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![]() 昨日のMoMA でのドイツ映画祭のプログラムは、あのベルリン・フィルハーモニーのアジア遠征公演のドキュメンタリー TRIP TO ASIA (画面中央をクリックでトレーラー)。イギリス・リヴァプール生まれの首席指揮者サー・サイモン・ラトル率いる世界最高峰の大オーケストラが、北京、ソウル、上海、香港、台北、東京、を巡回公演した記録である。37歳のトマス・グルベ監督が描く会心作。クラシック音楽のドキュメンタリーから、これだけ充実した内容を感じたのははじめてである。![]() 演奏曲目はリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』Ein Heldenleben = A hero's lifeと、ベートーヴェンの第3番『英雄交響曲』、まさに「英雄ツアー」である。ラトル/ベルリン・フィル、の公演は確か昨年秋カーネギーホールでもあって、唯一のクラシック音楽の友であった某社社長と、こんどは絶対行きましょう、と約束していたのだが、直前にかれの東京転勤が急速に決まり、ライヴを観るチャンスを逃した。 映画はベルリン空港をたくさんの楽器、機材とともに飛び立つ旅客機の映像からはじまるが、アジアの観客がベルリン・フィルを観る部分と、その大楽団のメンバーがなにげなくアジアを観ながら自分たちの音楽哲学を語る部分の構成が実に精妙に絡んでいて、決して音楽だけにとどまらない感動がある。 特に台北での公演のあと、場外モニターで鑑賞していた大観衆が指揮者ラトルに出逢うシーンが圧巻である。音楽を通じて人びとの魂が浄化される。その浄化の謝礼を人びとが歓声で伝える。その場にいたわけではないのに、その感動が映画を見ているだけの僕たちにも伝わり、生きていてよかった、音楽を聴けてよかったと思う。そのときの指揮者とベルリン・フィルの楽団員全員はまさに「英雄」である。 ニューヨークに来てから、クラシックの音楽家と頻繁につきあうようになり、オーケストラの一団員が決して画一的な性格ではなく、それぞれ強烈な個性で表現していることにあらためて感動した。そしてこのベルリン・フィルの場合は、その楽団員それぞれのもつ個性というものすべてが、圧巻であることをこの映画によって知らされた。 ![]() 昨年125周年を迎えたこの世界最強楽団のアジア版スペクタクルである。楽団スタッフの言葉が被さり、音楽を充分聴き込むというわけにはいかないが、興行的にも日本ではまちがいなく成功するのではないか。カンヌで代理店が日本の配給権を購入したというから、公開になったら、ぜひ大画面・大音響でのご鑑賞をお勧めする。平和な音楽の使者ではあるのだが、フルトヴェングラーやカラヤンに率いられた時代からのイメージで、その陣容と演ずる音楽の雰囲気からベルリン・フィルは一個大隊の軍隊のようにも感じる。 カラヤン時代からのヴェテラン楽団員のひとりが語っているように、ベルリン・フィルもひとむかしまえとくらべれば格段の進化を遂げた。このツアーのプログラムにイギリスの若き作曲家、トーマス・アデス Thomas Adesの「アシュラ」Asyla が入っているのをみてもわかる。かのヴェテラン楽団員氏は「アデスの楽譜を見ただけで、おぉ神様! という心境になる。それを演奏するのはとてもむずかしい!」と正直に宣われた。 僕は2代前の常任指揮者、ベルリン・フィルのかっての帝王であったカラヤンの音楽も決してアレジーになるほど嫌いではないが、重厚・豪華のイメージもすぎたるを聴き込めば、なぜか軽薄・貧相に近づいたりする。その点ラトルの指揮はこの重戦車楽団を現代にマッチさせ、実に多彩なイメージをもたせている。 今回のこのエッセイのタイトルを見て、読者はこれはジョージ・ワシントンからはじまるアメリカ大統領という「英雄の系譜」の44代に座ることになるオバマ氏が、救世の英雄となるか、というエッセイかと期待されたのではないか。実は書き出すまえはそのつもりであったのだが、ベルリン・フィルとそれにまつわる「音楽の英雄」の話、楽団を巡る権力闘争などの逸話がおもしろすぎて、今回はどうやらそこまでたどり着けそうもない。いずれにせよ、オバマ=英雄待望論は巷にあふれはじめたが、やはりまだ時期尚早。それがまた観客をドキドキさせ、水面下の動きまで逐一報告される。就任まえなのにやはりかれはもはや英雄と呼ぶにふさわしい存在ではある。 英雄とは,民衆の想念がユングのいう集合的無意識となり、ひとりの人間を押し出して顕在化する現象である。同様の英雄像が社会のあらゆるジャンルで存在するから、そのひとつをさぐればすべてを解明できるはずだ。 そこで、NY金魚もベルリン・フィルと同様に、現代的に進化する。いままでのエッセイと趣向を逆転させ、「クラシック音楽の英雄」というたったひとつのサブジェクトで、複数の意味の「英雄」すべてをメタファーとして論じてみよう。むむ、あるいは抽象につきてしまうかもしれませんが。 今回のベルリン・フィル「英雄ツアー」はいわばこの楽団が重戦車であることを強調する曲編成である。リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』も限りなく重厚なイメージの交響詩である。副題が「大管弦楽のための交響詩」となっているように、演奏するには百名以上の4管編成のフル・オーケストラが必要となる。この作曲家のもつ現代的寂寥感、雄大さ、内的表現のすべてがベルリン・フィルに限りなくフィットする。この曲の名盤といえばいままで、カラヤン/ベルリンという確定相場らしいが、今回ラトル/ベルリンのスタジオ録音とくらべて聴き、現代の英雄像としての表現の深さという意味で、ラトルのほうに軍配を上げる。R. シュトラウスのポピュラーな曲といえば映画「2001年宇宙の旅」のテーマにもなった「ツァラトゥストラはかく語りき」などがある。作曲者当人も自分自身にツァラトゥストラ的な精神的英雄像を重ねている節がある。 125年前に創設された伝統のベルリン・フィルハーモニーも、第一次大戦後にはひどい経済不況のあおりで深刻な経営危機に陥る。1933年、ヒトラーが組閣し、ドイツは世界史上最悪の時代をむかえる。作曲家 R. シュトラウスは、ナチの宣伝大臣ゲッペルスに全国音楽院の総裁に任命される。R. シュトラウスはむろんナチを毛嫌いしていたのだが、自分の親族にユダヤ人がいることもあり、妥協的態度をとらざるを得なかった。 このとき R. シュトラウスと同時にナチ政権の全国音楽院副総裁に任命されたのは、すでに先代の天才、ニキシュと交代したばかりの、ベルリン・フィル3代目の首席指揮者・ヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。現在でもクラシック音楽愛好家にとっての不動明王のごとく、絶対的地位で君臨するこの英雄フルトヴェングラーは、自らの表現の自由のためにナチに最大限の抵抗を試みる。ヒトラーに睨まれた作曲家をあえて選んで演奏し、政権幹部の逆鱗に触れるが、ヒトラーとの政治力の差は最初から歴然としていて、この試みは木っ端みじんに砕かれフルトヴェングラーは敗北する。ベルリン・フィルを追われ、第三帝国の国家的称号だけをあえて残された。 それでも、国家的な音楽の英雄という意味でのフルトヴェングラーがどうしても必要になったナチ政権は、主席指揮者としてではないがそのあとすぐにかれをベルリン・フィルに復帰させ、舞台でヒトラーと握手をしている写真をマスコミに公表する。皮肉なことにこの時点から先、この大指揮者が大好きだったというヒトラーの魔手からいかに逃げ切るかが、フルトヴェングラーの最大課題となる。 全体主義の恐怖政治を敷いたヒトラーは、現代においてはもちろん巨悪とされているが、当時のドイツ民族のなかではまさしく英雄であり、かれを英雄と呼ばずに批判した人はことごとく抹殺された。アメリカSF界の奇才、フィリップ・K・ディックが描く「高い城の男」は第二次大戦が三国同盟の枢軸国側の勝利に終わった悪夢を描いている。戦後15年が経っても、アメリカ東海岸はナチ・ドイツに、そしてこの作家ディックも住む西海岸は大日本帝国に、それぞれ分割され占領されている、という設定である。 ヒトラーが勝つというテーマのこの種のSF小説はアメリカでこのあと多数が乱立したが、このディックの小説世界のなかでは、登場人物がさらにその逆の、連合国側が勝つという設定のベストセラー小説を読みふける、というフィクションの二重構造も見られ、実にユニークである。思いきり超現実の世界を、ストーリーの破綻などといわれることなど気にせずに描き切るディックの勇気は、僕にとってSFに限らず文学界全体のなかでも飛びぬけて異才の英雄であった。 また話がすっ飛びはじめたが、SF気違いのわが多くの蔵書のなかでも、最愛のディックのこのような言葉を引用したかったのだ。— わたしにとって小説を書く上での大きな喜びは、ごく平凡な人物が、ある瞬間に非常な勇気でなにかの行動をするところを描くことだ。その行動によってかれはなにも得をするわけではなく、現実世界に名前が残るわけでもない。とすれば、その本はかれの勇気を讃える歌なのだ。作家というものは、作品を通じての不朽の生命を得たがっている、いつまでも記憶に残る存在になりたがっている、と思われているが、それはちがう。わたしの願いは、「高い城の男」の田上氏がいつまでも記憶に残ることだ。私の本の登場人物は、私が実際に見てきた人びとの合成物であり、かれらが記憶に残る方法は、私の本を通じて以外にはない。(ハヤカワ文庫版「高い城の男』訳者あとがきより、浅倉久志訳) ディックの小説のなかでは、利益にも名声にも関係のない行為のために最良の勇気を持った人物が真の英雄である、というわけだ。慇懃無礼ではあるがかなり好意的に書かれた日本人・田上氏がどのような人物か、ぜひこの実験小説を読んで味わってほしいと思うが、かれがアメリカを支配している枢軸国側の外交官であるにもかかわらず、ドイツ帝国の領事に面と向かってナチズムの矛盾を弾劾するシーンがあることだけをつけ加えておく。自分の創りだした作中人物に Mr.の敬称をつけて語るあたり、自分の作品を愛しつづけるディックの性格がにじみ出ていて微笑ましい。この小説とはじめて出逢った二十数年のむかしにはちょうどサンフランシスコに住んでいて、散歩がてら小説のなかに書かれた実際の住所番地を探し当て、見知らぬアパートの前でひとり悦に入っていたのを憶いだす。ディック氏がまだ存命のときには、この街に多く棲む日本からの移民たちみんなに、sanづけでていねいに語りかけていたであろうという幻覚が浮かんで消えた。 この作品に縁遠い読者のために、たとえば、かれの代表作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(かなり脚色されてはいるが、映画化タイトル・ブレードランナー Blade Runner —この映画も確か二十数年前にベイエリアで見た)のなかで、アンドロイドを処刑するための捜査官(映画のなかではハリソン・フォードの役)はいままでわからなかった大きな真実に気づき、それまでは標的だったアンドロイドたちを救うべく「勇気」を持って行動する、ことになる。ディックが本当に書きたかったのは、こういったたぐいの「勇気」のことである。思えば、音楽や絵画の創作活動はどんな破天荒なアイデアも、よきイマジネーションとして神棚に飾られるのに、小説だけが「虚構」などという平べったい言葉のレーベルを貼られるのだろうか。ディックの描く超現実は、現実を著しく超えつつ美しく、それゆえにひたすら現実の英雄に近づいている。田上氏という日本人主人公は、現実にディックが出逢った日本人の集合体をもう一度個体に還元した人物であり、ナチズムの同盟国でありながら、決してナチに毒されない国民という好意的な見方をしていることに少し安心する。小説になかでは、易や禅、東洋哲学の分析も含め、日本という国がまるで空想の国ラピュタのようにふわふわ浮いている超自然国として描かれている印象があった。 ついでながら、ディックの小説に破綻が多い、という日本人の聡明な読者に申し上げる。例えばダリやキリコのシュルレアリズムの絵画は、はたして論理的に難解ゆえに、破綻しているなどと言えるのだろうか。ふたつ以上の構文がストーリーとして読者の頭のなかで論理的に進行しないとき、ストーリーが破綻しているというわけだが、それを文字の実験ドローイングとしての絵画を観るように受けとってしまえば問題はなくなる。それを無理に論理の方向に引っぱってしまうのは、読者の頭のほうが実験を受け入れられずに破綻しているということにならないだろうか。現実の裏側にあるものを見据える眼が鋭すぎても、観る側にそれを理解する努力を放棄されれば、そのたいへんな価値がある絵画もただの壁のシミになりはててしまう。ディックについては、別稿にてまた詳しく述べる。 ナチ時代のベルリン・フィルの状景にもどる。当時すでに自国のムッソリーニ政権を批判しつつアメリカに亡命、ナチの全体主義と真っ向から闘う姿勢だったもうひとりの英雄指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニは、高齢のため自分の務めていたニューヨーク・フィルの音楽監督をフルトヴェングラーに譲ろうとした。しかし、ナチ政権は嘘をついてフルトヴェングラーをドイツにとどめ、これを断らせ、このことが原因でふたりの仲は急速に悪化する。 — 自由な音楽の砦、ザルツブルグ音楽祭で顔をあわせたふたりは論争になる。 トスカニーニは「あなたはナチだからここから出て行くべきだ。党員でなくてもいまのドイツにいる以上ナチである。今日の世界情勢では、奴隷化された国と自由の国の両方で同時にタクトをとることは芸術家として許されない」と、二者択一をフルトヴェングラーに迫った。 フルトヴェングラーはかれなりの論理で反論した。「この音楽祭をあなたがもり立ててくれるなら、私はよろこんで二度と来ないでしょう。あなたに任せます。しかし私は音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと考えます。ワーグナーやベートーベンが演奏される場所では、人間は自由なのです。私が偉大な音楽を演奏し、たまたまそこがヒトラーの支配下にあったとしたら、それだけで私はヒトラーの代弁者になるのでしょうか。偉大な音楽は、むしろナチの無思慮と非情さに対立するものですから、私はヒトラーの敵になるのではありませんか」しかしトスカニーニは感情的になり、こう叫ぶだけだった。 「第三帝国で指揮をするものはみんなナチだ」 論争にもならなかった。これがふたりの最後の対面であり会話だった。(青字部分、中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」幻冬社新書より引用) その頃急速に頭角を現してきた若い指揮者がいた。その名をヘルベルト・フォン・カラヤン。ナチのもうひとりの権力者であるゲーリングは、やはりフルトヴェングラーの機嫌をとろうとしたが、かれに馬鹿にされていると感じるようになり、もうひとりの音楽の英雄を担ぎだすことにした。すでにナチ党員だった若きカラヤンの才能には文句はなく、かれは38年にはベルリン・フィルのタクトを振ることになる。数回の公演のあと「奇蹟のカラヤン」という新聞見出しにフルトヴェングラーは猛烈な嫉妬をする。自分が30代の頃、ワルターなどのライバルを蹴落として勝ち取った勲章が、やはりいま30代の若造に奪われようとしている。このあとフルトヴェングラーはさまざまなかたちでカラヤンを妨害する。 嫉妬深いフルトヴェングラーの性格こそが、かれが嫌うカラヤンを実像より大きくさせ、巨匠を動かすライバルとしての存在感を大きくした、と中川氏は語る。ところが、1939年のベルリン州立歌劇場でのカラヤンの公演は、総統ヒトラー、ゲーリング、ゲッペルス、ヒムラーという政権幹部、ユーゴのパウル王子を国賓に迎えて行なわれたが、この席の演奏でカラヤンは大失敗をしでかす。ワグナーの歌劇の音楽の流れがおかしくなり、あたふたしたカラヤンはそれを修正するのに手間取ってしまう。一説にはヒトラーお気に入りの歌手がほろ酔い状態で歌ってトチってしまったもので、カラヤンのせいではないということだが、かれはこの歌劇を暗譜して演奏していた。このことがヒトラーの逆鱗に触れた。あのフルトヴェングラーですらちゃんとスコアを置いて指揮しているのに、あんな若造が暗譜とは、というわけである。のちにヒトラーはこのワグナーの歌劇を暗譜できるものかどうか、フルトヴェングラーに訊いたというが、かれの答えは「不可能」だったという。 この一件ですっかりヒトラーに嫌われてしまったカラヤン。カラヤンの方はヒトラーに気に入られようと必死で運動をくり返していたのに、とかくこの世はままならぬ。ヒトラーはといえば相変わらず敬愛するフルトヴェングラーを追っかけ回し、フルトヴェングラーはかれから逃げ回りながら演奏だけはつづけているが、国外に亡命する決断までには至らない。なんだか巷の男女の三角関係を思い起こしてしまう。逃げれば追いかけてくる。しばらく逃げつづけていると、なんだか逃げることが面倒くさくなりはじめ、ふとした拍子に気がかわってそれではとその気になり、やにわにうしろを振り返り、同じ相手にこちらから迫っていけば、こんどは自分を愛してくれていたはずのその相手はなんとどんどん逃げていくのだ。男と女の仲はすべからくこの法則に従っている。フルトヴェングラーの気持がよくわかる。 冗談まがいの比喩はともかくとして、物語は最終楽章に入る。44年の連合国軍ノルマンディー上陸で、ドイツの敗戦は決定的になった。総統大本営で書類鞄が爆発し、ヒトラーは奇蹟的に助かるが、関係者をすべて拷問に架け処刑した。総統は優秀な参謀を多数消滅させ、地下壕で昼夜逆転の生活を送り、完全に孤立する。 8月には連合国軍によってパリが解放され、ベルリンは日日空襲がくり返され、ベルリン市民はベッドより防空壕で過ごす時間が多くなったという。 そんな時期でも、いやそんな時期だから人びとは音楽を必要とし、フルトヴェングラーもカラヤンも演奏をつづけたという。音楽が人びとのこころを癒すという基本がまったくよく理解できるが、僕らの父母世代から聞いた日本の敗戦直前の状況とは、えらく違っている印象がある。日本のかれらは食べるものにもこと欠きながら、空襲の火焔地獄をさまよっていた。いったいこの差はどこから来ているのだろうか? フルトヴェングラーは以前からソリが合わなかったゲシュタポの長官ヒムラーに狙われはじめ、人びとは亡命を勧めるが、かれは本当に最後の段階までそれをしなかった。それはかれの優柔不断によるという意見もある。サスペンス・ドラマそのままに、朝ゲシュタポがかれのホテルに踏み込んだとき、フルトヴェングラーはやっとぎりぎり滑り込みセーフで、スイスでの入管をすませたところだった。45年4月、ウイーンは解放され、ベルリンも連合国に包囲される。ヒトラーは自殺し、翌日総統の死を告げたラジオは、ドイツの玉音放送、ブルックナーとワグナーの葬送の曲を流した。フルトヴェングラーの指揮で録音したものだった。 ナチ政権の最終楽章は終わったが、この時点でベルリン・フィルの新しい戦後楽章は、かれらの非ナチ審理などを含めてはじまったばかりである。フルトヴェングラーとカラヤン、そしてもうひとりの、ある意味でかれらよりナイーヴな英雄・チェリビダッケを加えて、英雄同士の権力闘争は戦後も延々とつづく。クラシック・ファンにとってはたまらない伝説となった物語のこれ以降は、中川右介著「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬社新書)でお読みください。 ナチの話に終始してシンから疲れてしまい、紙面もなくなってしまったので、ベートーヴェンの英雄交響曲についてはまたの機会にするが、かれとナポレオンの関係にしても、ほとんどおなじような心理で説明できる。 古来、民衆のためにと立ち上がったひとりのヒーローは、その責務をまっとうする以前に権力指向の権化となる。権力がないとヒーローにはなれない、という逆説も事実だが、結果的にその英雄が成し遂げたことは、ほとんどが当初の民意からほど遠くかけ離れてしまっている。ディックの小説の主人公のように、権力とは関係のない世界で、それによってかれはなにも得をするわけではなく、他者に知られることもなく、現実世界に名前が残るわけでもない、そういう行動、勇気のことを真に英雄的と呼ぶ。 これらふたつの行動形態はもともと正義というひとつの人間心理のなかにあり、矛盾しないはずなのだが、現実社会ではすべてがすべて、明解に分裂してしまっている。もしわれわれが未来社会に真の英雄を望むならば、このふたつの条件を完全にクリアする奇蹟的存在でなければならないだろう。 英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ —ベルトルト・ ブレヒト ![]() あの丸山真男氏もフルトヴェングラーの大ファンだったということです。そんな話を聞くだけで、かれのCDを聴きこんでいる自分が、なんだか少しだけ偉くなったような気がしてきます。今回はできるだけ飛びすぎないで、コンサヴァティヴなイメージを貫いたつもりです。冬のマンハッタンには、クラシック音楽がよく似合います。むかしのどんな英雄たちの録音よりも、映画よりも、音楽はやはりライヴです。今年は友人David Singerの指揮するBachanalia Festival Orchestraのポスター(右)をデザインしましたが、数年前まではヴァイオリニストだったその大柄でハンサムな友人Davidも、いったん指揮台に立つとますます大きく見え、たちまち英雄のような風貌と化してしまいます。 われわれ観衆を魅了するかれら新しい英雄たちに、新しい時代の美しいメッセージをこころから期待しています。 今日は小沢征爾氏、ボストン・シンフォニーに11月末、復帰のニュース。日本の音楽の英雄も永遠なれ。 しばらくの間をいただいたあと、この稿のタイトルで、音楽やアーティストと、政治や政治家について続編を書きつづけるつもりです。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
昔、アマチュアですがボストン響と同じ舞台に立ったことがあります。西洋のオケは日本とは違って音が大変クリアなことが印象的でした。とても楽しんで読んだ割には妙なところに注目して申し訳ありませんが、「逃げれば追いかけてくる。男と女の仲はすべからくこの法則に従っている。」には目から鱗です。いい歳をして身を固められず、(高齢で)高慢な姫に手を焼いている私には有り難い助言でした。 ご指摘のサイト「『高い城の男』って何ざます!?」を読ませていただきました。執筆者がディックの小説をとても深く洞察されていて感銘を受けました。冒頭に出てくる「近代合理主義の結果としてのナチズム」という意見は丸山真男氏も危惧されていた西欧文明の成りゆき、と同じ部分で、強い共感があります。筆者はディック・ワールドの認識に僕と似た感性をお持ちだと思いますが、ディテールは、ちがう読者ですのでさまざまな相違点があります。
この稿はオリジナルの小説からのあらすじ(これは当然似ています)とその訳者による解説=ハヤカワ文庫版・浅倉久志訳、から引用していますが、この訳者によるほかの一文がご指摘のサイトの文と似ていました。この部分の語彙は現在少し変更しました。他に共通項はありません。塔の画像は英語版から。 ディックの小説は難解で、共有できる読者が限られてしまいます。チャンスがあればこの「ディックの部屋」の執筆者の方と、ぜひメイルとかでお話をしたいと思っています。 ちなみに、ディックの代表作「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」と、例によって他のテーマとを絡めた書評をポストする予定。ご期待ください。金魚
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