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当地NY紀伊国屋書店は、奇異なる書店で、新装改店して売り場面積は以前の倍になったのに、本の数が極端に少なくなり、まともな本(つまり僕の必要なすこし変わった本という意味)は皆無に近い状態。ファンシーなキッチャ店などもでき一見楽しそうなのだが、Tシャツや文房具など小間物屋まがいの商品であふれておる。出版業界の低迷とかで日本にある本屋もおなじようなものだとしたら、世もすえだね。まあ資料にする本を取り寄せていただいているのであまり文句もいえないのだが、2週間も待たなくてはならぬ。このあたりが海外で日本語を書く立場のつらいところ。NY市立図書館の国際部日本語課にあった約千冊も、ビルの改築のあおりをうけ閉鎖の憂き目に遭おうとしており、泣きっ面に蜂。あとは旭屋とBookOffが一軒づつ。BookOffは値段的には満足できるものの、やはりこころを満たすに足る本は少ない。CDなども販売しているせいか、始終まことに趣味の悪い今様日本製POPSがガナリたてており、まともに本などさがせやしない。日本の店舗でもおなじ状況だとしたら、自分のことはさておいて、みなさんのオツムはダイジョーブかなと心配になってくる。
そんなときは近所にあるエイゴの本屋さんに逃げ込むと、これがまた雰囲気トッテモヨロシ。とくにイースト・ヴィレッジにあるセントマークス・ブックショップは最高の品揃え。あまり宣伝したくないのだが、このブログの読者だけにこっそり教える。ここは店がまえは小さいが世界中どこにもないセンスのよさである。BGMもサイコー、日本のニューウエイヴ本もちらほらある。知性あふるる当ブログの読者諸氏がNYCに来られた折には、五番街など浪費するだけなのでなるべく避けられて、まっ先にここをチェックすべきである。まあおしなべて、ほかの海外都市に比ぶればうんとよしとせねばならぬか。NY本屋事情ということで... 閑話休題。 仕事のアイディアにいきづまり、楽しいはずのこのブログを書く作業も、上のような事情で煮つまってしまって、気分転換するつもりでMOMAに出かけた。毎年この時期、「New Directors / New Films」と銘打って世界各国の新進作家の作品をまとめて見せてくれる。ことしの日本代表は、荻上直子監督の「めがね」Megane。この夜のNYプレミアの観客のほとんどはアメリカ人とみられたが、場内ほぼ満員。 与論島の美しい海辺となにげない島の風景を舞台に、ゆったりとしたリズムで映像が流れはじめる。このスローなリズムが映画を見に来ている都会人には実にここちよい。 日本映画でこの種のリズムをさがすとすればやはり小津かなあ、と思って見ていたら映画が終わっての監督との質疑応答で、やはりアメリカ人の小津ファンらしきひとからこの質問があった。荻上監督いわく「もちろん小津安二郎の映画は好きだけど、とっても、というほどじゃない」。なるほど小津映画は、作品によってメッセージがとても強烈なものがあり、ときに観ているほうがその激しさにたじたじとなり、ふるえあがることもある。人間の行為とその精神の絡む複雑さと悲しさを、いわば一番見えにくいものを、彼のように白昼の陽光に照らし出した作家はほかにはいないのではないか。小津映画をそのテンポから、お茶漬けの味とかいう評はまったくの見当違いであると思う。 荻上監督の「めがね」にはこのようなニュアンスがまったくといっていいほど、ない。メッセージそのものがすべて与論の海とおなじ波動でたゆたっている。見ているほうはこの映像のRippleに身を投げ出したくなる。リズムは似ているかも知れないが、まったくちがう個性の監督である。 日本では昨年秋にロードショウ公開、かなりの人気だったというからご覧になったひとも多いだろう。ストーリーを追うような野暮をするつもりはないが、ほんの少しだけサワリを語りたい。 小林聡美演じる主人公の「ケータイの通じないところに行きたい」という願望は、現代人すべてのフラストレーションの量を象徴している。とくに仕事で絡み合ってしまった関係の深い都会人はいつもギリギリで生きている。まわりのひとたち、そしてニュースなどで見る他者の姿は、これがまたとてもギリギリのことが多い。どうしてそこまでギリギリなのか、本人にもよくわかっていないのだが、それが爆発しないうちに早く、どこかケータイの通じないところに行きたい。 昨年も一度だけピッツバーグ郊外の山奥まで行って、偶然やっとケータイが通じない世界にめぐり逢った。たったそれだけのことで別世界である。そのことに気がついたとたん、着信サウンドにかわって小鳥の声が聴こえはじめる。ちかくの山にも音があることに気がつく。せせらぎがなくともそのような音がどこからか聴こえてくるような気がする。 あせりながら田舎までたどり着いて、ケータイが通じないことに感激するのだが、まだその時点では都会を引きずっている。その自然やそこに住むひとたちと本当の意味でシンクロナイズできるのはまだ先である。自由になるために旅にでたはずなのに、住んでいた都会の残像はなかなか消えてくれずに、歯がゆい思いをする。それだけならよいが、自由に暮らしている島のひとびとの行為が、自分を拘束する足かせのようにも映る。 —しかしなんだろう、ここで出会った人たち。 ひとりで風に吹かれて、微笑んで暮らしている。 疑わない、比べない、求めない。 それは逞しさであり、勇気であり、大きな何か。 ひねもす春の海。 あれほどあこがれていた「自由」に、 ふと手が届きそうな気がする。 そしてこの映画ではさまざまな小道具が、その生き残った都会殺しのメタファーとして登場する。 「小豆入り魔法のかき氷」、「メルシー体操」、そして「毛糸といっしょに空気を編む」。 そのことばたちと実体の少しのずれが実にファンタスティックである。とてもセンスがいい。 カリスマらしからぬ田舎のカリスマ、もたいまさこ演じるサクラさんは、小豆を煮ながらとつとつという「たいせつなのはあせらないこと」。あせらないで静かに煮上がった小豆はふっくら輝いて、鍋のなかにあたたかい大宇宙ができあがる。 荻上監督の前作「カモメ食堂」も大ヒットしたらしいが見逃してしまった。機会があればなるべく劇場で、ぜひ見たいと思っている。 そうそうもうひとつこの映画のキーワードがあった。「たそがれる」。本来自然現象をあらわすことばを、人間に対してのロマンチックな響きをふくむ「自動詞」のように使っている。かなりむかしにたそがれ族などというのが流行ったが、これとはまったくおもむきを異にする。この大都会にいるあいだは無理だが、自分のなかで「たそがれる」行為が自然にできるようになったら、ほんとうに地球とシンクロしているといえるのかもしれない。 いつのまにか仕事でのモヤモヤも、ブログが資料不足で書けないことも、忘れてしまっている。のんびりやることの意味は充分わかっていたはずなのに、イライラしていたさきほどまでの自分が恥ずかしくなってくる。日本映画を見てこんなゆったりとした気分になったのは、ひょっとしたら生まれてはじめてではないだろうか。 無性に与論島に行ってみたくなった。エンジェルフィッシュの形をしたこの島は、東洋に浮かぶ一個の真珠といわれている。沖縄本島の北28km、鹿児島県の最南端に位置し、太古の昔からその色を変えない美しい海に囲まれ、神秘に満ちた不思議な島だという。神話の時代から受け継がれてきた伝説や祭事も、多く残っている。大和・奄美・沖縄の文化が混在し、独自の世界を作り出しているということだ。 映画のあとの質疑応答で、つたない英語で監督に訊いてみた、「実際の与論に住むひとは、どんな感じですか?」監督の答えはもちろん「そう、この映画に出てくるひとたちのように、とてもイイ感じ!」そしてこのような意味のことも付け加えられた「戦争の体験がなかったので、平和なヴァイブレーションにあふれたとてもいい島です」と。 こころの余裕がもう少し大きくなリ、たそがれることが得意になったら、与論に行ってみるぞぅ、と決めたが、読者でまだご覧になっていない向きには、2泊3日のツアーなどより、まず劇場でほかの人といっしょに体験する2時間弱のこの映画の与論ツアーの方を、ぜひ推薦したい。 本日の金魚のフン&FUN:我慢できなくなり、ヴィデオを借りてきて「カモメ食堂」の方も見てしまった。これもなかなかいい。フィンランドを舞台に日本女性が3人とフィンランド人たち、やはりたゆたっている。もたいまさこが森でキノコ狩りをし、取れたキノコをどこかに落としてしまう。それ以前に空港で紛失したスーツケースが戻ってきて、ふたを開けるとそれよりあとで落としたはずの香り高いキノコがいっぱい詰まっている。ちょっとした魔法がいくつか描かれていて、例のゆっくりさんリズムが退屈しない。 ヌアクという小動物が甘くおいしいコーヒー豆だけを食べ、それが彼の腸内でほどよく発酵されて糞になリ、それをドリップした「幻のコーヒー」を飲むシーン。スナフキンとミーが異父兄弟。などという雑学もタップリ楽しめる。 ひとびとが、何気なくふれあい、出会い、何気なく別れていく。東京やニューヨークではおなじことをしていても、なかなか気づかない繊細な時間。フィンランドや与論では特出して、たゆたっている。 エンディングテーマも「めがね」は、大貫妙子。「カモメ食堂」の方は井上陽水のクレイジーラヴ。 どちらも終わりまで最高のセンシビリティ。
by nyckingyo
| 2008-04-04 02:05
| NYCで観た映画評論
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