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日本は国会がねじれているとやらで、法案がほとんど停滞し、当のプライム・ミニスター氏(福田康夫氏)はこのことばを自らのキャッチフレーズにして、あいかわらずぼやきっぱなしであるが、この御仁の「ぼやき」は天性ではないか。僕がまだ日本にいたころ、かれの父君の治世にもまったくおなじ雰囲気を味わった記憶がある。なにより、この総理にしても、野党の党首さまにしても、こちらが話をまともに聞くことができないほどオツムのなかが極端にねじれていらっしゃる感じがする。
二大政党がたえず拮抗しているアメリカでは政党同士や大統領とのねじれは常時であり、これがこの国の民主主義をうまく稼働させているという意見には、ある程度賛同できる。 考えてみれば、この宇宙の物質なるもので、すっきりまっすぐ直線です、みたいなものはほとんど存在せず、たとえば、はいこれですよと見せてもらったわけではないが、生物のDNAなどというのは二重にねじれているらしい。螺旋階段をどんどん昇って、上昇・進化しているはずが、その階段そのものがもうひとまわり大きく旋回していて、そこを昇っている者にはその大きい方のねじれの先がどこにあるのか、全然理解できていない。 そういうDNAがいっぱい詰まっているはずの自分のオツムというものを想像してみるに、その複雑な思考とやらが生み出されるプロセスがふむふむと理解できる感じがする。別に政界のご両人だけではなく、この複雑さは日本人すべてのもつ特質かもしれぬ。 たいていのアメリカ人と仲良くなって少し深く話ができるようになると、自分でもアタマのひん曲がるようなエイゴの語彙を使ってしまい、易しい話を極端にむずかしくしてしまう。このブログは日本語で書いているが、やはりこのような傾向があるのではないか、と友人に指摘された。アメリカ人におまえの考えはフクザツだね、と一笑される。なにを、てめえの方がタンジュンすぎるんじゃないのか、と言い返したいところだが、グローバル・スタンダードからみればどうも敵に軍配があがるようだ。 ものごころついてから四年に一回のオリンピックというものをずいぶんみてきたが、平和の祭典という意味では、ほとんどの大会がひどいねじれ現象を起こしている。 リアルタイムでみた映像ではないかもしれないが、メルボルン大会でのハンガリー対ソ連の水球の試合にはいやけがさした。戦争している国同士がなぜスポーツで争うのか。実際は戦争というより、ソ連が有無をいわせず一方的にハンガリーに侵攻していたわけで、むろん当時の日本社会にはまだアメリカ民主主義盲信の風潮が濃厚に残っていたせいもあり、ソ連=悪という図式が明解に思えた。水球の実力は前回金メダルのハンガリーが圧倒的に強く、試合に負けそうになったソ連の選手が殴り合いを挑んできた。 乱闘で怪我人続出、試合終了後には観客も乱闘、警官隊の突入で事態を収めるというなんともひどくねじれた平和の祭典。大会後にハンガリー選手団が西ヨーロッパへ集団亡命をするなど、ハンガリーが実にかわいそうであった。喧嘩両成敗といわれても子供ごころに納得できない。思えばこのころから弱いくせに、興奮すると弱者に対する異常な義侠心のようなものが溢れ出した。 その後も世界中で戦火というものは燃えつづけ、まあみごとに一瞬たりとも消えたことがない。四年に一度という規則的なオリンピックは、そういう戦争世界の鏡になっているわけで、その時だけ戦争をやめましょうといってもかなり無理がある。さまざまなトラブルを抱えたままの平和の祭典の歴史は、まさに血塗られた祭典の連続であった。 いちいち列記しようとしても枚挙にいとまがない。 古代ギリシャでは開催中一切の武力闘争を中止する、という取り決めが守られていたというけれど、近代オリンピックではこの国連の五輪停戦決議案ができたのが1994年にやっと。2002年のソルトレークでは、アメリカはアフガンにおける対タリバン戦争で、戦時下の国は開催の権利がないはずなのに、力で押し切った。アメリカが提案した五輪停戦決議案は,その内容がこれまでのものとはまったく違うもので、これまでの決議案に含まれていた「五輪期間中のすべての戦争行為の中止を求める」という表現がなく、「国連加盟国には,五輪選手の安全な移動と参加を保証することによって、五輪停戦を遵守するよう求める」と置きかえられた。そしてこの提案は国連参加国の大多数が支持し、採択された。おまけにアメリカはアフガンにおける戦闘を継続。停戦決議以来はじめて戦争当事国で開催されたこのオリンピックは、上空を戦闘機が飛び回る厳戒態勢の中で行われた。 DNAのたとえではないが、ねじれはひとまわり大規模なねじれをよんで、二重三重に複雑にねじれる。今回の中国とチベットの問題も約半世紀間ねじれっぱなしで、ねじれた先がどこに行き着くのかもまったく予測できない。チベットと仏教に関しては次項で書き直すつもりだが、いまチベット内部で何が起っているかすら正確に把握できないことにいちばんのねじれを感じる。 隣国の列島では、右や左の旦那様が、自分の都合で善悪を決められて喧々囂々。これではおこぼれの平和のご慈悲など、期待するべくもない。 そんなとき、JMM[Japan Mail Media]からメルマガがとどいた。在米の冷泉彰彦氏の「状況の質的変化」という興味深いエッセイ。先日やっとWEBで公開されたので、直接読まれることを望むが、以下に一部を要約する。 大統領選とイラク問題をひとしきり論じられたあとで、聖火リレーの話となり、まずヒラリー、続いてオバマが「ブッシュ大統領の北京五輪開会式への参加ボイコット」を要求したこと、そしてその要求をブッシュ政権は一蹴したことをあげられている。この中国をめぐる問題にも重要な「質的変化」がある。 この騒動でアメリカと中国の関係について「保守は親中、リベラルは反中」という図式が浮かび上がってきたこと。長い間、この関係は逆で、共和党は親台湾、民主党は親北京という図式があったこと。逆転したのは、中国という国家の存在が変質したのではないか。民主党という党は「容共政党」、多くのリベラルが「赤狩り」の被害に遭ったりする中で、自身がケインズ的な社民政党の淡い色を持っていたこともあって、社会主義国の政治は必要悪だが、開発独裁は悪というような立場を取ってきた。 その民主党から見て、現在の中国は「結果平等と民生向上のため」という必要悪として社会主義を採用している存在ではなく、「経済を拡大しつつ、秩序維持の我欲のために独裁を続けている」存在だという風に見える。冷泉氏はずいぶん前から「ヒラリーはやがて反中になる」という予想をしてきたが、どうやらその時期が来た。これに対して、共和党は「大量生産品の生産基地、同時に金融などの市場」として中国経済と深く関わりを持っている財界の代表として、北京の現政権に対して甘くなってきている。また今回の台湾の総統選挙で国民党が政権を奪回して、海峡の危機が一段落したことも共和党として反中である必要性を減らしている。 今回サンフランシスコでの抗議行動では、例えば長年チベットや中国の人権問題について発言してきた俳優のリチャード・ギアの演説が大きく取り上げられているが、彼は反戦平和主義者ということも含めて、ハッキリ「左」の立場の人物。そのギアが先頭に立って中国を糾弾する、そしてヒラリーやオバマがこれに理解を示すという時代になった。この流れは、今後の米中関係に大きな変化をもたらす可能性がある。 問題は日本側の立場で、チベットの問題を含めて、今現在でも「反中、嫌中」のセンチメントは「右」から、そして「左」の人たちは「親中」である。この「ねじれ」は、将来的にはアメリカやヨーロッパとの関係で、問題を生んでいく可能性が懸念される。隣の国だから「嫌中」がナショナリズムと結びつくのは、国外から見てもそう驚くことはない(勿論、第二次大戦の歴史評価に関しては問題がある)のかもしれないが、日本のリベラル的な勢力が「既に社会主義の理想から遠く離れた」中国の政権当局に対して、惰性的に、しかも無条件で支持をしているというのは、理解されることはないと思われる。 その一方で、欧米の「チベット独立支持」という派手なスローガンの掲げ方にも100%同意する必要もない。何よりも、ダライラマ14世自身が要求しているのは「チベットのゆるやかな自治」であって、欧米の概念による完全な独立ではないからだ。それと、もう一つは「チベット」だけを重要視するのは「作戦」として本当に良いのだろうか、という疑問がある。中国の人権問題、表現の自由、政治的自由の問題は、社会がある段階になって来た時点では避けて通れない問題。自由が実現する中から、社会の中での環境や安全面でのチェック機能が進んだり、より付加価値の高い製品のアイディアを生み出す条件が整ったりするわけで、そうした自由化への移行をスムースに中国がやってくれることが、世界、特に周辺国にとっては重要な問題だ。 その意味で、勿論「チベット」は一つの象徴であり、試金石ではあるのだが、それ以上に中国国内での「自由」が育って行くことが大事だと思う。まして、自由を与えない代わりにコントロールされた情報でナショナリズムを煽って、人々の心情を「国家」とか「分裂主義者糾弾」ということに投影させる手法は、やがて中国社会そのものを荒廃させる危険がある、そのような観点で見て行くことも必要だ。まちがっても「善良な」チベットを「邪悪な」中国から完全独立させるのが理想、などという考えでは困る。大切なのは、中国社会が多様性を抱え込む包容力を持ちながら、国際社会に対して開かれた社会となることだからだ。 冷泉氏のように冷静に政局を分析する判断力をもたないので、勝手ながら要約させていただいた。氏のことばには「ねじれ」を書かれているのに、その二重三重のねじれを整理する説得力があると思う。 3年前にダライ・ラマ14世の講話があったセントラルパークを歩いている。その広場(地図内 赤丸)の近くには、いまソメイヨシノが満開である。その講話のときには、信じられないほどの人数がパークに押し寄せ、2時間前に行ったのに広場に入れずに半分以上を聞きのがした。騎馬警官が馬に乗ったまま、ひとびとをまるで動物のように柵のなかに追い込み、実に不愉快な思いをした。前方にはチベットのひとびとが多数陣取り、かなり興奮気味であった。かれらにとっては、慈悲の具現者たる観自在菩薩の化身であるダライ・ラマは、その雑踏のなかでも決して冷静さを失わず、「チベットのゆるやかな自治」にむかうことの重要性を象徴的に語られていた。 観自在菩薩は一如(真如)の世界に住まわれていて、言語世界に住むわれわれには想像もできない理念を持たれているという。言葉は一如の連鎖を断つ。ことばにして発したとたん、思考は二元論の世界にとどまり、二元論ではねじれは決して解決できない。 こちとらは人間だから、このようにねじれた問題に首を突っ込むと、一貫して冷静な意見を出しつづけることはむずかしい。チベットと北京オリンピックのことを交互に考えると、親中になったり嫌中になったり日日ゆらいでしまい、忙しいことだ。ねじれにシンクロしてしまってたというわけである。 このように混乱したときに僕にはひとつのキーワードがある。それはいまさら口にするのも多少むずがゆいが「愛」ということである。観自在菩薩の慈愛にはほど遠くても、発想の原点が「嫌悪」ではなく、ポジティヴな「愛」の方からの出発であれば、すべてはうまく進行するはずだ。どんなことでもいい、嫌悪や憎しみから出発したことは、かならずもっと大きいねじれに出会い、悲惨な結末を迎えることになる。こんな単純な論理はだれでもわかっているはずなのに、そこまですらたどり着かない。ねじれてしまったことが基本的判断力さえ狂わせている。つい先日とあるスポーツ評論家なる者が、オリンピックは政治なのだからいろんな駆け引きや事件はしょうがない、という諦観的意見を述べていたが、どんなに政治やコマーシャリズムに犯されているとしても、五輪は唯一残された人類の夢である。夢のない者にスポーツを語る資格はない。幼いときに感じたハンガリー選手の悲惨は、将来の正夢に転化しなさいという、クーベルタン氏や天からの啓示だと思っている。 観自在菩薩であるラマが、チベットのゆるやかな自治を望まれているかぎり、僕も愛をもって平和なる北京オリンピックを念願してやまない。北京が平和裡に終われば、そのあとのオリンピックはずいぶんねじれが穏やかになるような気がするのだが、このような考え方も果たしてポジティヴな方向へ「ねじる」現象学として成立しないものだろうか。 本日の金魚のフン&FUN:今回は、なんでもかんでも画像をねじってしまったが、これらの作業が実に楽しい。元来まっすぐなものをゆがめることは、子供のときから夢のごとき恍惚感を生み出すいたずら行為であり、クリエイティヴ・ワークの原点かもしれぬなどと思ってしまう。ただ地球そのものの画像をねじったときは、全能の神の意志にふれる気がしてそら恐ろしかった。ゆえにその画像は今回使っておりませんです。 このねじる行為をただ鑑賞しているだけだと、フラストが溜まってしまうので、できればいっしょにねじる行為に参加するのが好ましいと思う。チベット仏教の教義どおり、輪廻転生がかなうなら、わたくしは来世、こども相手に太鼓叩いてねじり歩く「ねじり飴屋さん」になりたい。 ところで「ねじれ」に関して僕のむかしの作品の紹介をする。こちらすっきり「ポジティヴなねじれ」の好例とまでいうと言いすぎだろうか。全長約2km以上の長さのロールペーパーを巻き上げ、先端を引き出し、線をねじったコンセプチュアルアート、題して『亜光速艇のなかでの朝食』。ロールペーパーの断面に赤のマーカーで線を書き込み、ロールごと紙を巻き上げると線はスパイラル状にねじれた点と化し、上昇するのみである。個展のときにとある偉い評論家氏に質問された。「このスパイラルの先はいったいどこへ行くのでしょうか?」僕の答え「二次元の平面に書かれた線が、スパイラルに乗って三次元となり、その行く先は四次元に決まっておる」。実際そんなところへ行くのかどうかつゆ知らぬ。これは希望的観測にすぎない。 ただこのときのコンセプトをもう少し説明すれば、『亜光速艇』というのは、たえず電子運動をくり返すわれわれの体内の細胞のことで、そいつらは社会との関わりを執拗に求めておる。ところが世間というのは、このわれわれの基本的要素である細胞など、ふだんほとんど意識していない。そしてこの細胞の集合体はいうまでもなくわれわれの自己そのものである。ここのところがとても残念至極、しょうがなしに細胞たちは亜光速艇のなかで、ピンク・フロイドの「原子心母」のなかの「サイケデリック・ブレックファースト」という曲を聞きながら朝食をしているという図である。目玉焼きがジリジリと焼け焦げていく音を深く聴きこんでいると、いまわれわれの住むこの地球が、やはりそのむかしのビッグバン地点から急速に遠ざかっている『亜光速艇』そのものであることが理解できる。オワカリであろうか、デナイであろうか。 この作品は77年の毎日現代美術展で、寺山修司氏はじめ評論家諸氏に絶賛された。ちがう目的で何度かお逢いしたあとでの故寺山修司氏の、金魚賞賛のことばをこの稿の締めにしたい。「この紙をまき上げて、螺旋状に塔化してゆくかたちは、現代人が反復と円環によってつねに前進を拒んできた一般的理性支配社会に向けた、すがすがしいロマンチシズムである」もうひとつ、当時の毎日新聞にはやはり氏のことばで「紙のバベルの塔によって、個の尊厳を無化していた」とある。個の尊厳を無化するということは、個が社会と同化してひとつになるということだ。さすが寺山氏、ひと言で僕の意志を観ぬかれた。やったぜベイビー! しかしながら興奮のとき、いまはむかし。このサクヒン、どなたも、おぼえて、らっしゃら、な、い。こりゃまたシツレイいたしました。
by nyckingyo
| 2008-04-17 14:08
| 北京オリンピック
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