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今夜は60年代のかなり風変わりなジャズ・アーティストを紹介する。
日本語でいまの季節のことを「風薫る」と形容する。だれが言いはじめたものかなんとも美しい響きだが、あふれんばかりの新しい生命が誕生を謳歌して自身の薫りを主張する。無風状態だと青臭さが鼻につくほどだが、さわやかな五月風にのってほどよい加減に分散すると言うわけだ。パークをはずれてビル街で働いていても、風が薫っている。 その風の粒子のひとつひとつを追うようにパークのもっと先の虚空を見つめていると、エリック・ドルフィーの最期のアルバム『ラスト・デイト』のなかで彼が呟いていた言葉を思い出した。 When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again. — 君がミュージックを聴いたあと、音はそのまま風のなかに消えて行く。君はもうその音を二度と捕まえることはできない。 高校生時代にのめり込んだエリック・ドルフィーは馬の嘶きのようなアルトと、ねじ巻き鳥のようなフリュート、そしてバスクラリネットという不思議な音色の楽器で当時の僕たち若者の心を強烈にとらえた。 キタの暗くて狭いジャズ喫茶の一角で起きたひとつの小さな精神革命にすぎないのだが、そこがこれからの人生をどう生きるべきかを、なんとなく実感できたような気がしたはじめての瞬間であった。 自分のバンドとしての活動期間わずか4年で夭折したこの天才は、その後のニュー・ジャズの流れを確定的にした。もちろん当時はドルフィーのライヴに行くことなど望むべくもなかったが、いまやその頃 — 彼の生前の時期からリアルタイムでLPを聴いていたひとと話すことはここNYCでもきわめてまれである。ドルフィーは『真夏の夜のジャズ』という50年代の映画に、チコ・ハミルトン・バンドのフリューティストとして印象的に登場していた。この時はまだ彼自身の率いるバンドではなかったので、さほど先鋭的な演奏ではなかったが、既に猛烈な存在感でソロを聴かせている。おなじ時代のアルトの演奏、In a Sentimental Mood も彼にしてはめずらしく思い切りオーソドックスなスローバラードだが、すべてが尋常ではなくすばらしい。こんなメランコリックな曲のいったいどこに、尋常ではない怪物が潜んでいるのだろうか。何十年も前にその映画を見たあと、憑かれたように梅田のレコード店に飛び込んでドルフィーを捜していた小生意気な少年がいた。 独立して最初のアルバム、Outward Bound (日本語タイトル『惑星』)には本当にびっくりしたけれど、何度も聴くうちにその音は重くわが魂の深部にしみわたり、その次の瞬間文字通り風に乗って飛んで行く。それは上記の彼の言葉のように、あるいは彼の生きざまそのもののように、実にあっけらかんとしてそれでいて魂を揺さぶる真実の音で、アドリブでその真実をなにかに隠喩(メタファー)したそのすぐ後、ふわりと風のなかにかき消えてしまう。何に例えたのか、考えている間に曲は終わっている。そういえば英語で金管・木管楽器の総称を『wind instrument』と言う。言いえて妙である。彼の名字の響きもいい。どるふぃー、とまるでそのまま爽やかな風が吹いているようではないか。少年の耳にはなにもかもが新鮮に聴こえる。 同じ種類の病いで彼の3年後に亡くなったジョン・コルトレーンの音楽と比較すると好対照である。かれらはお互いに影響しあって共演(上のYouTube)もしているし、発想の似た部分も多々ある。コルトレーンは晩年のあるとき、突然身体の内部に音楽が充満するという不思議な体験をしたそうだが、確かに彼の音楽は無限に繰り返されるモード奏法の音のかたまりが、その空間と頭脳に充満していくイメージがある。ひらめいたひとつのフレーズそのものをコード進行させて繰り返し、無限に増幅していくのが彼のモードだから、音の足し算かけ算は当然の結果である。陰性過多の音たちが胃袋にずしんと落ちる。これもひとつの音楽の快感であり価値体験であり、好きな人にはたまらない。ただ音の連続して響きつづいている間、メッセージの暗さや重さから解放されない我々の魂がある。 ドルフィーの方は、同じように連続した音が動物的な嘶きとなり、風に乗ってさらりと消えてしまい、空間もあたまのなかもからっぽのままに戻り、体験後ははなはだ清々しく実に心地よい。もっと簡潔にただ魂を歌うこと、そして歌う以前になにかを隠喩するのをやめることに徹したのが、ほぼ同時期にニュー・ジャズを完成させたオーネット・コールマンということになるだろうか。プラスティック製のアルトを引っさげて、ドン・チェリーとともにジャズシーンに登場、ドルフィーを知る直前で、彼以上に驚かされた。そのとき感じたのは、カラカラに乾燥したジャズ、というイメージだったが、そのすぐあとに僕の感性がかれらの音楽をまったく誤解していたことを知った。ドン・チェリーというコルネット奏者はその後数回コンサートを観たが、素晴らしいアヴァンギャルド・アーティストである。最近の若者評で彼は「オーガニック・ミュージックの元祖」などと書かれていたが、少し違和感はあるものの、結局言い方などはどうでもいい。問題はどの世代にも共感があるか否かだ。 とにかくこのドルフィー、コールマン、コルトレーンの3人の音の世界が、チャーリー・パーカーの創ったビバップの世界を正統に継承しつつ、かつまったく新しいジャズの世界を生み出し、現在に至るまでその世界に君臨している。 我が思春期ともろにぶつかった60年代は、新しいものがそこはかとなく生まれ、あるいはそれが生まれる予感のみで終わった場合もとてつもなく違う地平からとんでもないことが起る、ということの連続であった。その後、半世紀近くの年月が経とうとしているが、あのような時代が戻ってくるとはまだ感じていない。自分が若かったからということももちろんあるだろうが、あの時期に新しいものとして発信され残っているものは、現代でもやはり新しい感性のままである。その中でもとりわけドルフィーの音楽は、活動期間が短く存在そのものが風のように消えていったせいもあり、いまだに新しさの象徴として僕のこころに貼り付いている。 ただ最近、そのときから半世紀を経て、かたちはまったくちがうが、さまざまな新しいムーヴメントが始まるのではないかと感じはじめている。立証するなにものももたないが、そんな新しい「風が薫っている」感じがする。 いま小さく薄っぺらいCDから出てくる生前の彼の演奏は、デジタルでリマスターされ、生きている彼がすぐそこで吹いている錯覚がある。そしてその音はやはりいまここに吹いている風に流されそのまま消えていく。アルトを含めた三つの楽器を操っているが、バスクラリネットが特にいい。この楽器をジャズに持ち込んだのは彼が初めてで、いまだに他の優秀な演奏家を知らない。流れていった音の彼方に彼の存在感だけが鮮やかに残って、その音を聞いた者だけが特別な形而上の世界を経験する。彼の音はいつも風に乗ってはじめて流れる。時折夜中に家人の迷惑など考えてしまって、ヘッドフォンやi-Podなどというもので聴いてみるのだが、確かに音質と臨場感は抜群ではある。だがそれはちいさな耳の内部空間で空回りしていて、決して風に乗ってやって来た音ではない。 ここまで書いて、ふと若き村上春樹氏のデヴュー作『風の歌を聴け』を憶いだした。すべての青春がそうであるように、少し暗いがしかし爽やかなこの70年代の小説は、いつも書棚の奥にヒッソリとしているタイプの本ではなく、ドルフィーのCDとおなじぐらいの頻度でこのNYCの書斎に登場していて、このふたつは風という部分でけっこう同居している。ところがどうもあらゆる種類の音楽を受け入れるふところの大きい春樹氏が、ドルフィーやコルトレーンはさほど気に入っていないご様子である。氏の青春は、スタン・ゲッツをはじめとするウエストコースト・ジャズで埋まっていて、おなじジャズファンだった僕の青春とはかなりずれている部分もある。ただこの『風の歌を聴け』をはじめて読んだとき、そのほろ苦い爽やかさが、上述のドルフィーの「風に消える音」ということばと絡まって、おなじ部分の感覚で受けとめた。以来ジャンルこそちがえふたりとも同じ次元で解読できることでファンとなった。 春樹氏の「ポートレイト・イン・ジャズ」にドルフィーについての記述がある。ほとんどが彼の「アウト・ゼア」というアルバムのジャケットについての話で終始していて、このジャケットがダリやキリコなどの絵の雰囲気を持っていてとても心を惹かれるという。 以下引用 —「こういうことを言うとカドが立つかもしれないけれど、エリック・ドルフィーというひとのユニークにしてアヴァンギャルドにして真面目にして、あくまで個人的にして、そしてまたいささかの胡散臭さ(良くも悪くも)を含んだ芸風に、この絵のトーンが、巧いとは言えないなりにも、不思議なくらいしっくりと寄り添っているからじゃないかと僕は考えている」。確かにこのアルバム・ジャケットはドルフィーそのものと言ってもいい。はじめての方にはドルフィー入門としてこのアルバム「アウト・ゼア」を推薦する。 村上春樹のこの文章のなかにある、ドルフィー自身の言葉を孫引きする。 「またこのジャケットの裏には、ドルフィー自身のこのような発言もプリントされている。『なにか新しいことが起ころうとしているんだ。それがなんであるのか、僕にはわからない。でもそれは新しいものであり、優れたものなんだ。そしてそれは今まさに起ころうとしている。そのまっただ中に、ここニューヨークにいられるというのは、ほんとうに素晴らしいことだよ』。このレコードが録音されたのは1960年8月、コンサヴァティヴな50年代もようやく終わりを告げ、ジョン・ケネディーが大統領に選出される少し前のことである。」 さきほどのくり返しになるが、その時代からほぼ半世紀を経過して、ときまさにまた新しい時代の波がやってきそうな強い予感がある。今日の時点でバラク・オバマが民主党大統領候補に選出される公算が非常に高くなってきた。以前オバマの演説に関して、コルトレーンのモード奏法を引き合いに出したこと(ふたつの星による変革)があるが、ドルフィーの音楽にもオバマの個性との共通点が多々ある。それはジャズという黒人のもつ素晴らしいクリエイティヴィティーの発露の場で、とびきりの先鋭として4年間だけ君臨し、風とともに夭折した天才の録音のなかに今でもはっきりと確認できる。西欧からの文明が形骸化して古めかしく感じはじめた今、アフリカン・アメリカンの知性と理性がはっきりと観なおされるべき時期に来ている。 ケネディーとおなじときに出現したドルフィーたちアーテイスツが、その時代を動かしたとすれば、あるいはまったく新しいミュージシャンがオバマと対照的に語られる日がくるのかもしれない。いずれにせよ、新しく素晴らしく美しい時代がくる予感は、いつもその時代の音楽やアートから始まっていることには、まちがいなく読者諸氏の同意を得られることと思う。 昨年の夏、セントラル・パークの北端の小さな広場でイリノイから来た高校生のジャズのビッグバンドに遭遇した。若さと素直さで全曲とても好感が持てたが、最後に栗毛色の髪の中央部を真っ赤に染めた白人の「トサカ坊や」が突然「僕の敬愛するエリック・ドルフィーをやります」と言い『Far Cry』という曲を吹きはじめた。トサカ坊やの持っていたプラスティック・アルトの音色は、明らかに21世紀の響きではあったが、我が思春期のドルフィーのイメージとぴたりと重なってパークの風の中にさわやかに飛んで行き、消えた。音は消えたが天上にドルフィーの大きな顔が現れ、ふと微笑んだように見えた。 このトサカ坊やとはこのときドルフィーのことで二言三言声をかわした。どうやらこの楽団の老指導者が、63年のドルフィーのイリノイ大学でのライヴを観て感激し、そのときの名盤 The Illinois Concert を自分の生徒に聞かせたことからはじまったらしい。昨年の夏といえばオバマ旋風は吹きはじめてはいたが、まだ今年になってからのような大風ではなかった。いまになってふり返ると、オバマの支持基盤・風の街シカゴからやってきたトサカ坊やの一団は、新しい時代を象徴する前衛の風であった、という符合のようなものを感じる。そしてその小コンサートの2時間後、ミッドタウンのホテル街あたりをうろうろしていたら、またこの楽団を見つけ、ニコニコと僕を見ている赤いトサカが目についた。こちらもとびきりの笑顔で手を振り、高校生楽団はビルの向こうに風とともに消えていった。 このあと何十年・何百年が過ぎても、その時の高校生世代がとびきりの新しさを求めてドルフィーの同じメロディーを風の中に流しつづけることだろう。 本日の金魚のフン&FUN: 本文中にリンクしたYouTubeは、BGMという意味もあり、ドルフィーの比較的初期のスローバラードやメロウな演奏を集めてみました。しかしながらドルフィーの真骨頂は、激しく動物的に嘶くアルトにあると。当時かなり先鋭的と言われたミンガスのバンドでも、ドルフィーは特出してエクスペリメンタルです。時間の経過というのは不思議で、僕の耳にはいまやまったくアヴァンギャルド・ジャズとは感じなくなっているのですが、はじめての方には「こんなに前衛だったら買わなかったのに」とか言われると困るので、このあたりを何曲か聴かれたあとに、ドルフィーのCDを買われることをお薦めします。日本語のサイトでは、高木勝氏のSite Dolphyが充実しています。
by nyckingyo
| 2008-05-20 10:36
| NYC Music Life
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