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今回のタイトルは、故寺山修司の映画評論集「地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい」の「エイガ」を「エガオ」に文字ったもの。 いままでも不況、戦争、災害などでドタバタしていた地球が、3-11の大震災以来、日本を中心に俄然忙しくなり、もうなんだか落ちつかないったらありゃしない。四字熟語をア行から羅列すれば、愛別離苦 哀毀骨立 悪戦苦闘 悪事千里 阿鼻叫喚 悪口雑言 悪因悪果 暗中模索 悪逆無道 暗雲低迷 阿諛追従 暗送秋波 鴉雀無声 青息吐息、アァ、こりゃきりがない、ぐるぐる回るは国民総神経症。 悪いイメージの言葉は、ネットに乗り、一瞬にして地球を巡る。速い速い、メリーゴーラウンド。放射能もたった一週間で地球全体を汚染してしまいました、と小出裕章氏(YouTube 約1時間15分)。汚染食品は等級別にし、危険な順に年寄りから食べていくしかない。放射能の影響が極端に大きい「子供」にはできるだけきれいな食品を与える。ストイックでかっこいいが、極端な格差社会による食品差別をますます大きくすることを危惧する。 玄米の自己浄化作用をツイッターで説いたら、敬愛する反原発論者に「あなたはきれいな有機カリフォルニア米が食べられるけど、日本ではすべてが汚染されてんですぅ!」と八つあたりされた。 明らかにそれまでの論点とずれていたのだが、列島の全員がその猛毒物質のために神経症になられているようなので仕方がない。ぐっと我慢して、多少の汚染があっても、しつこく有機玄米が有効なことを説いていくつもり。 玄米はさておいて、少なくとも子供たちの学校給食と保育園の食事は、輸入米と輸入商品、国産でも汚染されていない食品に限定する法律を作るべきだ。それこそ最低限度の「子ども手当て」というものである。「手当て」とはもともと、母親がわが子の患部に手を当て、愛の力で治癒する東洋精神医学。科学では解明できない卓効治療。政治家がばらまき、おまけになにかの都合で減らしてしまうカネにそんな名前をつけてほしくない。それと、より大切なのは、汚染されていない、妊婦と乳児のための食事。いったい自分たちの国の未来を担う子供のいのちを、完全に無視しつづける政治家たちは、国をなんだと思っているのか。すべて人面獣心である。いや獣の親こそは、自分たちの子どもの世代をたいせつにするゆえに獣となる。まさに獣以下、生き物として最低の存在。映画「チェルノブイリ・ハート」を観て「重い映画だ」と鈍い感想を述べ、沈み込んでいるだけですむのか! 西洋科学の暴走で起こった原発事故を、西洋科学にしがみついて解決しようとしてもむずかしいと思うのだが、血気逸った人びとは玄米なんて所詮「民間療法」などという言葉まで飛び出し、カメのようにゆっくりとしか効果を現さない東洋風治療など、焦るこころには意に介されぬらしい。かといって西洋医学が即効性のある除染法のかけらでも発見したかというと、これがまったくの皆無。 自身の広島被爆体験を原点に、被爆者治療と核廃絶運動を続けてきた「被爆医師」肥田舜太郎氏の講演。「内部被曝がもたらすもの」(YouStream 約1時間)放射線の被害に対して、いまの医学は診断の仕様もない、治療法もまったくない。放射線被害がそのものがわかるにもまだ時間がかかる、という。 いちばんたいへんなのは、まき散らされた人体への影響が超スローモーションでしか現れてこないこと。「七年後に小さな子供から…」ということばは、この世にいると思うことすらおぞましい、極悪の魔女の呪文のように、こころの奥底に重く響きつづける。 憂鬱の連携でしかないネットを見すぎて「ネットを捨てよ、町へ出よう」と考えていたとき、日本からアート・ディレクターの水谷孝次氏が、子供たちの満面の「笑顔」をプリントした傘をどっさり携えて、NYCに上陸してきた。10年まえの9-11のあと、ニューヨークの子供や若者の笑顔をプリントした傘たち、ことしの震災後、フクシマの子供たちの笑顔を撮った傘たち。題してメリー・プロジェクト Merry Project。なんとも底抜けにポジティヴではないか。9-11の前日朝8時にタイムズ・スクエアのど真ん中に集合、というのには多少ビビったが、このわが内なる憂愁を打破するには、これしかない、とばかり町に飛び出した。 水谷氏とは初対面だったが、同じ広告界に生息する異端児ということで意気投合。(「異端」の意味がずいぶん違いますが…いっしょにしちゃってごめん、水谷さん。)話をするうちに、なんと生前の寺山修司と交流されていたという。このブログを愛読いただいている方には、僕が寺山修司と偶然に近い3度の出会いがあり、数度このブログに取り上げている大ファンであることはご存知だろう。ブルックリン・ブリッジに移動のタクシーのなかで、水谷氏と若き日のデザイナー畑の話に盛り上がり、お互いが若き寺山ファンに戻って町に飛び出すエネルギーを手に入れた。 なにはともあれ、このハッピーなプロジェクトに全面的に協賛してみようではないか、という思いにいたったわけである。 さて、 故寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」の冒頭部分。 速くなければいけない 僕は速さにあこがれる。ウサギは好きだがカメはきらいだ。ところが、親父たちはカメに見習えというのだ。カメの実直さと勤勉さ、そして何よりも「家」を背中にくっつけた不格好で誠実そうな形態が、親父たちの気に入るのだろう。もともと親父たちにとって速度は敵だったのだ。(中略) どうして親父たちが速いものを嫌いなのかといえば、それは親父たちの速度と人生とは、いつでも函数関係にあるのだと思い込んでいるからである。あらゆる速度は墓場へそそぐ—だからゆっくり行った方がよい。人生では、たとえチサの葉一枚でも多く見ておきたい、というのが速度嫌いの親父たちの幸福論というわけなのだ。 だが、速度が遅いほど経験が拡張されるという親父の人生観は、まちがった反科学の認識の上に立っている。親父たちがぼくらに残した文化の遺産は、実はきわめて素早いものばかりだった。ヨーロッパではマラソンの走者からロンジュモーの駅馬車をへて、天体ロケットへとたどり着いた2600年の「速度の歴史」が、わが国では文化そのものの形態のなかに妊まれていたのである。(中略) さくらが咲いてすぐ散るまでの「時」の長さ、一瞬を永遠と感じずにいられない日本人の、美学の根底を流れる速さへのあこがれは「一番速くこわれてしまう粗悪輸出層品」から、世界で一番速い詩としての俳句にいたるまで、数えないほどのこじつけ材料を持っている。(中略) 何しろ、速度はぼくたちの世代の「もうひとつの祖国」でありとても住みやすいものだ。J・ブルボンは旧世代に向かって「ぼくらにとって人生は英雄的な事業ではなくなった」と宣言しているが、この心情は時速500キロで、歴史を乗り捨てる意気地から生まれたものだということがわかるだろうか、親父よ。(寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」角川文庫 p6-8) この本は「本なんてくそくらえ、町にこそ生きる糧がある」とばかり、当時の若者 — 僕や水谷氏のように現実界に飛び出し、純粋な幻想との狭間に生きることを推奨したアジテーター寺山の一冊である。家族というドロ沼を這い出し、スピード感いっぱいの大都会の現実のなかで新しい幻想を育む。学生時代、かれの戯曲・血は立ったまま眠っているのわれわれの公演に、京都まで駆けつけてくれた寺山氏を追うように、その数年後に上京し「町に出た」若き日がなつかしい。 先日偶然、NY市立図書館で見つけた映画版「書を捨てよ町へ出よう」のDVD。ストーリーは本とまったくちがうが「映画の中には、何もないのだ。さあ、外の空気を吸いに出てゆきたまえ」というセリフではじまる。 若者のより集う「ネット」の世界に朝から夜中まで、まさに首をつっこんだまま抜け出せない。モニターのなかに首を突っ込むダチョウたちの平和。一瞬にして地球を駆け巡るネットは若くてかっこいいと思い込んでいたおじさんも若者も、同じ姿勢のまま背がまがり、いつの間にか全員、確実に「ネット老人」に変身している。 原発依存派の悪人たちに鉄拳を、と日夜騒がしいが、コンピューターにしがみついてヒキコもっているので血行がひどくスローで、すわ脱原発デモといっても急に立ち上がれない。これでは「放射能怖いよう!」とネガティヴな報道をいっさい聴こうとしないダチョウ君たちとなにもかわらぬ。 9-11の10周年記念日前日のタイムズスクエアはさすがに報復テロを警戒しての超緊張空間だったが、水谷氏は意にも介していない。大物である。「昨夜、ここで地面に傘を広げてあれこれ考えていたら、警備の警官が数人寄ってきて『これはステキだ、オレにも差させろ、写真撮ってくれ。』とはしゃぐんですよ。さすがNYCはポリスまですばらしい。」 閉じていた傘をパッと開くと、大きな子供の満面の笑顔が飛び出す。即効性のあるポジティヴ・ヴィジュアル。むかしジョン・レノンに「インスタント・カーマ(We All Shine On)」という曲があった。まさに即席にできあがった輝く笑顔がふりそそぐ。タイムズ・スクエアを歩く人びとの全員の顔も、パッとはなやかになる。「これはいったいなんなんだい?」「この傘いくらで売ってんだい?」矢継ぎ早の質問にスタッフが答える。「9-11のあとのNYの笑顔と、3-11のあとのフクシマの子供たちの笑顔です。」とたんに人びとの笑顔はさらに華やかになる。みんなタイムズ・スクエアに遊びに来ても、こころの片隅では報復テロだとか放射能だとか、どこかで必ず気にしているんだ。その無意識を即座に好転させる。こころのサプリメント。 寺山修司のもうひとつの映画「トマトケチャップ皇帝」。子どもが反乱を蜂起し大人社会を蹂躙する。 いったい、子どもにとっては放射能の影響が大人の数百・数千倍なのに、大人と同じ基準値を受け入れなさい、という政府などなぜ存続させているのだ、というわけである。もう大人にまかせてはおけない。逃げ隠れる大人たちを次々に狩って独立国家を築き、子どもの好物トマトケチャップを国民の象徴とし、トマトケチャップ憲法を制定する。ユートピアをつくるためにさまざまな活動をする。 「ところが子供がテロルの革命をやろうとしても、そこには現実的な障害がいっぱいある。少なくともおチンチンの大きさのちがいは重大なちがいなのです。(中略)子どもは生殖能力がないわけですよ。このことはプラスとマイナスがあって、生殖できないから子どもたちのエロスというのは純粋である、そこには実用的価値から切り離された官能世界がある。セックスの文化が遊戯として昇華される可能性は「家庭」のなかで性経済のバランスシートを操らせられる大人よりはるかに自由ですからね。」(寺山修司・「トマトケチャップ皇帝」ノート1 構想) 90年にロンドンで結成されたオルタナ・ロックバンド、ステレオラブの代表アルバムのタイトルは寺山映画にインスパイアされた「トマトケチャップ皇帝(Emperor Tomato Ketchup)」。みんな大人っぽくふるまっているが、僕らいつまでも子供なんだぜ。トマトケチャップ皇帝万歳! オルタナ・ロックのなかでは、金魚唯一の愛聴盤。 ドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓(Tim Drum/Die Blechtrommel)」は、子どもではないが、3歳で発育の止まった超能力者オスカルの物語である。小さいオスカルが鋭い叫び声とともにブリキの太鼓を連打したとたん、遠くにあるガラスというガラスが打ち砕ける。読者はかれのその超能力で、肉体の完成した大人の世界を革命することを期待する。国の未来を背負う「小さき者」の危機に際して、なんの対策ももたない怠惰な政治家や、首ふり官僚の頭脳を破壊してほしいとこころから願うのだが、超能力者・オスカルは狂気のなかにその半生を終えてしまう。なんとナチスの慰安隊というかたちでその超能力を使ってしまうことになる。「トマトケチャップ皇帝」にくらべれば、小さきものによる個人的テロルの可能性を強く感じさせる作品。シリーズ小さきものたちとのダイアローグ(2)で書きはじめたが、以来他の話題にいそがしくて完結していない。 村上春樹の小説に何度も登場するリトルピープルも、作家にとってはおなじような使命感によって現出させているのではないだろうか。完成された肉体をもたないものが、あるいは虐げられ、追いやられ、そして不思議なあるいは残酷な方法で世界を変えていくことになる。放射能という目に見えない悪魔物質が、小さき生物から順にゆっくりと蝕んでいくという構図は、僕にはどう考えても許しがたい天の啓示ではある。が、それにもし対抗できるちからがあるとすれば、人間の、それも小さき者たちの「精神のちから」でしかないと夜ごとに夢想している。寺山修司、ギュンター・グラス、村上春樹の物語は、その小さき者たち、弱き者たちの反逆を応援する、精神世界からの力強いメッセージだと確信している。 傘たちがセントラル・パークのストロベリー・フィールドに入ったとたん、空気がまったく変わった。おりからの涼風にあおられて、傘の笑顔はそれぞれが自分から会話をはじめる。「僕はフクシマから来たんだよ。毎日校庭で楽しく遊んでたのに、もうできなくなった」「でも今日はこんなにきれいなお庭に来て、しあわせだよ。空気を思い切り吸い込むことで、こんなにハッピーになるとは、以前には思いもよらなかった。」 ここにはジョンの魂がある。ここに来るひとはすべてがジョンの魂に逢いにくるのだ。傘たちの笑顔がさらに輝く。そこにいるひとにはみんなわかっている。例によって、金魚お得意の死後の霊魂の話などではなく、ここを訪ねてくるジョンを思う人びとのこころが、この小さな庭園空間に充満しているのだ。 ジョンの魂がかならずフクシマの子供たち全員を守ってくれる。それはむろんあの情けない政府などではなく、大人たちや、トマトケチャップ皇帝でもなく、かって自分たちが子どもであったことを明快におぼえている「年取った子どもたち」のなかの魂にである。そしてそのような「年取った子どもたち」のひとりに、こころからなりたいと、笑顔の傘をふりまわす水谷氏と僕たちなのでした。 「書を捨てよ町へ出よう」ノート 書を捨てて町へ出るときに。私は町の風景の書物化ということを考えていた。これはちょうど40人の盗賊に追いまくられるアリババを思い出させる。かれは自分がどこにいるかを曖昧にするために、ありとあらゆるドアにX印を書いてまわり、一カ所にいながら同時にあらゆるドアを自分の書物化することによって、自分の居場所を増殖していった。書斎の印刷書物を捨てて町に出た私にとって拡張された書物の定義はそのまま、私の思想だったといってもよい。(寺山修司「地球をしばらく止めてくれ ぼくはゆっくり映画を観たい」角川文庫 に収録) フォトグラファーの放つシャッター音を聞きながら、人びとは笑顔の傘のうしろで柄をささえる。ひとりの子どもの笑顔のもとにいながら、同時にそこにあるあらゆる笑顔のドアを自分の書物に変化させる。そこにはすでに個性のある子どもの笑顔が増殖していて、そのすべてが膨大に拡張された個性あふるる書物となって自分の居場所に戻ってくる。子どもたちの笑顔は、地球の未来、人類の未来というようにイメージしていたものが、実は自分自身の未来を啓蒙する書だったのです。かって傘であったもの、かって子どもであった者はすべて、いつか魂の書物となって、自身を啓蒙する。世界を啓蒙する。 そしてその傘のなかの「子どもの笑顔」が、本当の、現在完了進行型の、こころからの笑顔に変転して、地球を取り囲む日を念じて。 9-11も3-11も、遠い過去の悲しい思い出として語りあえるときまで、僕たちの未来「子どもたち」を観つめつづけようではありませんか。 ゆっくりと、ゆっくりと、だけど。 — NHK 朝ドラ「おひさま」より
by nyckingyo
| 2011-09-27 23:32
| 洪水からの目醒め
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