by NY金魚
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「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」ロシア語版序文から、ふたつ以上のサブジェクトのことを書きました。多層的主題を飛び跳ねる物語に世界が共鳴する。 村上春樹編集長による「少年カフカ」なる週刊誌風古文書を手に入れた(2003年・新潮社刊)。「海辺のカフカ」発刊にともなうネット上の膨大な数(1220通)の読者メイルに編集長自らがひとつづつ、実にていねいに答えるという趣向である。春樹氏と読者諸氏とのコミットメントの深さを感じ、小説を読んだとき以上の広い意識の世界で理解ができてしまったような気になっている。もともとこの小説「海辺のカフカ」には物語のおもしろさとともにパラレルに広がっていく拡張宇宙のようなイメージがあったが、それがこの少年週刊誌のような体裁の対話集によって、まるで太平洋の海辺に打ちつけるさまざまな波の形を分類収集したような更なることばの広がりを感じた。読者たちのコメントはさしずめ浜辺に打ち上げられる色とりどりの小さな貝殻ということにしておこうか。 ネットという世界が、作者と読者による対話という意味で、いままでの文芸評論のかたちをまったく変えてしまったわけだが、この膨大な情報も「少年カフカ」という紙媒体に還元されて、はじめて雑誌的な新しい意味あいを持つことになる。いままでの雑誌は編集者によって選別された情報をほぼ一方的に印刷して出版する手法だったが、ネット世界との連携として実に楽しい試みである。5年も前の本をとりあげて今さら「試み」もないのだが、このあたりにネットと紙媒体双方の可能性を感じています。 話がはずれたついでに、無料で利用させていただいているこのexcite blogにもやっと最近コメントとトラックバックの承認制というものが導入された。管理人(この響きはアパートのスーパヴァイザーを連想してどうにもいただけないが)が選別した読者の意見のみを公開することは、あたり前にすぎる。こんなこともできなかった以前の、誹謗中傷言いたい放題のブログ世界は、やはり闇の原始時代であったわけだ。訪れたことはないが、いまだにそういうたぐいのフラストレーション発散専門サイトがたくさん存在しているらしい。 編集者が管理しながらのネット雑誌のようなものも出始めたが、情報が散漫になり質的なものを維持できない、読者の声がうまく反映されない、印刷された雑誌と質の低下以外何も変わらない、と問題山積。 とはいえ、ネットがいまだに革命的なのは、誰でもが意見を書き込めるメディアということで、ひとむかし前には壁の掲示板以外には皆無だったわけだから、そのあたりから見ればもちろんいまだにすべてが夢物語ではある。 筒井康隆氏が朝日新聞朝刊で「朝のガスパール」の連載をはじめたのが1991年。このハチャメチャ脱構築SFは当時まだパソコン通信と呼んでいたネットの前身での読者参加形式が取り入れられ、実験小説としてはたいへんおもしろかった。ただそのときの読者の表現の多くは、さあこれからは誰でもが自由に何でもものを言えるのだという風情で、戦場の雄叫びのようなメッセージが多かったと記憶している。作者の筒井氏が実名で投稿してきた読者を怒鳴り散らすような部分もあり、もちろんこれらは作者のキャラクターに依っているのだが、当方のアタマも狂ってしまいそうな狂乱小説の誕生であった。それでも2年後の断筆宣言の際、筒井氏は「狂」という字が使えなかったという朝日の「用語規制」のことなどを追求されている。今月末から朝日で筒井氏の連載エッセイが再開するらしい。当時とはまた隔世の感がある。 たとえばカラオケの創成期(実際どんな状態だったのか、当時すでにアメリカに移住していた僕には想像でしかないのだが)、この新しいメディアで個人が自由自在に歌うということが可能になったとき、多分人びとは全員が自己主張と自己陶酔の掛け算で必要以上にガナリ立てたのではないだろうか。いまだにアメリカ人の若者とカラオケ箱のなかに長時間いると、そのあと耳鳴りが鳴りやまぬ悩みが続いているわけだが。 ひとつのメディアが安定期に入ると、みんなが自己表現のクオリティーを気にしはじめる。まぁネットの世界も少しづつ大人になっている感覚はある。若いタレントを誹謗中傷で自殺に追い込んだのが、理知的な日本のネット界でなくて幸いだと思っている。え、日本でもそんな甘いもんやおまへん、ってか? 世界的な不況でほとんどのひとの財布の中身がやせ細り、消費の興奮状態は冷め、自分たちのおかれた状況を客観的に観るしかなくなり、やっとここ数十年の急激な技術革新、情報の国際的な流動化、人類全員にとっての革命的な進化を落ちついて実感できるようになった。グローバリゼーション、市場原理主義、経済だけでなく社会的な意味も含めての新自由主義、すべてが前世紀末からはじまっている。そのことばたちがつい最近起こった経済恐慌の直前まで、限りなく「狂気」ということばに近づいていた、と感じるのは僕だけではあるまい。いま恐慌風が吹き荒れている最中に(あるいは台風の眼の中ということだけなのか)我々の脳はあきれるほど冷静に、もはや一瞬前の過去となりつつある狂気を判断できる。 ネットの話からはじまり、今回の論旨から脱線しているようだが、最後にはどうもこのあたりの話に帰着するような気もする。 閑話休題。 「海辺のカフカ」発刊時に、ネットでの読者メイルに春樹氏が答えるという雑誌「少年カフカ」。このなかで春樹氏が1985年に書いた「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のロシア語版への序文が掲載されている。 この愛すべきSFファンタジー仕立ての長編は、「海辺のカフカ」とも因縁浅からぬ作品、という出だしで、この長いタイトルの小説が書かれた状景が記述されている。 − この小説は「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの異なった物語によって成り立っているわけだが(中略)まったく違う二つの話をくっつけてひとつの話にしてしまおう、というのが僕の基本的なアイデアである。ふたつの話はぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う文脈で進んでいくのだが、最後にピタリと噛み合ってひとつになる。どうやってそれらがひとつになるのか、それは読者にはなかなかわからない仕掛けになっている。 問題は、それらがどうやってひとつになるのか、作者にもかいもく見当がつかないという点にあった。でもまあいいや、そのうちに何とかなるに違いないというきわめて楽観的な見通しのもとに、僕は頭から小説を書きはじめた。僕は二つの物語を並行して、かわりばんこに書き進めていった。つまり奇数章に「世界の終わり」を書き、偶数章に「ハードボイルド・ワンダーランド」を書き、ということだ。今にして思うと、僕はそれぞれの章を書くときに、身体の中の別々の部分を使っていたような気がする。 もっと大胆な言い方をすれば、右側の脳を使って「世界の終わり」の部分を書き、左側の脳を使って「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分を書いたということになるのかもしれない。脳の(あるいは意識の)あっち側とこっち側を使い分けて僕はふたつの物語を書いていったのだ。これは正直に言って、なかなか悪くない気分だった。 たとえば「世界の終わり」を書くときには僕は自分の右側の幻想のなかに沈潜する。これはひどく静かな話だ。物語は高い壁に取り囲まれた狭いひっそりとした場所で進行していく。人々は寡黙に通りを歩み、あたりの音はいつもくぐもっている。それに比べると「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分はアクションに満ちている。スピードがあり、暴力とユーモアがあり、鮮やかな都会生活の光景がある。その世界は僕の左側の幻想の中にある。これらのまったく異なった世界を変わりばんこに書いていくというのは、僕にとって(僕の意識の運営にとって)きわめて心地よいことだった。 そしてそのようにして毎日、左右の頭と筋肉を動かしつつふたつの対照的な物語を書き進めているうちに、だんだんそのふたつの物語が共振性を帯び始めてくるのがわかった。つまりひとつの物語の中に存在する何かが、もう一つの物語に存在しているべつの何かと、自然で自発的な結びつきのようなものを持ちはじめてきたのだ。 村上春樹氏はマラソンで足腰を鍛えられている。作家は足腰が丈夫でないと安定したいい文章が書けないという。足を交互に長時間動かすこの運動に、40代までの金魚もハマっていて、フルはとても無理だったがハーフマラソンには何度も参加した。さすがに最近は足を交互にゆっくりゆっくり長時間動かす散歩という運動に替わってしまったが、それでも結構な量の脳内モルヒネ=β-エンドルフィンが周回しはじめるのがわかる。土の中のバクテリアや微生物を踏みつけ、その生命力が足を落とすたびに入り込んで上昇し、体内に組み込まれる。漢方の聞きかじりだが、足先からのエネジーの注入は直接、頭の先端=脳の活性に結びついている気がする。 脳科学者の発想がさまざまな話題になっているが、裏を返せば、自分の持っている(そして自分の中枢であるはずの)脳に対しての客観的理解がほとんどできていないことに起因しているのではないか。左右の脳における機能局在をある程度認めるとしても、それがいったいすべてのひとに当てはまるものとはとうてい信じがたい。 確実なことは、我々の肉体は半分を母親から、半分を父親から受け継いでいて、その肉体/精神の中枢である脳もまた左右に二分している、ということだ。 「ひとはひとりで生まれ、ひとりで死んでいく」ということばを置きかえれば「ひとは両親ふたりからの要素=ふたつをもらって、それをできるだけひとつに統合しようとし、ほとんどがそれをできないまま、ふたつの状態で死んでいく」とも言える。 春樹氏の左右脳が交互に生みだしたまったく違うふたつの物語「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」は共振性を帯び、どこかで統合されることを間違いなく望んでいる。氏のロシア語版への序文の言葉はつづく。 我々はしばしば「魂」について考察する。アントン・チェーホフが「六号室」に中でアンドレイ・エフィームィチと郵便局長の会話というかたちを借りて、自らに問いかけたのと同じように。 魂は存在するのか? それは有限なものなのか、無限なものなのか? 死とともに消えてしまうものなのか、あるいは死を越えて生き残るものなのか? そのような問いかけに対する答えを僕は、そしておそらくはチェーホフ氏も、持たない。僕にわかるのは、我々には意識というものがあると言う事実だけだ。我々の意識は、我々の肉体の中にある。そして我々の肉体の外にはべつの世界がある。我々はそのような内なる意識と外なる世界の関係性の中に生きている。その関係性は往々にして、我々に哀しみや苦しみや混乱や分裂をもたらす。 でも、と僕は思う、結局のところ、我々の内なる意識というものはある意味では外なる世界の反映であり、外なる世界とはある意味で我々の内なる意識の反映ではないのか。つまりそれらは一対の合わせ鏡として、それぞれの無限のメタファーとしての機能を果たしているのではあるまいか?(後略) ずいぶん長い引用になったが、NY金魚のエッセイ・ポリシーにも重複している部分があると(勝手に)感じているので重要な部分を転載させていただきました。 この小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で創造されたふたつの物語を並行して物語る手法は、氏のその後の名作「ねじまき鳥クロニクル」には、より複合的な構成となって踏襲されているし、「海辺のカフカ」では、もちろんまったく違う物語だが手法はあきらかに流用され、村上長編の物語性の基石となった感がある。 「世界の終わり」の物語は、高い壁に囲まれた閉鎖社会で、「壁」という概念が、あるいは我々の内なる意識と外なる世界を明解に区切る結界として存在する。一角獣の住む荒れ果てた自然、人影は極端に少ない。はじめてこの部分を読んだとき、僕はたとえば核戦争後のマンハッタンをイメージした。すでに大都会とはほど遠い状景の「世界の終わり」の世界には「壁」があり、なぜかその外へでることが許されない。主人公は、自分の過去の記憶である「影」と引き離され、壁の内側でひたすら「夢」を読んでいる。「ハードボイルド・ワンダーランド」の方は、エレベーター・地下道・廊下・螺旋階段、というような閉鎖空間が続き、こちらもマンハッタンの舞台装置に限りなく近い。この小説をはじめて読んだのは、マンハッタンに移住してすぐだったと記憶するが、地下鉄の中やパークのベンチなど、読んでいる場所が小説の二つの世界のどちらの状景ともきれいにとけ込み、ここは一体どこだったのか、何度も狼狽し周りを振りかえったことを憶えている。 ここまで書いた時点で、文藝春秋四月号に春樹氏のインタヴュー記事掲載の情報が入ったので、あわてて書店に駆けつけた。緊急にインサーションされた記事らしく、目次にはなかったが、先日のエルサレム賞授賞式のスピーチ(日英対訳)とそれについてのインタヴューがあった。日本語版は春樹氏の原文で、氏の文章が戻ってきたという感覚で、あたりまえのことだが英文訳や他者の英文からの日本語訳に比べてはるかにすんなりと入ってくる。この演説に関してはネット上に多数の意訳が氾濫しているので、ぜひこの氏の原文をご一読されることをお勧めしたい。 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。 そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、他の誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう。 さてこのメタファーはいったいなにを意味するか? ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみてください。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。 春樹氏がエルサレム賞の授賞式に出かけるまで、考えに考え、腹を決めて行動したから、出かけるときには孤立無援という感じだったという。「真昼の決闘」のゲーリー・クーパーになったような気分だった、まああんなにかっこよくはないけど、気分的に、と語られている。 昨年末からガザへの空爆がはじまり、1300人以上のパレスチナ人が殺害され、この時点で、上に一部引用した受賞スピーチを書かれたそうだ。 硬い大きな壁とそこにぶつかって割れる卵、というメタファーはひとつの物語のなかのひとつの主題のようであるが、「壁」と「卵」の両方がひとりの内部にある、もしくは内部と外部にありそれをひとりが客観視すると設定すれば、大きな不条理とともに二つの主題となる。 もろく壊れやすい卵である我々個人が、同時に創りあげたものが、広義の「システム」というものでもあり、その言葉のなかには、いろんな要素がある、と氏はこの雑誌のインタヴューのなかでつづけられている。 − 我々がパレスチナ問題を考えるとき、そこにあるいちばんの問題点は、原理主義と原理主義が正面から向き合っていることです。シオニズムとイスラム原理主義の対立です。そしてその強烈な二つのモーメントに挟まれて、一般の市民たちが、巻き添えを食って傷つき、死んでいくわけです。 ひとは原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていきます。そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。原理原則の命じるままに動くようになる。そのほうが楽だからです。迷うこともないし、傷つくこともなくなる。彼らは魂をシステムに委譲してしまうわけです。 氏が地下鉄サリン事件の関係者にインタヴューした「アンダーグラウンド」と「約束された場所」取材中に感じたことから原理主義をさらに弾劾される。その事件の実行犯すらも、卵であり原理主義の犠牲者ではないのかと。 − ネット上では、僕が英語でおこなったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんなが僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が60年代の学生運動を知っているからです。おおまかにいえば、純粋な理屈を強いことばで言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と弾劾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどんやせ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。(中略)そういう意味では日本の戦後史に対して、我々はいわば集合的な責任を負っているとも言える。 このブログの殺戮時間帯の集積値 でも述べたが、戦争とは立場の違うシステム同士が敵対するもので、どちらか一方がいくらひどい残虐行為を繰り返したとしても、その遠因は他方にも必ずある。自分にとっての正論をがむしゃらに通し、一方的に激しく弾劾するだけでは何も生まれないと、春樹氏は繰り返し述べていると思う。当人たちがこれは正論だと確信したとき、それは原理となりえる。正論原理主義とは、ネットの世界では特に、だれかひとりがひとつの極論を集中的に考え込むほどに、連鎖して膨大なエネジーに膨れあがり、異常に成長をつづける怪物となることもある。この稿の最初に触れたネット暴力にも繋がっていく。 この正論原理主義ということばに春樹氏自身の詳しい説明がないので、多くの誤解を招いているようだ。ネットの中ですでに山ほどの誤解を読んでしまった。ネットで何かを強く主張すれば、それがすなわち正論原理主義だと言われているわけでは決してない。他の記事で氏が新作について語られているものを引用してみる。ご参考にしていただきたい。 2008年5月の毎日新聞のインタヴューより。 新作の背景として、カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認識も語った。その予兆は95年の阪神大震災と地下鉄サリン事件にあり、9-11事件後に顕在化した。「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」 だが、そうした状況でこそ文学は力を持ち得るという。「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」 ひとつの思想を原理にしてそれを狂信的に抱え込むのではなく、たえず他方にちがう発想を持ち、そのふたつを交互に観つめることを繰り返せば、あるいは左右の足を交互に前に出して長い道のりを歩くように、けっこうすばらしい場所に移動することも簡単なのではないか。人間を含む生き物とは、卵の中身のようにいつも柔らかくゆらゆら動いていることに存在感がある。春樹氏の著作を読むたびに、大量のβ-エンドルフィンが体内を循環し、我ら人類の英知に期待するポジティヴなエネジーを大量に貰っている自分を発見する。それは氏自身がふたつ以上のなかで常に動き、迷い、その葛藤の中で生まれた文学だからなのではないだろうか。 金魚のFun & Fun: まるで春樹語録集のように引用大会になり、紙数がなくなってしまいましたが、当初の企画では、もうひとりの人物のご登場をお願いして比較検討する予定でした。 昨年11月に100歳の誕生日を迎えられた、フランスの比較文化人類学者クロード・ レヴィストロース(Claude Levi-Strauss)氏。 氏の思想の一端を昨年のこのブログ、自由談議・安吾とレヴィストロースでも少し述べましたが、かれの著作はいつも、西欧文明と新大陸の民族の文化というふたつを比較されながら、実に雄大な人類の未来、そして人類がいなくなったあとの地球の未来をも含めて、超越性のようなものを強く感じます。まさに文学といってもよいかれの創造した学問は、およそ学問と言いきれないほどの芳香が漂っています。ひとつの事例を外側から客観的に観る自分の意見を、内側の自分と同時に書き込む挑戦をした世界最初のひと、というふうに捉えています。 孤立無援の「真昼の決闘」における春樹・クーパー氏を援護射撃する格好の人物だと思ったのですが、なるべく早く、いずれ続編ということで。 下のYouTubeは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の物語の最後に、主人公が聞くシーンのある、ボブ・ディランの62年の名作「激しい雨」です。 アメリカの春樹ファンたちもこのシーンがお気に入りで、いろんなブログに登場しています。ディランの詩もすばらしいのですが、世界中が土砂降りの現代には、繊細な雨を描写したこの小説最終章の春樹氏の文章を、引用おさめにさせていただきます。 私も雨ふりのことを考えてみた。私の思いつく雨は降っているのかいないのかわからないようなような細かな雨だった。しかし雨は確かに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを濡らし、垣根を濡らし、牛を濡らすのだ。だれにも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。雨はいつも公正に降りつづけるのだ。
by nyckingyo
| 2009-03-13 22:50
| 見えないものとの対話
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