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時間の逆行による 砲火の収斂 尖閣列島をめぐる紛争を危惧した詩 雨のマンハッタンで、戦争を想うをアップしてから数日がすぎた朝、こんどは北朝鮮がまるで半世紀前の戦争を突然憶い出したように韓国を攻めたというニュースにたたき起こされた。世界一の大海の向こうから東アジアの状況をながめていると、異常気候と、こういったキナ臭い直感はふしぎなほどによく当る。 今回の北の攻撃の直後、韓国の国防相は「事前に緻密に計画された意図的な奇襲」と言ったそうだが、外から観ると北の国内事情からの発作・痙攣(けいれん)的な攻撃としか思えない。 戦争とはいつも痙攣的にはじまり、痙攣的につづく。最初に痙攣症状を起こした北朝鮮と敵対する、その痙攣症状が感染してしまった被害者同盟=韓日米(実は間接的加害者といってもいいのだが) の冷静なる判断を心から求める。 ほぼ定期的といえるほど頻繁なパレスチナ紛争も、実はまことに痙攣的発作である。アフガンもイラクも9-11の報復という似非大義を立てたが、本当は世界一の大国が、過肉食ゆえの病的発作を起こしているにすぎないのだ。 最初にことわっておくが、今回は現世的な政治の意味合いをまったく持たない「痙攣的反戦エッセイ」である。ロジカルに文章を組み立てると、どちらのほうがよい、悪い、という問題を必ず引きずってしまう。今回にかぎらず、戦争というものは歴史の因果律から寸分はずれることなく、どちらもまったくもって救いようがないほど悪い、あまりにもばかばかしいというヴォネガット風前提にたって、痙攣的思考に基づいて話を進めていく。ヴォネガットの連発する限りなく影の濃いユーモアに馴染みのうすい人は、あるいは人間の戦闘行為を茶化しているとお怒りになるかもしれない。しかしそのばかばかしい人間同士の無意味な殺し合いが、すぐそばで具現化したとき、それを笑い飛ばす以外にいったいどうすればいいのだろう。 前稿の詩のなかにも書いたが、ヴォネガットは「国のない男」のなかで、「ユーモアとは恐怖に対する生理的反応だ」と言っている。アメリカ人は、第二次大戦後日本に平和憲法を与えて戦争を放棄させ、自らは律儀に実に多くの戦争を生産している。自国の多数の若者の命を賭して、世界中に戦争の火種をつけまわって世界を不安定にさせることに貢献しつづけている。これを笑いとばさずに、ほかにどのような精神安定剤があるのだろうか。行間からあふれ出るヴォネガットのふしぎなイマジネーションと、われわれの不安をもっともかき立てる現実社会の暗黒に限りなく近い部分を接着し、新しい平和のイメージをさぐる試みをどうかトライさせていただきたい。 カート・ヴォネガットが1969年に書いた反戦小説「スローターハウス5」は、作者が体験したイギリス空爆隊によるヨーロッパ最大の虐殺、ドレスデンの大空襲を題材にしている。この空襲での死者の数は、一夜のものとしてはヒロシマに匹敵する13万5千人と書かれている。連合国の勝利が確定してからのこの無差別爆撃による超大量殺戮は、ヴォネガットのこの小説により世界に広く知られることとなり、イギリス国内でも大きい批判の対象となる。アメリカ人捕虜として第五食肉処理場に閉じ込められ、イギリス軍の大空襲からかろうじて助かったヴォネガットは、このドレスデンの記録を書こうとしはじめたが、なぜかその戦争を書くことの不可能性に悩み、無為に二十数年を過ごす。 おなじ第五食肉処理場の捕虜だった戦友の妻に「ふたりとも当時はまだほんの子どもだったくせに」「たまには本当のことを書いてみたらどうなの?」といわれて、ヴォネガットはまさにそのことに気づく。ヨーロッパ戦線に出かけたのは20歳をほんの少しだけ過ぎていたかもしれないが、駆り出された兵士のほとんどは精神的にまだほんの子どもだったことを。ローマのむかしから、最初に犠牲になるのはいつも未来を担うべき子どもからだということに気づいた -- そう私たちはみんな子どもだった。そしてヴォネガットは小説「スローターハウス5」の副題を、そのむかし悲惨な歴史の犠牲になった「子ども十字軍」とすることにした。 その小説の主人公ビリー・ピルグリムは痙攣(けいれん)的時間旅行者となって、時間のなかに解き放たれる。あるドアから1955年に入り、1941年、別のドアから歩み出る。そのドアをふたたび通り抜けると、そこは1963年で、自分の誕生と死を何回見たかわからないとかれはいう。1967年には空飛ぶ円盤によって地球から誘拐され、円盤の故郷トラルファマドール星に運ばれ、すっぱだかでその星の動物園に入れられた。檻のなかでは地球の有名な映画スターと番(つが)わされた、と語る。 物語はビリーの人生の時間を「痙攣的」に飛びまわる趣向である。ナチスドイツの捕虜となり列車でドレスデンの収容所に運ばれる最中に、突如1967年の時空に飛び、娘の結婚式の夜に移動している。やがて円盤に誘拐される一時間まえとなったとき、ビリーは軽い「時間的浮遊」に襲われる。 そのときなにげなくつけたテレビの深夜映画の画面は、いったん逆行し、やがてもとの流れに戻る。それは第二次大戦の米軍爆撃機隊の映画だったが、ビリーが「逆向き」に見た映画のあらすじはこうである。 負傷者と死体をいっぱい乗せた穴だらけの爆撃機が、イギリスの飛行場からうしろむきにつぎつぎと飛びたっていく。フランス上空に来ると、ドイツの戦闘機が数機うしろ向きに襲いかかり、爆撃機と搭乗員から、銃弾や金属の破片を吸い取る。同じことが地上に横たわる破壊された爆撃機にも行なわれ、救われた米軍機は編隊に加わるためうしろむきに離陸する。 編隊はうしろむきのまま、炎につつまれたドイツの都市上空にやって来る。弾倉のドアがあき、世にも不思議な磁力が地上に放射される。火災はみるみる小さくなり何箇所かにまとめられて、円筒形のスチール容器に密封される。容器は空にのぼり、爆撃機の腹に呑みこまれて,きちんと止め金におさまる。地上のドイツ軍もまた、世にもふしぎな装置を保有している。それはたくさんの長いスチールのチューブである。ドイツ軍はそれを用いて、爆撃機や搭乗員から破片を吸いとっていく。しかしアメリカ軍のほうには、まだ数人の負傷者が残っており、爆撃機のなかにも修理を必要とするものが何機か見える。ところがフランスまで来ると、ドイツの戦闘機がふたたび現われ、人も機体も新品同様に修復してしまう。(「スローターハウス5」カート・ヴォネガットJr. 伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫) ここでのヴォネガットは、現代のヴィデオやDVDをプレイしたままRewindボタンを押せば、だれでもが体験できる時間の逆行=フィルムの逆転のことを語っているのである。ビリーのように時間浮遊能力がなくとも、視覚的な映像のうえだけでは、現代人は時間を逆転できるようになった。もし現実に時間を現在から過去へ、さかさまに進行させることができれば、戦争の砲火、災害などの因果関係が逆転し、すべてが収斂されていく。人類の攻撃性をまったく無化させるタイムマシン。実に痛快な気分になってきたので、つづきのもう一節も引用してみる。 編隊が基地へ帰ると、スチールの円筒は止め金からはずされ、アメリカ合衆国へ船で運ばれる。そこでは工場が昼夜分かたず操業しており、円筒を解体し、危険な中身を各種の鉱物に分離してしまう。感動的なのは、その作業にたずさわる人びとの大半が女性であることだ。鉱物はそれぞれ遠隔地にいる専門家のところへ輸送される。かれらの仕事は、それらが二度とふたたび人びとを傷つけないように、だれにも見つからない地中深く埋めてしまうことである。 アメリカ人の飛行士たちは制服をぬぎ、ハイスクールの生徒となる。そして、とビリー・ピルグリムは思った。ヒトラーもまた赤ん坊になってしまうのだ。そんな場面は映画にはない。ビリーは外挿(がいそう)しているのである。だれもが赤ん坊になり、全人類が、ひとりの例外もなく、生物学的に協力しあいながら、やがてふたりの完全な人間アダムとイブをつくりだすのだ、とビリーは思った。(同書) いつのまにか 第二次大戦の悲惨な戦闘状況はすべて収斂され、人類は禁断の果実を食べるまえの無垢な子どもに還っている。 ちょうどこのくだりを読みかえしていたときに、北朝鮮が韓国延坪島に砲撃したというニュースを聴いた。立ちのぼる黒煙と泣き叫ぶ人びとの映像をビリーのように(アタマのなかで)逆行してみることにする。黒煙と火の手は急激に収斂され、砲弾はうしろむきに北の方向に飛び去る。弾丸は北側のスチールの円筒に吸い込まれ、やがて円筒の止め金がはずされて、さらに北の方向の工場に運搬され、そこでは円筒を解体し、危険な中身を各種の鉱物に分離してしまう。今回のばかばかしい痙攣的攻撃も、時間をうんと遡れば、見事に消滅する。キム・ジョンイルもヒトラーとおなじく赤ん坊になる。拉致被害者も日本での幼年期に戻り平和に暮らしている。あのソ連とアメリカが激しく戦った半世紀前の朝鮮戦争さえもが、すべて収斂される。 しかし キム・ジョンイルもヒトラーもスターリンもナポレオンもチンギス・ハーンもアレキサンダーも、すべての独裁者を赤ん坊にもどしたとしても、この地球の三次元世界では時間の逆行をまったく実践できていない。これは時間を操作のできないわれわれ一般地球人の見た逆行テレビ画面の視覚ゲームにすぎないからだ。 実際のビリーはこのつかのまの時間逆行的平和の夢をみたあと、すぐにやってきた円盤にさらわれ、トラルファマドール星の動物園に向かう手はずであった。ところが 麻酔ガスで眠らされた瞬間、たどり着いた先は1944年、おおぜいの連合国捕虜がドレスデンに向かう貨車のなか。おまけに移動した瞬間から捕虜仲間からも痛烈なイジメにあう。 ビリーはその後もめまぐるしく時間を飛び跳ねまわる。そしてその痙攣的時空移動のすべてが、ビリーの意志とはほとんど関係なく起きるのだ。 ビリーが時間を操作できるわけではない。捕虜だった時代のドレスデン第五食肉処理場。戦後、痙攣的意識不明に何度も襲われたビリーは、復員軍人病院の精神病棟で療養する。全米検眼医協会のチャーター飛行機の墜落事故では、そのことを予知していたビリーひとりだけがなぜか助かる。そして四次元の世界から地球人類を分析するトラルファマドール星の動物園時代。まさに戦争の砲火のように痙攣的に時空を飛び交う。 宇宙の終焉による 砲火の収斂 トラルファマドール星の開放的な動物園の檻のなかで、アイオアにあるシアーズ&ローバック社の倉庫から盗み出された数々の地球の資材に囲まれて、地球の美人映画スターとともに暮らすビリーは、地球にいたころとおなじぐらい幸福に暮らす。 ある日ビリーは宇宙人に、地球での戦争の残虐性を語る。「捕虜収容所に入れられたとき、夜間足もとを照らすのにロウソクを使っていたのですが、それは(ナチスによって)かまゆでになった女生徒の兄や父たちが、殺した人間の脂肪から作ったものだったのです。地球人は、この宇宙の恐怖のみなもとにちがいありません! いまこの瞬間、他の惑星が地球の脅威にさらされていないとしても、そうなる日はまもなくやってくるでしょう。だから私は、宇宙の人びとが平和に暮らしている秘密を教えていただきたいのです。地球にその知識を持ち帰り、私たちすべてを救うことができるように」。 ところが、この話を聞いたトラルファマドール星人は、何をバカなことを言っているのだ、という意思表示の、手のひらをすぼめ、眼をおおってしまった。(かれらの眼は手のひらの真ん中にあった。) 「あのう、いまの話のどこがバカなのか教えていただだけませんか?」 「われわれは宇宙がどのように滅びるか、知っている」と、動物園の案内係はいった。「これに地球はなんの関わりあいもないんだ、地球もいっしょに消滅するという点を除けばね」 「いったい、いったい宇宙はどんなふうに滅びるのですか?」 「われわれが吹き飛ばしてしまうんだ – 空飛ぶ円盤の新しい燃料の実験をしているときに。トラルファマドール星人のテスト・パイロットが始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまうんだ」そういうものだ。(So it goes.) 「それを知っていて」と、ビリーはいった。「くいとめる方法は何もないのですか? パイロットにボタンを押させないようにすることはできないのですか?」 「かれは常にそれを押してきた、そして押しつづけるのだ。われわれは常に押させてきたし、押させつづけるのだ。時間はそのような構造になっているんだよ」 「すると -- 」ビリーは途方にくれていった「地球上の戦争をくいとめる考えも、バカだということになる」 「もちろん」 「しかしあなたたちの星は平和ではありませんか」 「今日は平和だ。ほかの日には、君が見たり読んだりした戦争に負けないくらいおそろしい戦争がある。それをどうこうすることは、われわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやす – ちょうど今日のこの動物園のように。これをすてきな瞬間だと思わないかね?」 「思います」 「それだけは、努力すれば地球人にもできるようになるかもしれない。いやなときは無視し、楽しいときに心を集中するのだ」 「ウム」と、ビリー・ピルグリムはいった。 未来のいつかに起こるであろう、この宇宙の終焉のことを聴いたビリーは、そのあとすぐに、当然のこととしてかれの人生で一番幸せだった、地球での結婚式の当夜に痙攣的に飛ぶ。この夜の幸福な労働の結果、夫婦は将来グリーンベレー隊員となる息子を生産する。 それでも、砲火の収斂は必要か? 時間を自在に操れ、四次元宇宙にすむトラルファマドール星人が、ひとりの若きテスト・パイロットの指先が新型燃料ボタンを押すことすらとめられないというのは、この痙攣的小説のなかの話とわかっていてもショックである。かれらはビリーの人生の時間を自由に操ることができ、宇宙の動物園にいた何年間も地球の時間概念では数マイクロセコンドにすぎず、地球にいたほかのだれもが、ビリーが瞬間的にでもいなくなったことにすら気づいていない。そんな時間操作のできる星人に、小さな指先をとめることぐらい簡単じゃないか!金魚である僕は思わず叫びそうになった。しかしそれでも押しつづけ、押させつづける因果律は変更できないという。 なんだか作者ヴォネガットの詐欺じゃないかという気がしてきたが、フィクションである以上、かれにしたがって読むしかない。ついでながら、登場人物のひとりの荒唐無稽なSFを書く作家(ヴォネガット自身がモデル)は、自分の小説に書かれたことはすべて事実であり、もしそれがフィクションなどというものであれば、全世界に対する大掛かりな詐欺である、と公言するくだりがある。 唯一の救いは、宇宙の終焉が、トラルファマドール星人の憎しみによって、ひき起されたのではなく、テスト・パイロットのちょっとした過失事故から宇宙が消えた、というくだらなさにある。このあたりこそヴォネガットがヴォネガットたる所以なのだが、このことは悲壮感を緩める(消し去る)偉大で陳腐なジョークとして、読者サービスであると同時に、もうひとつの大きなメッセージを含んでいるように思える。宇宙人であれ地球人であれ、おたがいに憎みあって戦争が起こる。最初は一方の痙攣的な憎しみから、他方に砲火が打ち込まれるのだが、砲火とともに憎しみの痙攣も他方に感染する。 今週にも韓国は砲撃演習と称して、北側に連続砲火を浴びせようとしている。演習の新型砲弾がなかば故意に北の軍事施設に当れば、瞬時にしごく痙攣的な全面戦争が勃発する。当事者の感情はまさに憎しみの連鎖、増幅なのである。 まったく憎しみを持たないひとりの宇宙人の円盤の誤作動によって宇宙全体が突然消えたことと、戦争という「憎しみの連鎖」で殺されたこととは基本的な事件性がまったくちがう。一握りの人びとの痙攣的意志ではじまった砲撃で死んでしまった一般市民の立場でいえば、どちらもかれらの「宇宙の終焉」ではあるが、大きな違いは、戦争の犠牲者は常に「憎しみの連鎖」によって殺されるということだ。 いまこの瞬間に全宇宙が終焉を迎えようとしていても、それでも、北朝鮮の砲火とそれに反撃しようとする韓国・米軍の憎しみの砲火を、なんとしても根本的な部分から収斂し、これ以上の犠牲者を出してはならない。中東もアフガンも世界各地の内乱も、地球上の砲火がすべて収斂されれば、そのあとすぐに宇宙人の事故で宇宙が終焉してしまったとしても、どこかで地球人が成仏できる時空間をもてるような気がするのだ。そういうものだ。(So it goes.) 「スローターハウス5」の物語の半ば、ビリーは早々と死の舞台に立つ。 「私、ビリー・ピルグリムは」とテープは始まる、1986年2月13日に死ぬのであり、常に死んできたし、常に死ぬであろう」 ビリーはいう、死が訪れる日、かれはシカゴにおり、たくさんの聴衆をまえに空飛ぶ円盤や時間の本質について講演している。自宅はまだイリアム(NY州)にある。シカゴにたどり着くためには国境線を3本越えなければならなかった。アメリカ合衆国は、二度と世界平和をおびやかさないように分割され、二十の小国家が並存しているのだ。シカゴは、激怒した中国人により水爆攻撃をうけたこともある。そういうものだ。(So it goes.)かれがいるのは、再建かなったシカゴである。 そしてビリーは、ドレスデン時代、ビリーのせいで別の戦友が死んだと思い込んでいる元兵士の光線銃に捕らえられる。ビリーはしばらくのあいだ死を経験する。が、次の瞬間1945年のドレスデンに戻り、物語はさらに果てしなく痙攣的時間旅行をくり返す。小説はまだ半ばをすぎたところである。ビリーは死んでも、痙攣的時間旅行から解放されない。まるでそれはビリーのせいなどではなく、まして宇宙人のせいでもなく、人類が果てしなくくり返す、あの「殺しあい」のせいだと、天国のヴォネガットは叫んでいる。 そういうものだ。(So it goes.) 金魚のFun & Fun: 1972年製作の ジョージ・ロイ・ヒル監督の映画「スローターハウス5」は、その年のカンヌ審査員賞を取り、ヴォネガット自身も「自分の小説に忠実で、それよりもよくできている」と書いていますが、ヴォネガット・ワールドはやはり文字で書かれた小説がすばらしいと思います。 グレン・グールドのゴルドベルク変奏曲のYouTubeを、BGM(グールドに怒られそうですが)のつもりで貼っていますが、これは映画のほうのバックグラウンドに流れていて、なぜか主人公の痙攣的時間旅行と対称的に、実に落ちついた感じでフィットしています。小説も映画も、けたたましく時間帯が変わり、戦争・殺戮・事故・暗殺とネガティヴな要素が重なっているのに、最後になぜか「ああこの地球に生きていてよかった」という意識でいっぱいになるのは、どうしてでしょうか。 ドレスデンでのつらい捕虜生活のなか、ヴォネガットはじめアメリカ人捕虜たちが、例によって軽口を叩き合い、世界一陽気な捕虜集団を演じていることを、ある意味で尊敬の念で見てしまいます。 あるいは、軽いものほど深刻な戦争を語っていることを察知しているのでしょう。以前、 戦時気球考 - 軽きを縛り、重きを放つというエッセイを書きました。ご一読いただければ幸いです。 村上春樹語録:ヴォネガットには個人的なケリをつけなくちゃならない。かれは親ほど利害が直接的じゃなく、兄弟ほどつき合いが日常的でない、なついていた伯父さんのような存在、そういう大人の男のあたたかみと知恵のようなものがかれの小説の中にある。 尻馬に乗ってしまいますが、中学時代からのヴォネガット・ファンの僕も、まったく同感。あるいは「おもしろいアメリカの伯父さん」という強い印象とあこがれが嵩じて、成人してからこの大陸に移住してしまった、とも考えています。 この伯父さんの、ほとんど荒唐無稽といってもいいほどのぶっ飛びぶりから、あるいはなにか違法ドラッグをしてたんじゃない、と疑うファンも多いのですが、本人は完全に否定しています。12歳から両切りのポールモール(ペルメル)を吸いつづけているが、80になってもいっこうに病気にならない。パッケージの表示に偽りありと会社を訴えるなどというジョークを飛ばしているヘヴィースモーカーだったそうです。アルコールも 二杯以上は飲めず、臆病だったのでヘロイン・コカイン・LSDなどには頭がおかしくなってしまいそうで怖くてできなかったそうです。一度だけグレイトフル・デッドの連中とのつきあいでマリファナをやってみたが、ちっともきかなかったと述回しています。 オルダス・ハクスリーからはじまるLSDへの偏向作家群、ブライアン・オールディス、J.G.バラード、トマス・M・ディッシュ、フィリップ・K・ディックなどとは確実に一線を引くことができます。 そんなかれも、 一度だけ、すごいハイの状態になったことがある。それははじめて運転免許を取ったときのことだ。さあみんな気をつけろよ、カート・ヴォネガットの登場だ! そのときの車の燃料は、現代の輸送機関やほかの機器や、発電所や溶鉱炉で使われている、もっとも乱用され、もっとも常習性が強く、もっとも有害なドラッグ、つまり化石燃料だった。 だって、まったく。 そういうものだ。(So it goes.) 年があけて、NYC在住の友人から、東京とドレスデンでの展覧会情報が届きました。 ポーレ・サヴィアーノ写真展 FROM ABOVE: DRESDEN/ TOKYO アメリカ人写真家、ポーレ・サヴィアーノがドレスデン大空襲被災者11名と東京大空襲被災者6名を撮影した肖像写真の展覧会。歴史書に登場することのない人間一人一人の感情に向き合い、戦後65年を生き抜いてきた人々の「現在」の姿を映した作品群。 ・東京会場:ギャラリーエフ 東京・浅草 東京都台東区雷門 2-19-18 TEL. 03-3841-0442 2011年 2月4日(金)~27日(日)12:00~20:00 火曜定休 入場無料 (各イベントを除く) ・ドレスデン会場:Ortsamt Blasewitz 住所:Naumannstrasse 5, Dresden, Germany 2011年 2月10日(木)〜28日(月)9:00-18:00(土日祝はイベント開催時以外休館)
by nyckingyo
| 2010-12-02 12:47
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