ファージュ夫妻のように、余生を火星で暮らす人びとにも開放された。かれらの可愛い息子、トムは幼かった頃、ずっと以前に地球で死んでしまっていた。継続的な失望と諦観の中、夫妻が火星の夜の雨を見つづけていると、そこに死んだはずの息子トムの姿が現れた。 — 老人は進み出た。「トム、どうしてここへ来たんだい? おまえ、生きてるのかい?」 「生きてちゃいけないの?」少年は顔を上げた。 老夫婦は狼狽しながらも、新しいトムを受け入れ、楽しい生活が再開した。新しいトムが「火星人の幽霊」だということに気づいてはいても、それは「現象的に」楽しい生活だった。 ある日老婦人が、ながいこと町に出ていないので、家族みんなで行くことを提案する。トムは「罠にかかる」と言っていやがるが、結局家族は町へ出かけ、トムは案の定、雑踏の中に消えてしまう。 同じころ、近所のS家では、ひと月まえに海で遭難したはずの娘に、町でばったり再会し、家に帰っていた。 それを聞いた老ラ・ファージュは、その娘を尋ね、さっきまでトムであったその「火星人」に、帰ってきてくれと懇願する。美しい娘は、私がいなくなったら、いまこの家の人がどんなに悲しむか、と言い、トムに還ることを拒むが、結局老人の強い説得に負け、戻ることを約束する。 運河の船着き場でトムと再会した老ラ・ファージュは、娘の父親の銃に追いかけられる。逃げていく老ラ・ファージュと火星人を見た多くの地球人たちも、その走っていく姿にあらゆる大切なもの、あらゆる人、あらゆる名前を見てしまう。 — たったこの5分間に、どれぐらい多くの名前が口にされたことだろうか? そしてそのたびに、どれくらい多くの異なった形にトムの顔は変わっていったことであろうか? しかも、みんなまちがって。 ずっとはるばる、追う者と追われる者と、夢見る者と、獲物と猟犬と。意外な出会い、懐かしいまなざしのきらめき、遠いとおい想い出の人の名を呼び、昔をおもいだし、人の数は増してきた。ことごとくが夢中で追った。一万の眼、一万の鏡の面に映るひとつの像のように。走っている夢が、またやってきて、また去っていったのだ。(中略) 人びとの眼前でかれは変身した。かれはトムであった。ジェームスであった。スウィッチマンという名の男であった。かれは市長であり、ジュディスという少女であり。夫のウィリアムであり、妻のクラリッスであった。かれは人びとの心のままに形をとる熔蝋であった。とうとう最後のおそろしい悲鳴をあげるや、かれは地面に倒れた。かれは石の上に横たわっていた。冷えていく熔蝋、その顔は、あらゆる顔、片目は青く、片目は金色、髪の毛は、茶色で、赤で、黄で、黒で、片ほうの瞼は厚く、片ほうは薄い、片手は大きく、片手は小さい。 人びとは、かれのうえに身をかがめ、そしてかれらの口にかれらの指をあてがっていた。人びとはひざまずいた。 「死んだのだ」誰かが、とうとういった。 雨が降りはじめた。 雨は人びとのうえに降り、人びとは、だまって空を仰いだ。(R・ブラッドベリ「火星年代記」小笠原豊樹・訳 ハヤカワ文庫 p-222-224) ブラッドベリがこの本を著してから半世紀以上がたち、そのあいだに地球のなかだけでなく、火星までもがずいぶん近づいた。この物語が書かれた1950年には、人類は月へはおろか、スプートニクで犬を近距離宇宙に打ち上げることにも成功していなかった。当時の概念で、火星に行くのは、地球の裏側にいるハエの目玉を銃で打ち抜くよりもむずかしい、とされていた。直立多足タコ型の火星人の存在を信じるひとは少なかったが、火星には、この小説にも再三登場している「大運河」が流れていて、そのむかしには火星人の一大文明があった、と信じる僕のような子供はたくさんいた。 行ったことのない、もしくは行くことができないような遠い遠い場所への移動は、いつまでもわれわれの夢である。そしてそこへ出かけることの不可能性を考えるまえに、ひょっとしてわれわれは以前そこからやって来たのではないか、そこの風景はこのようだった、とデジャヴ体験をすることもまれではない。 そしてその物理的に遠い遠い場所からの物語を描くことは、即ちすばらしいわれわれの未来を、パースペクティヴにながめることにも繋がっていく。そこにはフィクションとかノン・フィクションとかのジャンル分けはなく、ただわれわれの理想ということばで括られた、大きな夢だけがある。 そして、この地球上にも火星のように、まるで違う世界がうんと残っていて、そこに住み、そこを探検し、その物語を描いている人びとが、まだ多数いる。 物語を、遠くからつむぐ&あやなす(2)につづく
by nyckingyo
| 2009-07-30 03:19
| 物語を遠くからつむぐ&あやなす
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