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広告霊・ネット霊 歳末も歳始もときの虚空に消えて、春が近づき、天使の祭りヴァレンタインも過ぎてしまったので、タイトルを少しいじってみた。「天使」ということばが入っただけでずいぶん霊界を語る気分が楽になる。タイトル写真に貼り付けたウォーホルの描いたふたごの天使が L・O・V・E の四文字を中空に撒きちらす。いうまでもなく天使とは霊界とこの世を結ぶメッセンジャーである。 お正月に録画した観世能「羽衣・和合之舞」を観なおして、三世梅若万三郎のシテ・天女の豊穣の舞いが絶句するほど美しい天使の姿、と惚れなおす。行間に天使の撒きちらした LOVE の四文字を散りばめながらの現代美術評論です。ほとんど春の陽気という日もあるが、今朝はまた暖かい雪がふんわりと積もったニューヨーク。 愛は世界中に更に降りそそぎ、積もる。 21世紀のこの街に溢れかえっている大量のアンディ・ウォーホルの作品群を観るたびに、「僕を知りたければ作品の表面だけを見てくれ。裏側にはなにもない。」というかれの生前の言葉を憶い出す。ことほど左様にというか、案に相違してというか、結局根掘り葉掘りその作品の裏側ばかりを観つづける羽目となる。 それはまさに、モンローや毛沢東や花やハイヒールや電気椅子や牛さんやスープの缶など、現世のモノを忠実に広告的に模写しているように見え、それ以上の何ものをも表していない、とどこかで安心してその場を離れようとする。ところが、目を逸らそうとする最後の一瞬に、必ずといっていいほどそこに描き込まれている霊界を垣間見てしまうのだ。あわててまたその作品の正面に立ち戻るわけだが、同じようにその現世的絵画の隙間から、斜(はす)に覗いてもひっくり返しても裏がえしても、それ以上のものはなにも出てこない。あきらめて立ち去ろうとした瞬間、またもや闇のなかにわれわれの死後と思わしき世界がニョキリと現われて二度目のゾクリ!をくりかえすこととなる。 もっと単刀直入な例外はある。シティ郊外のNY州Beaconにある巨大現代美術館Dia Art FoundationにはウォーホルのShadowsと名づけられた大作がある。 近寄ると、 例によってシルクスクリーンのしごく平面的な大画面なのだが、少し距離を置いて作品の前を散策すると、まるでセントラルパークの木立のあいだを歩いているような風情となる。ふしぎな立体感、あるいはもっと高い次元の時空間が現出し、そこに浮かぶように歩いている自分がいる。漆黒の「影」の部分が深い木立のように動きまわる。もう少しよく観察すると、影自身が動いているのではなく、その部分=影に象徴されるあちらの世界に蠢くものたちの姿が観える。ふとその自分の身長よりも高い平面の木立のなかに吸い込まれそうな錯覚をおぼえ、その大作から距離を置くことにする。そのむかしナビスコの工場だった大ホールの隅っこにあるドアを過ぎて、となりの部屋からもう一度ウォーホルの大作Shadowsを覗き込む。いるわいるわ、漆黒の樹々の影たちのなかを、それよりも暗い色でおおぜいが散歩している。かれらはすべて「完全な保護色」という意味合いのガウンを、アタマからつま先まで纏っているわけだが、その衣装とは、立体裁断に時間次元が加わった「四次元裁断」であるから、たえず波動で大きく揺れている。MoMAのように大都会の美術館ではないので、観客もひときわ少なく、霊たちもリラックスしている様相が反射している。 愛は世界中の闇のなかで囁く。 とはいっても、霊たちが人ごみを嫌っているわけでは決してないような気がする。このシリーズを書きはじめた歳末時に、溢れんばかりの人ごみ=ロックフェラー・センターの巨大ツリーや、となりのセント・パトリック大聖堂の上空に、好んで密集する天使や霊たちのすがたを何度も目撃している。 一日50万人の降乗客が行き交うグランド・セントラル駅では、あるいはその大量の人類以上の霊が行き交っていると思われる。そのすぐ横にあるほぼ駅ビルといってもいい古い高層ビルのなかで、夜勤のような状態で働いた数年の間に、 夜な夜な何度となく霊によるいたずらに遭遇した経験がある。古くなった空調機は夏も冬も、昼夜分かたずガタガタガタと動いている。閉め切った古い窓枠の下の方から、雑踏の音がまさに地響きになってやってくる。みんなが神経をなんとか騒音から背けようとしているあいだ中、霊たちは高い天井すれすれの空間を自在に暴れまわる。その存在は音や姿かたちとして見えたり聴こえたりするものではなく、そこに何かがいると感じるだけなのだが、そういった喧噪のなかでこちらがうんと冷静でいられる瞬間にしか感じられない。霊たちは人間の雑踏がたまらなく好きで集まっているようにみえる。あるいはホタルイカの大軍のように、ひとが灯した夜の光焔に寄ってくるのか。 愛は世界中のすべてを雑踏におびき寄せる。 こういった無数に近い霊や天使のダンスパーティーに遭遇すると、どこかで相似形のものを連想する。そのビルの階下のグランド・セントラル駅に行きかう膨大な降乗客のすがたと似ていることはもちろんなのだが、もう少し抽象的に考えるとインターネットの情報、というものに行き当たる。まさに現世に棲む人間の生活必需品として生まれたこの新しいメディア。ほんの十年前には皆無だった全人類からのメッセージが、四六時中大量に虚空を飛び交い、アト・ランダムにどの情報も拾うことができる。その数はツイッタ—やフェイスブックによってここ数年また飛躍的に増幅している。僕の広告・アート業界での先輩に当る 横尾忠則氏は、かれのツイッタ—で、自分がだれかをフォローしない理由をこう語っている。「だってフォロアーにすれば次から次へと流入してくるツイートが通り過ぎるのをただただ傍観しているだけでしょう。街を流れて行く人を眺めているようなものだ。」一昨年のチェルシーでのかれの個展会場ではじめて2−3分談笑しただけの関係だが、それでもそのとき直接出会ったふたりの間には、何かのコミットメントがあったと思っている。ところがそのネットの情報とは、氏もいわれているように、まさに街で出あった通行人をひとりづつ追いかけるようなものである。膨大な数の情報のほとんどは、他者にとってまったく意味がない。その意味のないたわ言を、時たまではあるがなぜかすがりつくように読んでいる自分を発見する。万にひとつの自分との関係性を追っかけてしまうのだ。 これと同じことが膨大な数の霊のパーティーにもいえる。おおぜいの霊を感じたといっても、そのほとんどは自分とはコミットメントがない。無視したからといって呪われたり、特に幸運に恵まれるということもない。かれらはいわば違う世界からやって来た通行人なのである。こだわってネットのことを書いているのは、その新しい世界=ネット界のあり方が、われわれが住む現実界よりも、うんと霊界に近いのではないかと思われるからだ。もともと現世の人間たちの発した情報なるものが、モニターの空間で重力の原則から離れ、まさに霊のように飛びはじめる。半導体という不思議な性質を持つ物質を透過してさまざまなメッセージを伝えるという。キーボードで高額な物質を取り引きしたり、宣伝したり、やっていることはまさに俗世の端末部分なのだが、まるで霊のようにすばやく、亜光速でメッセージを伝えることができる。電磁波信号や電波によって宙空を飛び交う情報霊とでもいうものが、重力場を無視して蠢いている。いつでもまた文字や映像に還元できることが、霊界情報を伝える霊媒などより不思議な魔法のように感じる。発信側や受信側の都合によってフワリと消えてしまうことも多々ある。まさにネット霊。 ただ最近チュニジアからエジプト、そして中東各地に飛び火しているインターネットがひき起した革命の話になると、少し事情がちがってくる。独裁者を降ろすという強い共通のひとつの目的によって結ばれた革命の同志は、もはや「通行人」ではない。このときの「情報」とはそれまで人びとの潜在意識に潜っていた不平不満が爆発し、理念という共通項に向かって突っ走る。まことに爽快感があるが、そうしたネット霊によって誘導された革命だとすれば、革命後の政治的変革が強い方向を持って動き始めるのにこれからもかなりの時間がかかると推測する。チェ・ゲバラやガンディーやマンデラといった革命の精神的支柱が現われるまで、現実界はしばらく混乱しつづけることになる。ネット革命にそういった支柱が皆無だとは思わないが、革命派の政治的主張のなかに瞬間的な情報に頼る軽さのようなものは感じる。日本での’09年の政権交代以降つづいている混乱も同じような範疇で語ることができるような気がする。なにひとつ変わらないで進行する改革という名の停滞。 おっといつのまにか美術評論から大きくはずれている。このあたりの現世の仕組み--ネット--霊界、に関しては稿をあらためて書くことにする。ウォーホルについてつづける。 このシリーズ稿で金魚によってすっかり霊界実況の解説者にされてしまったルドルフ・シュタイナー。前稿の最後で引用したことばをくり返せば、「霊界」と「物質界」には全然似たところがないゆえに「霊界」のなかに、すべての事物の原像が存在している。そしてこの世にある事物や生物の物質的存在形態はこの原像の「模像」にすぎない、ということである。 われわれがあちら側にいた時代の原像とやらは、きれいさっぱり忘れ去るようにできている。憶い出そうとしてはならない。いや霊界を理解したいのならば、できるかぎり憶い出すことが大事だ、とも言っている。だからウォーホルは謎解きのように作品の表面だけを観つづけて裏側を観るな、と言ったわけだが、かれが描き起こした霊界の原像は、その平面の裏で未来永劫すべてがあちら側ときちんと繋がっているわけである。そういう意味でのアートの作品は多かれ少なかれ、原像を思い起こさせる瞬間を内包しているのだが、ウォーホルの場合はのべつ幕なしに開けっぴろげに霊界を観せている。ただその原像風景が、コマーシャルというあまりに卑近な現実の原像とうりふたつにみえるため、ほとんどのひとはその遠い記憶の糸を引っぱろうともしないのだ。そのなかに霊界での記憶のはしきれでも見出したなら、ウォーホルがあちらの世界を宣伝するために降りてきた天使のように思えてくる。 こうしてみると、シュタイナーが霊界実況中継の解説者であれば、ウォーホルはさしずめ、霊界の広報部長ということになろうか。 霊界の広報映画 前稿で述べたたらし屋ジャクソン・ポロック一派の抽象表現主義が、芸術の都をパリからここニューヨークに遷してしまった。ユダヤ人の画商レオ・キャステリはナチスに追われてアメリカに亡命し、ポロックとも親交があった。レオはSOHOにギャラリーを開き、ジャスパー・ジョーンズとラウシェンバーグというふたりを発掘する。POPアートの開幕である。その後レオはリキテンシュタインという逸材を発見するが、そのすぐあとにウォーホルと出会ったとき、一目惚れはしたもののなぜか自分のギャラリーにその作品を置くことを拒否してしまうのだ。リキテンシュタインと似すぎていた、というのがその当面の理由だったが、実はウォーホルの霊の描写方法が、あまりに広告的で、その深みのある霊界を冒涜しているように感じたのではないかと推測する。 昨年暮れからMoMA(NY近代美術館)では、かれの平面作品常設展示とは別に Andy Warhol: Motion Pictures(December 19, 2010–March 21, 2011)と題して、かれの映画を流している。地下にある映画館では普段からウォーホルの映画コレクションを定期的に観せてくれるが、どうも劇場という空間とかれの作品はいつもなにかがずれている。世界一だった高層ビルの立像を8時間撮りつづけた「エンパイア」、寝ている男の姿を5時間半撮りつづけた「Sleep」。どちらも全編克明に観切りました、というひとには、友人のひとり超変人アーティスト氏を除いてはお目にかかったことはないが、ここMoMAの地下劇場では年に一度は完全上映されている。今回は展示会場内にもうけた50席ほどの豆劇場でこの二編の断片をかいまみることができる。 おなじ豆劇場では数組の恋人たちのディープ・キスを撮った長編 「KISS」も上映されている。この街では人様のディープ・キスを見ることなどありきたりの日常風景で、取り立てて見たいわけではないが、16mmの荒れた映像で、思いきりアップの接吻シーンは、人間の顔の下半分は内臓の一部という認識となり、圧巻である。 フランスで出版された「Petite Encyclopédie Du Baiser ベーゼ (Kiss) の小百科」によると、この映画のなかで、ウォーホルのスーパースターのひとり、ミズ・ナオミ・リヴァインNaomi Levineは3人のパートナー相手に50分間キスをした、これはポルノ以外の映画のなかでは最長記録、とされている。 八百長問題でゆれて消えてしまった春場所のかわりに、なかなか技術的に八百長などむずかしいこのナオミのキスを実況中継してみる。 「両者右の相四つにがっぷり組みました。両者充分。はっけよい。かいなをはずして下(舌)からの突っ張り、寄った寄った、おっと舌がナオミの口のなかに激しく深く差し込まれました。のこったのこった」 このウォーホルのファクトリーで撮られたKISSの映像の音源は The Velvet Underground時代のルー・リード 曲はVenus in Fursです I could sleep for a thousand years A thousand dreams that would awake me Different colors made of tears Kiss the boot of shiny, shiny leather Shiny leather in the dark Tongue of thongs, the belt that does await you Strike, dear mistress, and cure his heart 「長い相撲になりました。両者譲りません。おたがいに大口を開けて威嚇しあっております。おっとカブリついた。いやガブった、ガブった。ナオミの下あご部分がまったく呑みこまれてしまいました。食べられて消化されちゃったかな。すかさずまた舌が深く差し込まれます。そのままガブリ寄り、ナオミのこったのこった、この技の得意な関脇がいましたね、舞の海さん!」「アゴをガブったまま寄り切ってしまえばいいんですがねぇ。すぐに舌を入れちゃうのは悪いクセですねぇ、まったく! 問題はふたりが深く愛しあっちゃってることですねぇ。」「愛しあっても八百長や無気力相撲にならないところがすごいですねぇ。いやはや大相撲になっています、これは。」 肉体は魂を包み込んでいて、生きているかぎりその部分の直接のコミュニケーションによって内部の魂が表現されることとなる。霊とは魂のまだ先の深遠に亜光速で存在するとされているが、ウィーホルの撮った接吻の映像は、まるでふたりの口から霊子というものが溢れてきそうな風情である。 愛は世界中でおたがいを舐めつくす。 豆劇場国技館を出て、となりの展示スペースで立ったまま観るウォーホルの映画は、独特の時間帯を創りだし、観客を魅了する。 スクリーン・テスト Warhol's Screen Tests と称した60年代のウォーホルの映像デッサン集。12人のスターがきちんと4分づつの16mmフィルムに収まりエンドレスに動く。60年代の若者たち。みんなすこぶる若い。 イーディ・セジウィック:ウォーホルの初期映画にスーパースタ—として登場した。「チェルシーガール」やこの映画のあとしばらく、ボブ・ディランの恋人だった。昨年暮れにMoMA地下で観たやはりウォーホル監督の「Face」では、インタヴュアーのとの長い雑談をつづけるイーディのアップ映像を延々と1時間以上観つづけた。ウォーホルの映画の特徴で際立った物語性は何もないのだが、その臨場感たるやすごい。映画館を出てもしばらく、イーディが恋人のように身近にいて、ふたりで五番街をブラついている風情だった。 Edie Sedgwick:1971年11月16日、28歳の若さと美しさのまま没。 デニス・ホッパー:ご存知「イージーライダー」の監督兼準主役。嵐の夜ウォーホルのアトリエにあった版画にホッパーが銃弾2発を撃ち込んだ。後日、ウォーホルが毛沢東の右肩と左のまぶたの弾痕を円で囲んで、「warning shot」「bullet hole」と書き加え、2人の共同制作とした。先日この絵がオークションで高値で落札した。主催者クリスティーズの発表では、ホッパーは本物の毛沢東と見間違えたということだが、本物だと思って銃弾を撃ち込んだというのはますます面妖である。当時毛沢東はまだ存命していたので、あるいは生き霊が現われたのやもしれぬ。 Denis Hopper: 2010年5月29日没。 岸田今日子:10年ほど以前、赤坂の裏通りでお見かけしたことのある岸田今日子氏は、サングラスの裏に人生の深遠さを刻まれていたが、この度のこのウォーホルのスクリーン・テストの再会の場では、実に若く美しかった。可愛い。コケティッシュな立ちふるまいであった。フィルムのなかでカメラを見つめてニンマリ笑われた一瞬を忘れられず、三度観なおしてしまった。 Kyoko Kishida: 2006年12月17日没。 アレン・ギンズバーグ:サンフランシスコ時代に老舗書店 City Lights Bookstore で二度見かけたことがある。その後もグレートフル・デッドのコンサート、イースト・ヴィレッジのトンプキンス・スクエアパークの仮設舞台、ヴェジタリアン・レストランなど、数度出会いをくり返した。髭もじゃの風貌でこちらが見逃しづらいということもあるが、行動範囲が似ているという近親感があった。むろんこちらも若かったので声をかける勇気などなかったが、その都度立ち去る前にこちらを見つめてうなずかれた。 Allen Ginsberg:「吠え」つづけて、1997年4月5日没。 ニコ Nico:ウォーホールのファクトリー仲間でもとびきりのスーパースター。67年のヴェルベット・アンダーグラウンドのバナナ・アルバムにも共演。 Nico: 1988年7月18日、自転車事故で頭部を壁にぶつけたのが原因で没。 ルー・リ—ド:1965年に結成された伝説のロックバンド、ヴェルベット・アンダーグラウンドのヴォーカル/ギタリストとしてデヴュー。2008年、あのローリー・アンダーソンとの結婚を公表し、現在仲睦まじくデュオツアーをつづけている。ことしのヴァレンタインディにもアヴェニューCにあるThe Stonesで歌ったばかり。昨年秋、 ジョンレノン生誕70年の映画会では舞台からコメントを発表し、相変わらずの大人気。だが、このひとがこんな風に落ちついてしまうとは半世紀前には想像もできなかった。 Lou Reed: 健在(2013年・金魚註:2013年10月27日没) そしてもうひとりの健在人物ジェーン・ホルツァー は、スクリーン・テストのなかで歯を磨きつづける。半世紀以前の歯磨きのフィルムは4分間づつの回転をつづけ現在に至っている。 われわれも日に一度か二度は必ず歯を磨きつづけて現在に至っているのとおなじ。物理的時間というのはこのようにただひたすら回転しつづけている。そして霊界においては、時間というものがないという。 **このYouTubeは画面が小さいので、観る方の感覚が多少異なるが、MoMAの会場の大画面モニターでこのジェーンの歯磨き姿を何度も見つめていると、動いている歯ブラシの方がなぜか生きものに見えてくる。その硬質毛虫ブラシが蠢いている場所=ジェーンの唇という肉体の一部分はグニャグニャと揺れてはいるが、実はそれは肉体などではなくただの物質ではないのかと勘ぐりはじめる。上の「KISS」の項で「肉体は魂を包み込んでいて、生きているかぎりその部分の直接のコミュニケーションによって内部の魂が表現されることとなる」と書いたが、これはあくまで魂が表現を希望している場合に限るのかもしれない。ジェーンの口元の半自動的な動きは、物語のはじまりには実にコケティッシュな印象を与えるが、歯磨きの連続運動が無限につづきはじめると、その肉体の奥にある魂とやらはきれいさっぱり消え去り、ジェーンの身体・顔のすべてが物質化していく。反対にプラスティックでできた歯ブラシの方に「入魂」作用が起こってしまうのだ。 これはウォーホルの映画に限らず、この国のどぎつく単刀直入なポルノ映画を観つづける行為の最中にも起こる。深く接合をくり返す性器や口の動きから、魂がきれいに消えてしまい、ただ肉のかたまりが動いているとしか思えない。ゆえにこの国の人びとは、もっと「いやらしい」魂の入った表現の日本製AV映画をあらそって集めた時期があるが、これだって五十歩百歩。そこに垣間見える魂とは、ブルースなどとはいうも無惨な歌謡曲魂である。二度目に見れば魂などはきれいさっぱり消えてしまい、モノ化した肉体しか残っていない。物質文明とは人類のために大量の物質を造りだすことだが、それがいつのまにか人間の肉体からも魂を奪うことになる。ウォーホルの作品はいつもその「魂の離脱」をテーマにしているから、かれは表面にある物質「肉体」だけを観て、裏側の「魂」は観ないようにしてください、と叫びつづける。人間の魂が肉体から完全に離脱するときはすなわち死ぬときであり、その瞬間魂は霊と直接結びつく。かれの作品に霊界が垣間見えるのはしごく当然の摂理である。 Jane Holzer: 健在 愛の歯磨きは世界中で磨かれつづける。** 1968年、40歳だったウォーホルは「全男性抹殺団(Society for Cutting Up Men)」のメンバーだったバレリー・ソラナスという女性に拳銃で狙撃される。ソラナスはファクトリーの常連であり、ウォーホルの映画に出演したこともあった。発射された三発のうち最初の二発は外れ、三発目が左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通し、一時重体となるが一命をとりとめる。 その後ほぼ20年、ウォーホルは華麗に復活するが、この時期に僕らが噂した人物像は「影が薄くなった」ということだった。作風はさらに霊界へと近づいた感があり、あるいは「影が濃くなった」と言うべきなのかもしれない。 1987年、胆嚢手術で入院の際、容態が急変し心臓発作のため死亡。全世界のファンはこのTVニュースに驚いたが、一夜が明けると、かれの肉体が霊界にごくスムーズに移動したことになんの疑問ももてなかった、といったところが全員の本音である。それはその後のかれの絵やフィルムから、(客観的な)霊の存在をグラジュアリーに減らしていくことに繋がっていく。そして霊界をきちんと観ることができない僕のようなものにも、その作品と霊界が直結していることを感じることがグラジュアリーに増えていくことにもなる。 愛は最終的に世界中のすべてと霊界とを結ぶ。 Andy Warhol: Motion Pictures(December 19, 2010–March 21, 2011)の会期中、霊界代理店のMoMAではCreate Your Own Film Test と称して、あなた自身のスクリーン・テストを募集している。 だれでも15分は世界的な有名人になれる、というウォーホルのことばは、現世のインターネット界で既に具現しているが、霊界では時間の経緯はまったく異なっているので、あるいはあなた自身のスクリーン・テストは、15分だけでなく、霊界で永遠の殿堂入りをして、未来永劫若さの象徴として輝いているかもしれぬ。Try to Create Your Own Screen Test ! 愛とは、いつでも霊界を含めた世界中に、めいっぱい自身のアートを発信することである! ***少し唐突だが、岡倉天心が明治期に英文で書いた「茶の本」から一文を抜粋してウォーホルに捧げ、この稿を終える。天心は利休以来の茶の宗匠たちが、生活のなかでの美しいものを見出すというアートに徹したことを賞賛し、西洋文明の押し寄せた明治期の日本の芸術の凋落を、当の西洋人に向かって弾劾している風情である。天心がウォーホルの作品に触れたとき、はたしてなんというだろうか。 同時代の芸術が抱いている主張は、どんな重要な人生の企画においても、無視することはできない。今日の芸術は、現実にわれわれの属しているところのものである。それはわれわれ自身の反映である。それを断罪することは、われわれ自身を断罪することにほかならない。今日の時代に芸術はないというが、だれに責任があるのか。古人にかかわるありとあらゆる狂想曲をかなでながらも、われわれ自身の可能性にほとんど注意を払わないのは、実際恥ずかしいことである。苦しみあがく芸術家たち、ひややかな侮蔑の影の仲で逡巡(しゅんじゅん)している疲れた魂たち! この自己中心の世紀に、どんな霊感をわれわれはかれらに与えているのか。過去が、われわれの文明の貧困をあわれみをもってみるのも、無理はない。未来はわれわれの芸術の不毛を笑うだろう。われわれは生活の中の美しいものを破壊することで、芸術を破壊している。だれか大魔術師が、社会の幹から堂々たる琴を作り、その絃が、天才の手に触れて鳴りひびかないものだろうか。(岡倉天心「茶の本」桶谷秀昭訳 講談社学術文庫 p-76)*** そして過去にこの地球星に降りて来られ、また霊界に戻られたすべてのよき魂とよき霊に、こころからの愛のことばと供養を捧げます。
by nyckingyo
| 2011-02-26 04:56
| 天使の絵画と霊界事情
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