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物語を、遠くからつむぐ&あやなす (2)よりつづく 60年という歳月をへて、悲惨な物語の因縁の輪を閉じようと試みたひとたちがいる。3年前に制作され、日本ではすでに昨年劇場公開されたインディー映画だが、アメリカでは今年の原爆記念日を期に、やっと上映の機会が生まれた。 アイディアがすばらしい。コンセプトがすごい。そしてその物語は実行された。 日本に育ったマット・テイラー監督は、13歳のとき広島を訪れ、「原爆の火」を手に行脚する僧侶たちの姿を見た。 後年、禅に興味をもち、長崎にある曹洞宗の晧台寺・大田大穣師に問われた公案の答えをもって再会した。大田師は長崎での被爆者でもある。 1945年7月16日、ニューメキシコ州トリニティで人類史上初の原爆実験が行われた。そしてその成功のすぐあと、ときのトルーマン大統領は、日本への原子爆弾投下を承認し、あの人類史上最悪の、悲惨な無差別大量殺戮が二度にわたって行なわれた。 それから60年たった2005年、その悲劇の連鎖を切るために、なにをするべきか、というのが師の公案だった。それまで曹洞禅は公案というものを用いないと勝手に思いこんでいたが、実は道元禅師以来、看話禅も盛んに行なわれていたということである。 テイラー監督の答えは、「60年前の悲劇の炎を、原爆が生まれた場所、トリニティ・サイトまで運び、それをその場で消し去り、負の連鎖を断ち、永遠に眠らせること」だった。 仏陀を彷彿とさせるような大田大穣師のお顔が幾分ほころび、上掲の白隠禅師の筆になるような「一円相」を宙空に大きく描かれた。「因縁の法」にかなうというわけである。「それ」が創られた場所に返還し、ひとつの円を完結させなければならない。そのとき「それ」は因縁によって終わる、という。そしてそのような火の使い方(原子力爆弾)を二度とふたたび地上に現しめない。 かくて、7月16日、原爆がこの世界に生まれた日から、長崎に三つ目の原爆が投下された8月9日までの25日間をかけて、原爆のたどった道、サンフランシスコから原爆誕生の地ニューメキシコ州トリニティまでの2500kmを、採火された「原爆の火」をもち、行脚する計画が、2005年、実行に移された。 「原爆の火」とは、原爆投下直後の広島市内で故山本逹雄氏が、被爆死した叔父の形見として、叔父宅の焼け跡でくすぶる火を携帯カイロに入れ、故郷の福岡県星野村へ持ち帰ったものをいう。68年には村が管理する「平和の塔」に移され、今もそこで燃え続けている。 以前ベイエリアに住んでいたころには、僕もクルマで何度も往復した道である。途中にあるデス・ヴァレーには、その名の通り多くの移民たちの命を飲み込んだ、酷暑の塩砂漠がある。一度など、冷房のついていないクルマで疾走したが、50℃以上の耐えられないほどの熱風が入ってきて、あわてて窓を閉め切り、氷でアタマを冷やしながらのドライヴだった。 行脚参加者のなかには、癌で胃を全摘出していた85歳の浄土真宗僧もいた。食物はおろか、水さえもうまく消化できない体で、酷暑の西部での長距離行脚などできるわけがない、と医者は匙を投げた。それでもかれは挑戦し、因果の法を閉じ、かれの肉体は帰還した。いったいこのように強靭なひとの精神力とは何だろう、と不思議に思う。極限を超えてもやらなければならないことは、いつも物理的な不条理を超えて成し遂げられる。 その死にものぐるいの行脚も、かれらの意識が60数年前のあの瞬間に立ち返れば、あの人びとの苦しみを考えれば、何ものでもない、ということかもしれない。60年を過ぎてもそれらの証言は、毎年より大きな重みを持ってわれわれ生き残った者たちに迫ってくる。その必然性があるのだ。その物語を語り継ぐことは、いまここにいるわれわれすべてにとっての、神や仏のトータルな意志の集積なのだ。 原爆に関するさまざまな映画を観てきたが、真実を伝えると言う意味でそれぞれすばらしかった。スティーヴン・オカザキの真摯な眼で観た「ヒロシマ・ナガサキ」のなかでは、地獄を見た語り部たち の言葉を聞いてすくみあがった。 そしてそのリアルタイムの語り部たちが、どんどん少なくなってきた今から、われわれがするべきいちばん大切なことは、新しい物語を創り出すクリエイティヴィティなのではないだろうか。われわれ自身が新しいポジティヴな物語をつむぐ語り部にならなければ「核廃絶」など永遠の夢に終わる。 この映画のことを「象徴的にすぎる」と非難する人は、この物語の制作者たちの真意をまったく理解していない。この映画の主人公たちが出会ったアメリカ人たちは、もちろんさまざまな反応を示したが、しばらく僧侶たちの話を聞くうち、確実にかれらの意識は変わっていった。僧侶たちのアメリカ人に対する意識も大きく変わった。当初は原爆を投下したアメリカを強く非難していた僧侶のひとりも、直接触れたアメリカ人のやさしさ、明るさ、思いやりに大きく動かされた。 そしてこの映画がアメリカで上映されたとき、多くの人がこの崇高なコンセプトをもった仏教徒たちを心の底から尊敬し、核廃絶に向けたムーヴメントは大きく動くことになるだろう。 今年も、広島が被爆した時間に、ニューヨーク本願寺の親鸞像のまえで数百人のアメリカ人、日系人とともに黙祷し、そのあとアッパーウエストの深い緑の中をしばらく歩いて、キリスト教会でのUniversal Peace Dayのセレモニーに出席した。ユダヤ教も含めての合同平和祈念会である。 本来、平和の推進役であるべき宗教が、お互いにいがみ合い、世界の闘争の根源に成り果ててしまった姿は、特定宗教を信仰していないわれわれをも含めて、全員が恥ずべき事態である。その全員がこの日ばかりは「ヒロシマ・ナガサキ」ということばのまえに平等の意識となり、深く「平和」を信仰することとなる。願わくば、こうした宗教間の強いユニティが、年中行事だけではなく、恒常となることを、と強く感じました。 そして今年の4月、オバマ大統領はプラハで「核廃絶」を宣言した。 その当日の朝には、奇しくも北朝鮮のミサイル実験があり、その歴史的演説のニュース性は弱められたかに思えたが、なんの、オバマは演説のなかで当の北朝鮮を強く弾劾した。それから4ヵ月が経ったいま、全世界の人びと全員が、この演説の発想からより具体的な「核廃絶」のイメージを、強くもつようになったことは確かだ。「オバマジョリティ」ということばを創った広島の秋葉市長だけではない。僕もあなたも、みんなの意識が、あるいは潜在意識が、この次世代の指導者の言葉に、どこかですこしづつ、動かされていったはずだ。 この核廃絶/世界平和の基調演説を、まずはもう一度聞いてみましょう。 http://www.youtube.com/watch?v=IFnbQoCpNaM プラハにはまだ行ったことはないが、大好きなモーツアルトのこの都市の名がついた交響曲などから想像するに、美しく格調の高い芸術の都だと思う。(おせっかいだが、モーツアルトの38番「プラハ」は、オットー・クレンペラー/フィルハーモニア、が最高です!) 演説のなかにも出てきた「ビロード革命」とは、80年代後半、民主化を求めるチェコの民衆たちによる無血革命で、ハンガリーとともに、それまで厚かった「鉄のカーテン」を崩壊させた。これが結果的にベルリンの壁の崩壊にも繋がった。ソ連の弾圧時代を経て、スロバキアとの分離(ビロード離婚)も体験し、世界平和を求める意識のとても高い場所である。この物語の制作者である天才政治家オバマが選んだ、シカゴやワシントンから「遠い」都市のなかで、格好の都市といえる。 ここからが本題です。 http://www.youtube.com/watch?v=D9EXM9Qfq1A&NR=1 要旨: 冷戦が終わり、歴史の奇妙な展開により、世界規模での核戦争の驚異が少なくなった一方で、核攻撃の危険性は高まっています。核保有国が増えています。ブラック・マーケットで核が取引されています。 核兵器を使用したことがある、唯一の核保有国として、アメリカには行動する道義的責任があります。 私は甘い考えをもっていません。この目標は、すぐに達成されるものではありません。おそらく私の生きているうちには達成されないでしょう。達成するには、忍耐と粘り強さが必要です。 しかし今、世界が変わることができないという声を取り合ってはいけません。私たちは主張しなければなりません、Yes, We Can!と。 http://www.youtube.com/watch?v=Ci0CyuuEAaA 核兵器のない世界という話を聴いて、そんな実現できそうもない目標を設けることの意味を疑う人もいるでしょう。 しかし間違ってはいけません。私たちは、そうした考え方の行き着く先はわかっています。国家や国民がそれぞれの違いによって定義されることを認めてしまうと、お互いの溝は広がっていくばかりです。私たちが平和を追求しなければ、永遠に平和を掴むことはできません。希望ではなく恐怖を選んだときに、どうなるかわかっています。協調への呼びかけを非難し、無視することは簡単で、卑劣なことでもあります。戦争はそのようにして始まり、人類の進歩はそこで止まってしまうのです。 世界には、立ち向かわなければならない暴力と不正があり、私たちは分裂によってではなく、自由な国家、自由な国民として結束しなければなりません。武器を捨てることを呼びかけるより、武器を取ることを呼びかける方が、人びとの感情をかき立てます。だからこそ、私たちは団結して、平和と進歩を求める声を上げなければなりません。 その声こそが、今もプラハの通りにこだましています。ビロード革命のときの歓喜に満ちた声です。それこそが一発の銃弾を撃つこともなく、核武装した帝国を倒すことにちからを尽くしたチェコの人びとの声です。 人類の運命は私たち自らが切り開いて創るものです。ここプラハで、よりよい未来を求めることで、私たちの過去を称賛しましょう。私たちの分断に橋をかけ、我々の希望に基づいて建設し、これまでよりも大きな繁栄と平和を、この世界にもたらす責任を引き受けようではありませんか。ともに手をたずさえれば、それを実現することができます。 ありがとう、プラハの皆さん。ありがとうございました。 就任式からまだ半年あまりなのに、すでに僕たちは新大統領の言動に、かずかずの奇蹟を観てきた。まだ確実な結果の出たものは少ないが、この国に住むおおぜいのひとが、いつのまにか、いままでになかった安定感で支えられていることに気づきはじめた。なるほど、経済復興はできていない、国際協調もずいぶんな勢いで動きはじめたが、まだまだこれからだ。それでもかれの理想を語る物語のなかに、多くの真実が観えることで、多くの国民が信頼を強くしている。 むろん現実の政治の世界は、多分にかけひきの世界で、表面に現れた言葉のみを信用していると、ひどい目にあうという過去の教訓は残っている。 しかしこの新しいリーダーの強力な理想論は、小さないざこざなど吹き飛ばすちからをもつ。多くのメディアが「オバマ・マジック」という、いままでの政治には向かない、はなはだ論理的ではないこのことばで評価をしはじめた。 去年までは、世界中の国際政治学者がこぞって、不動で不滅の「軍産共同体」をいう巨大な化け物がこの国の中心に居座り、牛耳っていて、大統領といえども、この組織を寸分もいじることはできないという論評をしていた。それは先代までの大統領がその(幻の)組織と密着しすぎていた、ということに他ならないが、いまやその不動であるはずの軍産共同体の実体とやらが霞みはじめている。もともと実像のないものだから、かれら政治学者たちは、こんな風に変化してきました、などという論評で補うことができるが、この馬鹿馬鹿しい評論に踊らされて、悪魔の軍産共同体が不動に存在する、などと信じていた僕たちが情けない。その情けなさを含めて、オバマのマジックはいまや「意識革命」といってもいいほどの存在感があるのではないか。昨年の大統領選のまえ、オバマがヒラリーを僅差で破り、民主党候補になったとき、このブログで融合の夢革命・前夜 と書いたが、もはやむろん前夜ではなく、そのときの約束通り「夢」の一文字を取り「融合革命」がはじまった、と言い切ってもいい。 僕の頭のなかでのかずかずの物語をたどったこのシリーズも、ここで一応おしまいにするが、物語は、この地球星に住んでいる者の数以上に存在する。 われわれがかって、はじめて出逢った物語は、多分「神話」ではないかと思うが、それは真実の神が現れて、あるいは預言者の口を通して、われわれに語られた「真話」でもある。が、現代ではその物語が真実であったと公言できる者は限られている。たとえ神の存在を信じない者にも、先祖の語ったフィクションと思うことには、異論がないだろう。 こんな風に書いてみると、語られた物語が、真実であったか、フィクションであったかは、われわれの未来にとって、さほど重要な問題ではないような気もしてくる。 物語を「つづる」こと、想像すること、そして創られた崇高な物語をひもとき、読んだ側が、縦糸と横糸で「あやなす」こと。それががわれわれに課せられた唯一の課題ではないだろうか。 広島と長崎の市長がふたりとも、11月の来日の際にオバマ大統領がふたつの都市を訪問されることを切望されている。かれが世界で唯二の被爆地を訪れることで、世界はもうひとつの大きな物語、核廃絶という大きな理想に向かってうんと前進するだろう。オバマ大統領、もちろん行っていただけますよね。 プラハ宣言のなかで、かれが「つづった」ことばのなかで、いちばん印象的な一文をピックアップして、僕のなかでもう一度「あやなして」みようと思います。 We Believe in Dialogue. 私たちは「対話すること」を信じています。 そう「物語」とは、ひとりや、孤独ではありえず(孤独を起点とすることは多いが)、いつも「あなたとの対話」 in Dialogue となって、はじめてはじまる。 物語を、遠くからつむぐ&あやなす 了
by nyckingyo
| 2009-08-08 11:06
| 物語を遠くからつむぐ&あやなす
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