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ひと雨ごとに新緑が濃くなる。12年住み慣れたカラカラ天気の西海岸ベイエリアを離れ、はじめてこの東海岸の大都会の春を迎えた当初は、耐えられないほどムシムシとわき上がる湿度にけっこう閉口した。 ところが何度かの短い日本への帰郷旅行の度、特に一昨年梅雨どきに訪れた関西地方の気候には、体全体が驚いてしまった。湿度がこの東海岸のもののまだ倍ほどにも感じられる。安宿の壁にカタツムリが這い登ってくるのを見て一句、どころではない。どろどろの寝汗を拭き、あわてて冷房の効いたキッチャ店に駆け込んだ。思えばそんなに湿度の高い北アジアのひと隅に育ったのである。もっとも現代日本の都会ではその古風な宿屋の風景の方が希少価値があって、カタツムリを見る機会など本当に稀なのかもしれない。 俳句の季語というものを思いうかべると、ほとんどがあの列島の濃厚な湿気とその逆の現象の両方を象徴しているように思えてくる。 花曇(はなぐもり)/蜃気楼(しんきろう)/春雨(はるさめ)/草朧(くさおぼろ)/草霞む(くさがすむ)/陽炎(かげろう)/水温む(みずぬるむ)/しみ返る/風薫る(かぜかおる)/青梅雨(あおつゆ)/黴雨(ばいう)/卯の花降し(うのはなくだし)/草いきれ/逃水(にげみず)/蝉時雨(せみしぐれ)/旱星(ひでりぼし)/露涼し(つゆすずし)/秋黴雨(あきついり)/御山洗(おやまあらい)/霧襖(きりぶすま)/露の宿(つゆのやど)/冬旱(ふゆひでり)/涙の時雨(なみだのしぐれ)/霧氷林(むひょうりん)/樹霜(じゅそう) ドライアップしたカリフォルニアに住んでいたとき、庭に大葉シソの苗を植えた。充分に水を与えたつもりだったが、収穫した大葉にはほとんど香りがない。鼻を近づけて考え込んだが、日本のものとはまったくちがう香りがほんの少しだけする。噛むとベイジルの葉のような苦みが先奔る。まったく違う植物のように思えてがっかりした。さらに驚いたことに、当時のサンフランシスコの日本グロッサリーで買ってきたシソも日本のものとは似ても似つかぬ風変わりな味と香りであった。 その後ニューヨークに移住して、はじめて入った日本レストランで刺身のツマに出された大葉に感激した。日本のものとほぼ近い香りが口に広がる。シソに限らず、コーヒー,お茶、数々の香草、野菜にいたるまで、その香りというものは全てその土地の持つ「湿度」というものと関係が深いことをそのとき改めて悟った。 自分の住んでいた土地への弁解のようになるが、カリフォルニアが決して無味乾燥だけの土地ではないことを追記しておかなくてはならない。太平洋岸のポイント・レーやヨセミテ近くのトレイルには幾度も通い、生態系はまったく違うが実に濃厚な緑のなかで一日中ひとに出会うこともなく、鹿や野うさぎ、タヌキ、リス、そして無数の渡り鳥たちと遊んでいた日々がなつかしい。そのむかし温厚で平和な部族、Miwok族が住んでいたという森や池には、充分にすぎる湿度も感じられた。アメリカに来て、自然がかなりに身近にあり、森の動物たちと話せた(ような気分になっていただけ、ということにしておく)のは、その北カリフォルニアにいた時代だけである。この国に住む野生動物たちの全体像をかいま見た印象、かれらの生活が世界中どこでも追いつめられているなかで、まだかなり優遇されている方ではないだろうか。 植物たちはもっと客観的である。自分たちの根が地に張った場所の空気、湿度、音、日差し、そういったものをかれら自身で能動的に変えることのできないが故に、それを超越(あるいは諦観)した意識を持っている気がする。この星に存在する実に多様な環境というものをすべて把握し、そのなかで自分たちに与えられた唯一の風土を容認するしかない。風で倒れたり、干ばつにあったり、あるいは逆に水が溢れて根が朽ち果てても、かれらは創造主に文句など言わない。そのポイント・レーの海辺の林のひと隅に、落雷にあったばかりのレッドウッドの老樹を見た。昨夜の激しい天の怒りがその老樹に白羽の矢をあて、頭の先から切り裂かれ焼かれてしまったわけだが、かれはその不運なカルマを意にも介せず、弱々しい言葉で僕に語りかけた(というような気がした)。「わしの幾百年のいのちは突然に終わろうとしているが、実にさまざまなものを観ることができた。そのいろいろなことのあった長い時間帯にこの星は少しづつ変わってしまったように思えたときもあったが、いまはただその昔わしがこの星にやってきたときと、やはり何も変わっていないように思える」。 人間以外の野生動物たちも、与えられたカルマにほぼ従順にしたがっている風情である。思えばかれらは地球温暖化や環境悪化を肌で感じているにせよ、それを人間のせいなどとは思っていない。この地球を取り巻く大きな環境というものを全て包括して実に「自然に」受け入れている。かれらにとっては人間たちの行儀の悪さも、自然の一部なのである。 唯一人類という動物が、暑い寒い湿っぽいカラカラ辛い痛い、ほとんどすべてをカミサマのせいにして、あげくの果てに「シソに香りがない」とまで不平を漏らす。いやはや。 また話が飛ぶ。伊勢神宮は遷宮(せんぐう)と言って20年に一度、正殿を建て直し、それまでの旧殿をあとかたもなく消してしまう。第1回の式年遷宮が内宮で行われたのは持統天皇4年(690年)のことで、それからなんと1300年にわたって20年ごとに続けられているという。遷宮の用材はおもにヒノキの王様といわれる木曽ヒノキである。以下司馬遼太郎氏のエッセイから抜粋。 — 山から伐りだして檜皮(ひわだ)を剥いたばかりのヒノキは、人肌のような赤ばみと芳香を持っているが、その色と香りは歳月とともに失せてゆく。このことは、ひとの老衰や死のイメージとかさねられて忌まれたのではないかと思えるのである。伊勢には古代、太陽信仰があったといわれている。これはあくまで私的な想像だが、太陽へのおどろきは日ごとの再生にあり、また冬に衰え、春によみがえることも神秘的であったろう。二十年ごとの遷宮はたぶん太陽を象徴する行事であるかと思えるし、またそれを象徴する材としては、何よりもヒノキであらねばならない。ナラやカシでは乙女の肌のような若やぎがない。(司馬遼太郎「この国のかたち・二」文藝春秋社刊) 伊勢の遷宮の話をもち出したのは、司馬氏がほかの本で語られていたことを書きつづけたかったからなのだが、原典が見つからない。昭和28年の遷宮に氏自身が立ち会われたことまでたどりついたのだが、以下のような記述がない。できるだけ正確に要旨を憶い出してみるが、多少の誇張はお許し願いたい。 伊勢神宮が時代の波を超えて、1300年のあいだ、一度も途絶えることなく20年に一度正確に正殿を建て直しつづけられたのは、民族の神宮に対する思い入れとともに、豊富な木曽ヒノキや他の材木の供給があったからだという。もちろん調達困難の時代もつづいたらしいが、明治以来は木曽山の神宮備林においてもヒノキを育成し、供給している。 天からあふるるほどの雨の恵みが樹々の根を潤す。残りも急流となってくだり、山々の緑はより深まる。神宮ももちろん森林をたくさん保有しているが、まわりの土地もすべてが植物の王国である。ヒノキが巨樹に成長するのに200年がかかり、20年に一度大量に伐り出すには問題があるが、たとえばお隣の吉野杉は植林しなくともほぼ30年で成木となる。これほどすざましいばかりの雨量と湿度を保ちつづける土地は、この地球という星ではほかに見当たらないという。列島全体が温帯モンスーン=梅雨と台風という風土による、まさに水の惑星のなかのもっとも水資源にめぐまれた列島なのである。 映画「殯(もがり)の森」の評論のなかで、オールディスのSF「地球の長い午後」のシーンを述懐してみたが、この植物王国のイメージがいちばん当てはまるのは東南の熱帯圏を含めたアジアという地域ではないだろうか。 ここから先は、86年に大阪で開催された「国際グリーンフォーラム」での司馬氏の講演、『樹木と人』(中公文庫「十六の話」に収録)をテキストにしたい。長い講演なので部分を要約しながら僕の意見を加える。 幕末にとあるフランス人青年が東南アジア経由で長崎に上陸し、その間の感想を言った。ヨーロッパ大陸では人間が非常な苦労をして緑を増やし、保存し、さまざまなことをして生きてきた。北欧では太陽さえが少ないのに、そこに文明をつくってきた。 ところが東南アジアを通ってくると、考えられないような豊富な緑がある、そして太陽がある。そのなかで人間は実に怠けておる。かれは「神は不公平である」と叫んだという。 ヨーロッパ文明の起源、メソポタミアとギリシャ文明が滅んだのは、人口が増えすぎ、あたりの樹木を全部切り倒して畑や牧場にしなければならなかったからだ。森を畑にするとあの暑い太陽に土が照りつけられ、フライパンで小麦粉をいるように、土がいりつけられてしまう。すぐに乾いて2-3年は作物ができても、あとは風が砂を、土を吹き飛ばして、しまいには地球の骨ともいうべき岩が出てきて、ついに畑もつくれなくなる。かってそこに栄えていたたくさんの森もなくなる。森と畑が滅んで人類も滅んだ。 そういう記憶がきっとヨーロッパ人に大きな恐怖を伝承させた。森を伐ればそこが乾いてやがて人類が滅びるという恐怖。そして例のチュートンの森がドイツ人を育てたように、森は保護して大事にしなければだめだ、という思想を精神の支えとして頑張ってきた。 もっとも18世紀のイギリスは例外で、産業革命というものを進めるため大量の木炭を燃やして製鉄をした。その結果イギリスの森林の半分ほどが消え、当時のイギリス人の危機意識を刺激した。刺激はしたけれど、すぐにコークスというものが発明され、そのコークスを燃やして鉄を溶かすための高炉が発明され、イギリスの森は回復した。 しかし古代のギリシャについてはついに森は戻らず、今日のギリシャがあるようにしか回復しなかった。 そしてお隣の中国の古代を見返ると、紀元前から殷という帝国で青銅の文明がはじまり、その冶金にすべて木炭を使用し、一帯の樹が伐られた。この時期まで黄河流域だけでなく、華北一帯は大森林だったといわれているが、殷帝国はこれを完全に滅ぼした。 それではなぜ中国はギリシャにならなかったか、それは上述のフランス人青年のことばどおり「神は不公平である」ということだという。黄河流域の土は黄色で黄土、英語でレス loess と呼ばれているが、その小さな粒のなかに水分が含まれている不思議な土である。土そのものに水が入っているので少々雨が降らなくとも麦や野菜ができる。それで中国人は森というものに鈍感になり、森は伐っても差し支えないと考え、青銅器や畑・小麦にしてしまった。それでも黄土があるかぎり大丈夫という樹木への鈍感さが中国に生まれた。 もうひとつ漢の武帝の時代に大規模な自然破壊が行なわれた。青銅器とは比べものにならないほどに役立つ鉄をすべて鋳物で造った。青龍刀から鋤・鍬までを、鉄をどろどろに溶かさねばならない鋳鉄という方法で造り、ためにまた大量の森林が伐られることとなる。もっともその鉄でできた鏃(やじり)のおかげで、武帝の軍隊は当時最強といわれたフンヌ(匈奴)の騎兵団に圧倒的勝利を収める。 しかしながら、そのあと二千年の中国の技術や産業は、現在の共産中国がはじまるまでずっと下り坂をつづけた、と司馬氏は指摘されている。森林がなくなり、鉄の生産はどんどん少なくなり、すべてが停滞した。ものごとに好奇心までなくなってしまった。共産革命が起こり、人民たちははじめて過去の歴史に脅え、それまでしていなかった植林というものをはじめた。ここに至る経緯には漢の武帝が儒教を国教として採用したことにもかかわっているという。儒教とは、好奇心を持つことがいやしく、古こそ尊いと言いつづける思想である。武帝は、あるいは発達はそれだけでいい、鉄の生産はもう充分だと思ったかもしれない。そして儒教をヨーロッパにおけるカソリックのように国教とし、それ以後の中国は近代に至るまで眠りこけてしまった。あれだけの偉大な文明を持った国が眠りつづけた。 金魚である僕個人としては、孔子という人格を敬愛しているのだが、かれの思想が創りあげた儒教というものを社会規範の基本としつづければ、さまざまな弊害が起こると考えられる。司馬氏は中国と朝鮮の歴史的停滞はこの儒教によるところが多い、とさまざまな著作で言及されている。 司馬氏の講演はのちにもうひとつの儒教国になった朝鮮のことに至る。この時代、やはり漢の武帝によって朝鮮は国土のおよそ半分が楽浪郡という植民地になる。ここで砂鉄からの製鉄がはじまり、木炭の大量消費から朝鮮半島の山はほとんどが禿げ山となる。石の上に表土がかぶった土壌は上述のギリシャのケースと似ていたという。 いまの韓国慶尚北道にある山々をすべて裸にしてしまった古代の製鉄業者は、海の向こうに見える島である日本を狙い、海流に乗って出雲に上陸する。ここの山は砂鉄をすばらしく含んでいた。3−5世紀にかけて、かれらはこの近辺の山々を切り木炭にして製鉄をはじめた。しかし、日本の山は地球の歴史でいうと新しいほうで、モンスーン地帯で大量の雨が降る。不思議なことに、スポンジのような山が雨を含んで、樹木を切っても、そして植林をしなくても自然に復元する。30年で森は復元しつづけた。 日本の製鉄というのはそのようにして徐々にはじまった。6世紀の日本国家では鉄はまだ貴重品で、国家が鉄の鍬を所有し、百姓はそれを借りて夕方には洗って返すという生活をしていたそうだ。12世紀になると鉄は大量に出回り、加賀平野など農地が開墾された。鉄は安くなり、そのわりには日本の自然は少しも痛まなかった。 それは神の不公平によって、日本では梅雨と台風というふたつのおかげで樹木が再生しつづけているからである。たとえば終戦後すぐに仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に入った人の話だと、なかは三歩と歩けない密林だったという。つまり日本では自然に放っておくとそういう密林になってしまうという証拠であるという。 日本の「鎮守の森」というところは、伝承として神様が木を伝って降りてくると信じられたいた。森は神聖で、神様がやってくるところ、天から降りてくる「あもり」してくる場所だと思っていたから、神社の森は切らなかった。そういう思想がかろうじて日本の自然を守らせてきた。 しかし1950年代あたりから、はじめてどうも地球はひとつだと日本人も思いはじめた。 それでもなお日本人は東南アジアに行って材木を買いつけてくる。そして60年代にはまだ、よその国の樹木を買い取って、そこの土地が裸になって、生態系が変わってもいいのだという考えが一般的だった。まったく無神経そのものの団体である。 しかし司馬氏がこの講演をされた80年代になって、ようやく、我々は地球の緑をすべて守らねばならない、切ったら必ず植えなければならない、生態系を変えるような切り方をしてはいけない、というように日本人全員が思いはじめたのではないか、と司馬氏は最大限好意的にこの講演を結ばれている。 この講演に一年先立つ1984年の「訴えるべき相手がないまま」というタイトルの東京での講演では、司馬氏は非常にペシミスティックに地球の未来の状況を分析されている。マーク・トゥエインの晩年の厭世的なエッセイと仏教の華厳学の共通点、そして荀子の性悪説、キリスト教やユダヤ教の終末論。これらを氏は感覚的に与(くみ)しない、としながらも、当時の戦争や核兵器に奔走する近代国家のエゴを追求する道具として語られている。 — 国家エゴというものがあってもかまわないが「地球上のひとびと」という、いままで国家が思考したこともないレベルでものを考え、感じ、行動する国家に変えないかぎり、また国家がもつ利己的欲望の生理機構から、毒性を少しでも抜かないかぎり、われわれはこの怪物のような“20世紀的国家”を子孫にうけわたすべきではない。ニトログリセリン入りのびんを、坂の下にいる子孫に向かって「これを受け取れ」といってころがすようなものでしょう。 そしてこの講演のすぐあと、実に象徴的にチェルノブイリの原発事故が起こった。地球号に棲む全員が過大な精神的被害をうけ、それは象徴的だけではすまなかった。 こちらの講演の最後にも、戦争や兵器の問題とは別に、国家が保有する自然改変能力について語られている。 20世紀前半までの日本の自然は、ほぼ2000年、景観の大きな変化はなかったといえる。13世紀以来幹線道路であった東海道でさえ最近まで未舗装であった。広重は53枚のすぐれた風景画を残し、歌人、芭蕉、一九が好まれる文学を残した。日本人は自然への美意識が敏感だけだっただけでなく、それへの山や川や大きな樹木に、古代以来、霊魂(アニマ)を感じつづけてきた。 が、2000年来、自然の改変を畏れるがごとくであった日本人が、20世紀後半になって、巨大な土木機械を持つようになってから、民族そのものが変わってしまったように、平然と自然を切り刻みはじめた。河川は樋(とゆ)のようにコンクリートでかためられ、海岸は渚をつぶしてコンクリートの城壁に変えてしまった。20世紀初頭には国民の80%が農村にいたが、いまではこの比率は逆転している。最近は土木人口が農業人口を上回るようになった。 もし国家が聡明でなければ、この土木人口を養うというだけの理由で、自然は改変されつづけ、ついには自然から受けつづけてきた倫理的感情を枯渇させるばかりか、住んでよろこびが感じられない国に成り果てるだろう。 これら20数年前の講演記録を読んで、21世紀に棲むわれわれがひどく新鮮に感じるのは、現代の日本列島が司馬氏が危惧した最悪の道をまっしぐらに奔りつづけた結果そのものであるからだ。 20年が過ぎたいま、われわれの環境に対する意識は大きく変化したと自負していい。その部分では現代日本人の意識は、たとえば僕の住んでいるこのアメリカのひとのものよりも多少すぐれているのかもしれない。しかし現実に日本の国や企業が行なっていることをかいま見れば、まったくの不毛に向かって奔りつづけているようにしか見えない。 日本政府が雇用拡大のために70数年前のニュー・ディール政策をまね、美しかった緑の国土をもうこれ以上のコンクリートでかためることだけはどうか止めていただきたい。 あるいはかけ声だけに終わるかもしれないが、オバマ大統領の謳うグリーン・ニューディールのほうがまだしも理念を感じる。ほとんど恐慌とも呼べる大不況のなか、環境問題まで手がまわるものか、というのがいままでの通念だった。昨年のこのブログ「過去からみた化石燃料の未来」にも書いたが、戦争のさなか、最悪になっていたイラクの「環境」はだれが守るのか。そこに棲む人びとには自分たちの生命を守るのが精一杯で、環境など論外だったはずだ。「環境」がすでに押しも押されぬ巨大ビジネスに成長している現代だが、オバマの宣言は世界中の企業により大きな勇気を与えたと思う。不況と環境というそれまで一見して相容れないと思われていたものを結んだことだけでも評価していい。あるいは新しい環境ビジネスのさまざまな発想で、別の意味の新たな自然破壊が起こらねばよいとは思うが。 カジノ資本主義の破綻、貧困、派遣切り、戦争、メキシコ発のインフルエンザのパンデミック、われわれの現代社会が共有するネガティヴな「環境」情報は、それぞれまったく異質なもののように映っているが、実は人類が長い歴史の間に積もったカルマというものが生みだした「複合汚染」である。それぞれの問題が少なくとも個人のなかでは「同根」に行き着くはずだ。そしてそれらすべての問題意識を引き受けているのは貧者であるわれわれであり、お金持ちにはこれらの深刻さがまったく観えていない。あるいはかれらはすべてを経済問題に集約・還元するものだから、その複合汚染の実態を知らないまま一生を終える。 郊外に出て緑を鑑賞する余裕のないわれわれ貧者は、毎日モニターにかじりついてヴァーチャルな体験を繰り返す。それではだめなのだ。汚染は体内で増殖し、自然治癒の可能性はますます遠のく。 かって寺山修司氏が「書を捨てよ、町へ出よう」というアジテーションを繰り返したが、このことばを少し転じて「モニターを捨てよ、森に行こう、ヤッホッホ」と言いたい。そのときできれば、ラップトップとケータイもiPodも、家に残して出かけてほしい。この星の自然と対話するときは、ひとの声ができるだけ少ないほうがいいと思う。 書き綴った司馬氏の講演の内容も、歴史のなかの人間たちが欲望というもののみにはまり込み、狭い目的意識しかもたなかった時代に「緑」は必ず後退している。 そして郊外に行けばかろうじて緑の残っている国に住んでいる幸運なわれわれが、自然を鑑賞しないで一体どこからこれらの人類のパンデミックを治癒できるのだろうか。 昨日はドライアップした夏日だったが、郊外の公園・Forest Park に出かけた。敷地面積は雄大だが、森というには緑がちと淋しく、フリーウエイの騒音も激しい場所だったが、それでも狭いアパートでモニターを見続けている生活からの開放感は大きかった。 木陰で持っていた水を飲んでいたとき、ふと五月の爽やかな風が吹いてきて、乾燥したなかにも「風が薫っている」ことを実感した。 今回は司馬氏の講演の実に長い抜粋となったが、読者の方々と共通の認識基盤を確認するために、どうしても必要と思って書かせていただきました。 これらふたつの講演の司馬氏の最後の言葉を並べて書き写し、終わりたいと思います。 —「子孫に、かれらが生命を保つために依存しうる自然をのこさねばならぬ」といっても、残すという巨大エネルギーを発揮するには、思想が必要でしょう。その思想は、それぞれの民族の思想的風土からでたものである場合が、もっとも説得性をもつと思います。このために、私が、たまたま日本人であるために、この発言の言葉かずの多くを、日本の思想史的なことがらに触れることについやしたのです。 ですから、人類の未来に希望のない発言が最近しばしばありますけれども、地球の緑さえ守ってゆけばわれわれにも未来がある、子孫たちはなんとか生きられるだろうということが、近ごろしきりに思われてならないのです。 緑は、すべての基礎です。
by nyckingyo
| 2009-05-01 04:50
| 地球号の光と影
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