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「前稿(2) 速攻師団の壁」よりつづく
星の誕生、そして星の消滅。その根源を遠く辿ればビッグ・バンという状況にぶつかると宇宙物理学者はいう。 蔡國強(サイ・グォチャン)が演出する爆発は、動きがそのビックバン以来延続してきた運動に循入し、宇宙のリズムと呼応することだという。その宇宙の歴史を、火薬によって相似形とし、「人間のなかに存在する宇宙性と宇宙のなかに存在する人間との一体化を図る摸索」をする。 座禅と火薬のどちらもが、一瞬間のパフォーマンスにたどりつき、宇宙と人間の存在性をさぐる、ということだけでひとからげにしたり、ふたつを対比させてこれ以上論じるつもりはない。 ただこのふたつは蔡の故郷、中国という国で発明され、そこから日本に渡ってきたことのみが共通している。 鎌倉・室町時代には航洋船の遭難が少なくなって、若い禅僧が多く中国へ行くようになった。季節風が把握されて東シナ海の突っ切り方がわかり、商船にさえ乗れば簡単に行けるようになったからだという。道元も商船に乗って出発した。当時は禅の大ブームで、それはもうすごい数の僧が中国に渡り、この中国発の仏道を学んだ。 わが若きNYCでの臨済の師は最初の出逢いのとき、そもそも禅とはインド人であった達磨大師が、弟子の慧可を通して中国に広めた、といういきさつをお話になった。 司馬遼太郎氏の見方は、座禅が釈迦の原始仏教の本質だろうと思った中国の人が、だんだん成立させていったもので、多分に荘子のような哲学も入ってきたという。禅といえば中国禅で、かれらが発明した、と明解にいわれている。日本の僧が競って宋代の江南の地へ行き、禅を学んだ。 当時の明州すなわち江南地方は、中国でも異質なところで、建物、庭園がみな簡素で、赤や黄を塗りたがらず、渋かった。足利義政に代表される室町期の日本人の淡白な好みにぴったりの感性であった。この感性が日本でうんと品よく昇華され、茶道や庭園や数寄屋造りといった室町美学へと発展していったという。 日本人が受けとった禅宗というのは非常に美学的な面を強調している。司馬氏は「実際の禅は、われわれ凡俗がとてもやれるようなものではなく、北条時宗とか、一休、沢庵禅師のような何十万人のうちのひとりの天才がやるべきものである」と雑談のなかで語られている。凡人がやると下品になるという。司馬先生にはすべての著作にかぎりない尊敬をもって読ませていただいているが、このことばかりは多少異論がある。むろん後世武士という特権階級の宗教にはなったが、禅は現代では凡人にとってもかかせない、世界に類をみない最良質のメディテーションである。そこで僕のような凡俗が何かを表現しよう、涅槃に近づこうとしても、確かに禅の真理を追究する古今の天才にはくらべようもない。しかしこの現代のカオスの海にただよう凡俗の多くが、そこにさまざまな活路を見出していることは確かである。世界は、中国のものではなく日本の禅のもつ美学を強調するが、美しくなくともただ座ること、の原点が多くの衆生を救っていると考える。 火薬のほうは古代中国の発明品で、日本にたどり着くのはかなり遅くなってからだ。元寇のときに、敵が鉄球に詰めた火薬を弓で射つ武器を見たのが、日本人の眼にふれた最初だという。実際の火薬武器の輸入は16 世紀になってからポルトガル経由、種子島着の飛び道具として戦国の英雄、織田信長の利するところとなる。 武器としてではなくこの火薬を使った芸術「花火」が日本にたどり着いたのもこれ以降のこととなる。江戸時代から隅田川べりで恋を語るときの格好の背景となった。 この蔡國強の作品にも当然だが、この花火にかぎりなく近いものがある。 Pyrotechnic Rainbow 花火のようなレインボーの映像。 そして青空に点状の黒煙が記されて増幅していくBlack Rainbow。 蔡はこのほか、数えられないほどの「爆発イヴェント」を成功させていて、グッゲンハイムで上映されたヴィデオの数も半端ではなかった。 考えてみれば明治以前から日本に存在する物質・文化で、大陸から渡来したものでないものをさがすことのほうが難しいのではないか。有史以来、いやそれ以前からかもしれない。衣食住のほとんどすべてを、われわれ日本人は中国を起点か媒体にして輸入しつづけてきた。その変成品を作って大陸に還すことは多少あったかもしれないが、その列島の東の先にはもう土地が見当たらないゆえに、それらを東の異人種に与えるチャンスはない。列島はそれら文化の突きあたりの位置にあり、ゆえにそれらが熟成し、異常に高いクオリティでほとんどのものが完成をみた。ヨーロッパ、ペルシャからスタートし、インド、中国を経てきた大陸文化の、いわば「奥座敷」であり「離れ」である。明治以降、たとえばブルーノ・タウトが桂離宮の美にそのことを発見した。戦後にはわがNYの師と仰ぎ尊敬しているドナルド・キーン氏が、足利義政に日本文化の源流を認められ、そこからの考察を深められている。しかしその高貴なる奥座敷文化を誕生させる原点は、すべて中国にあった、といっても過言ではない。 前出の司馬遼太郎「長安から北京へ」のなかに「わらじ」に関する記述がある。毛沢東の長征のときの記念品のなかに、長征軍の兵士が多く履いていたわらじが展示されていた。編み方も、長い紐の出し方も、すべて日本のわらじと同じであったという。日本は古い時代に中国からわらじまで輸入した、というのが氏の驚きであった。「考えてみると、わらじはむしろなどと同じように稲作の付属物なのである」氏は日本に稲作という弥生式農耕が入ったのは、朝鮮半島経由と中国港南地方から東シナ海を経てきたというふたつのルートがあり、わらじは蔡の故郷を経由した後者=からやってきたのではないかと推測されている。 そのわらじも含めて、ただひたすらわれわれに与えつづけてきた中国、お世話になりつづけた中国に対してわれわれ日本人は、かれらに一体なにを与え還すことができたのだろうか。 古来からさまざまな物流が中国に還り、鎖国をしてからも非常に限られた部分ではあるが双方の貿易はある程度うまく稼働していた。ところが日本が近代国家の仲間入りをしたとたん、大日本帝国の態度は豹変する。まず中国に与えたのが日清戦争の際の武力である。これは戦争だからしょうがない、というひともいるかもしれない。勝った日本は図に乗りはじめ、かれらに侵略、差別、大量殺人を与えつづけた。100年の近代史が如実にそれを物語っている。それに伴う技術、インフラ、近代設備も作ったじゃないか、と胸を張るひともいる。だがこれは自分たちの植民地としての将来、日本の利益をより大きくするために設置したもので、決して自慢できるものではない。 毎年12月になり、真珠湾攻撃の記念日が近づくと、PBS(公共放送サービス/CMのない局で日本の教育TVチャンネルに似ている)系列の放送局で年中行事のように太平洋戦争関連の映像が流れる。日本では放映規制のようなものがかなりあるのだろうが、この国ではかっての敵国の醜態をさらけ出すことに容赦はない。「南京大虐殺」の映像も毎年見せられる。原爆映画の評論「地獄を見た語り部たち」の稿でも書いた状景をあえてくり返す。 中国から移民してきた若者と友だちになって、PBS TVを家でいっしょに見ていたら、南京大虐殺のドキュメンタリーが映っていた。 それでも最初はなかよく話しながら見ていたが、突然映像が変わり、旧日本陸軍兵が、それまで激しく泣いていた中国人の裸の赤ん坊を中空に放り上げ、持っていた銃剣で串刺しにした。そしてさらに驚いたことにその直後、その日本兵は赤ん坊の串刺し銃剣を高々と持ったままニヤリとし、仲間となにやら談笑しているのだ。その映像のあと中国出身の友人も僕も黙り込み、その日以来その彼とはほとんど話せなくなった。 もし読者の方々が逆の立場の国民だとしたら、もう70年前のことだから、たったひとりの狂った兵士の所業だから、といってその同民族の赤子が殺された映像を軽く受け流すことができるだろうか。 この一節はもちろん当時の帝国陸軍が伝染させた狂気を強く弾劾するために書いたのだが、同じ時期の列強と言われた先進国のすべてが、中国をアジアの愚鈍な動物のようにとらえ、そこに住む人びとを人間として扱っていなかった節がある。 「当時の中国の外圧と内部事情をニューヨーク・タイムズのふたりの記者が克明に分析した本が出ていて、そのタイトルを『支那は生存し得るか』というものであった。ガン病棟の医者が危篤の患者を診るように冷静なジャーナリストに分析されてしまっている中国と民族に衝撃を受けた。そしてこの本の結論は『生き延びることはできない』というものだった」これも司馬氏の同書からの引用だが、このあと同行の日本人に「またああいう中国にもどるのでしょうか」と質問された司馬氏は、めずらしく声を荒げて「決してもどることはないです」と断定されたという。戦時中自らも一日本兵として装甲車に乗って大陸を移動していた司馬氏は、この隣国の昔の惨状を地獄絵図のように憶われている。 再度この本の別の箇所の引用にもどる。 —1949年、日本の敗戦の4年後、中共軍は南京に入城し、蒋介石国府総統は上海から台湾に飛び、10月には中華人民共和国の成立が宣言された。この騒然としたなかで、しかるべき委員会の委員が各地を訪ね、土地の人びとと話し合って、日本帝国主義の意味について話し合ったという。 この教育に3年の歳月がかけられた。その間、日本人の旅行については入国ヴィザが出されなかった。当時もしヴィザが出されて日本人が中国を旅すればおそらく無事に帰れなかったに相違いない。 —この教育の内容は、悪いのは日本帝国主義、軍国主義であって、日本の国の人民や日本国を憎むな、ということであったという。どの土地でも決まって質問が出た。「日本民族に対しては憎むべきではないということはわかったが、しかしその軍隊や兵隊を憎んでもいいのではないか」ということであったが、教育担当者は「それも憎むべきではない。かれらは軍国主義に駆り出されてきただけである」と前掲の言葉をくりかえした。質問者が「では、私の血族の非戦闘員は、何もしていないのに、兵隊に殺された。直接殺したその兵隊に対しては憎んでもいいだろう」というと、教育担当者は「それも憎むべきではない」という。日本の軍隊が来れば中国人としては女子供でもこれと戦う権利があり、だから戦っただけだが、日本の兵士の側からみれば非戦闘員にさえ敵に見えた。だから殺した。兵士の恐怖が殺させたと考えていい、と言った。 —質問者はさらに、日本兵が、食料を強奪し、女を強姦した。これは軍国主義とは無縁だから憎んでもいいのではないか、と問うと「それも憎むべきではない」と教育担当者は言った。戦いが進むと心もすさむために、餓えれば食糧を奪い、女に悪いこともする、だからそういうことをした人も憎むべきではない、という。 「それでは職業軍人だけは、憎んでいいのではないか」というと、教育担当者はそれも憎むな、という。その理由はかれら日本人の職業軍人は、軍人になることが日本とアジアの平和のために役立つことだという教育をうけ、自分もそう信じてきた、かれらを憎む理由はない、と言った。以来3年でほぼこの考え方を各地方に徹底させ、そのあとはじめて日本人に入国ヴィザを出すようになったという。 司馬氏は上海での滞在中たえずこのことを考え、以上のことは本当だろうと思うようになった。中国においては人民に対する原理の教育が問題の枝葉にまでおよんでおり、いかなる現象といえども原理とは無縁でなく、また無縁たらしめぬように巨大なエネルギーが払われている。「まことに中国人というのは思想的民族であると思わざるをえない」。このあとの司馬氏の中国滞在中のできごとが、すべてこのことに符合する。 ことわっておくが、僕は現代のアメリカに住む一日本人として、現在まで中国の政権がしてきたことを全面支持するものではない。中国からの友人とともに、チベットからここに亡命してきた友人もいる。できればいまの中国の建国のとき、版図拡大の犠牲となったチベットの独立の道がないものかとたえず考えている。もはや歴史となりつつあるが、天安門事件の際の中国政府の対処にはひどい憤りを感じた。僕のなかではなぜかまるで昨日のことのように鮮明な映像として残っている。ほかにも自由を求める人びとに対する中国政府の迫害は何度も報じられた。世界のあらゆる場所で、人類の自由と拘束の歴史はこれからもつづくだろう。 だがしかし、人類が何千年も葛藤してきたふたつのことがら、「自由と平等」というものが、いつもそんなにきれいに反比例するものだとは信じられない。歴史を通じて学びつづければ、あるいは人類はこのふたつをみごとに融合させたユートピアを創ることができるのではないか。 上記の日中両国の歴史のことは、ただの理想主義と言われても、将来の世界全体の平和を信じて、歴史に残るその都度の状景のなか、狂気の少ない方に味方しているにすぎない。 ただ資本主義の末期症状ともいえるひどい格差社会や新自由主義に対する警鐘として存在するものは、中国や他の少数の社会主義国以外、いまのところほかにはどこにも見当たらない。こと格差社会という意味ではかれらの存在ですら、はたしてどこまで注意を喚起していることになるのか、あやしくなってきている。民族問題は各地で噴出しつづけているのに、全体はひどくフラットな地球になってしまった印象がある。アメリカ単独覇権型の国際体制が崩れはじめ、多極化とかいう言葉が復権してきたのは、アメリカ自身の意志でもあるのだろうが、全世界がこの不安定な超大国に大きな不信感を抱いているあかしである。 この稿のはじめの部分で、ひとりの人間の体内に生きている60兆個の細胞のことを書いたが、この途方もない数の細胞を管理するために、われわれの人体には実にさまざまな臓器が存在し、それらの奇跡的連係プレイでなんとか存在しつづけているわけだ。 地球連邦の方も66億人におよぶ現在の人口を管理するには、さまざまに機能を分担できる多数の臓器が必要となる。もし仮にアメリカを心臓に例えれば、これに直結する肝臓その他の主要臓器にあたる国々が強力に育たなければ、この星は心臓麻痺で突然死をむかえるかもしれない。 話がまた飛んでしまって、着地点を見失っている。われわれの日本と蔡國強を生んだ中国との関係の話に戻る。 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく) 教えは量り知ることができないほど多いが、必ず学びきることをお誓い申し上げます。 四弘誓願(しぐせいがん)の第3節である。 ここでいう法門とは釈迦以降の教えのことだが、古来日本と中国の両国に存在した儒教の教えを含めてもよい。双方が礼を尽くし、学びなおすことで関係はうんと修復できるだろう。もっとも仏教も儒教も今日の中国では日の目を見ていないが、どちらも2000年の間、その国の国民に根付いていた。その教典が毛沢東語録に変わっても、人民の魂のなかからは決して消えていない。 そして仏道とはなれた部分で、いちばんにすべき学びは、中国と日本の歴史に当てはめて、過去と現在の両国の感情の変遷を冷静に学ばねばならない。 いわれなき差別、いわれなき偏見。とくに人種間の差別を題材に「差別曼荼羅」と題して現在推敲しているが、この人種差別というものが抽象論に進展したとき、どうもとらえどころがないように思う。どうやら元来、差別や偏見には「いわれ」がないものなのかもしれない。肌の色がちがったり、骨格がちがうことは自分との違和感にもちろん通じるが、そのことはすなわち自分とはちがうという大いなる魅力にも転ずる可能性がある。ひょっとしたらそれが同じだとか似ているということの方が、問題を生むことになってしまうのか。歴史のうえのさまざまな状景がわれわれのDNAの内部にまではいり込み、感情を騒がせているなどということがありえるのだろうか。 いずれにせよ「隣国」というものはどうもやりにくい。日本人が大陸の人たちを偏見の目で見るときは、形態の違和感ではなく自分と同一の肌の色・形態を持つことが「いわれなく」許せなくなるというわけだ。そのあとは、民族の性格、政治形態、宗教、食べ物の種類に到るまで、なんでもケチをつける。ヨーロッパでも世界のなかでも、中東の一部の国々を別にして、隣国同士のこういったせめぎ合いは、少しは潜在化してきているのではないだろうか。 たった1000年ほども現在の日本人だれかの祖先の樹をたどれば、現在中国に住むすべての人びとの祖先と、まぎれもなくひとりの人物に集約してしまう。かっての実の兄弟を差別し、その国のすべてに偏見をもつことが、そんなに違和感のないことなのだろうか。人種差別の元祖のようなこのアメリカから見ても、ひどく異様な偏見のように映る。 もうひとつ、アメリカ発のかたちだけのグローバリゼーションによって、差別のかたちも異人種間のものから、同民族のなかでのさまざまな差別に変化しているともとれる。先日の秋葉原の無差別殺人事件は、格差社会の敗者に対する同民族社会からの猛烈な差別からはじまっている。 なんといえばいいのだろう。わが祖国日本が、また別の異様な妖怪の牛耳る社会に変化しつつある悪夢を見る思いである。 話が座禅とも火薬とも関係なく、大きく旋回し歪曲し、暗い話題をつづけてしまった。歴史的に見た中国に対する日本のことを学ぶということからはじめたつもりだったのだが、13億という人口を抱える多民族国家のことを考えるだけで、僕たちと関係のある、あらゆる種類の妄想があふれ出した。 それは蔡國強のここグッゲンハイム美術館の最上階ギャラリーでの、いわば最後の作品を語るうえで、どうしても必要ではないかと思い、書き連ねた。 そしてその最上階のギャラリーに、回顧展の回廊の終着駅に、いままでのさまざまな妄想をすべて吹き飛ばすいきおいのある、すばらしく明るい未来のみえるプロジェクトに出あった。 この作品にいちばん強く感動したことは、蔡と言うひとりの中国人アーティストに対して、福島県いわき市の住民を中心に、日本の一般人2000人以上が無償協力をし、双方の実にあたたかい交流のうえにできあがった、ということである。 Reflection 「反射」と名づけられた巨大廃船のオブジェ A Gift from Iwaki いわきからの贈り物2004がそれである。 次稿 座禅と火薬 — 蔡國強展 (4)につづく
by nyckingyo
| 2008-06-18 04:52
| 座禅と火薬—蔡國強展
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