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9月末からMoMAで「ファン・ゴッホと夜の色」Van Gogh and the Colors of the Night と題された展覧会がはじまった。開催前のメンバーズ・プレヴューに行ったのだが、なんとこの特別展示も長蛇の列。ギャラリーのなかに入ったものの、すごい人だかりできちんと鑑賞するのがむずかしいほどだった。会期にはいると展示フロアで整理券が配られ、平均2時間待ち。そのむかしの上野の都美術館でのゴッホ展を彷彿とさせて、なんだか人ごみがとてもなつかしく思えるような盛況ぶりだった。 とはいえこの国の人びとがこれほどゴッホに魅せられているとは思わなかった。複雑な状況のからみ合う現代社会で生きぬくために、万事のんびり屋だったアメリカ人たちもいよいよ背負わねばならぬ精神分裂気質が、あるいはゴッホの絵とシンクロナイズしているのだろうか。 この展覧会のためにMoMAが創った案内文はこのようにはじまる。 『闇を描くこと』は、特に観察力のちからを信頼していたアーティストにとっては、19世紀末における問題に対するひとつのチャレンジであった。 ファン・ゴッホは、自分のイマジネーションだけで「闇」を厳密に描くことはできないだろうと認めていた。が、かれは真実をシンボリックにからみ合わせ、かれを取りかこむ世界のなかでの、「魂の本質」を捕えようと試みたアーティストでもあった。 それはかれのイマジネーションと記憶が最大限に膨れあがる、夜の時のあいだであった。 この言葉たちも暗示しているが、今回の企画展の中心となるあまりにも有名な「星月夜(ほしつきよ)」The starry nightは、フィンセント・ファン・ゴッホが1889年、プロヴァンスにあるサン=ポール・ド・モゾル修道院の精神病院で療養中に描いたものである。 アルルでのゴーギャンとの生活に破綻をきたし、右耳を自ら削ぎ落としてしまったゴッホは最悪の精神状態となってそこに転院し、燃えるような思いを具現化する。翌年オーベールに移るまでの1年余りに150点あまりを制作する。プロヴァンスにあるアルプスの見えるのどかな村は明るい自然のモチーフにあふれ、それを受けとめるゴッホの精神も大きく高揚と沈滞をくりかえした。 その年の初夏に描かれたのがこの「星月夜」である。満天にきらめく月と星はまるで地球の天空ではなく、見ず知らずの惑星での風景のごとく輝いている。天空に負けじとばかり、渦巻く雲やゆらめく糸杉、のどかな村の建物、遠くに霞むアルプスの山々、画面のすべてが光彩を放ち抑揚を保ちながら、ギラギラと輝きゆらめきこちらの方へ近づいてくる。 この当時のかれの手記には、夜、建物のそとに出て星をながめる行為が、非常な宗教的な意味をもっているように感じられる、と書かれている。ベツレヘム近くの砂漠と星空から発生した宗教風景。東方の3人の賢者たちが星を追って生まれたばかりの救世主を尋ねた故事にならい、このアーティストの精神は、その原点であるすぐ近くの星空に急接近する。星を描くこと。この無限のかなたからやってきた小さな光を、かれのイマジネーションを充分に介在させつつ、より小さな二次元の布製キャンバスにとどめること。その不可能性に対してかれのこころはまた大きく全方向に乱れる。 若き日のゴッホは宣教師をめざし、単身ボリナージュの炭坑へ赴くのだが、おりしもその冬、ボリナージュの坑夫は、チフスの流行、炭坑の爆発、賃金の切り下げと、打ち続く災禍に見舞われて極貧と病苦のさなかにあった。ゴッホはかれらの悲惨な暮らしを見て、自分の衣服を与え、あばら屋に暮らし、坑夫たちと共にこの窮状を訴える。 しかし伝導委員会は、貧しい人々への常軌を逸したかれの献身を、宣教師の職務から逸脱したものと判断し、それまで彼に与えていた仮伝導許可の更新を拒絶する。ゴッホはこれこそが自分の天職だと信じた世界から追放されたのである。 「あんな経験はひどすぎる。痛手も悲しみも苦しみもあまりに大きすぎる。あんなに高くついた経験をしては、賢くなるまいとしても、ならざるをえない。あれから学ばずして、いったい何から学ぶのだ」 ゴッホの苦悶の呟きは、この出口の見えない絶望から、懸命に自己救済をはかろうとする真摯な模索者の声へと高まっていく。 「僕の唯一の関心は、どうしたら世間の役に立つ身になれるだろうか、何かの目的にかなう人に、何か良いことの出来る人になれるだろうか、どうしたらもっと稼いで、一つの事柄を深く極めることが出来るだろうか、一途に思い込んでいるのはそれだけなんだよ」 もとよりゴッホにとっての伝導とは、衒学的な教理問答とは無縁なところにあった。ちっぽけな自分の人生を貧しい人々のために使い果たすこと、何か有益な一つの道を深く極めること、画家への道は聖職からの追放という決定的な幻滅を通過することによって、彼の奥深いところで次第に生まれてきたのである。ジャン・マイラーの言葉を借りれば、ゴッホにとっての絵画とは、生きるための、彼の愛と憐れみを人々に語りかけるための、神を証明するための、もう一つの最終的な聖職だった。(以上紫字の部分、Mono.Katati.com —原書名不明 からの抜粋引用) 闇の時代、それはいったいいつごろから人類の社会を覆い、そのままに例える代名詞になってしまったのだろう。パレットに載せられた極彩色の油絵具たち。キャンパスの絵とは孤立した生命体として、アーティストの腕に抱きかかえられたまま、パレット上の絵具は絵画を完成させるために踊る。踊りながら色同士は溶けあいなじみあいひたすら深く愛しあうがごとく、深い色を醸し出しはじめる。やがてパレット上の全色が完全に混ざりあったとき、それは「闇」の色と化す。 このパレット上の状景は人類の歴史に酷似している。気がつけばそれぞれに踊っていた華やかな極彩色たちは、いまや暗黒を表現するためのひとつの部分粒子=個人にすぎなくなっている。 21世紀がはじまったとたん、その前世紀のパレット上の絵具の不自然な融合は加速度を増し、まさに暗黒色となった。不自然な戦争、格差社会、新自由主義。地球はひとをひととも思わない一介の悪魔たちに牛耳られ、せめぎあい、殺しあい、世界のどこにもひとかけらの光も見当たらない。 そして2008年9月末、すべてを理解したようにその暗黒のなかに、より以上に深い色の、この世のものとも思えない漆黒/ブラックホールがこの星のうえに誕生する。世界恐慌の前触れ。それは世界経済の破壊を意味するだけでなく、地球に住む人類のシステムすべてを狂わせる恐慌になる予感がある。かたちあるものすべて、光そのものでさえもそこに吸い込まれていく。いまや浮き足立って逃げる態勢にはいった悪魔の仲間がたくさん生息するこの街の近辺は、ひどい時空の歪みすら認知できる。いやいや悪魔たちは逃げなどしないで人間のふりを装い、その社会に紛れ込みこれからものうのうと暮らすに違いない。真の暗黒のなかに残されたのは善良で貧しい市民たち、これはこの街だけでなく全世界のどの街にもに例外なく当てはまる。 もう一度19世紀末。貧しく死に絶えていくひとびとを本当の意味で救えなかった絶望、自分の衣服をかれらの肩にかけることも許されなかった絶望、ゆえに他者と話すらできなくなってしまったより大きな絶望から、自分の耳までを切ってしまったゴッホが療養所の屋根裏部屋をでて、暗黒の空を仰ぐ。暗黒のなかになにやらが漠然とうごめいている。うずまき状の雲の流れがうっすらと見え、その漠然とした造形の中心に、もう少しはっきりした光が見えてくる。星かもしれない。 ゴッホは考える、マザーを呼びに行こうか、いやいや、マザーには見えないかもしれない。この星はほかのだれにも見えないだろう。なぜならこれは私の想念が生みだした星だからだ。 もしこの私の思いの丈を、その星の光を、キャンバスに写しとれば、ひとびとは実際の星空を見るよりももっとよくその光を見ることができるだろう。100年後、200年後人類がまた光をまったく見失ったとき、この絵を見た人がこころにもう一度希望の灯火をともせるように。ゴッホはキャンバスの上の暗黒を切り裂いて、そこにかれの希望/善良なあたたかい想念を封じ込む。 やがてゴッホのキャンバスには夜空の部分にさまざまな渦巻きが表れる。この渦巻きのパターンの意味は、深層心理のなかで自分とまわりの人間との関係の混乱を現わしているという(浅利式色彩診断)。渦巻きの雲を描きながら、ゴッホはまたかれの過去の悲惨な想念たちを思い起こす。相手にことばをつぎ込み、世界の救済、そして自分の世界の理解を求めたが、だれも耳を貸さなかった。親友のゴーギャンのことばすらも耳につんざくような絶叫へと変化し、いたたまれずに自分の耳をそぎ落とした。 ゴーギャンがゴッホにはじめてあったのはパリ。貧しい身なりのゴッホは骨董屋で、自分が描いた小さな静物画を店の主人に見せ「少しばかりでいいんです。間代の足しにするので」と頼んでいる。骨董屋は渋顔でグチをいい、それでもこの貧しい絵描きに同情したのか一枚の5フラン硬貨と交換する。ゴッホはそれをにぎりしめ辛そうに家の近所まで戻るが、そこで出くわした女乞食にもの乞いされ、なんの躊躇もなくそのなけなしの硬貨を与えてしまう。 ハーグ時代には、疱瘡を病み母親と子供を抱え父親も分からぬ胎児を妊娠している女性に対し、ゴッホは分娩のための病院を世話し、やがてかれらと同棲する。すべては弟からのわずかな仕送りだけに頼った赤貧のなかでなされた。 ボジナージュでは、大やけどをし自分の看護で一命を取り留めた貧しい炭坑夫に別れを告げにいったとき、額に傷痕を残して回復した男の顔に「よみがえったキリストの幻を見た」とゴッホはゴーギャンに語り、そのあと黙ってまたパレットを取り上げた。ゴーギャンも黙って、ゴッホの肖像を描きはじめた。ゴーギャンは「私もまたゴッホの顔に一人のキリストの幻を見た」と述懐している。 聖者の魂とアーティストの魂を同居させたまま、ゴッホは渦巻き状の雲のあいまに「ひかり」を描く。その光は徐々に強くなり、さっきまでまさに暗黒であった夜空の隅々に、村の風景、糸杉、遠くに霞むアルプスの山々などが見えはじめる。描かれた月の光、星の光はますます強くなり、やがてわれわれの住むこの星全体を輝かせるにちがいない。 MoMA の片隅の部屋で、おおぜいの観客とへし合いながら、僕はこの「星月夜」の絵が、100年以上のときを経たあとも、現在進行形で「光」を増し、ますます輝きはじめているのを実感した。 そして美術館をでてもう一度、21世紀の現代に戻る。そこはかとないブラックホールは増長をはじめ、もう光を取り返す手段すらないように思える。どのひとの眼にも暗黒の地球の姿しかなく、しかもその漆黒の空はいよいよ深みを増す。 だがしかし、ほんとうに数は少ないのだが、この地球にはほんの一握りの聖者たちが住んでいる。かれらにはゴッホの観た星とおなじ、未来への理想の星が観えている。なぜならそれらの星たちの光とは、この地球に住む、自分以外のすべての人類の肖像だからだ。自分をなげうって他者のことを考える。たえず貧者のこと弱者のことを、やさしい眼でかばっている。かれらに絵は描けなくとも、かれらはいわばゴッホの申し子たちである。 ここにバラク・オバマというひとりの大統領候補がいる。ひと月あとの選挙が終わり、かれが勝利を手にしたのちまで、かれの本当の考えはまだ実行されていないので断言はできない。だがしかし、かれのことばのなかに、他者同士を融合させる大きなちからを感じる。 いまは政敵に勝つため、鬣をふり乱して闘っているのでかれのデリカシーは霞んでるが、いままでのイメージを総評価すれば、かれにはそのような光が観えている、と確信できる。自分は一介の政務者で、民のしもベである、自分が民のためになにができるか、なにを変えられるか、という献身的な思想を強く感じる。このような発想は政治家のすべてがもつべき基本中の基本であるはずなのだが、それを確信できる政治家を直視したのはかれがまったくはじめての経験である。 基本的には僕も、政治家という職業についたこれまでの何者にも、信頼を抱いたことはない。オバマの演説をコルトレーンの音楽に例えることはできたが、かれの存在そのものをゴッホのもっていた聖者の魂には例えるべくもないのかもしれない。政務という職業の複雑多岐にわたる想念の流れを観れば、そこにかれらが聖者であるべき資質などまったく邪魔なのではないか、とも考えてしまう。 だがしかし、昨年末にオバマが彗星のように登場して、そのあとのかれの意見の経過をたどるにつれ、そのあいだの世界の推移をたどるにつれ、聖者の魂を期待するには、もうこのひとしかいないのだという実感が強くなる。暗黒のまっただ中に大統領になろうとするものに、ゴッホが観たその未来の光が観えないわけがない。いまが闇夜のはじまりであること、そこがオバマのスタートラインであることに、天の描いた大きな必然のようなものを感じるのは僕だけではないだろう。この時点の大統領には、聖者でもないかわりに有能な政務や実務家である必要もないのではないか。ただ新しい星の光=他者を観つめつづける「理念」があればいいと思う。 もう一度くり返す。いままさに世界は漆黒の闇のただ中である。僕がいま話しているのは、世界経済の問題だけではない。この国における暴君たちの横暴と戦争と陰謀がピークに達し、現米政権の指導力が崩壊し、それ自体はむろん歓迎すべきものだったが、それまで行なってきたことのすべてがネガティヴな結論として真っ黒な絵具となり、世界中に表出し流れ出しはじめた。いまやアメリカをはじめ地球を取り囲むすべてが暗黒のなかにある。 そしてたとえオバマや聖者の数人がそのなかに明るい未来の光「星月夜」を観ていたとしても、それはわれわれにはまだまったく観えない。闇はたとえかれが大統領になっても、かなりの永いあいだつづくだろう。その暗く永いかれらの闘いのあいだにも、われわれに観えるものはほんのわずかだけかもしれない。 やがて永い夜が明けはじめ、曙光が差し込んできたとしても、まだそこははじまりにすぎないのだろう。その時点ではじまるのは、その先の未来に向けての「種蒔き」である。 黄昏どきの絵画ということで今回のMoMA展に展示されたこのもうひとつのゴッホの名作は、象徴的に人類の未来を語っているように思う。先輩ミレーが描いた人物とおなじ姿勢だが、まわりの風景は一変している。「夕陽と種蒔く人」というタイトルだが、この太陽光の表現は、どう見ても曙光の力強さではないだろうか。 ゴッホやオバマ、かれらが蒔いた種をまた、途方もない永い時間をかけてひとびとが育てる。太陽光があふれ、また星月夜があり、雨が降り地が固まる。その繰り返しのすえに、やがて大きな収穫がある。 すべてのひとがそれぞれのまわりの他者を気遣い、すべてのひとが正当に生きることのできる世界、という収穫。 とても永い時間ののちの理想論のようだが、みんなが闇の中の光を少しづつ観つめつづけることができれば、なに、きっと乗りこえられるさ。 金魚のフン & Fun: この展覧会「ファン・ゴッホと夜の色」は2009年1月5日まで、MoMAにて。大統領選が終わってからもう一度行ってみて「星月夜」の光度がどの程度上がっているか、測定してご報告いたします。 昨夜(10/4・土)はリンカーン・センターで友人のコンサートがあり、大好きなベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを聴きました。外にでると明るい月がかかっていて、ちょうど「星月夜」の月とおなじ欠け具合(方向は反対だったので、こんな感じ)で、ゴッホとベートーヴェン、そして月光のちからまでもらった感じのラッキーな夜でありました。
by nyckingyo
| 2008-10-06 02:49
| 見えないものとの対話
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