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鶴見俊輔氏の講演などをまとめた「神話的時間」という本を開いている。
「二歳三歳の子供は、私があるいはあなたが教えたことを、直に、子供がこちらにまた教えてくれることがあるでしょう、そのときに『それは私が教えたことではないか』っていう風に子供に言い返さない方がいいんです。つまりその考えは、その話は、二人の間に共有されているんですから。二人の間に置かれて、あっちからこっちへ、こっちからあっちにというふうに話が自由に動いているんです。話がだれのものとも考えられずに共有されている。話がだれのものとも知れずやり取りされるんですね。いつ誰から聞いたっていうことと関わりなく、昔からある話としてやり取りしているわけです。」 氏はこのときの時間を、たとえば「旧約聖書の時間」にたとえられている。無文字社会で茫洋とした2千年以上前に成立した旧約聖書のほんとうの意味は、時間に刻まれ、多忙な日常を送る現代人には理解できない。そして生まれてすぐの零歳の子供も、文字のない社会に生きている。しかもすでに言語は習得しているという。 「零歳児は寝かしておくと、気持ちのいいとき、しきりに口を動かしているでしょう。子供は非常に早い時期に、言語が、その全体の構造がわかっているんです。どうせ子供にはわからないと思って、黙って世話をするのはよくないですね。話しかけた方がいいんです。わかるんです。ですが子供はまだ文字を知らない無文字社会にいる。」 子供が生まれて7ヶ月たったらもう日本語の全構造がほぼわかっている、とも書かれている。「日本の昔のことわざで『7歳までは神の内』っていうのがありますから、つまり満6歳までの子供たちと話し合うときに、われわれは、旧約聖書をいまの暮らしのなかで、旧約聖書のできた時間帯で読むのと同じ体験をしているんです。」 この引用は、鶴見氏が1992年に熊本で語られた講演の冒頭の部分である。 お話はこのあと、絵本を子供に読んできかせるお母さんが、子供以上にワクワクしながら先へ先へと読み進んでいくのは、親自身が神話的時間にはいり込んじゃったからだ、ということを語られている。はじめは親として子供に読んで聞かせるという義務感で読んでいたから、親が感じているのは正確に刻まれた近代的時間。このときは子供だけが神話的時間で受け取っているから親子でちぐはぐだが、親もそれに入り込んでしまったときから、子供も親も神話的時間を共有する。絵本というものを媒体にすれば、このようにわかりやすいが、実際の親子が直接会話することでも、この神話的な時間がどんどん生まれているというわけだ。 歩く、話す、眠る、駆ける、そういうことが全部ものすごく愉快に感じられる状態、ことごとく1歳の子供にとっては新しく愉快で心躍る体験。それが神話的時間なのだ。 そして1−2歳の子供が話しはじめる。 おかあさん きょうのおひさま げんきないよ。 これは神話的表現であるという。 ひゃー ぼくのおなか おにくでできているの ビニールかとおもった。 この新鮮な驚きも神話的だという。 そうやって母と子の神話的時間はどんどん創られていく。こんな話は母となられた方には当たり前すぎるのかもしれない。「こんなにおもしろいことを母親だけが独占して自分の楽しみにしているとはどういうことでしょうか」と鶴見氏はつづける。「父親はそこからはずされているんです。みそっかすなんですよ。そこにいまの文明の欠陥がありますね」「子供を育てることが重要だとか、そういう問題ではない。子供を育てるのはすごく楽しいことなんです。そのことが問題ですね、義務の問題じゃないんです。人間が生きるうえでの重大な愉しみに関する問題です。」 鶴見氏の講演は、このあと氏が会うことのできた少年少女読み物の作家の話に移り、それぞれの人が、神話的時間に触れたときにいい作品を書いている、という仮説に移っていく。むろん仮説というのは氏ご自身の論説を謙遜されたゆえの比喩であり、神話的時間をもった作家こそがすばらしい童話を生み出し、それを読む母親とそれを聞く子供のあいだに新たなる神話的時間が流れていく。 子育てに関するこのすばらしい本を紹介するのは、多分このいまだに父権社会であるなかで、父親との関係を考えるときじゃないかなと思っていた。ここまで書いてきても、これから話す問題にこの本を関連させてしまっていいのか、本気で躊躇している。 今日のブログ「世に倦む日日」さんの記事に、八戸で母親に首を絞められて殺された西山拓海君(9)の「おかあさん」という詩が紹介されていた。晩翠わかば賞というコンクールに入選したという。お母さんをしたう純粋な子供心がシンプルに強くやさしく伝わってくる。すばらしい才能だと思う。深い哀悼の意をあらわすために、もういちど書きおこしてみる。 すばらしいお母さんの肌ざわりが読んでいるこちらの皮膚にまで伝わってくる。それだけすばらしいお母さん。きっとこのお母さんは、拓海くんといっぱいいっぱい肌を触れつづけ、ことばで遊び、たくさんの神話的時間をもったにちがいない。その時間が生み出したもののなかに、このすばらしい詩も含まれているのだ。お母さんと話した神話がインスピレーションになってこの詩ができあがった。いわばお母さんはこの詩の共同制作者だ。拓海くんを産まれただけでなく、すばらしい詩人にした。お母さんと交わしあったそのことばたちがすばらしかったから、かれは詩人になった。その詩にいちばんの誇りをもっているのは、お母さん自身のはずだ。少なくとも半分は、神話的時間のなかで自分が創った詩なのだから。 そしてその結末が、どうしても納得ができないのは僕だけではないだろう。いくら考えても、考えれば考えるほど、不思議だ。いったい何があったのだろう。どうしたのだろう。先ほどからことばをさがしているが、何も出てこない。 病気で亡くなったり、もし万が一殺されたりしたとしても、加害者がこの母親でないなら、悲しむこともできる。こんなにあたたかいはずのお母さんがそのあたたかい詩を書いた当のわが子を殺したりできるわけがないのだ。 古代の神話には親殺しや子殺しが象徴的に出てくる。古今東西を見渡しても、おなじ種類の事件が残念ながら現実にもあちこちで起っている。それぞれ複雑な事情があるのだろう、そしてどんなに悲しい事件とは思っても、そのニュースはいつか身辺を通りすぎていく。 ただ今回のように、殺された子供が書いた詩がすばらしいもので、その詩に書かれたやさしいはずのお母さんが、その子を殺してしまった、という状況はどう考えてもうまく飲み込めない。 八戸には遠いむかし、学生時代に自動車で日本一周旅行をしたときに一泊したことがある。次の日、下北半島を北上して、むつ市から恐山を観て大間という本州最北端の村に行き、その近辺から北海道行きのフェリーに乗ったと記憶している。その北端のちいさな寒村での風景がいまでも眼に焼き付いて離れない。おやつの時間、老婆が小さな孫にご飯粒をほんの数十粒、ひとくち皿に入れて与えていた。まだ夏休みだったのにその北に面した断崖の村では冷たい風が吹き荒れ、すでに枯れすすきとなった穂の大波が大きく地平を揺らせていた。われわれもひどい貧乏旅行をしていたが、それでも半月前に友だちと出発した関西の、当時としてはリッチな風景とは大違いだった。日本も僻地に近づけばずいぶん違うもんだなと感じた。もちろんこのことはこの事件とは何の関連もないし、いまの東北がどんなところか、まったくアイデアもない。ただ日本中で、東京のど真ん中でも、生活苦や社会不安が話題になっているとき、本州の北端でどんなことが起っているか、そしてこの事件が起った背景に何があるか、そんなことを考えはじめると頭がひたすら重くなる。 八戸のかなた、恐山あたりに拓海くんの言霊が舞っている。愛するお母さんに殺された無念が舞っている。お母さんをこれ以上責めることはできないし、小さなこころには社会などという概念もなかったと思う。 ただもう少しだけましな生活があれば、お母さんの仕事があれば、将来に希望があれば、好きな詩を書きつづけ、お母さんを愛しつづけることができたのに、という無念の悲鳴だけが聞こえる。
by nyckingyo
| 2008-04-05 08:08
| もの申す、日本
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