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アメリカが放つ強く明るい光、若いポジティヴなイメージを書いた直後、こんなにも早くこの地球号の真っ暗な影の部分を書かなくてはならぬ状況に驚いている。とは言え、このブログを立ち上げた意図はひとつにはこのあたりにあるので避けることはできない。
先週末、遅ればせながらSOHOのパフィン・ギャラリーで、スティーヴン・オカザキの2007年監督作品、『ヒロシマナガサキ』(WHITE LIGHT/BLACK RAIN)を見た。季節はずれの(?)ほとんど自主上映会のようなかたちだが、画像はその真摯なメッセージを伝えるに充分だった。昨年一年間で同じテーマの映画を3種類見たが、この映画はやはり圧倒的なインパクトがあった。 何よりも用意された30席ほどの椅子に対して、ゆうに100人以上のアメリカ人が詰めかけ、決して広いとはいえないギャラリーの空間で、立ち見のまま最後まで映画を見ていたことである。この映画は昨年8月には全米ケーブルTVのHBOでひと月放映されたそうだ。これはアメリカ人の心が、この問題に関してかなり変化していることの証しではないだろうか。 原爆に対するアメリカ人の原罪意識が徐々に顕在化しているのだろうか。戦争を終わらせるためにしょうがなかったという理屈だけでは納得できない悲劇を、多くの人がちゃんと見つめようとしはじめている。隣の若いアメリカ人女性グループは全員がボロボロと涙を流し、小声でひどい!と言い続けながら見ていた。オカザキ監督がいうように、9−11の同時多発テロ以降、核兵器の使用が現実味を帯びてきて全員が恐怖を感じている、ということもあるだろう。 しかしながら95年にはワシントンDCで開催予定の原爆展は米国内の猛反発で中止された。オカザキ監督自身もこの時点で以前の映画の上映を断られた経緯がある。このような自国のした残虐行為を隠そうとする感覚は世界中どの国でも当たり前であって、それが完全に消え去る日はまだ遠いだろう。知人の黒人男性は観光旅行で広島に行き、原爆ドームの姿を見て「あれは作り物にしてはよく出来ている」と言った。彼が原爆資料館に行ったかどうかは訊かなかったが、見たとすればそれらも作り物だったというかもしれない。心のなかで自国民のしたことをかばっていて、無意識のうちにその真実に蓋をしてしまっているとしか考えられない。 このような感覚は、いまの大半の我々日本人がまだ生まれていなかった第二次大戦の話をされて戸惑うことと、関連しているかもしれない。中国からの移民の友だちとPBS TVを見ていたら、南京大虐殺のドキュメンタリーが映っていた。それでも最初はへらへらと話しながら見ていたが、突然映像が変わり、旧日本兵が生きている裸の赤ん坊を中空に放り上げ、持っていた銃剣で串刺しにした。その映像のあと、ふたりとも黙り込み、その日以来彼とはほとんど話していない。 昔住んでいた近くのコインランドリーの親父はフィリピンから来た75歳。それまではけっこう仲良くやっていたのだが、ある日僕が日本人だとわかると急に怒りだした。戦時中に住んでいた村に日本軍がきて、反抗した彼の父親を監禁し、そのあと殺したという。詳細は不明だが、彼の長年吐き出せなかった怒りは僕を直撃した。やはりフィリピン人で昔新潟のバーで稼いでアメリカに来たという中年女性が仲立ちしてくれて、とりあえずその場は収まった。彼女にとっては日本人はおとなしくて金離れがよく、神さまのような存在だと言う。当たり前のことだが、同じ民族でもその体験によってこれだけ評価がちがう。彼女はその親父に、あなたのお父さんを殺したのは昔の日本兵でこの人じゃない、いまの日本人はみんないいひとたちだ、と僕にかわって弁明してくれた。しかしそれだけでランドリーの親父の日本人に対する気持が変わるだろうか、なにせ父親が殺されたのだ。 これら僕の体験したことを、そのままアメリカ人と原爆の関係に結びつけるのはいささか問題がある。そしていまのアメリカ人に直接原爆投下の責任を問うことにも少し無理があるのではないかと思う。いずれにせよ、あれは親の世代のやったこと、というのは虐殺された相手の民族にとってはまったく通用しない。虐殺の歴史は世代を越えて民族の恨みとして残る。そしてこの多民族国家USAは多様な評価が存在してとても混乱しているということも言いたかった。 この映画の中で「はだしのゲン」の作者・中沢啓治氏を含めた14人の被爆者たちの叫び、そして苦痛につつまれた被爆後60年の人生には心から敬意を表する。痛みと苦しみと差別と闘った年月は本当にたいへんだったと思う。それでも勇気を持って生き、闘いつづけ、おかげでいま我々はオカザキ監督の目を通してあなたがたの時代の証言を聞くことができる。それは人類の将来の社会全体にとって、貴重な財産となるだろう。画面から伝わってくる痛みと苦しみが、そのまま僕の中で反戦への大きな意志と化す。あなたがたの本当に辛いメッセージは、『現代の真摯な語り部』の声として、未来の地球号を浄化するための大きな力となるにちがいない。 そのとき目の前で炸裂した地獄の業火は、われわれの想像を絶する。人類が触れるべきではなかった力、その恐ろしさが『語り部たち』の言葉と映像から直接伝わってきてふるえ上がる。 9−11の当日、当時南塔で働いていた妻の安否を気遣いつつ、ふたつのタワーが崩れ去るのをハドソンの対岸から目の当たりにしたことは、年末のこのブログに書いた。信じられないほどの大量の煙と大轟音とともに消えてしまったタワーの映像が、何度も夢見に現れていまだに僕を苦しめている。 その僕が体験した9−11の破壊のスケールを、何百万倍にしたエネルギーである。こんな比較をしても意味のないことはわかっているのだが、自分の半生でいちばんひどい恐怖をうんと拡大して、一体どんなものだったのか想像しようとした。その大炸裂は一瞬であり、その一瞬にその場にいた人びと、14万人が亡くなった。その炸裂がいままたここで起ったら、と考えるだけで恐怖のためにもう何も出来なくなりそうだ。 そして本当に悲惨な経緯で死亡するひとが信じられないほどに増えるなか、生き残ったわずかな人びとの地獄の日々がここからはじまる。いまここで映像を追っているだけの我々には、想像すら及ばない地獄である。死の世界にほとんど両足とも突っ込んで、奇跡の生還をされた方々。かれらの肉体はぼろぼろに傷ついて、いまでも正視できないほどひどい。それでも生き続け、見せたくない肉体を見せて、もう2度とこんなことがあってはならないと叫び続けてこられた。ここでいくら文章を継ぎ足しても『語り部たち』の真摯な言葉たちにはかなわない。まだ映画をご覧になっていない方にはぜひ見ていただきたい。それは現代の日本に生まれた者の義務だとも思う。 そしてオカザキ氏、あなたは本当にすばらしい。昔西海岸ベイエリアに住んでいた頃、日系人強制収容のご自作の試写会で一度お話を聞いたことがある。あなたのいつも誠意のあふれるキャラクターと作品の尊さは、同じアメリカに住む日系人としていつも誇りにしています。読者には監督のアメリカ人に向けたインタヴューを見ていただきたい。 このインタヴューにもそのシーンが少し含まれているが、映画の終盤近くに不思議な映像が出てきた。1955年に25名の被爆者団(原爆乙女)をアメリカに呼び、NYのマウント・サイナイ病院で整形その他の原爆症治療を開始した。ここまではいい。現実にその被爆者団員のひとり、笹森恵子さんは整形手術の後アメリカに残り、この映画の被爆者の側としては唯一の『英語による語り部』として貴重なメッセージを伝えておられる。 問題は55年のアメリカの当時の人気TVショー、"This is your life"の映像である。あの原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの元副操縦士なる人物が出てきて、日本から来た被爆者団の団長さんと奇跡のご対面というシーンだ。元副操縦士は、「神よ、我々はなんということをしてしまったのだ!」と謝罪めいた言葉を吐く。団長さんと元副操縦士は握手を交わし、めでたしめでたし、場内は割れんばかりの拍手。TVショーに出てきたエノラ・ゲイの元副操縦士の言動にはウラを読み取らない限り問題はない。僕が彼の立場だったら公衆に向けて、自分がやったと言う勇気があるかどうか疑問だ。ひどいのはそのメディア、そのTVショーの興味本位の態度である。視聴率を上げるためにアメリカのTVメデイアはこんな昔から平気でひどい演出をしていたのだ。自国お得意の正義のため、あの行為は必然であり、いまここで被爆者たちとは無事和解いたしました。こんな演出が本当に必要だったのか。問題が問題だけにあきれかえってモノもいえない。いまでもかなりムカついているのだが、それがいったいどこからきているのか、これ以上論理的に説明できない。語り部たちの悲惨な言葉たちをつづけて聞いているうち、いつかかなり形而上的な世界に入り込んでいて、突然TVショーのコマーシャルな映像と音楽によって卑俗な世界に突き落とされたからかもしれない。たとえ悪夢であっても、崇高な世界から突然無理に覚醒させられると、アタマに来る。 このかなり昔のTV映像がきっかけになり、大人げもなく久々にキレてしまった僕は、帰りの地下鉄のなか、たまたま乗り合わせた女性アーティストに向って、狂ったようにあのハワード・ジン氏の言説をぶちまけた。いわく、アメリカは建国以来の超暴力国家だ。まずウォール・ストリートの南にある自陣にインディアンの酋長とその息子をディナーに招待し、だまし討ち、その首をウォール(防壁)の上に掲げた。メキシコとの戦いでは、敵をどうしようもない状況に追い込んでおいてから、アラモ砦でデイビー・クロケット以下が殺されるように仕向け、全兵の士気を高めてから木っ端みじんにやっつけた。ハワイのカメハメハ王朝しかり。日本の真珠湾攻撃もしかり。以下朝鮮動乱、ヴェトナム、湾岸戦争、そして9−11でもやられたからやりかえした。いつも最初にやられるように仕向けていたのは誰だ。アフガニスタン、イラク、いま世界で何が起りつづけているか、ご存知の通りだ。 ジン氏の受け売りではあるが、話しながら自分でアメリカは本当にひどい国だと思った。そしてそのひどいアメリカに居座っている自分もひどいと思った。そのあと、第二次大戦をふっかけて国民の多数を死なせた日本という国もひどいと思った。生まれた時から青春時代までそのひどい日本に住んでいた自分も再びひどいと思った。若いころ放浪を重ねたインドに行こうか。いやいやいまやインドも核保有国だ。この地球号のなかで少しでもマシな国など存在するのだろうか。その夜はひどく落ち込みながら帰路についた。 上述した語り部のひとり、 在米の笹森恵子さんは僕と同じ日本からのイッセイになるわけだが、僕とは大違いの大人である。決して両国の悪口など言わない。キレたりしない。キレて怒るということは個人の心のなかで何かに対する戦争のようなものだから、とても恥ずかしいことだ。もうキレたりしないぞ。 笹森さんたち語り部は、辛くて長い闘いのあいだに、時間をかけた説得のほうが効果があることを理解されたのだと思う。そして笹森さんは、オカザキ監督のインタヴューの最後に登場して、アメリカ人といま自分の住むその国に対してこんな風に語っておられる。 — どうか戦争をしないでほしい。他国に兵士を送らないでほしい。みんなが戦争のない世界を友だちといっしょに語り合えば、その話はエコーとなって全世界に響く。みんなが手を取り合って反戦を唱えば、そういう世界が生まれる。アメリカはすばらしい、ちからのある国だから、アメリカ人が立ち上がれば、地球に住むみんなは必ずついてきます。 この稿が笹森さんの次に小さなエコーとなって響き、誰かにリレーして、そのひとと手を取り合うことができればいいなと思う。この文章を最後まで読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。この問題に関してどんなことでもいい、まじめに書かれたご意見を聞かせてください。お待ちしています、こころから。 後日譚:この映画が今年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされるかという期待があって、この日にポストしたのだが、残念ながら無理だったようだ。アメリカの思想の混沌状態がもう少し浄化されるまで、いましばらくの時間が必要なのでしょう。
by nyckingyo
| 2008-01-23 01:12
| NYCで観た映画評論
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