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自由談議だから思いつくままに自由な発想で書く。 「論議」ではなく「談議」としたのは、3年前まで日本に住むアーティストの旧友と、E-メイルでけっこうながいあいだかなり自由に「自由」についてのカンヴァセーションをつづけていたからだ。そのE-メイル談議とはまったく関係ないと思っているのだが、その親友は鬱病のとりこになってしまったようで、プッツリと返事がこなくなった。電話してもでてくれない。ほかの知人のだれもが消息を知らない。付き合いの悪い多少頑固なアーティストが、ひとりで日本で生きることの「不自由さ」をかいま見た気がした。とにかく突然話相手のいなくなった僕はだれかとのコミットメントを求めて、このブログを書きはじめた、というわけなのだが、その友はこのブログの存在さえも知らないのではないだろうか。ふたりの自由談議はかれの内なるブラックホール宇宙に消えてしまった。鬱病とは精神が完全に自由の方向にリリースされていないことから起こる病気である。かれの精神の自由世界への復帰を祈りながら、かれとの話が続く日を待っている。その自由についてのダイアローグはいま読んでも実におもしろく、このブログでも紹介したいのだが、半分はその友の言葉なのでかれの了解なしには掲載できない。機を見てアプルーヴをもらえることを待つのみである。 敬愛する戦後無頼派の自由人、坂口安吾氏のエッセイが、戦後すぐの日本にはじめて溢れかえった自由の概念を諭すように、あるいは噛んで含めるように講義している。上述の親友とのダイアローグのきっかけになったものなので、少し抜粋引用する。 — 幕末に、オランダ語の自由という語がはじめて翻訳の必要にせまられた時、当時の蘭学者は訳語に窮したばかりでなく、自由とは何か、その意味が判らなかった。そして「わがまま」と訳したという。実際当時の思想では、自ら欲し自ら行う真実自由なる生活自体がなかったので、自由とはわがまま以上に理解しなかったのは当然だ。然しこれを昔の笑い話と思うのは軽率で、今日(終戦直後)日本人の自由と言うとき、尚多くの人は五十歩百歩、ワガママと履きちがえている場合が多い。自由とは責任がそれに伴わねばならぬ、ということ、これは今日屡々言われることであるが、こういうふうに一言にして言うことは易いが、真に自由の中に責任を自覚するには、深い教養を必要とするものである。 自由とは地獄の門をくぐる。不安、懊悩、悲痛、慟哭に立たされているものである。すべて自らの責任においてなされるものだからである。人が真実大いなる限定を、大いなる不自由を見出すのも、自由の中に於いてである。自由は必ず地獄の中をさまよい、遂に天国へ到り得ぬ悲しい魂に充たされている。 — 昔から自由と自由人は絶えたことがない。文学がそうだ。宗教も哲学もそうであった。封建主義は旧式だと、一言で片附けるのは間違いで、自由に対する絶望が、凡夫の秩序を自ら不自由に限定せしめるように作用した歴史の長い足跡があったのだ。そしてかかる日本の封建思想を完成せしめた孔子は実に自由人であり、永遠の現代人であり、而して彼の現身(うつしみ)は保守家ではなく、反逆者であった。彼は自由を闘った反逆者だ。 キリストもまたそうである。彼は反逆者であった。ハリツケにかけられた罪人だった。そして最も偉大なる自由人であり永遠の現代人であった。 真実の自由、自由人は常に反逆者たらざるを得ないものである。今日、キリストを、孔子を、この現世へ再生せしめて、その幼少から生長の道を歩ませたなら、かれらは神ならず、聖人ならず、反逆者であり、罪人であり、世を拗ねたひとりよがりの馬鹿者、気違いであるであろう。 自由人の宿命は、かれらほど偉大ではありえなくても、多かれ少なかれ、似た道を辿らざるを得ないものだ。なぜなら自由は常に天国を目差しながら、地獄の門をくぐり、地獄をさまようものだからである。 この小文「私の小説」の書かれた時代、昭和22年には、戦勝国アメリカからの「自由」が山積みで輸入され、夜店で叩き売りされるように「普及」した。安吾先生は安売りされた自由を買う危険を諭されているが、ときの食糧不足、社会不安とあいまって、安売り商品「自由」に付随した、肉体、衣住必需品なども叩き売りされ、人びとはこれらを買いあさった。買いあさったなかに「自由」がこびりついていたりして、本末が転倒した世界であったらしい。 —だいたい日本の道徳は、昔から不義はお家の法度などといって、恋愛は罪悪と言われていた。昔ばかりではない。いまでも自由結婚という。とくに自由結婚というのだ。つまり恋愛のことだ。 徳川期の封建社会で自由恋愛をしたら、それだけで行き着く先は心中/地獄だった。僕のご先祖様たちは現在の僕の性格から想像するにかなり好色だったにちがいなく、いったいどこまでできぬ我慢人生を送ってこられたのであろうか。想像するだけでもなんとも疲れる世界によく住まれていたものだ。 恋愛だけでなく言論の自由、信仰の自由などあらゆる言葉に自由がくっついてきて、日本全体が突然降ってわいたような自由に狂喜した。しかし安吾先生が奇しくも宣われているように、自由に対する歴史も教養も持たなかった同時代人は、またしてもこのアメリカからのプレゼントの理解を踏み誤った。どだい無理なのである。まったくどだいというものがなかったカラッポの胃のなかにチョコレートがポンポン投げ込まれたのだから、自家中毒が起きる。安吾と同時代の肉体派と呼ばれる田村泰次郎の小説にも、突然の自由に混乱する人びとの記録がある。それでも僕らの父母・祖父母の若い時代には、大正デモクラシーという自由時代があったと主張するが、これもいま考えればこの国にはじめて訪れた民主主義ということばを練習するおままごとのようなものであったのではないだろうか。 戦時中には思いもよらなかった自由思想が現世にまき散らされ、数年ののちには安吾が危惧していた自由恋愛/自由結婚は行き過ぎるほどに蔓延し、日本中が性の悦楽に浸りっぱなしの自制なき気違い沙汰の自由宇宙となった。何百年も封建国家として見事に国に統率されつづけていた国民は、終戦で気が狂ったとしか思えない。あまりの急激な反転で何をしていいかわからなくなった。以来自由の本質を理解しないまま、自由国家日本は21世紀を突き進む。 コンビニという日本独特の商業形態は、僕が渡米した30年まえには存在していなかった。プラクティカルに実に便利で、そして気が抜けるほどに軽い自由。いまやこれなしに日本を語ることはできず、日本を訪れた外国の観光客は、口々に、コンビニ、パチンコ屋、居酒屋、カプセルホテル、ネットカフェ宿などの簡易自由を絶賛する。思えば成田に着いたとたんその列島全体がコンビニの集合体ではないか、と勘ぐったこともある。 数年前に帰国したとき、新宿の飲み屋街をハシゴしながら、ひとりの友は「こんなに自由な国は世界中を見渡してもないよね」と僕の同調を求めてきた。確かに酒を浴びるほど飲み、ホステスという種族の女性と馬鹿話をしながら時たまお尻をさわるという意味の自由は存在している。結構なことだとは思うが、やはり少々行き過ぎではないか。忘年会シーズンの終電のゲロゲロ合戦は日本の自由社会の象徴たる風景である。アメリカではどこに行っても、外に出てひとりでまっすぐ歩けないほど酔いつぶれることを決して許さない。 逆に前途有望な外国人力士が淋しさを紛らわせるためマリファナを吸ったら、逮捕というのはしょうがないとしても、即クビだそうである。かれがどういう人物かまったく知らないので肩を持つつもりはないが、多少かわいそうにもなる。カリフォルニアでは最悪でも20ドル程度のティケットを切られて済む。実質的にアメリカの属領国といえども、感覚的にずいぶんの僻地である。メジャーリーガーのステロイドだと話はわかるが、マリファナで相撲が強くなるわけはなく、異国の異常な国技環境のなかで精神安定のために求めたのだから、許してあげてはどうか。ま、そういうわけにはいかないだろうねぇ、ということがわかっていてあえて書いている。そういえばむかし某という横綱も親方にたてついただけでクビになったという話をいまだに憶えている。協会に直訴した親方のほうに怒りを向けた記憶がある。大相撲の1ファンではあるが、いくら国技といえども封建社会の影が色濃く残った形態は、とうてい現代の民主主義国家のスポーツとは思えない。この団体がアメリカにあればまちがいなくおおきな人権問題になっているだろう。あのこわいおじさん、北の湖理事長に殴られそうになった夢を見てしまったのでこれにてやめる。 そういえばそのむかし、当時どの国に行っても国賓クラスの待遇であったビートルズのポールを、マリファナ所持で捕まえたのも、日本の警察だった。国辱で笑い者になったのは几帳面に捕まえた警察のほう、という国際倫理がまったくわかっていない。法律の枠の中ではなにをやってもよくて、一歩踏み出すと極悪人であり、それを各自に過剰認識させるために厳しく詮議する封建国家。これでは、真の自由人である反逆者たちはすべからく国外に逃亡してしまう。街を歩いていても半数以上の人びとのアタマにはちょんまげが乗っているのが見える。そのなかのまた半数ほどは、腰に十手を差し、口先で「ゴヨーゴヨー」とぶつぶつ小さく呟いている。もとい、これは「ゴニョゴニョ」を当方が聞きマツガイしました。オオオカ裁きと平次好きが趣味の段階をこえ、他者のワガママを裁きたいというワガママになりつつある。こんなところで裁判員制度など大丈夫だろうか。まあいままでのガチンガチンのプロの裁判官にまかせておくよりもマシか。 また悪いくせで、日本のことをコキ降ろしはじめるととまらなくなってしまうのだが、このアメリカだってひどい自由がたくさん存在する。 ラッシュ時にマンハッタンのバスに乗ると「入口族」という人種が、自分だけが乗りこんだ瞬間にそこで停滞してしまう。クルマの奥の方はガラガラなのだがバス停に取り残されたおおぜいはこの停滞人のおかげでバスに乗ることができない。運転手さんはいつも日本のバスと同様に、もうワンステップ奥に、とお願いしつづけているのだが入口族は耳を貸さない。おおぜいの客がバス停に留まり、いつ来るかわからぬ次の便を待つことになる。不思議なのはかれらのだれもが本気で怒らないことだ。いちど、入口付近で棒立ちになっている白人の紳士然とした人物の横をすり抜けてエクスキューズミー、と奥にはいり込もうとしたら、オレのからだに触った、と言ってカンカンに怒りだした。あまりのことにさすがの僕も「おめえのからだになど触りたくなどないわいバカ、なんとセルフィッシュ人間であることよ!」と言い返した。このときは他の客と運転手の応援で僕の判定勝ちだったが、マンハッタンでは今日も入口族と正常人の闘いがつづいている。 地下鉄でも基本的状況はおなじである。問題はバス停でバスを待っていた正常人が、バスに乗車したとたん入口族に変身してしまうことだ。この別名セルフィッシュ/ワガママ族の問題を解決するため、市交通局は大きいことはいいこと、とばかり、化け物のように大きい2両連結の巨大バスで対応しはじめた。このバスは通路幅も巨大なのでこの問題は多少解決の方向にむかっているようだが、なんともアメリカらしい対処方法ではある。(左の写真はこの巨大バスをメルセデスベンツ社製にしてしまえ、という試作品。ここまでいくとカッコはいいけどかなりクビを傾げてしまいます) 渡米してカリフォルニア州にある無料のアダルトスクールというちょっと不思議な名前の学校で英語を習い、同時にそこでおばあちゃん先生から上っ面のことばだけでなく Liberty の原理も習い、アメリカがいかに自由な国かをいい意味でたくさん吹き込まれた。同時にそれと対向する拘束 Restraint ということばを習い、このふたつが相対関係で意味をなしていることを知った。 つい最近まで奴隷制の陰影が色濃く残っていたこの国家には、白人たちの自分勝手な自由のために虐げられた無数の人びとの呪いが宙空に渦巻いている。ビリー・ホリデイの唄う「奇妙な果実 Strange Fruit」は、リンチされて樹に吊るされた奇妙な黒い果物の歌。この歌に触発され、やがてケネディーやキング師が登場し、公民権運動に繋がっていく。いまや黒人最初の大統領が出現するかもしれない状況となり、21世紀の新しい自由アメリカが邁進をはじめている状況も見てとれる。 ひとむかし前、オリンピックの体操競技で活躍していたのは、ソ連と東欧勢であった。お国がらというか、統制された規律正しい演技のなかにすばらしく慄然とした美しさを感じた。足の幅より細い平均台の上でバランスを保ちながら飛び跳ねるには異常な集中力が必要で、いわば信じられないほどの拘束のなかで、磨ぎすまされた精神力を発揮する競技である。 中学のときの社会科の先生は宣わった「ソ連や中共など社会/共産主義国家では人民は平等であり、アメリカや日本など民主主義国家では国民が自由である。この自由と平等というものは同時には相容れないものである。人民が平等である社会主義国家の方が進化していて、この日本にもやがて社会主義革命が起こるに違いない」。ウソばっかである。そのとき以来その社会科の先生のいうことすべてと、ひとつの社会で自由と平等が両立しないということをまったく信用しなくなった。おかげで大学時代は全共闘の仲間には馬鹿にされ、以来僕の理想論はいまだに行き場を失っている。 ただ当時、個の自由が極端に少なかったはずのソ連の体操選手の動きには、圧倒されつづけた。バレエもフィギュアスケートも然りであった。ところが今年の北京オリンピックでは、ロシア周辺国の演技にさほどの感銘を享けなかった。有力選手がいっせいにアメリカに移民してきたということもあるのだろうが、かっての社会主義国の束縛された緊張感が消えてしまった感覚が強く残った。 かわりに自由主義国家アメリカ体操チームには、平均台のジョンソン選手はじめ金メダルが増えた。拘束されたルールのなかで、思いきり「自由に」演技することの勝利ということであろうか。ここはひとまず自由アメリカチームを褒めて締めようと思った。 ところがその次の日、陸上4x100メートルリレーを見て驚いた。男女共にアメリカチームにメダルの期待がかかっていたが、4年前のアテネでは女子チームにバトンを落とすミスがあり、メダルを逃した因縁がある。なんとか雪辱を晴らせ、とばかりふだんほとんど応援しないアメリカチームに期待をかけた。結果はなんと男女チーム共にバトンを落としてしまい予選落ち。世界最速のスプリンター集団が、事故とはいえなんという醜態であろう。もともとスプリントは個の競技である。それがリレーとなるとふだんは競争相手であったはずの他の選手との、バトンを渡すという共同作業をしなくてはならぬ。ここで大きな心理的混乱が生まれることはある。それにしてもタッチの練習は相当重ねているはずだが、やはり個人競技の覇者たる奢りが、自由でセルフィッシュな個の必然の結果としてこんなところにでてしまうのか、と一抹の感慨のようなものまでをもって眺めてしまった。スプリンターたちの表情が、上述のバスの入口族のおじさんの顔とダブって、安吾先生の「自由とワガママ」ということばもまた反芻した。リレーチームの選手たちには少し酷すぎるイマジンかもしれぬ。 文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースの後期のエッセイ「はるかなる視線」は自由と拘束の物語である。ふたつ以上の民族の文化を比較しつづけて、いつも弱者である未開民族(氏はこのことばを嫌われているようだが)のほうに思い切りのやさしさと尊敬をふるまわれている。そのことによって氏は自らの属する西欧文明のなかでの、自己から自己へのダイアローグを進めていく。僕も自由と拘束についてのこのような推敲をめざしていたのだが、今回は直接語るべき相手/親友の不在のために、空回りとなった。ふたつの文化を比較しながら推論していくというこの学問は、もちろんかれの発案によるが、わが青春時代以降の思考に大きい影響を与えた。このレヴィ=ストロース体験のあと、僕のすべての創作活動は、かれに倣ってたえずふたつのサブジェクトをもって進行することにした。このブログ「NY金魚」のコンセプトもしかりである。 「殯の森」 の映画評のなかでもチラと触れたが、レヴィ=ストロースは南京虫と闘いながら世界の原住民社会をまわりつづけ、かれら民族全体が表現しつづけている本当の世界をこちらに紹介しようとした。そこには自由と拘束の歴史が深く深く深く刻まれていて、近代文明の側が「未開」などと言えた分際では決してなかった。しかしながらかれがそこに行く直前に両文明はすでに激突を終わっていて、現住民の側の旧世界は「未開」のレーベルを貼られたまますでに永遠のかなたに去ったあとだった。コロンブス、マゼラン、クック船長、そしてピサロとインカ、ペリーと日本をも含めて、かれらにとっての未開地が「開かれて」しまった。そんなに大仰な探検隊でなくても、アマゾンの奥地に西欧の文化のほんのひとかけらが入っただけで、綿々とつづいてきたかれらの自由と拘束の歴史の扉は開かれてしまい(より的確にいうと閉ざされてしまい)、貴重な精神的遺産は完璧に無力化した。このことは、ときに西欧人がつれてきた一粒の伝染病菌が、村々を全滅させたことに象徴的である。 かってすこぶる多様に存在した人類の自由な表現は、規制されつづけ、世界はますます画一化され、無思想に奔る。だがかれのわれわれに対する真摯な警告はこの本のなかに残っている。 — おそらく私たちは、平等と博愛がいつの日にかヒトのあいだに、多様性をそこなうことなく実現されるという夢を描いているのだろう。しかし人類が、かって創造し得た価値のみの不毛な消費者となり、亜流の作品と粗雑で幼稚な発明だけを生みだすことに甘んじたくないならば、人類は、真の創造が、異なった価値観の拒否、あるいは否定にまでもつながるものであることを、学びなおさねばならない。他を享受し他に融合し、他と同一化して、同時に、異なりつづけることはできない。他との完璧なコミュニケーションは、遅かれ早かれ、他者のそして自分の創造の独創性を殺す。創造活動が盛んだった時代は、コミュニケーションが、離れた相手に刺激を与える程度に発達した時代であり、それがあまりにも頻繁で迅速になり、個人にとっても集団にとってもなくてはならない障害が減って、交流が容易になり、相互の多様性を相殺してしまうことがなかった時代である。 ネットの世界を得意げに飛び回っているわれわれには、痛恨の一撃ともいえる警告である。レヴィ=ストロースはつづける。 — 人類はいま二重の危機に直面している。それは民族学者も生物学者も等しく驚異を感じていることである。文化的進化と有機的進化が連動していると確信するかれらは、確かに過去への回帰が不可能であることを知ってはいるが、同時にヒトが現にたどりつつある道にさまざまな緊張が累積しつつあることも知っている。緊張の昂まりによって、人種主義的な憎悪は、明日にも打ち立てられそうな激しい不寛容の体制の貧困なイメージにすぎなくなり、もはや民族的差異を口実とすることもなくなるのである。今日の危機、そしてさらに恐るべき明日の危機を未然に防ぐには、危機の原因や無知や偏見といった単純なものよりはるかに根深いことを明確に認識しなければならない。私たちが望みを託せるのは歴史の流れが変わることであるが、その変化の実現は、思想の流れを変え、進歩させることよりさらに困難である。 これらに警告を現代に至るまでまったく学ばなかった、近代国家のいちばんの鬼っ子は、いうまでもなくアメリカ合衆国である。建国の時点ではまだ、同国内のネイティヴ、イロコイ族が考案した民主的な連邦制を継承し、民主主義合州国を誕生させたが、ときが現代に近づくにつれ、その自意識過剰文明はセルフィッシュな「バスの入口族」に代表されるエゴ国家と化した。自分たちの勝手な強迫論理を世界中にばらまいた。国家を精神分析する岸田秀氏によると、アメリカは強迫的な性格神経症者であるという。そのばらまかれた論理のうち、最近最悪の端的な例がアメリカン・スタンダードによるグローバリゼーションと新自由主義という魔物である。上っ面だけの画一とワガママ自由がわれわれ人類の危機をいっそう募らせている現代の現実を、見事に予言しているレヴィ=ストロース氏の言葉にもっと耳を傾ける必要があるのではないか。氏は今年99歳、ご健在である。 20世紀の叡智、レヴィ=ストロースはこの本の前書きの最後にこう提案する。 —自由が自由を退け、克服するものであれば、そして、拘束に欠陥や弱点があって、創造をさそうのであれば、自由と拘束は対立しているのではなく支えあっていることになる。自由は障害を拒否し、教育、社会生活、芸術の開花は自発性の全能への信仰なしにはありえないとする現代の幻想、今日の西欧の危機の原因ではないにしても、その重要な側面と考えられる幻想を払拭できるのは、自由と拘束のこの関係以外にはない。 この本の巻頭にレヴィ=ストロースがかかげた偉人の言葉をもう一度書き留めてこの稿を終わることにする。「ヨーロッパ人」という部分にアメリカ人や日本人をも含めた現代文明人のすべて、という思いを込めて。 ヨーロッパ人はいつも、自分のまわりで起こっていることをもとに事物の起源について推論してしまうが、これは大きな欠点である。 — ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』 どこか絵画を電話で語る風情になるが、いわゆる抽象論だけで納得してしまうのはいやなので、レヴィ=ストロースの言説を踏まえて、読者であリ語り部でもあるあなたの近くにまで行き、少しく具象化をつづけて話してみたい。 そこにあなたがいて、このブログを読んで、コミットメントを感じあえる、そういう自由と拘束。そしてそこにあなたはいなくて(読んでいなくて)やはり僕は宇宙にひとりであるという自由と拘束。そしてもうひとつ、そこに僕の文章もあなたのことばも存在していなくて、はじめから何も無いという場面にも、ふたりのあいだに自由と拘束はつきまとうのではないか。ルッソーやレヴィ=ストロースの理想論は、自分と関係のない、自分にはいま見えていない宇宙にも、気を配りなさいといっているように聞こえる。このことをシュルレアリズムの絵画を観るように、僕のただの幻想のように捉えてしまう見方もあると思うが、僕の意図は幻想とまったく逆の位置にある、しごく現世的な、この地球における「自由と拘束」のみである。
by nyckingyo
| 2008-08-24 04:56
| 小説のように日記のよう
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