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過去にこの地球星に降霊されたすべてのアーティストの魂に捧ぐ 霊たちはローラースケートに乗って美術館を駆けめぐる 作家カート・ヴォネガットのお姉さんのアリスは、身長6フィートでプラチナ・ブロンドの美人アーティストだったが、あるときこう言った。「ルーヴルのような大美術館にはまだ行ったことがないけど、たとえローラースケートをはいて館内を走りぬけても、自分は陳列されたすべての絵をちゃんと鑑賞できる。」つまりルーヴルの研きだしコンクリートの床のうえで、ローラースケートが立てるシューシューカチャカチャという雑音のなかから、こんな言葉が頭のなかに聞こえてくるというのだ -- 「了解、了解、了解」。 この街ニューヨークでも、ヘミングウェイのような狩猟好きのアメリカ人が、世界中からキが狂ったように血眼になって集めたメトロポリタンの膨大なるコレクション、そしてチェルシーにある500軒以上に増殖するギャラリーにある絵画たちをつぶさに観察するというのは前人未到の芸当である。ついつい僕もスケート靴は履かないまでも、かなりの高速でアリス姉さんのように「了解、了解、了解」カチャカチャカチャの掛け声方式でまわる羽目となる。 ヴォネガットの友人の画家たちも、はじめて見た絵からでもドカン!と一発、という感じですべての価値が引き出せる、という。逆にいえば美術を鑑賞するということは、そのドカン!があるかないかであり、ドカンなしに画家のきわめて長時間にわたる執念の労働はあえなく虚空のかなたに消え去る、というかあるいはドカンとともに瞬時に価値を得るというか。 年初、序篇の最後にこう書いた。MoMA(NY近代美術館)ではAbstract Expressionist NY(NYの抽象表現主義者たち)という展覧会が開かれていて、第二次大戦直後に描かれた数々の秀作を、無数といっていい天上界の霊たちが鑑賞に来ている最中である、と。 アブストラクト・エクスプレッショニストたちの作品をローラースケートに乗って霊とともにハイスピード時空を奔りまわれば、まさにドカン了解!ドカン了解!ドカン了解! そしてジャクソン・ポロックの大作One Number 31のまえではまさにドカン、アメリカ、了解!となる。 そこに展示されているたくさんのドカン!抽象絵画を制作したアーティストたちは、いまや全員が霊界へと移住されてしまった。かっての現代アートの都を旧大陸のパリからこのニューヨークにそっくり運び込んでしまったジャクソン・ポロックの親友たちが、この古巣MoMAでいま一堂に会している。デ・クーニング、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、フランツ・クライン、ジェイムス・ブルックス、ロバート・マザウェル、アド・ラインハート。まるで霊界からかれら画家たちが集まって、現世の超満員の観客と、上空から降りて来られた無数の霊たちが渾然一体となってドカンドカンと宴会を始めたような騒がしさを感じた。これが今回のタイトル「歳末歳始霊界事情」を書きはじめるきっかけとなったわけである。 このポロックが創始者となった、ニューヨーク抽象表現主義派が異色なのは、その仲間や信奉者が、決してかれとおなじ絵の具の塗り方をしなかったこと、とヴォネガットはかれの数少ない現代美術評論のなかで語りはじめる。(エスクァイア50周年記念エッセイ集「アメリカの歴史を変えた50人--たらし屋ジャック Jack the Dripper」1983) それよりずいぶん以前に、パリで起きた印象派や立体派は、仲間うちでツルんだように画一的な描き方をしたという意味で単なる技術革命であり、旧大陸の芸術ムーヴメントと言う印象が強い。ジャクソン・ポロックの親友たちは、おたがいにまったくちがう絵の具の置き方で、ちがう地平から抽象画を描いた。しかしどこから絵のインスピレーションをうけるかについては、この拡大家族の意見は一致していたという。それは「無意識」からであった。 それまで世界に冠たるアメリカ芸術はジャズだけだった。すべての偉大なジャズ・ミュージシャンと同じく、ポロックは魅力的な「偶然」の産物の擁護者となった。それまでのどのジャンルのアーティスツといえども、こうした偶然の産物を自己の作品からできるだけ排除しようとやっきになっていた。 ヴォネガットは細かく記述していないが、ポロックと同時代のジャズ・アーティストに、ビ・バップ - モダンジャズを興隆させるきっかけとなったチャーリー “Bird” パーカーがいる。かれのアドリヴとポロックのたらし込みは、表現のジャンルを越えて、まさにほとんどおなじ次元の無意識のみで動いているといえる。音のたらし屋 “Bird”。 すぐあとの世代、同じ手法でまったくちがう無意識のアドリヴをつづけたのはスタン・ゲッツとジョン・コルトレーン。更にそのあとに出現するオーネット・コールマン、エリック・ドルフィーらのフリージャズはまさにポロックのアブストラクトと呼応してアメリカン・アートにおける偶然性を謳歌している。ドカン! ヴォネガットは自分の表現手段の文学だけが、一瞬の偶然で表現しにくいことに不満を述べている。「絵を描くのと文章を書くのは、 笑気ガスとアジア風邪ほどもちがうのだ」と。自分の好きな時間に、自分の費用で、だれの助言も借りずに、カンヴァスの上に絵具をぽたぽた、ぴちゃぴちゃたらして遊んでいた。ちょうど子どもがそうするように、どんなおもしろいものだできるだろうと考えながら。そしてまさにおもしろいものができた。 「ポロックの作品は、絵画に無関心な人びとをさえ驚かせる。」とヴォネガットはつづけている。その理由は – 仕事をするにあたって、自分の意志を無意識にゆだねたからである。ジークムント・フロイトの死から8年後の1947年に、ポロックはこう書いた -- 「自分の絵のなかにいるときのわたしは、自分のしていることに『意識』がない。」 この言葉はかれにつづいて無意識の作業にあこがれ、ドカンを求めて綿々と現代まで描きつづけている、アブストラクト・エクスプッレッショニストたちの心象系譜となる。かれがいう「意識がない」ことと「無意識である」こととは多少の意味的差異があるが、偶然の海辺で遊ぶそのアーティストの感覚と、でき上がった絵から判断するに、ほとんどおなじ次元と捉えていいのではないだろうか。そして無神論者だった生前のヴォネガットはそれ以上を語らないが、その画家の無意識のむこうには、「霊界」というこの地球よりもうんと広大な世界が広がっている。 この運動の長老のひとりジェームス・ブルックスは、生前ヴォネガットと話したとき、ポロックのように自分の手と無意識を結びつけたがっている画家にとって、理想的な精神状態がどういうものかを語った。 「最初の一筆だけは自分で絵具を塗らなきゃならん。そのあとは、すくなくとも仕事の半分をカンヴァスにやらせるんだ」。カンヴァス、いいかえれば無意識は、その最初の一筆を検討したのち、どう反応すればいいかを画家の手に教える。-- ある特定の色と質感を持ったある特定の形をこの場所におけ、と。さらに、もしすべてが順調に進めば、カンヴァスは新しい不可物を検討し、つぎの助言を与える。カンヴァスがこっくりさんの占い盤になる。 無意識の正体をひきだそうと考案された実験のなかでこれ以上に巧妙なものがあるだろうか? これ以上の朗報を、つまり野心も情報も持っていないが、なにが美しいかについては疑いもなくエキスパートである心の一部分が存在すると言う朗報を、ほかのどんな心理学の実験が与えてくれるというのか? 制作中の画家に向かって、人生そのものを無視せよ – 完全に無視せよ – と強烈にうながすような芸術的インスピレーションの理論が、これまでにあったろうか? 美術館や美術ファンの家の壁に飾られたすべての抽象表現主義の絵画には、たとえば人間の手や顔、それともテーブル、鉢、オレンジ、それとも太陽や月、それともワインのはいったグラスを暗示するようなものは、ほとんど描かれていない。 そしていかなるモラリストが画家たちに第二次大戦への適切な反応、死の収容所とヒロシマへの原爆投下とそのすべてに対する適切な反応を求めたとしても、人物も人工物もなく、自然の恵みをほのめかすものさえない絵画以上にぴったりなものがあるだろうか? 霊界の原像を描きうつす 年が変わり、もうずいぶん過去のことのようにも思えるが、クリスマスの翌日に積もった大雪のかたまりの上に、断続的に雪が降りつづけ、極寒のシティは銀世界がつづいている。雪と静寂は強く結びついて、あの喧噪の歳末の時間帯がまるで夢のように思える。 現実の時間が積もり、魂の時間が消えていく。その先にある霊の世界も虚空に舞いあがり、霊界と呼ばれるかなたに去る。そしてやがて雪の粒子や雨となって霊たちがまたこの世界に還ってくる。その「自然なる」いとなみが途絶えることは決してない。 春になれば雪は融け、夏にはまた額から汗が噴き出す。地球温暖化などという人為的な現象も加味されて、この地球の自然なるものにはますます「現実界」を認識せざるをえないことが増え、その分「魂の世界」はどこかすみっこの方に追いやられる。ましてや霊界などという言葉を聞いただけで逃げだす御仁も圧倒的に増えている。そういう御仁にかぎってすこしでも現実界を忘れるために、アルコールとドラッグに依存することだけは忘れない。人間とは現実と幻の合間をさまようはかない存在などとほざいて浮世を終わらせてしまう。 たらし屋ジャクソン・ポロックはその短い生涯をアルコール依存症で過ごしたとされている。この宿命的な病気で第二次大戦の兵役を逃れ、そのせいでかれのこの現実界での体験を過小評価する向きもあるが、僕はまったく逆の見方をしている。現に第二次大戦が終わり数年ののちに、この無意識派のグループの描いた絵は、まさにシュタイナーのいう人生のはじまりのときに、実に克明に憶い起こされる、宇宙のすがたそのものを「具象化した抽象画」である。シュタイナーによれば、特に女の子の初潮がはじまる前後、つまり人生の第二「七年期*」が終わるころまで、人間はこの世に生まれてくる以前の宇宙の記憶を克明に憶えているものだという。まったくの童心のなかでひたすら絵具をたらしつづけたポロックは、かれがこの世に生まれる以前にいたことのある宇宙の原像を描いていたのだ。 *シュタイナーによれば人間は7年毎に体を完成させてゆき、63歳で成長の頂点を迎えるとしている。これは生化学の「人間はほぼ7年ですべての体細胞を新しいものに交換してしまう」という言説と符合している。 人類史上最大の愚行である第二次大戦は、実に数千万の人命を急遽霊界に送り込み、沸騰した霊界から人類全体に猛烈な反省をうながすメッセージをフィードバックさせた。アルコール(Spirits)によって兵役を拒否したようにみえるポロックは、実はこの世界戦争による悲惨な死に至るまでの魂の叫びと、それによってひき起された霊界の大騒動を、こちらの世界に伝えるために送られてきた天使だったのである。 たらし屋の本性は、この霊界の異常事態を、われわれの住む物質界に翻訳したことにある。 世界ではじめて抽象絵画を描いたのは、第二次大戦前のワシリー・カンディンスキーだといわれているが、乳児が生まれてはじめてドローイングの素材を持たされて描くものを見れば、ほとんどがアブストラクト絵画である。それらすべてはかれらが母親の胎内にやどる以前の宇宙の映像を具象化しているともいえる。アルタミラの洞窟壁画などは、動物や人のフォルムを具象したことに焦点が当たっているが、おなじ壁面に宇宙という自然のなかから抽出された概念対象=抽象形態も無数に読みとれる。岡本太郎でなくとも、縄文土器のなかに印された抽象形態が、人間のエネルギーの原型表現であることは直感として理解する。 ルドルフ・シュタイナーは「霊界」と「物質界」には全然似たところがないから、物質的感覚(五感)だけに信頼をおくひとには、すべてが空想としか思われないことを強調したあとで、次のように書いている。 「霊界」は人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって、織り成されている。 まず物質界と魂界に存在するすべての事物や生物の霊的原像がこの世界(霊界)に現われてくる。画家が絵を描く以前、すでにその心中にその絵の構想が存在していることを考えるなら「原像」という言葉が意味するものを、比喩的にであれ理解できるであろう。原像が実際には描く以前に存在しておらず、制作の過程で徐々に生まれてくるのだとしても、そのことがいま問題なのではない。問題は「霊界」のなかに、すべての事物の原像が存在する。そして事物や生物の物質的存在形態はこの原像の「模像」にすぎない、ということなのである。(ルドルフ・シュタイナー「神智学」イザラ書房 p-128) 大雪の降りしきる朝に目覚めたとたん、この世界に創造主や霊界の不在を感じて奈落の底に落ち込んだ。21世紀になり、人類の不遜な考えが延々と膨張しつづけ、宇宙にこの物質界のみがとり残されて、霊界や天上界から完全に見離されたのではないか、という危惧である。いったいこの複雑多岐に及んでいる生命界・物質界を創造した神などいない、とどのような形の口からほざくことができるのだろうか。キッチンで見つけた一匹のゴキブリに大騒ぎし、それを接着剤付きの箱に追い込むことに血道を上げる。やがて箱のなかで蠢くその虫を見てほくそ笑み、その生命体を箱ごと無造作にゴミ箱に捨てる。はてわれわれ人類にその小さな生命体と似たようなものでも、創造することができるのだろうか? 生化学は人工的に生命を創りだすことに成功しつつある、というが僕はそれを信じない。機械仕掛けで動くロボット虫ならできるだろう。だがその虫に存在している五分の魂までを生産などできるのか。 だれがその小さな虫を創られたのか? クローン牛というものを見たことはないが、そこにはその人工的な牛の肉体と天からさずけられた魂がうまく接着できないまま、いびつな生命体として動いているとしか想像できない。そしてその接着不全の魂も、この広大な宇宙のシステムの一部分なのである。 だれがわれわれ人類を創られたのか? 僕はいま、ダーウイン教の教祖の話をしているのではない。われわれのなかにある魂と、肉体が滅びるとき、その魂がかたちを変えてどこに向かうかを問うているのだ。 が、しかし、シュタイナーに断定されても、ほかの教祖に断定されても、その答えはまったく不透明なまま、ただひたすらポロックに形而を受けた抽象表現主義の原像風景を描きつづけるのみである。 今朝も鳥インフルエンザに感染した疑いのある可哀想な鶏たちが、あちこちで数十万羽づつ処分された。どうせ人間様の口に入るものを先に殺してなにが悪い、この地球上に生きている数千万の鶏たち、ひいては人類を救うためである、という論理はよくわかる。現に僕ら家族もそのうちの数羽を年間に食している。 だがその膨大な家畜の殺戮 の歴史が(あるいは肉食の歴史が)積み重なって、人類同士の数千万という大量殺戮に対してほとんどなにも感じない、あるいはすぐに忘れ去るという免疫性ができてしまったとすれば、問題はより深い場所に潜行する。 日々の食事のたびに、食卓に上がる動物の霊・植物の霊に感謝し、いのちを食するわれわれのいのちについて考える。そしてあるいはその家畜たちのいのちよりも軽く、戦争によって宙空に放り投げられた何千万の同胞のいのちの重みについて考える。 大雪とともに降霊された無数の「無意識」を、この現象界に具現化しつづける抽象表現主義の画家たちにこころから敬意を評する。 ポロック、ドカン! そして最愛のミズ・ヘレン・フランケンサーラー、ドカン! Abstract Expressionist New York(NYの抽象表現主義者たち) @ MoMA(NY近代美術館) October 3, 2010–April 25, 2011 金魚のFun & Fun 独白: すべり出しはローラースケートで奔りまわりしごく快適だったのですが、テーマがテーマだけに後半かなり重く暗くなってしまったので、もうひと言だけ。 今日の日曜日は打って変わって太陽神がいっぱいに銀世界を照らし、雪焼けしそうなパークでした。太陽の光がこんなに精神に即効性があることを再認識しながら、霊界はやはりこの光輝いている世界のむこうにあるのだ、と確信して歩いていました。シュタイナーは人間の視覚では観えない時空次元にあるのだよ、とくり返していますが、もし霊界が観えるとしたら、昼間は太陽光のもと、夜なら月光のもと、としか考えられません。絶対零度の宇宙のかなたとかいわれても、そんなとこ絶対行かないもんね。よく観つめ直したら、ポロックの絵もヘレン・フランケンサーラーも、もうひとりのお気に入り晩年はカリフォルニア・ベイエリアに住んでいたサム・フランシスの絵も、全部「太陽」そのものの絵でした。太陽神礼讃! 日本では子どもでも自販機でビールが買えるほどお酒に関して実に寛容ですが、欧米はけっこううるさい。ましてここアメリカは禁酒法の歴史もあるほどなので、アルコール依存症はけっこう差別的な眼でみるひとが多い。今回のタイトル「蒸留酒 (Spirits) / 霊 (Spirits)」というダジャレは、ポロックではなく、なんとルドルフ・シュタイナー自身が取材記者に語ったものです。著書「いかにして超感覚的世界を獲得するか」では、厳しい道徳的生活と修業を経なければ霊界の存在を感知できないことが記されていますが、本人は「霊 Spirits のことが好きだから、お酒 Spirits もたまには飲みますよ」みたいなことを言ったそうです。まるっきりの堅物ではないみたいで少し安心。 このシリーズの次回は、第二次大戦でのすざましい殺戮の模様を、霊界からの実況中継というかたちで昨年歳末に具現化された美術家 = おなじ民族、ナチスドイツの戦争犯罪を告発しつづけるアンセルム・キーファーの個展、を取り上げる予定ですが、少々ヘヴイにすぎるので、少し間をおいてからにしようかな。 Anselm Kiefer Next Year in Jerusalem @ Gagosian Gallery, 555 West 24th Street, New York, NY 10011 November 6 - December 18, 2010
by nyckingyo
| 2011-01-30 19:03
| 天使の絵画と霊界事情
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