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「前稿(1) 一瞬に時空が歪む」よりつづく
一瞬にしてエントロピーが増大し時空が歪む如き、蔡國強(サイ・グォチャン)のインスタレーション作品はつづく。 Head On (2006) は99頭の狼たちの速行師団の図である。その一瞬で止まっているどんじりの狼のうしろからグッゲンハイムの回廊を登り、ゆっくりとかれらを追い越していく。蔡が9という数字にこだわるのは、多分中国で生まれた十進法ではそれが最大という意味を持ち、やはり最大の数によるイメージのエントロピー増大を意図しているのではないか。99頭の狼たちは剥製のようにみえるが、実はひとつづつが手作りのレプリカである。狼たちは結束しながら回廊の前方に向かって激しく奔っている。「先頭の部署でなにか異変が起こっているぞぉ。」狼の意識のなかでの伝令が列のうしろの狼にまで一瞬にして伝わってくる。観客たちはゆっくり歩いてやっと狼たちの先頭にまでたどりつくのだが、そこに到るまでの意識の状態はもはやまったく狼団の一員になりきっていて、焦りながら全速力で駆けつけた気分にちがいない。軍団の先頭ポイントには透明のプレキシグラスの大きな壁が立ちはだかり、その付近の狼たちは全員その「見えない壁」に頭から激突している。 斥候もたてないで急発進していた軍団のすがたは、われわれの精神のうちにある「焦り」を象徴している。ともすれば、早く辿りつきたい。他の軍団よりさきに到着すればあるいは大きな利益がある(かもしれない)。腹が満たせる(かもしれない)。「見えない壁」を創った側は、その焦る心理を巧妙についてくる。叡智を蓄えた人間は、ひたすら焦らず、その上で行動せねばならぬ。考えすぎて行動が伴わぬことも無謀に繋がる。そのためにはまず日頃座りつづけ、長時間こころの静寂をもつことが、一瞬に起こる問題を明解に解決できる近道ともなる。 「見えない壁」について、キュレーターの文章は「ベルリンの壁のようなもの」と説明を加えているが、これは「天安門事件」などという言葉を引き合いに出さないことで、蔡の故国に対する多少の気配りのつもりなのかもしれない。結束を固めた狼たちの群れが行くのは「個の自由」の道である。それはそのアーティストが生まれた政権の性格などを超えて、アーティスト自身、作品自身でなされねばならない。13億の人民を抱える現中国の共産党政権が、いままでの中国の政権のなかで最良の形態だということはよくわかる。ここ十数年の経済の自由化路線が、真の人民解放に近づいているイメージもうかがえる。 想いをむかしに還せば、僕が東京に生息していた30年前には、中国の人々が現代美術を論ずることすら不可能だったのではないか。北京オリンピックの誘致が決まった前後からこのNYCに住む多くの中国移民たちの顔が輝きはじめた。チベット問題と大地震でまた多少のかげりが戻ってしまったが、積年の念願「自由社会」にむけて突進するかれらの結束力を見ているだけで小気味よい。 かたや戦後60年のあいだ、名ばかりの平和という呼称のニュートラル・ギアを入れたまま、自由を謳歌してきたとなりの列島の、無気力でまったく結束の意志の片鱗も見えない若者たちの態度はどうだ。ShibuyaやAkibaの狂乱の現実は何ごとだ。「見えない壁」の不在が招く不幸もある。 次のインスタレーション、Cry Dragon / Cry Wolf: The Ark of Genghis Khan 「叫べ竜、叫べ狼:ジンギス・ハーンの箱舟」は1996年のグッゲンハイム・SOHOの展示でヒューゴ・ボス賞に輝き、蔡がNYCでのメジャー・デヴューをした作品である。 素材は、羊の革袋108個、樹の枝、櫂、ロープ、雑誌の表紙、そしてトヨタ製の自動車エンジン3基。この作品の最初のヴァージョンの展示は、豊田市の近く、名古屋市立美術館でのことだという。日本のクルマがアメリカ車とヨーロッパ車を席巻したさまを、ジンギス・ハーンの欧州侵略の恐怖と対応させている。 羊の革袋の108個という数字は、いうまでもなく仏教におけるひとの煩悩を数えたものである。この多くの煩悩を一音ごとに浄めていく除夜の鐘というものを 99+9=108回ならす習慣ももちろん中国にはじまる。古代モンゴル兵士の食糧=羊と、その革袋は水を補給する必需品なのだが、膨大なその列がトヨタのエンジンで動くという発想が実に滑稽である。東洋人にとっては西欧への再進撃をイメージして、どこか痛快にも感じる作品。 同じ数字・108体の粘土彫刻が並ぶ、New York's Rent Collection Courtyard「NYでの家賃(地代)取り立ての中庭(コートヤード)」は、解放前の地主階級が、小作人、貧民を酷使・虐待するの図である。この街に住む貧民金魚には、身につまされるタイトルである。四川芸術研究所のメンバーによるオリジナル版(これは蔡とは関係がない)は1965年に制作され、翌年からはじまった文化大革命のプロパガンダとして使われた。蔡國強は1999年のヴェニス・ビエンナーレに「ヴェニスの家賃取り立ての中庭」としてこの作品を再現する。そしてこのたび、この物価急騰がつづく現代の格差社会の都、新自由主義の中枢での制作となる。オリジナル版にも参加したLong Xu Li(漢字表記不明)はじめ、10名の彫刻家を蔡がディレクションする。 蔡が9歳の時に文化大革命が起こり、既存の権威が次々と否定された。蔡も紅小兵として教室の机や椅子を壊した。毛沢東のいう「造反有理」すなわち権威を認めず、いままでのすべてを否定し新しいシステムをつくろう、という考え方に強い影響を受けた。それが、時代の風を受けるに従って蔡の体の中で独特の変化をもたらし、より自由な表現を求めるようになっていく。 蔡はむかしのTVインタビューで、こう言っている。 「『造反有理』という考え方にはもちろん間違いはいっぱいある。しかし、方法論として影響を受けた。体の中に刻まれている」 ただしこれは蔡があくまで日本人に向けた発言である。かれを囲む複雑な政治環境は、現代の中国以外の世界で生きる中国人に共通している。 司馬遼太郎の旅行記「長安から北京へ」によると、「解放前の中国における小作人とはまさに奴隷にひとしかったが、それが当時70%までに増えていたという。言いかえれば、支配と被支配の図式が単純化してきていて、上部構造さえ取っぱらえば人民の社会になりうるという面が露出していたように思える。日本の侵略はその面をいよいよ露出させただけでなく、民族主義の噴出という別の火炎が、その露出面を誰の目でもわかるようになまなましく照射した。」 生の粘土で制作された108体は、動かすとぼろぼろに崩れてしまうので、僕の観た展示最終日を境に廃棄処分となる。すでに乾燥しきっていて一体ごとにひどくひび割れている。ひび割れた小作人が目を剥き、激しい労働を強いられ、なおも残虐な取り立てをする地主に抗議し、地主がさし向けた図体の大きい兇漢に殴られているさまは、まるでそのさまの結果としてそこに具現化したかのように、彫像のまわりに乾燥した粘土の破片をまき散らしている。ひびが、濁ったまま乾燥してしまった人間の情念を象徴し、作品の辛辣さをより強調している。 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) —救われるべき人々は限りないが、必ず救うことをお誓い申し上げます。 座禅の前後に唱えるお経、四弘誓願(しぐせいがん)の冒頭の一節である。 インドからチベット経由、北回りで日本にたどり着いた仏教は自らの教義を「大乗」と呼び、生きとし生けるものの苦しみを救う菩薩行を行なう。大きな船に乗った一切衆生をすべて救うことを第一義とする。 この稿は蔡の故郷、中国の衆生のことを考えながら書き、いったん校了していた。が、そのあとすぐ、つい一昨日東京・秋葉原で無差別殺人事件が起こり、現代日本の差別社会の底辺にいる人びとも、おなじように救われない奴隷のような境遇であることを痛感した。 犠牲者の方々にはこころから哀悼の意を表する。犯人を擁護するつもりは毛頭ない。そのうえで、この事件は、社会構造がひき起した犯罪という意味が明解だと思う。派遣労働者を人間として扱わず、ひたすら安い消耗品としてしか見ていない。性能の悪い(と思われている)消耗品だから少しましな代替えが見つかれば、ポイと捨てられる。如何に我慢強くてもキレるのが当然である。もちろんこの犯人の場合、キレ方に大問題がある。しかしそれ以前にどこかで救う手だてはなかったのか。社会全体がひどくやさしさを欠如していないだろうか。昨年帰国した時も、知り合いの少ない街ではなにをしても底冷えのする感覚があった。大きな構造のなかの、ほんの小さな歯車が噛み合っていれば、犯人を救い、被害者たちを救えることになったはずである。大きな疑問符が残る。そして逆にいえば、その大きな構造がもし今後なにも変わらないとすれば、小さな歯車が噛み合わないまま、おなじようなことが無数に起こりつづけることになるだろう。 ここアメリカも含めて、資本主義の末期的症状のようにも思える格差社会を解消できぬなら、この世での「大乗」の船の意味も所詮「絵に描いた餅」でしかない。 僕はアーティストのひとりだから、ひとつのアート作品、一枚の絵によって社会を、宇宙を変えることができると信じている。スタートは「絵に描いた餅」からでもいいと思う。みんなの意識がそれを本当の餅に具現化できるのだ。そう考えた同志とともに、のちほど別の稿でこの問題をもっと深く掘り下げてみたい。 ひび割れた粘土の衆生が抗議するすがたを観ていると、コンセプトはまったくちがうのだが、西安にある秦の始皇帝の兵馬俑を思い起こした。先日の大震災でかなりの数の人形が崩壊したというニュースを耳にしたが、東西200m、南北60mに整列する8000体以上の傭(殉死者のかわりに埋葬した人形)の軍隊である。全員が東を向いて整列しているという。始皇帝の後を追って殉死するかわりにその兵の魂を封じた人形を葬るという古代のコンセプチュアル・アートである。 世界中からなんでもコレクションしてしまう癖のある当地メトロポリタンにも、数十体が運ばれていて何度もお目にかかっている。西安で実際のものを見た人の談話では、軍隊と平行に盛られた土の部分に丸太が渡され、その上に藁と土をかぶせて埋められていたため、木が腐るとかぶせていた土が落ちてその傭は粉々に壊れてしまっていたという。それでも現代まで生き残った傭たちは、先日の地震で崩壊したものを含めて、帝王の死後からその魂を護り、2000年以上の歳月をそこに立ちつづけていたわけだ。 かたやグッゲンハイムでの現代の衆生を代表する傭たちは、わずか3ヵ月で全員こなごなに砕かれ、もとの土に還った。 この連載稿を終えた6月末になり、蔡のサイトにこの作品の粉砕、撤去の写真が掲載された。壊している人びとが悪いわけではまったくないのだが、衆生無辺のリアルなイメージとしてあえて下に再現する。 たくさんのインスタレーション作品をほぼ見終わり、いよいよ蔡國強(サイ・グォチャン)の火薬によるイヴェントのヴィデオ・モニターのある階にきた。 蔡の初期の作品は、オイルペインティングの上に焔硝(えんしょう)の粉を撒き、その爆発のあとをそのまま見せる平面作品であった。これが発展して床の大平面にさまざまなかたちの型を置きその周辺に火薬を仕掛けて爆発させ、火がまわる前に消し止めて平面作品を定着させる、という手法になった。今回の回顧展でも、この手法による多くの作品が展示されていた。 Lightcycleを制作した時の映像がある。 どの作品の場合も、火薬に火をつけた瞬間、蔡は一瞬、まるでいたずら好きの子どものようなしぐさで点火地点から離れ、次の一瞬にんまり笑っているようにみえる。中国の旧正月を祝う爆竹の山に点火する時の子どもの表情である。爆発のあと、多くの助手とともにあわてて火を消し止める仕草も少しく滑稽である。彼の人望がどこからきているかをかいま見た気がした。 下のイメージは2006年の作品、グッゲンハイムの回廊からもあふれ出しそうな、火薬による一大山水屏風である。 比較的小さめのモニター3台に映し出された映像は、さきほどの秦の始皇帝による最大級の土木事業である「万里の長城」のもとで行なわれた。Project to Extend the Great Wall of China by 10,000 Meters「万里の長城を10,000m延長するプロジェクト」1993。ゴビ砂漠近郊嘉峪関 Jiayuguanとあるので、多分明代に延長された長城の西端でのイヴェントである。この西端に10,000mの導火線を敷設し、600kgの火薬を100秒間爆発させ、このひかりの帯で延長するという。日本のTVドキュメンタリーとして放映されたそうので、ご覧になった方も多いと思う。 黄昏が近づき、砂漠の西に太陽が沈みそうになると、数百の住民が四方から集まってくる。近代都市に住むわれわれから見れば、ここゴビ砂漠の住民は悠久の時間の流れに身をたゆたえているごとくである。蔡の試みはその悠久のときを破壊し、宇宙からの新たな生命体を砂漠へと送り込もうとしている。 このイヴェントについて語った蔡國強の文章を引用する。 「ここで求めているのは、作品の爆発の動きがビックバン以来延続してきた運動に循入し、宇宙のリズムと呼応することだ。爆発の一瞬、時空が混沌化する。宇宙が接近する。— このような人間のなかに存在する宇宙性と宇宙のなかに存在する人間との一体化を図る摸索は、太古の時代から人びとが求めてきた行動と一致していると思う。宇宙への帰還、同胞を探す試みは、人類の永遠の宿命的課題なのだ。しかし、この課題は、われわれの時代にさらに切迫したものとなってきた。宇宙からの視線をプロジェクトに組み込むのは、地球と人類へのトータルな危機感があるからだ。特殊性をもつ素材、場所、芸術活動を通じて表現したいのは、宇宙、地球、生命、文明の普遍性なのである。」 蔡國強(1993) 蔡は1989年から「外星人のためのプロジェクト」と名づけて、宇宙と対話する、というコンセプトで創作活動を続けていた。地球上の人間が造った建造物の中でただこの万里の長城だけが月世界からも見ることができるという。 宵闇がせまりくるとともに、蔡は導火線に点火する。炎はゴビの砂の上を猛烈なスピードで這っているのだが、夕闇の渾然とした色調のゆえにか、まるで宙空のまっただ中を巨龍が駆けているさまである。ゴビに住むわれわれの同胞は、この異様な光景に心から驚いたに違いない。かれらのことを原始の人びととかいう差別感など毛頭もたないが、おそらく100秒で砂漠を駆け抜ける大規模な火薬の奔る音は、かれらが生まれてはじめて聞くものだったのではないだろうか。 はたしてこの瞬間、宇宙人はそのひかりのなかにわれわれ同胞を認知したであろうか。あるいは、そのときその場にいたゴビの同胞のこころのなかに、宇宙からのメッセージがきちんと届いていて、その時点からすでに地球は大きく変わりつつあるのかもしれない。 次稿 座禅と火薬 — 蔡國強展 (3)につづく
by nyckingyo
| 2008-06-11 01:32
| 座禅と火薬—蔡國強展
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