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とにかく楽しかった。他人が遊園地で遊んでいる映画を見て何が楽しいの? といわれるかもしれないが、いやいややはり幸福感に満ちた2時間であった。世界最古のアミューズメント・パーク、ウイーンにあるプラーター・Praterを撮った映画の話である。『世界最古の遊園地・プラーター』(英語字幕DVD発売中) https://www.youtube.com/watch?v=DscRf0MNmyU http://www.prater-derfilm.com/prater/en/?page=trailer 遊んでいる人たちの姿がいい。みんなひとときの幸せを求めて、遊園地にやってくる。世界中で共通の風景ではあるが、ここウイーンのプラーターの、そしてこの映画のなかで遊んでいる人たちは本当に楽しそうだ。ドキュメンタリーではあるが、歴史的なフィルムを交え、ウルリケ・オッティンガー監督のイリュージョンの世界が先行している。 1766年、当時の皇帝ヨーゼフ2世は、この土地を保養施設としてウィーン市民に開放した。皇帝は飲食施設の設置をも許可したので、かつて皇帝家の御猟場だった緑地帯には、ほどなく「ヴルステルプラーター」の前身とも言うべき施設が登場した。1895年には遊園地「ウィーンのヴェネチア」がオープン、1897年には遊園地の中央に大観覧車が完成、ウィーンのシンボルとなった。市民はフィアカーと呼ばれる馬車でプラーターを訪れ、士官候補生が洗濯屋の娘と逢引し、ブランコ屋と見世物小屋が人気を競い、手回しオルガン、ホイリゲの楽師、女性の楽隊などが名曲の数々を奏でる。ワルツ王ヨハン・シュトラウス、そしてヨーゼフ・ランナーやカール=ミヒャエル・ツィーラーなどオペレッタ作曲家のメロディーも流れる。 フェリーニの映画によくでてくるパレード/パーティを想い起こすシーンも登場する。不思議なものや怖いものを見たり体験したいということは古今東西、ひとの相(さが)である。その体験が通りすぎて日常性にもどったとき、安堵感でもう一度幸せになる。この映画の主役であるプラーターにやって来た客たちの表情が実にいい。子供たちも、お年寄りも、そしてその昔のナチの軍服を着たおじさん、奇怪なイメージいっぱいのサーカス団。そう、歴史的なフィルムの部分になるとなぜかその奇怪さが増幅する。それでまた背中がゾクゾクし、なんだかますます楽しくなる、そこでも終わらない。歴史となってしまった時間の経過が、地獄/煉獄/天国を具現化しているのかもしれない。 そこがそれ、世界最古たる所以である。このプラーターができ上がったプロセスも、ストリートフェア、大道芸人、サーカスに依るところが大きかったに違いない。これと比べると少々イメージが貧弱な感はあるが、われわれが幼少の頃、かろうじて残っていたサーカスのテント小屋を思い浮かべる。場所や環境のちがいを越えて、プラーターの歴史が頭の中で同調する。このパークが開園された19世紀末というのはエジソンが白熱電灯を実用化してすぐのこと。それまではヨーロッパといえども闇の世界であった。その古いヨーロッパの残り香が画面から漂っている。闇の中の遊園地。現代の日常のなかで見る遊園地の夢からは、かなり離れた深い幻想。 このウイーンにある最古の遊園地を訪れたことはまだないが、将来チャンスがあっても行くことはないだろう。現実から引き出されたものにはちがいないが、この映画で創られてしまった美しい幻想の映像が壊れるかもしれないと思うと、なんだかもったいなくて実際のプラーター遊園地を訪ねる気にはならない。なんだよ偏屈オヤジ、やせがまんするな。そうですね、やっぱりチャンスがあれば行きたいのはやまやまだけど、どうも僕の子供のころの遊園地と、いま現実に存在する遊園地のイメージだってまったくちがってしまっているからね。 少年のころはサーカスが来なくても、世の中のすべてが夢の遊園地だった。おとなとの境目をすぎても、僕はいつもこころの中にこの魂の遊園地というべきものをあえて引きずるように生きてきた。その小さな解釈のちがいが、ホントにおとなになってしまったまわりの大多数には信じられないことであったらしい。必然として、こころに遊園地を持つ少数派の同志が集まり、そのほとんどはアーティストと呼ばれた。 実際に存在していた遊園地なるものから「夢」はおそろしいほどのスピードで消えて行き、夢のなくなったものから順番に経営不振に陥り、消えて行った。かわりにわれわれが享けとったものはいったいなんだったのだろう。TVという虚構の幻想、現実の矮小化、お茶の間の小さな箱にあわせたサイズの夢。そこには日常から一寸でも飛び上がったと思えるイメージは皆無である。 僕たちアーティストにとって、もはや入場料を払って入る現実の遊園地はどうでもよくなり、街全体が巨大な遊園地そのものとなった。故寺山修司氏は「書を捨てよ町へ出よう」と叫び、街にはかれの「天井桟敷」や唐十郎氏の紅テントが張られた。 それらは街の中に意識共同体としての遊園地を具現化させる運動であったが、そんなパフォーマンスをする以前にわれわれのこころのなかには、すでに大きな「遊園地」が存在していて、そのなかで「遊ぶ」ことがすなわち「生きる」ことと同義語であることに気がついている。ただその遊び方が、遊園地でひとりぼっちで遊ぶように極私的に奔っていては社会にとって何も生み出していないわけで、それは生きることとおなじとはいえない。他者とのコミットメントの中で「遊ぶ」ことは、あるいは「働く」ことを含めて、より大きく生きることへのテーゼとなる。 ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」はこう語りかける。遊びは文化よりも古い。ホモ・ファーベル(作る人)よりもホモ・ルーデンス(遊ぶ人)が先にある。ホイジンガが遊びに注目したのは、遊びが本来の生の形式ではない、ということにある。ありあまる生命力の過剰をどこかに放出するもの、それが遊びであった。そしてそれはなんらかの時間的制約や空間的制約を受ければうけるほど、遊びらしさを発揮するものなのだ。端的には、たとえば魂の遊園地で遊ぶこと。 ホモ・ルーデンスのパワフルなエネジーを持ってしても、街そのものをまったく夢の遊園地と思わない大多数の圧力で、やはり街=遊園地はどんどんなけなしになり、僕たちはほかの街に夢を託して世界に飛び立った。インドは底知れぬ巨大な精神の遊園地であり、そこで遊び疲れた僕たちが帰る空間は、もはやこの地球上にほとんど残っていなかった。 のんべんだらりとした広大なホリゾンタル大平原遊園地・アメリカにたどり着き、それでも納得がいかず、その東隅にあるマンハッタン島という特殊なヴァーティカル遊園地でやっとなんとか落ち着いた。80年初頭に初めて見たこの遊園地は、危険と恐怖、凄ましい混乱と狂気の遊園地であった。この狭い遊園地のその後の衰退の記は、メトロに乗って — 精神の温暖化の稿にくわしい。 そういういきさつとはいえ、祖国の富士をいただく大屋島を思いうかべるたびに、そこはむかしのように美しい大遊園地に戻っているのではないか、という初夢を松の内のあいだに見た。地球のほぼ裏がわまでに離れていることが夢をより美しくする。 ただこれはあくまで風景のみが美しくよみがえった夢であり、そこに住まれる人びとのイメージは、むかしに戻りようもなかった。 ウイーンにある世界最古の遊園地から、楽しく遊ぶ話をつづけるつもりが、やはり現実の世界を語ることがありすぎ、強い力で引っぱられて立ち戻ってしまった。 今回は私事に奔って、ウイーンと遊園地という組み合わせに、若いころの強い思い入れのことを書こうと思っている。 こころのなかで「遊ぶ」ということを教えていただいた、わが魂の恩師である故ドイツ人教授、リッチ・ウエノ・リックス女史 Felice Lizzi Ueno-Rixは、かってのバウハウスの姉妹校、ウイーン工房の生徒であった。60年代、高校生の僕は一度だけご自宅に呼ばれてお会いしたことがある。京都のとある芸術大学の入学試験の実技に描いた僕の絵が気に入られてのごく個人的なご招待であったが、とてもハッピーなお人柄に感激した。僕が入学する以前のこの大学のデザイン科は、かの女の私塾のようであり、実にユニークな絵画/デザイン教育がなされていた。現在にいたるまで日本のどのアート・カレッジにもなかった強烈な個性教育であったと思う。 後期バウハウスの非常勤教授だったパウル・クレーがウイーン工房に来たときの想い出を楽しそうに話され、絵を描くことがいかに楽しいことか、を訥々とドイツ語で話された。夫君上野伊三郎氏がそれをまた訥々と日本語に翻訳される。そのときは当方多分に舞いあがってしまって、お話の詳細を憶えていないのだが「希望」「ハート」「あたたかさ」などということばが頻繁に出てきた。どの言葉も僕の描いた絵の論評からでてきたのだが、たいせつなのはその気持をいつも忘れず持ちつづけなさい、というメッセージだった。こんな素晴らしいご夫婦に美術を教えてもらえるのかとその時は舞い上がったのだが、その年から高齢(当時すでに80歳代)を理由に退官され、結局直接のご指導はほとんど得られなかった。もちろんそのときの対面が最初で最後、まさに幻の師になってしまった。 2009年1月6日より2月8日まで、京都国立近代美術館にて回顧展『ウィーンから京都へ、建築から工芸へ』。 ご存知のようにバウハウスは、ドイツ・ヴァイマルとデッサウに設立された美術・建築・工芸・写真・デザインに関する世界初の総合的な近代デザイン運動である。建築家ヴァルター・グロピウスによる革命的な教育システムだったが、1919年から1933年という短い期間で、ナチの弾圧などから閉校となる。 ウイーン工房の方は、これに先立つ1903年というから、上述の世界最古の遊園地、プラーターが体裁を整えた時期と重なる。1919年のグロピウスの登場で、舞台の主役はバウハウスと言う名称の学校になったが、ともに兄弟のように寄り添っていた世界最古の近代デザイン運動であった。ウイーン工房も、ナチの弾圧と経営難からバウハウスとほぼ同じ時期に閉校となっている。その最終期の生徒のなかにリッチ=上野の御夫婦が在校されていたわけである。 僕が受験したそのときの入学試験のなかの色彩構成というのが、まさにその年北陸・信越地方を襲い、多数の死者とともに大被害をもたらした『豪雪禍』というタイトルで絵を描きなさい、というものであった。楽しい絵しか描かない、描けないというそのときの若い僕の信条からはほど遠く、アタマがまっ白になって絵筆を持ったまま無為に1時間を過ごし、あと1時間ですという試験官の声で突然目覚め、いつものように「遊園地」の絵を描くしかないことに気づいた。狂ったように一気にパレード/パーティの絵を描きはじめる。 当時の僕には『雪』は楽しいものの象徴だったはずだ。自衛隊ならぬヘイタイさんたちがシャベルで雪を掻き揚げ、全員満面の笑みで救助に駆けつける。近衛兵大楽団が豪雪のなかを行進する。大人も交えて雪合戦、どういうわけか雪のなかに観覧車が出現する。ジェットコースターやウォーターシュートのようなもので雪の中に飛び込んでいる人もいる。イマジネーションはどんどんエスカレートして(というか描きたい放題)女性3人組のコーラスグループ『ザ・雪女』が雪のステージで『雪の歌』を歌っている。もちろん『歌』など描けないはずなのだが歌手の姿をデフォルメして本人はちゃんと描いたつもりになっている。バックの色は一面のショッキング・ピンク! 最後の仕上げに短い太筆で白い絵の具を画面いっぱいにはじき上げた。まあそんなわけで悲惨なテーマ『豪雪禍』であるべきはずのその絵は、この世の大遊園地のすがたを借りた楽園図となってしまい、テーマの歪曲ということで大問題になり、ほかの教授陣にはたいへんな悪評だったらしい。ところがかのリッチ女史の『スバラシイ!』という鶴の一声で僕は無事合格できたわけである。 以来、ウイーンのことを話すたび、バウハウスやウイーン工房の作品を観るたび、彼女のこと、その絵のことを思い起こす。ご自宅を退出するとき、いい絵を描いたご褒美よと、ポケットからウインナ・チョコレートをいただいた。 その時は当方が若すぎてまったく気がつかなかったが、いま想像するにかの女の青春時代はバウハウスの最期に象徴されるように、ナチに迫害されたひどい世界で、素直に楽しむことすら難しい時代だったのではないか。それゆえに彼女の芸術哲学はより強く「楽しさを表現する」という一点にこだわりつづけ、そこで当時の僕ら日本の戦後世代の若人の理想主義とも強い共感があったのだと思う。 くどくどと大過去の自分の絵のことを書いたのは、自慢するつもりは更々なく、その時の若き自分の絵が、地獄を見たことの少なかったゆえに、ひどく薄っぺらい「楽園」の絵だったのではないか。それは、アートとは光と影・天国と地獄を同時に表現しているという当たり前のことにまだ気づいていない、青臭い絵だったのではなかったろうか。 その後、僕なりのさまざまな地獄を見てきたことで、若さゆえに薄っぺらくて「楽しさ」しか描けなかった僕の絵は、それなりに数々の変貌を遂げた。かくして僕にとっての夢の町ウイーンは、パラダイスという意味と同等の大きさの地獄を持ちつづけることとなる。考えればふたつの世界大戦の大きなきっかけはウイーンにあったし、西欧という巨大な化け物が世界制覇をたくらむとき、いつも鍵のかかったドアがそこにあった。 2006年だからもう2年前の話になるが、アッパーイーストのノイエ・ギャラリー Neue Galleryで『パウル・クレーとアメリカ』と称した回顧展があった。この深い影を背負ったバウハウス講師の絵画は、後年当時のアメリカで大人気になった。リッチ先生が自分のこころの師だった、と明言される以前から、このアーティストの作品にはいつも「魂の遊園地」を感じていた。ふたつの大戦にはさまれた時期の世相を反映した影の部分と、その外側に見える夢の遊園地の表現は、アメリカ人だけでなく現代人すべての魂を癒す力を内包している。 生前のかれの言葉「芸術は見えないものを見えるようにする」は、僕が若き日から考えつづけていたことと一言一句変わらないまったく同じ言葉で、その偶然にわれながら唖然とした。 マンハッタンのあちらこちらに、たくさんちりばめられているかれの夢の遊園地の作品を観るたび「わが魂の師の魂の師」として敬愛しつづけている。 金魚のフン & Fun: ノイエ・ギャラリーの展示はウイーン・アートが中心ですが、この美術館の一階にあるカフェ・サバルスキィCafe Sabarsky もウイーンからの支店。名物ダーク・チョコレートケーキ Sachertorte をほおばると、この歴史の短い街にいても旧大陸のアートの香りが満喫できます。金魚のお薦めスポット。 もうひとつ、楽しい雪のイメージの遊園ショー:弟子たちとともにシルク・ドゥ・ソレイユにも出演していたスラバ・ボルーニョンSlava Polunin氏によるオフ・ブロードウェイのピエロ・ショー、Slava's Snowshowは絶品。子どもたちに大人気。僕が行ったのは2006年でしたが、今シーズンもThe Helen Hayes theaterで12月初めから5週間公演されましたから、ほぼ毎年チャンスがありそうです。 http://www.youtube.com/watch?v=sJkhfbEGyiE
by nyckingyo
| 2009-01-13 05:07
| NYCで観た映画評論
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