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全体 浮遊的散文詩歌 炉心溶融した資本主義 洪水からの目醒め 小説のように日記のよう ソラリスの海に泳ぐイカ ソドムの街になるまえに 街かどでOne Shot連想 天使の絵画と霊界事情 小さきものダイアローグ 悪魔の国からオニの国のあなたへ 地球号の光と影 陰陽の限りない非対称 物語を遠くからつむぐ&あやなす 見えないものとの対話 井筒・意識と本質論 多層金魚の戦争夢 座禅と火薬—蔡國強展 過去からみた化石燃料 もの申す、日本 ことばと音をコラージュする NYC・アート時評 NYCで観た映画評論 NYC Music Life 米大統領選挙 '08 北京オリンピック 未分類 フォロー中のブログ
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惑星ソラリスの海に泳ぐイカ(1) よりつづく さらに想念の話 近くにいる人類の想念をよみとり、それを実体化する「ソラリスの海」。遠いむかしに自殺した主人公クリスの妻ハリーを完璧に実体化できたのは「ソラリスの海」の大した才能ではある。が、死んだひとの再生はまだ無理でも、地球上でも人類の想念はさまざまな意味で実体化していて、われわれの人生の目的の大半はここに集中している。お正月に予期せぬおじさんからお年玉をもらえば、それでほしかったゲームソフトは実体化する。モノだけでなく、人間が相手の想念でも「あの娘がほしい!」と必死にがんばってみれば、相手の想念次第で、なんと人間までもが実体化してしまうことがある。もちろん男女が逆の場合にも同じだけのチャンスがある。たとえ失恋しちゃったとしても、相手とつき合っているあいだ、もしくは一方的な片思いでも、「恋愛」という想念そのものを具現化したといえる。想念で想念を具現化することで、精神を豊かにし、あるいは鍛えて次の想念をより強くする、というこの行為は、人類という生物だけに与えられた特権であります。 新年早々あいかわらず、もってまわったしちむずかしい言い方をしていますが、要は、にんげん、がんばれば、なんでも、できる、ちゅうこっちゃ。(あとでわかるが、この言葉は、地球人類に対する僕なりの精いっぱいの皮肉でもある。) ただこういった欲望と同義の想念というものの大半は、はた目から見るとあまり美しいとはいえず、特に政治でがんばりすぎている方々の世界などには、実になんともおぞましい想念がたくさん渦巻いている。ひとを押しのけて権力を得るまでは世の常だが、その権力を強力にするため、もっと金を儲けるため、たくさんの人を殺しても平然としている悪魔たちは、惑星ソラリスも顔負けの、当人たちの存在がすでに「想念が創りあげたオバケ」そのものになりきっていることに気づいていない。あるいは気づいていたとしても、その部分の想念をワザと麻痺させている醜悪なる共同幻想による精神病患者たちである。 われわれ人間だけが、なぜにこんなにがんばって想念を成長させておるのか、といいますと、どうもよくわからないことがたくさん噴出してきます。お金をいっぱい儲けて、おいしいものを食べて、美しいお嫁さんをもらって、出世して、だけではねえ、とアーティスト(志望)の若者は話しはじめました。イーストヴィレッジに林立するジャパニーズ・イザカヤの一軒でのかれの話をよく訊いてみると、僕の若いころにもった夢とまったくおなじように、ユーメーになりたいユメ。それから自分の絵を高く売りたい、というサラリーマン諸氏のユメとまったく同じ次元に帰着するのです。 それでも酔いがまわり、話がカキョーに入ってくると「自分の描いた一枚の絵が(すなわち自分の想念で)この宇宙を変えるのだ!」などと言いはじめます。なるほどねぇ、宇宙は想念によって変わるかもしれない。こちとらも酔って居酒屋の店内がグルグルまわり、まるでソラリス海上の宇宙ステーションにいるようです。あっ、でてきたでてきた、想念のオバケが、ニンゲンとどこか少しちがうような(?)有象無象が、いやぁ、キモチワルイ!、と手で振り払うと、まわりのアメリカ人たちが日本酒でぐでんぐでんに酔っぱらっている姿なのでありました。 チェルシーの画廊街というところの何百軒の一部を覗くと、あるはあるは、よくこんなものをグゲンカしたものぞ、と思われるキッカイな作品群。造るほうもだが、堂々と見せているギャラリー・オーナーの想念が知れません。まぁ30年まえには、その街なみにあるヨゼフ・ボイスの植樹した街路樹と石たち、7000 Oaksだって、まったく理解されなかったわけだから、アナタノ・カンカク・フルイ・デスネェ、と言われればそれまでだが、日本の誇るコンセプチュアルアーティスト杉本博司氏も、最近のチェルシーは(ご自分の作品以外はという意味だが)ぐるっと回っても観るべきものがほとんどなにもない、と宣われていたから、やはりそのとおりだとうなずく。観るべき作品がないというのは、観るべき想念を発するアーティストがいない、ということである。現代におけるこの街の一角は、エコロジーと反戦の最先端の砦となっていてしかるべきなのである。なんというテイタラク。 このようなテイタラク想念までをも含めて、人類はもはや何万歳といういい年こいて、まったく具現化が不可能な想念までもしつこく突きつめ、食いさがりつづける。いったいなにに対して食いさがっているのだろう。人類以外の「なにか」にその想念を観せたいがための、想念ごっこをしているような気もしてくる。いったい「なに」に観せようとしているのだろう。「それ」に対して想念を観せているだけで、いつか人類の願いはすべてかなうとでもいうのだろうか。 イカとの会話 生物学者のライアル・ワトソンLyall Watson (1939-2008) は「未知の贈りもの」(村田恵子訳 筑摩書房 手もとのものは1979年初版の工作舍刊)の冒頭に、このような体験を書いている。 バリ島以東の島々を、いかだ漁用の木の小舟で航海していたワトソンは、ひどい嵐の過ぎ去ったあと、一面の星空のなかをたゆたっていた。はじめは空のカシオペアが海に反射して光っているのでないかと勘違いしたのだが、それはあきらかに海のなかからの光であり、それらはいくつかの孤立した冷たい光のプールであり、寄り集まってはまた離れ、再結集して、あたかも十二宮を一周するように次々とパターンをつくり、かと思うと、何らかの中央制御でコントロールされているかのように、全部が消えてしまう。 あらゆる生物発光(バイオルミネッセンス)の例を考え、この生物学者は、光が消えたり点いたりするもの、ブルーからグリーンに変わるもの、そしてそばのふたつが明るい白色の炎を燃えあがらすにいたって、かれらの正体が解ったという。「イカだ!」 光を放つイカたちは水面下1mに近づき、小舟を包囲した。その時クルーのひとりが目を覚まし、咳をした瞬間、イカの円は1-2m広がって巨大コンピューターの展示盤のように脈打ちはじめた。しかし決して機械的でなく、その動きが開始された瞬間から、そこには「意図」があることにライアルはなんの疑いももたなかったという。イカから届く光は動きにそって強度や頻度を変化させ、それは冷静でしかも興奮した感情の表現だったという。このイカ艦隊の知力を証明する方法はないが、長時間の観察の結果、かれらは会話していたこと、その討議の対象は「私たち」だったと確信できる、と語っている。 もっとよく見るためにライアルはデッキが高くなっている舟の後方に移動した。するとたちどころにイカ艦隊は全体が位置を変え、私たち=舟を半円形で囲みながら輝いている。人間たちが何かもっとおもしろいことをするのを待っているような不気味な感じ。その煌めく会話も散漫となったとき、ワトソンはかれらと同じように対応するため、なにか光を発するものを捜したが、あいにく先刻の嵐で照明器具はマッチ一本にいたるまで、ひとつ残らず洗い流されていたという。 このとき、人間側が光を灯せば、イカ艦隊の大きな反応は当然あっただろうが、ここまで静寂の夜の海でお互いの緊張感で保たれてきたこのデリケートにすぎるイカと人間との関係は、あるいはその瞬間にこわれてしまっていただろう、と僕は想像する。 しばらくお互いを見つめあったまま,長い時間がすぎた。ライアルはしびれを切らし水をかきまわそうと舟から身を乗り出したが、水面に触れるまえにその手を止めた。舟の下に別の巨大な光のかたまりを見たからだった。その光は深淵から急上昇しているようで、どんどん大きく強くなっていく。クルー全員がその新しい光のほうに気をとられているあいだに、イカの大艦隊はすべて消え去ってしまった。ライアルの舟の下にある物体が水面から15m下の点まで昇りきったとき、その光はあきらかに舟の二倍の大きさにふくれあがっていたという。舟は珊瑚礁の海流に乗ってゆっくり漂流していたが、下の巨大なオーロラは完全にその動きに合わせてぴったりとついてくる。ジャワ人のクルーは恐慌状態となり、「平和あれ、アッラーの慈悲あれ」と祈りをくり返す。 この新しい巨大な光に対するその時のライアルの思いは、要約ではなく、かれのことばをそのまま引用する。 意味を与える以前に感じなければならない。あの晩の光の感覚は圧倒的なものだった。光が生きていたことは事実だが,きっと意識もあったのだろうと私は信じている。光が舟の下にいる間は、ある「存在」を感じていたのである。暗い部屋の中で目覚め、疑いもなくその暗闇のなかに誰かがいるというときのような「生」の確信であった。その存在感は、驚きを伴った認識を誘い、以前から映画や写真でよく知っているような気分にさせた。 長続きはしなかった。 私がはじめてその接点を垣間みたと思ったときは、光は一気に凝集し、すざましいスピードで深い暗黒の中に戻っていったのである。われわれ三人はとりのこされ、私は泣きたいような気分だった。(ライアル・ワトソン「未知の贈りもの」村田恵子訳 工作舍版初版 p-29) イカ的なるもの 結局、その舟を追いかけてきた巨大な光が何であったかは、解明されないままに物語は進行する。ライアルの思考は、巨大な光が現れるまえの、小さなイカ艦隊のほうにフィードバックする。 軟体動物に見られる不思議な目は、機動力に卓越したイカにおいてはさらに進んでいる。海洋イカの複雑な目には、虹彩、焦点調節可能なレンズ、それに、われわれと同程度に色やパターン認識ができる敏感な細胞を十分にもつ網膜などが備わっている。イカは他の動物と同じように、あるいはそれ以上の視力を持っている。少なくとも、かれらの目はそれだけの能力をもつ。それ自体不気味なことだが、さらに、これほどの情報量をいったいどうするのだろうという点が気にかかる。(p-31) これほど複雑な眼球組織に比較して、イカの神経組織、学習や連想にかかわる「脳」はかなり単純でごく基本的なものにすぎない、とライアルはつづける。信じられないほど複雑な眼球が提供してくれる大情報量を処理する脳はあまりにも原始的である。高価な望遠レンズを靴のあき箱にのっけるようなものだ、といっている。 このイカの目と脳の不条理性を解決する、かれの突拍子もない、同時に説得力のある、気違いじみた筋書きとはこうである。 単に論議のための仮定として、イカの目が想像通りのものだとしよう。可視光線が支配する周波数範囲内の電磁気的情報の探知・収集のための高度に発展した感覚器官である、とすれば、イカの目はこの機器に機動力を与えるために「後に」取り付けられているにすぎない。 海洋観察において、いかにまさるカメラ台はあるだろうか。イカは敏捷、迅速、しかも神出鬼没。昼も夜も、あらゆる深さに、あらゆる水温に、世界の海のどの部分にも、何十億といる、目に見えない観察者たちだ。 訪問者に警告する。当設備はクローズド・サーキットで常時観察されている。(p-32) ここで、小さなホタルイカ艦隊がなにかに操作されているのではないか、というライアルの推論は、推論のまま宙に浮いてしまう。あるいはイカの脳内はそこに巣食う寄生虫に操作されているのではないか、という推論。友人に問いかけるとその反応は実にさまざまで、地球外生物の仕業ではないかというひともいる。ライアルはこの意見には完全に否定的で、宇宙における知的生命体の存在にはまったく違和感を持たないが、われわれは宇宙のどこからかやって来たのではなく、この地球に生まれたのだ、と断言する。 われわれはこの世界にやって来たのではない。つぼみが枝から発芽して、蝶がさなぎから生まれるように、われわれも地球から出てきたのである。地球の天然産物であるわれわれが知的生物であるとすれば、それが知的エネルギーのシステムに恵まれた、知的な地球の果実であるからにほかならない。 私は同世代の人たちと同様に「チーム精神」の概念を口先で唱えながら完全に競争的な状況の中で、われわれをぶつけ合わせるような教育制度の中で形成されてきた。私は自分の皮膚の限界に封じ込められただけでなく、その色によって他者と区別される、ひとつの個体として自分を見るように教えられてきた。 さいわいなことにこれは変わりつつある。宇宙の砂漠に浮遊するオアシスのような、孤立した地球の写真をはじめて見たとき、変わらざるをえなかった。「ひとつの地球Whole Earth」の概念は、運命共同体という考え方を受け入れやすいものにしてくれた。われわれも、青い目のホタテ貝も、ウシも、地上を這うものすべても、いずれの種も最終的にはひとつの種に帰する。このすばらしいシステムの中で真に魅惑的で衝撃的なことは、われわれひとりひとりの中に「イカ的なるもの」がある、ということである。 われわれは地球の目であり、耳であり、われわれの考えることは地球的思考である。(p-37) このあとライアルは、カメラのレンズとホログラムの違いで、この「イカ的なるもの」を説明する。レンズという一点からの視覚ではなく、イカ軍団のように複数の視点から得られた干渉波が生みだした3Dの干渉パターンが、いかに全体を瞬間的に把握できるか、という比較論である。ホログラムは空間にあるどの点の集積でも正確な像を結ぶという。 イギリスの物理学者デーヴィッド・ホームはこの発見を出発点にした新しい自然観を提唱し、それを「折りたたまれた秩序」と呼んだ。ニュートンの運動の法則では、空間を移動する物体は同一のものとされているが、実は物体は新しい位置でその都度作りなおされている、という説である。キャラバンのテントが「折りたたまれて」静かにその地を去り、次の地点でまた即座に組み立てられるというわけだ。ヒンドゥーの聖典「バガヴァッド・ギーター」の概念にも通じる物質界の新理論だと思うので、僕としてはもっと深く説明をつづけたいのだが、ここでは混乱しないほどにわかりやすく簡潔にとどめる。ホログラムの発見は、この原理を光の場合に転化したもので、おなじ法則が電子や音にも当てはまるかもしれない。この説の要約は、すべての物質は「ある程度」自立はしているが、本当はひとつのプロセス — 一種の普遍的な流れに基づいた形態の組み合わせであるということだ。われわれ人間もイカも海も珊瑚礁も、絶対ではなく「比較的」安定したかたちにすぎないのだ、という。 僕なりに話をうんとやさしく整理してみる。ライアルが出会った小さなホタルイカの艦隊は、その脳や身体にくらべて異常に大きく高性能な目を持っていた。かれらの身体は点滅しながら、その複数の地点で得た目からの高解像度のデータを「だれか」に送っていた。「だれか」はそのイカの複数情報をホログラム化し、舟の上の人間たちの情報をキャッチしていたのではないか。その「だれか」とは、舟底を追いかけてきた、Big Boss=巨大イカだったのかもしれないし、あるいはもっと形而上的な普遍的な存在なのかもしれない。ライアル・ワトソン風に、もっと想像をたくましくすれば、それらを包括する「地球の海」自体が、イカの目からの無限に近い情報を集積し、何かを考えつづけているひとつの大きな知的生命体ではないか、という概念を消し去ることができない。 スタニスワフ・レムは「ソラリスの海」がひとつの大きな知的生命、それも飛び抜けて優秀な、ひとの想念を実体化させる生命体として描いたが、そこでの人間の想念たるや、個体の殻に閉じこもった、ときに邪悪な、極私的な想念の連続であった。かたや「ソラリスの海」の方は、それら人間の想念、企みをすべて包括し、なおもクリエイティヴに死んだ人間までを再生産してくれる。タルコフスキーの映画を含めて、その物語の創作はすばらしいのだが、「海」にくらべて、人間が個体の内部で固まった想念をもちつづけ、周囲にいる他者の想念をまったく無視するか、軽蔑しつづけることに若干のいらだちすら覚える。レムやタルコフスキーの住んでいた当時の共産圏国家と呼ばれた「海」は、個体の自由が極端に制限された世界だったゆえに、そういった表現が生まれたともいえる。いずれにせよ、ソラリスの海という生命体が、個に囲まれてにっちもさっちもいかなくなっている人間の想念というものを、その個の枠組みをいとも簡単にはずし、実はこんなに簡単に何でも実体化するのだよ、と問いかけたことは、われわれ各自の殻にイモ虫のごとく籠っていた個人にとって実に衝撃的であった。当時の日本の教育思考も、アメリカ直輸入の「個性」を生み出しましょう教育の全盛期であり、個の殻をはずし、他の個との融合を図るなど、戯言ではないにしろ、そんな余裕などありえない世界であった。誤解のないように念を押すが、僕はこの自由主義と同時に輸入された日本における個性教育を否定するものではまったくない。 そのソラリスの海の物語ができ上がった時点で、映画を観た時点で、気づくべきではなかったのか。われわれにとって身近にすぎたゆえ、いまだに全員が気づいていないふりをしているだけなのではないのか。この「地球の海」は、われわれの想念を汲みとり、情報化する、巨大な知性体ではないのか。あるいは海だけでなくこの星全体が、有象無象の複合体のように見えるが、実はいたってシンプルな一個の生命体、ということではないのか。われわれにくらべれば、たいへんな長寿のゆえに、かれ/かの女の動きは実に緩慢で、鈍いわれわれにはその動きが正確にキャッチできなかっただけではないのか。 ライアル・ワトソンの意識がそう言っている、と認識して終わってしまってはダメなのだ。地球が生命体であるという意識を、そのまま自分たちの日常の意識にすることだ。 そこでわれわれは「かれ/かの女」にイカ的な情報を送りつづけ、その返信として、この星のほうからはその全体の軌道修正をするように、必ず指示がある。ところが人間側はそのようないたってシンプルな命令系統を無視し、万物の霊長という不遜な自覚をもちつづけ、この星を傷つけつづけていた、というわけだ。 十数年前のキョートで、昨年暮れにはコペンハーゲンで、これではちとひどすぎると、人類の代表が集まって、世界環境イカニヒドイカ会議が行なわれたが、ぎゃあぎゃあ騒ぐだけで、その煩雑な想念が、Big Boss=地球星をますます傷つけているのに気がつかない。おまけにここんとこ極端に寒いから、地球温暖化など実はなかったのだ、あれは政治家が創った虚言だ、などと言いだす超鈍感者があふれ出ている。いやいやかれらはまさに超鈍感を装っているにすぎないのだ。確かに先進国の「環境」に関する金儲け想念は、異常な熱気を帯び、後進国も自分たちの生き残りを賭けて同じ発想の金欲に奔っている。まさに餓鬼道イカ会議。本末転倒もはなはだしい。おまけに冷静であるべきカンキョウホゴ・デモイカの一団までもが興奮し、興奮すればオツムのライトの点滅をつづけることになる。イカの一員としてはどの立場であれ、その位置からのカメラのレンズに徹しているから、全体のホログラム像がまったく観えていないのだ。この会議の風景を情報としてキャッチした母なる「地球星」は笑いこけているだろうか。あるいは浅はかにすぎる人類の行為に泣き崩れているだろうか。もっとも恐ろしいのは、かれ/かの女が我慢の限界を超えて、怒り狂い、その鉄拳をわれわれのほうに向けることだ。 タルコフスキーの映画が創られたおなじ70年代に、ライアル・ワトソンが体験した「地球の海」での「イカ的なるもの」something of the squid in each of us は、このイカ物語のあともかたちをかえて「未知の贈りもの」全体に登場している。 夜の海でのイカとの不思議な遭遇のあと、ジャワやバリのはるか東端にある地図にない島「ヌス・タリアン」に上陸したライアンは、そこで愛らしい12歳の踊り子少女、ティアに逢う。ティアには、すべての「音」についている「色」が観えるという。 ライアルがすべての音に色がついているのかと訊くと、「色がなくてどうやって人の話や音楽を聴くことができるの」と哀れみに充ちた目で見たという。 「ドラムが話をするとき、やわらかい砂のような茶色の絨毯を地面に敷く。踊り手はその上に立つ。次に銅鑼が緑や黄色を呼び、私たちが動いたりまわったりして通る「森」をつくる。もし森の中で道に迷っても、フリュートや歌の白い糸が家に導いてくれるわ」。ティアだけでなく、島の子供たちの多くがみな言葉や音に色を感じ、それを当然のこととしている。 「われわれのような感覚的片輪者が幻覚剤の助けを借りて垣間見ることしかできない、視覚と聴覚が統合されたバラ色の世界にティアは永住している」と語っている。ライアルはこのことを「共感覚」と呼び、ティアの持つ予知能力も、この感覚融合に関係があるとではないかと考えはじめる。 この不思議な少女ティアは、この本「未知の贈りもの」の主人公となっていき、個の殻から解放された、いわばイカ的なる人間として魅惑的に島での活動をつづける。この稿でもまだしばらくティアを主人公としての話がつづくのだが、今回の紙数が尽きた。 続編は、中沢新一氏と波多野一郎氏の共著「イカの哲学」をとりあげるが、その本のなかにもライアル・ワトソンの「イカ的なるもの」の引用が含まれている。ふたつの物語を絡めながら、新しい世界平和論に行きつきたいと思っている。 惑星ソラリスの海に泳ぐイカ(3)につづく
by nyckingyo
| 2010-01-14 07:19
| ソラリスの海に泳ぐイカ
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