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七瀬ふたたび、オバマふたたび (1) − 想念の重み よりつづく 「乱世には、人びとは超常現象に熱狂的に反応する」これは、山本周五郎のとある短編のなかの一文ですが、かれの長編「正雪記」のなかにも数々の超常現象が現れます。この小説で描かれている背景は、乱世と言っても由井正雪という人物の棲んでいた徳川初期で、戦国の世はとうに終わり日本が新しい封建安定期に入ったばかりの時代です。江戸時代の封建体制が確立されつつある一方で、大坂両陣、島原の乱、各地の大名取りつぶしなどで、急増した浪人対策は、徳川幕府の癌となっていました。世界各地で大量リストラや派遣切りがはじまり、多数の「ローニン」が現出している最近の世相と、似た部分のある時代の設定です。 ここでの超常現象とは、たとえば切支丹の美しい混血少女の幻影が、夜な夜な京の町に現れ「天からくるすの軍勢がおりてくる。何十万という軍勢が天から押しよせて来る。日本の国は天主の軍勢に亡ぼされる」と予言めいたことを叫ぶ。追手が捕らえようとするが屋根から屋根に鳥のように消えてしまう、というわけです。 そして正雪は、この島原の乱に天命的に巻き込まれていくという設定ですが、著者山本周五郎氏はのちの講演で「島原/天草の乱は宗教戦ではなく、領主松倉氏の暴政に対する、百姓一揆であった」と断言されています。この戦争に正雪のような浪人が多数、幕府側の非正規軍として参加しますが、この小説のなかでは幕府の陰謀により虐殺され、全滅するという設定です。 この乱を期に正雪は浪人の仲間との連携を強めていきますが、正雪が信州で出逢った老人のことばから天下に争乱の起こる兆しを、太微垣の妖星の光からよむようになり、偏光から自分の運命的な行動を察知します。少ない史実に基づきながら、まるで時代小説ではないかのように数々のイマジネーションをちりばめた周五郎ファンタジー・サスペンスです。 この物語の最後に登場する由井正雪の乱(慶安事件)にしても、周五郎氏ははっきりと、正雪が革命を企んだというデータはどこにもなく、権力によって抹殺された、としています。かれはこの事件を明治期の幸徳秋水事件とも対応させています。 ある権力によってこういった事件がでっち上げられるという例はこのふたつだけでなく、歴史になかに多々あります、と周五郎氏はつづけます。「だがそういう場合に重大なのは、正雪が抹殺された、そういうふうに歴史が修正され、かれが抹殺されたという事実ではなくて、そういうある人間が、ある時代の権力や政治の形を守るために、人工的に抹殺されることがどうして許されたか、ということです」。(新潮文庫「正雪記」解説、尾崎秀樹) 日本において、いや世界のどの時代においても、革命というものの不可能性を、暗示していることばだと思います。 のっけから話が二重に外れてしまいましたが、ここで言いたかったことは、一度でき上がってしまった権力というものは、夢をもてない、等身大以上の夢をもてば崩壊するという被害妄想意識が生まれることです。逆に正雪の持ったような、反体制の夢などを即座に叩き潰さねば、今度はその権力の方が木っ端微塵に潰されてしまうのではないか、と思いこむ性格があることです。 この周五郎/正雪の物語はフィクションの部分が多いのですが、現代の世相と対応させて考えさせられることが多いので、またのちの稿でもっと深くとりあげるつもりです。 僕はアーティストだから、できる限り夢を持ちつづけて生きてきました。単に幻想的な思考や表現や就寝時のまどろみだけでなく、世界に自分のなかの理想というものを描いて、それに近づくようにめいっぱい努力してきたつもりです。もちろんアーティストとして成功することもそれら理想のひとつだけれど、僕が描いた小さな絵一枚がだれかのこころと繋がり、その人が少しだけ幸せな気分になってくれた、なんていうことがあったら、僕はもう大満足です。そういう小さな理想がたとえ漠然とでもこころの中で育っていれば、ひとは老化しない、とだれか偉いひとが言っています。たとえお金がなくても、夢さえあれば楽しいことがあふれてくるものです。 「マンハッタン効果」というものがあって、たとえ小さなステューディオにしろ、この島で、希望と理想付き、ジジババ感覚抜きで暮らしていれば、いつまでも若くいられるといいます。その分、肉体的にはこの街の過剰な刺激というものを日々体感しているわけですから、まあ自然いっぱいのなかでの老後とどちらがいいか、結論は出にくいとは思いますが、いやぁ実に夢にあふれた元気な老人(面とむかって老人などと言うとひっぱたかれますが)が多い島であることよ。 本当はこの島だけでなく、世界中どこに住んでいても人類全員が年老いたあとまでも「理想」を持って生きていける地球であるべきですよね。そしてその理想とやらを培っているのはふだんの他者に対して発するポジティヴな想念であり、そういった質のいい想念がお互いのコミュニケーションをより円滑にします。そのときの「夢」というものがすなわち ESP であり、テレパシーともいわれることなのかもしれません。 新年の稿では、そのような眼で日本の政界に夢がある人物がいないことを批判してみましたが、どうやら世界のどの国においても、政治というものにはどんな種類の夢をもち込むことさえ、極端にむずかしい、と思いはじめています。 大統領選のあいだ、あれだけCHANGE とか Yes we can と叫んでいた御仁が、就任式の演壇では、ほとんど直接にはそのことを語らなかったことに違和感すらを感じました。でもよく考えると、権力というものを手に入れたとたんに「夢」を捨てざるをえない構造になっているのかもしれません。 昨年の9月、大統領選のさなかにオバマがとうとう民主党の指名を勝ち取ったときに、融合の夢革命・前夜と題して、新大統領自身による革命の夢を論じました。このときのタイトルを「融合革命」とせずに「融合の夢革命」としたのは、オバマ氏のことばがいまだに「夢」を語っているからだ、と書いています。そして就任式の演説のことばのなかから、夢という一文字はどこかに置きっぱなしになり、ひたすら融合のみに邁進する「現実的な政治」がはじまりました。 オバマが就任式の演壇に立ちました。それまでのかれの緊張がウソのように、立て板に水を流すごとくに、ことばがさらさらと流れていきます。そこには選挙期間中に聴かれた「変革」というようなことばよりも、厳しい現実にわれわれはなにをすればいいか、という現実を少しづつでも改革することを語っています。そして自分ひとりではなにもできない、あなたがたの責任ある行動だけが、この国を、地球を変えていくのだ、というシリアスなメッセージが中心でした。 今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だがアメリカはそれをいつか克服する。 わかりましたオバマさん、あなたは本当にたいへんなときに大統領になられた。現実的にすこしづつ世界を取り戻し、すこしづつ改革することも、夢にはちがいないでしょう。やろうじゃないの。僕だって、あんたが大統領ならやる気が出ようってもんだい、と感じた人は多いはずです。実際最近の友人との会話のほとんどは、オバマに協力する、という信念のようなもので終わることが多い、まわりの全員の背筋になんだか一本シンが通ったような感じ。これだけだってこの国は立派に改革されてしまったと思います。 人びとの想念の重さの話をもう少し続けます。この演説に先立って、カーター以下歴代の大統領が順に登場しましたが、ブッシュ前大統領が登場した時のブーイングは猛烈でした。三大TVネットではさすがに歓声とともにこういったブーイングの音声は消されていましたが、あとでニュースの映像とともに聴こえてきた声は、アメリカ人たちの怒り、8年間の憎悪があふれかえった感じでした。そりゃあ僕だって憎い。このブログで書き綴ってきたことが、ひとつづつ憶いだされてムラムラとします。世界をグチャグチャにした行為は、直接経済的な恩恵をこうむったひと以外は、誰だって怒ります。この8年間のあらゆるひとのあらゆるネガティヴな想念が結晶化し、ブッシュの体中にぶつけられます。イラク記者の投げた靴は巧く避けられたけど、この場所での、重い大量の負の想念は避けようがありません。車いすに乗ったチェイニーにいたっては、それみたことか、天罰だよ、それでも許せないわ、許せるわけがないだろ、貴様の悪行が、人殺し、地獄に堕ちろ、などという想念の罵声が浴びせられます。ここのところはもし「家族八景」を書かれたころの筒井康隆氏の筆にかかると、天才的に巧く表現されることでしょう。 ちょうど氏がこの七瀬三部作を執筆されていた70年代半ばに、東京青山の都営住宅に隣接した小公園で、2-3度ですが筒井康隆氏をお見かけしたことがあります。氏の癖のある多彩な小説群は好き嫌いが激しく分かれますが、僕はデヴュー以来の全面筒井ファンで、当時は有名人の多いその街で木賃アパートを借り、フリーのグラフィック・デザイナーでした。その公園の隅に座られていた筒井氏を認知しましたが、その街では有名人に知らんふりをするということが暗黙の了解事項でしたので、そのときの僕も知らん顔をしていました。と、突然こころのなかに「あなたもSFを書いてるの」というような声が聞こえました。まわりには他に人影がなかったので、きっと氏が発した想念ではないかと思い、顔を上げると筒井氏と目が合いました。そのとき僕は「いやいや、一介のコンセプチュアル・アーティストです」などとかれを見つめながら気取った想念で答えたような気がします。ひとしきりことばにならないさまざまなSF談議がつづいたあと、ふたりともそのまま公園の樹々を見つめて、どちらからともなく立ち去りました。氏の小説のイメージからはほど遠い、静かな出逢い。ひとこともことばを発したわけではないので、それは僕の勝手な妄想世界の記憶だけのことかもしれません。これはいわば雑談の妄談のそのまた余談。 ここでテレパシーについてもう一言だけ。好きでたまらぬ女性の考えていることが手に取るようにわかるというのは、あきらかにテレパシー。ただしこの場合「恋は盲目」という状態と交互にやって来ますからね。盲目状態で観たかの女の姿はやはりまったくの妄想。このふたつの見極めを誤ると、平手打ちの刑などという目に遭います。恋とは尋常でない精神感応ですから、覚醒しつつ感応するというところが、異性の場合は特にむずかしいのでありんす。 オバマ大統領就任からずいぶんの時間が経ってしまったので、もうこの就任式の日の話題はおしまいにします。その日からのオバマ新大統領の行動をすこし列記してみましょう。 ♥ グァンタナモの囚人はオバマの決定で就任式当日から即、審議停止。 執務二日目の22日には、水攻めや拷問の行なわれていたこのグァンタナモを一年以内に閉鎖する決定をしました。 オバマは、道義的な実践こそアメリカが世界にリーダーシップを示すうえでの基盤であるとして、人権や国際法よりアメリカの治安を優先させたブッシュ前政権の政策との決別を宣言しました。カッコいい。 このあたりまでは僕も、前政権とまったく異なる、迅速で、行動的な政務に拍手喝采していたのですが… ♠ 国務省での第一声、「アメリカはイスラエルの自衛の権利を支持します」。 あれぇ、あれが自衛なの!というまさかの発言ですが、そのときのオバマの眼からこのことばを読みとるに「このことをきちんと言わなければ、私はイスラエルのシオニストに殺されるでしょう」といっているようにも聴きとれました。 ♦ はじめてのTVインタヴューはなんと中東の衛星局・アルアラビア。私の仕事は、イスラム世界に対し「アメリカ人はあなた方の敵ではない」と伝えることだ、とイスラム教徒に対し対話を呼びかける姿勢を鮮明にしました。しかし ♠ で言ったイスラエルとの約束はどうなるんでしょう。 オバマがめざす「融合」が、このように立場の敵対する二者をことばだけで言いくるめるだけのものならば、それはすぐに化けの皮が剥がれるというか、真の融合はほど遠いでしょう。なんだか、どこかの国の政治家たちのように「狡」と「猾」との文字を交互にくり返しているだけの行為がアタマに浮かんだのは僕だけでしょうか。 イスラエルもイスラムも、双方の態度は、多少なりとも緩んだようにも見受けられますが、そんなごまかしがつづくわけもありません。政治とはそんなものだとしたら僕たちがオバマに託した夢は一体どこに消えたのでしょう。かれが真のテレパスならそんなことをする必要があるのでしょうか。 とある国際政治学者が、オバマの政策はふにゃふにゃだから、かれは暗殺などされませんよ、といいました。かれによって将来グラジュアリーにシンのある改革に至るなら、いまはふにゃふにゃでもいいから暗殺だけはされないでほしい、と願っています。 百歩譲ってこのふにゃふにゃ行動を政治家の手腕として好意的に解釈してみましょうか。 右や左のだんなさま、なんて書くと冗談がすぎる、と怒られそうですが、この概念もちょっとおかしい。いまの自分の位置から方向としての左右は判別ができるが、いったん自分がくるりと方向転換すれば、左と右は逆になる。そう考えるとウヨクとかサヨクとか、なんだか規定することがとても怪しくなる。右大臣左大臣あたりから出てきたことばだと察しはつきますが、いずれにせよ極端に端に座り込んでいるひとはどちらも好きじゃありません。 政治というのは右のひととも左のひとともうまくやらなければならぬ。確固たる意志で自分たちのイデオロギーを貫くことが最終目標でも、まずあちらこちらに出かけて行って「うまくやる」ことが必要なのだそうです。前大統領のブッシュは議会と対立することがあると、まったく議会に顔を出さなかったといいます。おめえは白か黒かどっちじゃ! と言って決着をつけようとするかれのような性格は、民主政治には不向きなのかも知れません。新大統領オバマはまったく違う。まずいつも相手と対話する、そこからしかなにもはじまらない、という人間として実に当たり前の基本を押さえた行動で通します。こんなあたりまえのことでも、いままで権力を握った人はほとんど誰もできなかった。とても不思議ですが、それが権力というものかもしれません。 いずれにせよオバマは左右全体を大きく巻き込んでいます。選挙であきらかに共和党候補に投票した人たちの、このいまさらの熱狂はなんでしょう。 とはいえこのアメリカ人の熱狂を、将来のファッショ化として危惧するのは、その人物の性格というものを無視したまったくの暴論だと思います。これだけはひと言。 ただここで、オバマに期待はしているが、極端に価値観のちがうふたり(左右の両極)に対して、両方の立場を認めることは、双方の不信をも高めているといえます。たとえば座標軸の天地をイスラエル、左右をイスラム圏というように双方の期待値をグラフにすると、双方に甘い言葉を囁けば囁くほど、相手に対する甘言蜜語も聴こえてきて、双方の期待値はどんどん低下していきます。それまでせっかくオバマに対する期待値が二乗になっていたのに、相手に対することばのせいで、双方の期待値は平方根となる、という理屈です。最初の期待値は2だったのに、この作業のあとでは、双方の期待は2の平方根・ルート2 = 1.4142…になってしまうというわけですね。 そういえば、「博士の愛した数式」という映画のなかで、80分しか記憶のない博士の、小学生の弟子のあだ名は「ルート君」でしたね。ルート君は賢く、博士のいうことをよく聞くいい子だけど、小さかったですね。 期待値が小さいことは別にかまいません。大切なのは世界の人が少しづつでも本当に融合していく方向に行くかどうかです。融合の技術者として、猛烈に迅速に動き出した感のあるオバマ政権ですが、この作業は多分、経済問題よりも長い時間がかかるでしょう。 たとえば選挙期間中から9-11の話が出ると、いつもオバマ氏はピクピクと緊張していたことを憶いだします。かれはなにかを知っています。こんなことをいうと根拠のないテレパシーの話でしょ、ということになりますが、政治家やジャーナリストが全員この陰謀論に深く口を閉ざしているのはとても奇妙です。僕は9-11の陰謀を100%信じているわけではありませんが、少なくともペンタゴンに空いた穴が、なぜ旅客機の空けたものより極端に小さいのかという説明は、きちんとだれかがすべきです。 アメリカには、いや全世界の政治や歴史と呼ばれるものには、まだまだ深い闇の部分がたくさん残っています。それらをすべて暴き、平和な世界を創り、ひとりひとりが最低の権利を主張できる世の中を創ることは、ひとりの大統領にはとても無理かもしれません。それでも僕たちのかれに対する期待値は、こんなにひどい状況だから、ますます高まっていきます。 「七瀬ふたたび」の後半、アクティヴ・テレパスという概念が書かれています。人の心を読むだけでなく他人の心に自分の心を投射し、他人の心を変えることができるという超・超能力。美人テレパス七瀬は、そのまわりにいる超能力を持っていなかったフツーの人間に、知らないうちに超能力を授けることも可能だというわけです。 NHKドラマ8版「七瀬ふたたび」では、最初エスパーではなかった水野美紀演ずる超能力の研究家・藤子が、七瀬の超能力を調べていくうちに、突然時間を遡り、10分程度ですが過去に戻るという究極の超能力を持つに至ります。それまでも七瀬のまわりには超能力に目覚めたひとが増えていました。会っているだけで自分もエスパーになれるアクティヴ・テレパス。みんながますます七瀬ちゃんのことを好きになっちゃうわけですね。 複雑な政治のかけひきは、この紙芝居屋のおじさんにはこれ以上わかりません。ただオバマさんが当初の夢を失わないで CHANGE を見つめつづけてくれるなら、大統領による革命は夢ではなくなるでしょう。そのときにはわれわれの期待は平方根値などにはならず、すべてが社会に昇華されていくでしょう。 オバマ政権ははじまったばかりです。しばらく成りゆきを見守るゆとりもないいまの世界の状況ですが、やはり評価を焦ることは謹むべきだと思います。 昨日(2月3日)オバマ大統領は、ホワイトハウスを抜け出し、小学校をサプライズ訪問しました。子どもたちは「真夏の夜の夢」という絵本を読んでもらって大満足。かれらのなかに必ず新しい夢が芽生えることでしょう。スパイダーマンとバットマンが大好きと言う大統領にもらったエネジーは、子どもたちのなかで将来の強い超能力に育つと思います。 アクティヴ・テレパスとしてのオバマよ、ふたたび ! 最後に、10日ぶりに今日もこの紙芝居を観にきてくれたお坊ちゃん、お嬢ちゃん。 テレパシーを持つということは決して楽なことではないのです。他者の想念がわかるということは、そのひとの苦しみも悲しみもそっくり引き受けるということです。つい2週間前にイスラエルの白リン弾の犠牲になったパレスチナの子どもたちの断末魔の想念は、われわれの想像を絶する耐えられない苦しみだったと思います。でも君たちのなかにテレパシーができて、その何百分の一でもその苦痛を共有したら、もう自分たちは絶対、人を殺すまい、と誓うことができるでしょう。 テレパスとは、人の痛みがわかる人間になる、ということですよね、筒井先生。 金魚のフン & Fun: 今日の紙芝居は昨夜の賃仕事に追われて、絵を整理せずにつめ込んできたから、いつもにもましてバラバラのストーリーになりましたね。ごめんね。そうそうむかしの絵がいくつか出てきました。はやばやとお母さんの夕飯の支度ができてしまったよい子のために、かいつまんだ復刻版。すでにもう観ちゃったひとは、悪しからずね。 アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」 近未来のある日、直径数kmにおよぶ銀色の巨大円盤が、ニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、ローマ、ケープタウン、東京、キャンベラなど世界の主要都市の真上に静止した。 それはそれまで地球上で人類が万物の霊長だったことの終焉を意味した。その6日後、宇宙人の代表、地球総督カレルレンがあらゆる電波を掩蔽する強力な電波で自己紹介をした。完璧な英語である。その言語にもましてひとびとを仰天させたのは演説文句だった。どこからみてもいままでの人類だれもが及ばなかった天才の作品であり、人間というものに対する完璧な、徹底的な理解を示していた。 とある大国は恐怖のあまり、とち狂って宇宙船にミサイルを撃ち込んだ。それは命中し大爆発を起こしたが、巨大な宇宙船は無傷でもとのままの空間に浮かんでいて、何も起きなかった。 圧倒的知性、科学力、そして超越した理性をもつオーヴァーロードは、常に激情をあらわすことなく、優しさにみち、そしてときに冷ややかに人類を観つめる。 ただ一度だけ怒ったような様子で「人類同士は望みとあれば好きなだけ殺しあうがいい」と通達してきた。「しかしもし人間が食料かあるいは自衛以外の目的で、人間とこの世界を分かち合っている動物を殺した場合は、そのとき人間は私に対して責任を負うだろう」 長くまたずにそれはマドリッドでおこった。闘牛士と従者の一団が入場行進をはじめたとき、満員の大観衆は贔屓の闘牛士に声援を送ったが、そのなかにもマドリッド上空50kmの高みに浮かんだ冷ややかな銀色の影を不安げに見入る顔がそこここにあった。 やがてピカドールが所定の位置につき、牛も鼻息荒く闘牛場に引き出された。最初の槍がひらめいた — 牛に命中した — その瞬間、地球上に、いまだかって聞かれたことのない異様な物音がひびいた。それは一万人の観衆が、牛とおなじ傷の痛みに同時に発した苦悶の叫びだった。そしてようやくショックから立ち直ったとき、一万の群衆は自分たちがまったくの無傷だったのを知った。これはその日の闘牛の終わりであり、もちろんあらゆる闘牛の終わりでもあった。 おもしろいですねぇ。痛快ですねぇ。オーヴァーロードはこの牛の痛みだけを闘牛場の観客にテレパシーしたんですねぇ。この小説のなか、人類はこの後数十年ですべての戦争をやめてしまいます。 くわしくは、クラークの小説か、昨年5月の金魚作品オリンピック幼年期の終わりでお楽しみください。
by nyckingyo
| 2009-02-05 07:40
| 地球号の光と影
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