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註:クラークが1989年に第1章のみを改稿した「幼年期の終り」が、2007年に池田真紀子の訳で光文社古典新訳文庫より発行されていたことに気づかず、2008年にこの文を書いたので、引用文は、ハヤカワ文庫版・福島正美 訳(1979年発行)によっています。
尊敬しつづけ、大ファンでありつづけた、あのアーサー・C・クラーク氏がお亡くなりになって1ヵ月がたった。今夜は氏の代表作「幼年期の終わり」のテーマを素材にして、将来あるべきオリンピックというものの理想像(もしくは堕落像)について、SF風に書き及びたい。今夜と書いたのは、あの千夜一夜のはじまりのように、クラーク氏の創作について語ることが、ジョッキにビールがあふれるがごとくこの小さなアタマに渦巻きはじめたからだ。 1917年生まれというからことしで御年90歳。ほぼ70年近く、たえず未来のプロフィールを書きつづけられ、未来の人類への指標を創りつづけられてきた。もうひとつつけ加えれば、平和というものをこよなく愛され、科学者らしい硬派の文体のはしばしに、平和の香りがただよっている。その功績には平和賞を含めて、ノーベル賞を10個以上あげても惜しくない。もっとも僕にはあげるものがなにもないので、せめてこの文章を含めた今後の数編で追悼の意を表したい。 2004年末のスマトラ沖地震のときは、スリランカに住まれていた氏の安否を本気で心配したが、数日後WEBに氏の声明が載り、氏の愛するスリランカの惨状を世界に訴えられた。ヒッカドアの別荘は流されたものの、氏の執筆活動、映像でのメッセージはつづき、安心していた三年後の訃報であった。 「幼年期の終わり」は、1953年に発表されたクラーク氏の代表作で、SF史上の大傑作として広く愛読されている。のちの氏の原作になる映画「2001年宇宙への旅」とさまざまなコンセプトがかなり近いと思うのだが、ストーリーの展開がまるでちがうのでこの論議はまたの機会にする。たくさんのファンをさしおいておこがましいのだが、未読の読者のために第一部のストーリーの部分を記す。 近未来のある日、直径数キロ(km)におよぶ銀色の巨大円盤が、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、ローマ、ケープタウン、東京、キャンベラなど世界の主要都市の真上に静止した。 それはそれまで地球上で人類が万物の霊長だったことの終焉を意味した。その6日後、宇宙人の代表、地球総督カレルレンがあらゆる電波を掩蔽する強力な電波で自己紹介をした。完璧な英語である。その言語にもましてひとびとを仰天させたのは演説文句だった。どこからみてもいままでの人類だれもが及ばなかった天才の作品であり、人間というものに対する完璧な、徹底的な理解を示していた。 とある大国は恐怖のあまり、とち狂って宇宙船にミサイルを撃ち込んだ。それは命中し大爆発を起こしたが、巨大な宇宙船は無傷でもとのままの空間に浮かんでいて、何も起きなかった。 人種抗争の終わらぬ国、南アフリカ連邦は、白人差別(この小説が書かれた50年代の時点の逆説)を終わらせる努力が功を奏さないことがはっきりすると、宇宙人は日付と時間だけの警告を与えた。その時刻が来ると、ケープタウンを中心に直径500kmの地域から30分間だけ太陽が消えた。宇宙空間のどこかで、太陽光線はふたつの交差したフィールドによって偏光され、そこだけを通過しなくなったのだ。その翌日連邦政府はすぐにすべての国民に平等な公民権を与える声明を出した。 これら人類を超越した宇宙人(オーヴァーロード=上帝)による管理は、当然一部のひとびとの反発を招き、「自由連合」という人類の権利を主張する地下組織ができ、小説の主人公である国連事務総長を誘拐したりするが、もちろんまったく相手にならない。 圧倒的知性、科学力、そして超越した理性をもつオーヴァーロードは、常に激情をあらわすことなく、優しさにみち、そしてときに冷ややかに人類を観つめる。 ただ一度だけ怒ったような様子で「人類同士は望みとあれば好きなだけ殺しあうがいい」と通達してきた。「しかしもし人間が食料かあるいは自衛以外の目的で、人間とこの世界を分かち合っている動物を殺した場合は、そのとき人間は私に対して責任を負うだろう」 長くまたずにそれはマドリッドでおこった。闘牛士と従者の一団が入場行進をはじめたとき、満員の大観衆は贔屓の闘牛士に声援を送ったが、そのなかにもマドリッド上空50kmの高みに浮かんだ冷ややかな銀色の影を不安げに見入る顔がそこここにあった。 やがてピカドールが所定の位置につき、牛も鼻息荒く闘牛場に引き出された。最初の槍がひらめいた — 牛に命中した — その瞬間、地球上に、いまだかって聞かれたことのない異様な物音がひびいた。それは一万人の観衆が、牛とおなじ傷の痛みに同時に発した苦悶の叫びだった。そしてようやくショックから立ち直ったとき、一万の群衆は自分たちがまったくの無傷だったのを知った。これはその日の闘牛の終わりであり、もちろんあらゆる闘牛の終わりでもあった。 この一項は、この小説のひとつの重要なテーマを象徴的に物語っている。人類と地球を共有している動物たちに対するオーヴァーロードの愛が厳しく伝わってくる。あるいはかれらにとって「人類と地球、そこに住む動物」というのは、広大な宇宙のなかでまれにみる奇跡的な存在であったのかもしれず、人類の享楽のために供される闘牛の牛の命をを守り、痛みを理解することが宇宙全体の意志のように感じられる。クジラを捕っちゃいけない、いや牛のほうが数が多いじゃないか、マグロはどうだ、などという論議は、半世紀以上も前にこのイギリスの良識がちゃんと提言していたのだ。 そして「人類同士は望みとあれば好きなだけ殺しあうがいい」というオーヴァーロードの最初の容認とも受け取れることばは、もちろんそのまま「人類は決して殺しあってはいけない」ということへの裏返しの表現である。 オーヴァーロードの治世はつづくように見えたが、50年後に自分のほんとうの姿を見せるという約束でかれは消えてしまう。人類が幼年期を終わリ、次なる成長期にはいるための猶予期間をもたせたのだ。巨大円盤のみが上空に残り、人類はいままで通りではないが、なにかが少しずれたかたちで自らの営みをつづけることになる。 人類の勢力が建設的な方向に向けられるとともに、地球は急速に変貌していく。21世紀になり、いまでは地球はほとんど文字どおりひとつの新世界になった。犯罪は事実上姿を消した。犯罪そのものが不必要であり、不可能になったからでもあった。世界はいつのまにかユートピアにかぎりなく近づいている。戦争というものがなくなり、地球はひとつの国家となった。近くに巨大円盤が存在しつづけていたにせよ、オーヴァーロードがしばらく姿を隠していたことで、このユートピアは人類自身が築き上げ勝ちとったもの、という自覚が、人類に決して自信を失わせることなく、この偉業をなしとげたと思わせることになる。 さて、突然オーヴァーロードの存在しない現実の21世紀世界にもどる。今年の聖火がリレーの途中で赤く激しく燃えている。それを消そうとする激しい意志と真っ向からぶつかっている。まったくやりきれない。いまはまだ聖火だけを巡るドラマだが、あと数ヵ月後にはそれぞれの国が、国を挙げての応援となり、それまでの仲違いが如実にアグレッシヴに表現される。世界のあちこちでは戦争と政治的な論争がつづき、その鏡のように平和の祭典のはしばしで、その紛争が象徴されることになるだろう。 大会がはじまったら、チームUSAの激しい応援団になるナショナリズムの人びとが、開催国中国のチベット人虐殺を、声高々に連呼する。それではいまだにイラクで人を殺しつづけている自分たちはどうなるのか。 できればここでオーヴァーロードに出場していただきたいぐらいだが、かれはきっとこの地球の延々とつづくばかばかしい惨状を見てあきれかえり、出現するチャンスを失ったのではないだろうか。 海外のどこかの国でオリンピックのTV中継をご覧になった経験のある方は、ピンと来られると思うが、どこで見ても基本的にその国の選手が活躍している絵が中心である。渡米してから夏冬あわせて14の大会の中継を観た勘定になるが、日本選手の活躍した試合をちゃんと見た記憶がはなはだ少ない。ほとんどチームUSAの選手だけが大写しになり、かれらが活躍する競技しか見ることができない。いつも日本のTV中継をみたくてしょうがないのだが、衛星中継の放映権で、輸入できなくなっている。NHKの海外放送に加入すれば、一日遅れのハイライト版が見れるというが、そこまでの執着はない。だが日本の選手を愛し切って応援している僕にはフラストレーションが溜まる一方で、ますます日本の選手に対する応援の思いはつのる。悪循環だが、なにせアメリカにはその電波が来ないのだからこればかりはしょうがない。ほとんど瞬間的にしか映らない日本人選手の姿をさがし出しよろこんでいる哀れなすがたである。 まあことほど左様に、オリンピックは国威発揚の場であり、ナショナリズムの戦場である。このことはクーベルタン男爵の理想とは隔たっているが、現実にはメダルひとつのために国民のほぼ全員が一喜一憂し、ただ単なる国単位のメダル獲得競争になりさがっている。 道理である。だれだって自分の仲間に勝ってほしい。そのための応援である。ここでクーベルタン氏の偉いところは、もともとはペンシルヴァニア司教であるタルボットの説話に感銘を受けた氏が、演説で引用したものだが、「重要なのは勝利することより、参加すること」と宣言した。そして大会を開催するのは、国ではなくシティと決めたことである。しかしながら常に政治の絡んでいる現代人の思考というのはなかなかここまですらおとなになれぬ。出るからには勝たねば、ムンムンムン。選手がいうのはわかるが、国を挙げての狂信的応援である。現在進行形のグローバリゼーションというのがいかに表皮的なインチキ現象か、はっきりわかってしまって今さらながら唖然とする。 かといって、オーヴァーロードの治世のもと地球連邦ができたとして、そこでオリンピックが行なわれたとき、このナショナリズムは消滅するだろうか。否である。井筒俊彦氏やガダマー氏のいう真の地平融合を人類が自らが創りだしたとしても、否だと思う。それはその地域の歴史が生み出した文化というものが絡んでくるせいだ。僕は日本人だから日本文化というかわいい愛しいヤツがいる。日日愛しつづけ、渡米してからはその溺愛傾向がいちだんと増している。 ひとが他とスポーツで競争して、純粋に自己を磨き上げるのは美しい行為だ。国民がこぞってそれを応援するまではよい。それが国を挙げての応援になり、その国が他国との競争論理をもち込む。その時点ですでに競技の美しさはしだいに消えていき、ナショナリズムがこの感情を助長し、最終的には狂気の争乱までへとかりたてる。オリンピックが終わってもこの感情はより強く継続し、本当の戦争が勃発、継続することも過去には多くあった。何のための平和の祭典か。現在進行形で戦争状態といってもいいほどの仲の悪い国同士は、あるいは仲のいい関係を数えるより少数かもしれないが、古今東西とだえたためしはない。オリンピックの「幼年期」の終わりは、すなわち国際関係が幼年期を終結することを前提にしないとはじまらない。 なによりも僕の住むこの「戦争大国」が、どのオリンピックのときにも、その戦争をつづけながら大応援団を送り込む。やがて敵国の選手団が登場するやその大応援団がブーイングをかます。スポーツに勝つよりまえに戦争に勝ちたい心理が丸バレとなり、恥ずかしいかぎりだ。どこが平和の祭典なのか。司馬遼太郎は「寄せ集めの移民大国アメリカには、集合体としての文明はあるが、文化がない」という。文化のない寄せ集め国のチームUSAが一丸となるには「戦争」しかないということではあるまいか。誠にアグレッシヴ一途の応援団に毎回赤面の想いである。 もうひとつオリンピックを「幼年期」に留めているものに、資本主義下のコマーシャリズムがある。莫大な額の放映権を大企業が払い、これに依存しないかぎりこの世紀の祭典は維持できない。それでも僕の若いころは必死でこの商業主義を食い留めようとする意志が残っていたような気がする。いまアメリカのオリンピックTV中継を見るかぎり、その意志の片鱗も見当たらない。5分ごとに長いCMタイムがつづき、広告代理店同士の競技大会のようにも見える。確かにお金をかけた大会は、小規模のものよりおもしろいという人が多数だが、大企業はどんどん儲かることになり、格差社会の様相はますますひどくなる。オリンピックでメダリストともなれば、どんな不人気の種目でもこのコマーシャリズムにのって、多額の収入がある。これ自体は悪いとは思わないが、限度がある。せっかくの純粋なスポーツマン精神にかげりが出るほどの報酬になれば、いささか問題かもしれない。 個人的には、古代オリンピックの崇高なる精神を継承できるなら、もっと小規模で美しい精神性を謳う演出のほうがもちろん望ましい。また将来その程度の、多少禁欲的ではあるが、倫理に基づいた慄然とした大会というものを実現するシティも出てくるような期待はある。 メダルを争う次元まで到達した選手たちのすがたにはそれだけで感激することが多い。鍛え抜かれた肉体と才能、それを支えている不屈の精神力。そして天性なのか、努力の結果なのか、多分両方だろう、そこまでのぼりつめたほとんどの選手たちに、非常に高い精神性を感じることが多い。 オリンピックの中継を観ていて、ほんのときたまヤンキースやフットボールのジャイアンツを応援しているときとはまったく異質な感情が、ふとわいてくるときがある。応援している選手にではなく、その相手のいわば敵の選手に対しても、平等な客観的思考というか、愛情とまではいかないのだが、それに近いものである。自国の文化を愛するのは当然だが、文化ならもちろん好き嫌いはあるもののどの国のものでも応援することができるだろう。そしてその選手にアマチュアリズムの純粋な精神性が見えたら、見ているこちらの気持もいささか純心になり、ぞっこん感激してしまう。このあたりが原点に返って、戦乱の世のオリンピックを「平和の祭典」に変換する唯一のヒントなのかもしれない。 クラークのSF小説「幼年期の終わり」はオーヴァーロードという仮想宇宙人を設定して、人類の精神性、文化の進歩を加速させる物語だが、ここに描かれた現在の21世紀(小説が書かれてから半世紀後)はすでに戦争のない、すばらしいユートピアに変貌しているのだ。 自分が幼年期のときには、高校生のお兄さんが非常に大きく見え、人間として完璧なおとなとして映った記憶がある。実際の高校生になってみると、社会人の姿に完成された像を見いだす。決して年を喰えばよくなるということではないが、成長するとともに、過去の自分がいかに未完成であったかを実感する。 自分がクラークのこの小説をはじめて読んだ青臭い日日のことを思い浮かべ、当時の社会がどうであったかを憶いだす。そして現実のこの21世紀の社会というものと比較すると、もちろんさまざまな意味でよくなっている部分はある。あきらかに成長しているところもある。ただ「人間の精神性」という部分に焦点を当てれば、その進化のスピードは僕たちが予想したよりもあきらかに、圧倒的に遅い。そしてこの精神性というものこそ、人類が真の幼年期を終わるためのキーワードではないかと思えてくる。 クラークはイギリス人の科学者だから、物質的な進歩をとらえる眼がすこぶる優れている。若いころ愛読していた氏の「未来のプロフィル」という未来予測の本を開いている。このあと何十冊もの未来予測書を出版されるが、これが最初のもの。やはり半世紀ほど前に、21世紀以降に世界はどうなっているか、という推測をした書物である。近未来(もはや現在)に関する予測は50年後の現在からみて、基本的にほとんどはずれていない。通信衛星のアイディアが実現したときも、この本を出版した時点で氏が特許をとっていれば、大金持ちだったのにという周囲の声には耳も貸さない。科学者としてこういった物質的進歩以外に、いつももっと大きな人類の精神的未来を見つめておられたと確信している。 わかり切ったことをくどくど書き連ねたが、要するに「幼年期」を終わらせるのは、人類の理性と倫理の問題であり、最近、とくに今世紀にはいってからのそれら精神性の重要さを冷静に叫ぶ声は急に大きくなっているように思う。その声の主たちにいまだ充分なちからを感じられないので、あいかわらずの不安は残る。 しかしながら人類の近い未来の指導者群から、そういった高い倫理性や理性が出てくることは充分に期待できるし、何よりもわれわれ大多数の思考がその方向に向かっていることを、ほんとうに徐々にではあるが実感している。大きく安堵するには早すぎるが、ひょっとしたら「幼年期の終わり」はすでにはじまっているのかもしれない。 そしてもう一度、あたりまえのことをくどく書き、自分に対しても再確認しておきたい。オリンピックに象徴される国際平和の祭典が幼年期を終え成人したその瞬間、世界に真の平和なユートピアが現出していることになると確信している。いまはとても不完全な象徴だからこそ、そこには大きな理想が宿っている。夢をもってわれわれ人類全員が、オーヴァーロードのちからなど借りなくとも、平和な地球連合を創ることができたら、どんなにかすばらしいことだろうか。 その意味でオリンピックを平和の祭典として終わらせようとしない、いかなるちからにも大きな嫌悪を感じる。自分のなかにもそういった嫌悪すべきちからの片鱗を見る。そのときの自分はやはりいまだにひどく幼稚な精神的存在であり、もう一度幼稚園という差別的名称の幼児保護施設に入園して叩きなおさねば、といつも反省する気持でいっぱいになる。 最後に小説「幼年期の終わり」のその後のストーリーを簡単に書き加える。 21世紀に地球に人類のユートピアができあがりつつあるところまでを紹介したが、これはこの小説の第一部の終りあたりになる。 そしてその時点では実はこの地球はまだ「幼年期の終わり」のはじまりも体験していなかったことがわかる。やがて約束の50年後がやってきて、オーヴァーロードが再来し、その正体をあらわすことになるのだが、その姿はひとびとの想像を絶する意外なものであった。 オリンピックの幼年期の終わりが、この小説の第一部だけで充分対応できるというわけでは決してないのだが、ここからのストーリーは人類全体が、とある形而上の世界に入っていくという、美しくも、ある意味でとても象徴的な悲しい物語となる。 今回はクラークのいちばんわかりやすい最良質の理性の部分である第一部の解説のみで、この稿をとどめる。 未読の方はこの半世紀前に書かれたこの名作のつづきを、ぜひ読んでいただきたい。とても不思議な世界だが、かならずあなたのこころを打つメッセージにあふれていると思う。 本日の金魚のフン&FUN: 四つの強い風が、七つの海を高く渡っていく..... アルバータに出稼ぎに行くおとこが、ついてきてくれない恋人に唄う恋歌だが、歌詞が語る風景の大きさにくわえ、この人ニール・ヤングが唄うと世界の平和を願う大きい意志のように聴きとれる。カナダのカウボーイ、イアン・タイソンのつくった「Four Strong Winds」。 「私はあなたのこころがわりを切実に待っています」 もしあなたが憎んでいる国があったら、その国の選手をこそ応援するやさしさ。まだ不完全なとなりの大国で、はじめてのオリンピックを平和に、と祈るこころ。 ことばにするとそんなことは無理なんじゃない、とむずかしく感じるかもしれないが、このニール・ヤングの声とともに考えると、とても気楽に実行できそうな気になる。 奥様同伴のカナダでのコンサート・ライヴ。若いときよりいちだんとハリのある高音で平和と反戦を歌い上げている感がある。湾岸戦争のときのディランの「風に吹かれて」、そして9−11のあとになぜか自粛させられていたジョンの「イマジン」を歌ったとき。かれが歌うときには、いつも平和への強いメッセージを感じてしまう。 もうひとつ、そういえばクラークは、将来宗教というものは消滅するのではないかという予測を何度も語っているが、そのたびに、自分の住んでいたスリランカの宗教 — 仏教だけは賛美しつづけている。この真の平和を祈願する東洋の宗教だけは、人類の遺産として将来に残るのではないかと。幼年期を過ぎ、人類が真に成人した暁にも、もちつづけていくものではないかと。 誤解の弱まったタイミングで、チベット仏教についてもぜひ書きたいと思っています。
by nyckingyo
| 2008-04-26 03:49
| 北京オリンピック
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