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日本の国政の局面が、以前にもまして茶番劇の様相である。ワイドTV画面を通してお茶の間(こういう温かいサウンズの部屋が今どき全国にいくつ残っているかは疑問だが)という観客席に届けられる連続ワイド茶番劇場である。30数年前、僕が日本に住むことを諦めて、東のこの自由自縛国に旅立つまえ、日本にいる旧友は「もうテレビはだめだよ、何か新しいメディアがきっと出てくる」と口をそろえて宣わっていた。それから数十年がすぎ、一昨年帰郷した折もその旧友たちのひとりが「テレビはくだらないからもう見ない。そう金輪際…ンン…ヒマつぶしがあるから金輪際じゃないけど…ネット? ンンーン…あれもね…まだ可能性はあると思うけど、今んとこ、もっとくだらないんじゃない」。そう仰せになって、横須賀線のグリーン車で食い入るように週刊大衆をお読みになっていた。 政権交代の危機感から焦りまくった自民党が、なりふりかまわずタレント知事に媚を売っている。売られた知事ももちろんまんざらではなく、総裁にしてくれるなら、という筋書きでスタートしたドラマらしい。もうひとりのやはりTVで売りだした弁護士知事とともに、地方活性化をうたい次の選挙を大きく動かすという。かれらの主張には統括的な政治姿勢が観えない。自らの無能を傲慢さで隠す現東京都知事や、能無し野党を含めて、自己顕示欲の権化たちの醜悪な欲望がギラギラとかれらの眼に宿っている。まぁ、もともと政治などという商売はドロドロ自己顕示の塊から成り立つのだからそのこと自体を責めるわけではない。僕もファイン・アーティストをめざしつづけてきたので、この年になっても自己顕示の癖は拭えず、パーティーという場ではいつも酔狂なアニマルに変身する。問題はそういった政治の粕か上澄みのようなTVパーティー・アニマルたちを、観客である国民の大半がおもしろがって拍手喝采してしまうことである。 劇場型政治という用語は日本では2005年、小泉総理が郵政民営化を成立させるために解散し、総選挙で大勝した時にはじまるという。そのワイドお祭りショーからアメリカ主導による新自由主義の暴走がこの国を襲い、格差社会は決定的となった。安易に構造改革ということばをうのみにし、だまされつづけた国民が、同じ演出家でキャストだけがちがう今回のワイド・ドラマを拒否できるのか。ワイドTVという字句は金魚が勝手に付けたものだが、TV中心のお祭りだからはずれてはいまい。とんでもない、お祭りのときだけは騒ぎまっせ。えっ、まただまされるのか、ってか? どっちみち、どの政党のだれを選んでも何も変わらんやないか、こんなときだけでも騒がなソンやソンや!と言う声が聞こえてくる。TVを観つづけ、次の行動の前に思考回路が停止しているようにも見えてくる。 結局、世界が観つめているのは、TVを中心にしたそのプロセスの馬鹿騒ぎのみである。それともこれは国内政治の問題だから、海外の人間は誰も観ていないと思っておられるのだろうか。 これを読まれている意識の高い読者諸氏に向かって、十把ひとからげに論じるのもひどく乱暴な話だと思うが、ことばが止まらなくなっています。ごめんなさい。 TVという小箱(いまやそこからの思考を象徴するように、思いっきり薄っぺらいモノになったが)にいったん出演してしまうと、麻薬のように常習性があり、出たくて出たくてたまらなくなるそうだ。「この小箱にはいり込んで日々出演している小人たちは、フツーのひととどこかちがうタレントがあるわけだから、どんなタイプのひとでもできるだけ丁寧にお話を聞くようにしています」。これはTV仲間に限りなくやさしい視線の、黒柳徹子女史の談である。まぁかれらそれぞれのタレントは認めるとしても、その人種たちの異様な執念にはあきれかえる。特に日本のテレビの場合は異常勤勉激務型で、やたらに出演しすぎるものだから、手を替え品を替え笑わそう、よろこばそうとすればするほど、視聴者はどんどん白けていく。くだらなければ観なければいいのに、上述の友人のように時間つぶしという理由をつけてついつい観ているというのが大多数の実体である。そこから政治に対する意識も次元を下げたまま滑り込んでくる。 ここで断っておくがすべてのTV番組がくだらないと言っているのではなく、スタッフの真摯な努力で、僕も感動できるものもむろん数多くあることは認める。 問題は視聴率ばかりを追って、視聴者の意識の底辺にある、誰がいつ刹那的に観てもわかるものに焦点があたりすぎていることだ。そしてもっと恐ろしいのは黒幕によるかれらを使った日々の情報操作である。政財界の黒幕といえばどのあたりの連中か簡単に察しがつくのだが、だれもそこまでを弾劾しない、できない。誰かがその黒幕のことを正直に話し出せば、即TV出演は不可能になる。TVに出ないで反権力を訴えるほんの少数の人びとには、誰も耳をかさない。その自分の生活を守るための真の大きな敵と戦う「気力」をすべて吸収してしまう小箱。いや、いまや薄っぺらい順応スクリーンと言った方がいいか。それが現代のテレビである。 もっとも政治にポピュリズムを持ち込んだのは他でもないアメリカであり、つい先日も半年がかりの上院議員選挙がやっと終わり、最後に当選した米民主党新人は人気バラエティー番組「サタディー・ナイト・ライヴ」の常連だった人物である。米民主党の安定多数を決定したのはやはり芸能人だった。基本的にはアメリカナイズされた同じ思考回路で動いているわけだが、なぜか日本だけが、政治に対するそれぞれの態度がまったく白けてズレてしまっているように感じるのだ。 いずれにしろ現職の総理大臣氏以下の人物など捜す方がむずかしいので、誰がなっても今よりはましになるとは思うが、問題はその捜し方である。政界再編というものをもちろんやらざるを得ない状況に来ているのだが、国民全員が一番思慮するべきその焦点の映像は、局の方針やテレビタレント(もしくは同じ次元の会話しかできない議員・知事タレント)に攪乱されてあきれるばかりの低次元の議論に巻き込まれて正視もできないほどである。 亡くなったおばあちゃんが「金魚、ひとの悪口言いすぎると、だれかさんみたく口がひん曲がりまっせ」と再三言っていたのをまた憶い出したので、遠い日本の政界のお話はここで一旦小休止。 これから語ろうとしているのは、TVというメディアの側だけでなく、それを観たくもないのに漠然と観ているというわれわれ視聴者の意識についてである。お先真っ暗なのは、国家や国会やTVではなく、実はそれを操っているわれわれの意識の方なのではないか。 その昔、フランソア・トリュフォー監督の映画化でさらに有名になった「華氏451」。レイ・ブラッドベリの原作ファンタジーでは、人口が増大し、すべてがスピードアップされた社会で、政府によってマスコミは電波媒体のみに限定されている、という設定である。この小説の書かれた50年前の電波媒体とはTVとラジオのことだが、それ以外の古典的媒体=本/書籍というものをいっさい燃やしてしまう、という社会になる。主人公モンターグは、本が自然発火する温度である華氏451°の数字のバッチを付けた「焚書隊」の一員である。 ある日いつものように、誰かの密告によって大量の本を隠し持った人物のもとに焚書隊が駆けつけ大量の本を燃やそうとした。書物の所有者だった女性は、笑いながらリヴィングに積み出された千冊とともに、焚書隊の撒いたガソリンに自らマッチの火をつけ、焼身自殺をしてしまう。モンターグは驚くが、そのとき偶然一冊の本をポケットの中に忍び込ませ、やがてこの焚書隊員は本の世界に開眼していく。 トリュフォー監督の映画にも、ラストシーンを含めてすばらしい映像があるのだが、それ以前からこの現代最高の叙情詩人レイ・ブラッドベリの長編「火星年代記」や「十月はたそがれの国」に狂っていた僕は、やはりすぐにかれのオリジナル本「華氏451度 Fahrenheit 451」に舞い戻ることになる。 この本の中心テーマである「書物と映像の差」が、このオリジナル小説と映画化されたものに奇しくも歴然としている。何度か読んだ古い日本語訳本に完全に満足していなかったので、ダウンタウンのStrand書店に行ってみると、数年前の出版50周年記念版がいまだに平積みになっていた。大むかし僕が銀座のイエナ書店で手に入れた1953年の初版ハードカヴァーと同じ、あの装丁に戻っていた。50年のあいだに英語版だけで世界で500万部が読まれたという。 SF作家福島正実氏が書いたこの小説の日本語訳初版本のあとがきによれば、50年代初めのマッカーシー上院議員による共産主義者弾圧=「赤狩り」への深い怒りにかられたブラッドベリ氏がこれを書かれたという。この運動の末期には密告によって多数が共産主義者にでっち上げられた。 村上春樹氏の新作のタイトルから一躍話題になっているジョージ・オーウェルの「1984年」が書かれたのが1948年(出版は1949)。5年後に出版されたこのブラッドベリの小説も、国家による書物への弾圧という近未来社会のディストピア小説として捉えることが正当である。 が、今回、英語版と日本語訳を並べて読み直しているうちに、まわりの現実の風景がすでにまったくこの小説の風景と同調しており、あらためて主人公モンターグへの感情移入が激しくなった。 千冊の本とともに焼身自殺した老女と出逢った日の夜、モンターグはわが家に帰り唖然とする。10年ほど前に結婚した妻と、どのように知り合い、どこでいつ初めて出逢ったのかもかいもく憶えていないのだ。妻も憶い出そうとするがふたりの記憶はどこかでぼんやりと消えてしまう。最後には「そんなことどうでもいいわよ」と妻は浴室に去る。 物語の冒頭にも、妻は睡眠薬の多量摂取で自殺未遂を謀り、血液交換をして助かるのだが、翌朝にはそのことすら憶えていないで平然と朝食を食べているシーンが書かれている。 リヴィング・ルームは四方をワイドスクリーンのTVに囲まれ、妻は一日中TVに映し出された映像と会話している。TV出演者は叔父・叔母などと呼ばれ、妻の「家族」と化している。宇野利泰氏の日本語訳ではこのリヴィング・ルームのことをズバリ「テレビ室」と意訳されている。現代日本のお茶の間とそっくり対応している。その日もテレビ室ではスクリーン同士が、視聴者であるモンターグの妻の感情を高めるだけの無意味な対話をつづけている。無意味な対話で興奮しはじめたマルチモニター上のTV出演者同士(たとえば叔母といとこ)が怒りはじめ口喧嘩となる。口論の原因さえ不明なまま、視聴者で参加者である妻はとめどなく無意味な興奮をしていく。この状景での「怒り」を「笑い」に置きかえれば、現代日本のほとんど意味不明なバラエティー番組というものにもまったくそのまま当てはまる。 本がすべて燃やされ、かぎりなく空虚なTV社会を象徴する、ブラッドベリ一流の詩的メタファーが書き込まれた文章がある。この部分は原文と、僭越ながら金魚訳でお読みください。 The Subway fled past him, cream tile, jet black, cream tile, jet black, numerals and darkness, more darkness and total adding itself. Once as a child he had sat upon a yellow dune by the sea in the middle of the blue and hot summer day, trying to fill a sieve with sand, beause some cruel cousin had said, “Fill this sieve and you’ll get a dime!” And the faster he poured, the faster it sifted through with a hot whispering. His hands were tired, the sand was boiling, the sieve was empty. Seated there in the midst of July, without a sound, he felt the tears move down his cheeks. (Trade edition, page-78) 地下鉄の軌道がかれの視角を飛び去っていく。クリーム色のタイル、ほとばしる暗黒、クリーム色のタイル、ほとばしる暗黒、数字と暗黒、さらなる深い闇黒、さらなる闇黒が深さを増していく。 子供のころ、一面に黄色い海辺の砂丘に座っていた。暑い夏の日差しと蒼穹のただなかで、かれはおもちゃの篩(ふるい)に砂を満たそうと必死だった。いたずらっ子の仲間に「これを砂でいっぱいにしたらダイムをやるぜ」って言われたからだ。そしてかれはその篩に砂をそそいでそそいでそそぎつづけたが、砂の粒子たちはすべてがさらさらさらという暑いささやきとともに、下の砂山にこぼれおちてしまう。かれの手は疲れてきた。砂はとても熱く、篩(ふるい)は空っぽのままだった。音というもののまったくなくなった七月さなかの砂丘に座り、かれは涙が頬を伝って流れ落ちていくのをただ感じているだけだった。(普及版page-78 金魚訳) 上の引用は主人公モンターグがかれにとってのはじめての本であった「聖書」を手に入れ、今まで住んでいたテレビ部屋の共同情報による生活がいったい何であったか、を地下鉄のなかで考える場面である。本を読むことのなかったそれまでのかれの人生が、篩(ふるい)にかからない小さな砂粒のように何も残らずに消えてしまっていた、というメタファーである。確かにテレビ映像はほとんどすべてがどんな細かな篩にもかからず消えてしまうが、書物の活字は部分的にずっしりと心に残る。ときには活字すべてが重く篩の上に積まれ、読者を次なる思考、次なる書物の旅へと駆り立てる。 焚書隊での自分の仕事に疑問を抱きはじめたモンターグは、手に入れた聖書を持ちその地下鉄に乗って元大学教授のフェイバーに会いにいく。フェイバーは、かれらの住む社会には3つのものが欠けていると語り出す。 そのひとつ、なぜ書物は重要であるか、その理由をご存知かな? そこには、ものの本質(quality)がしめされておるのです。われわれがものの本質を知らなくなってから久しい。では本質とはなにか? わしに言わせれば、それはものの核心(texture)を意味する。それをのぞかせる気孔(pores)が書物のうちにある。もののすがたを見せておる。顕微鏡でのぞいてみれば、なかに生命が息づいておるのを見出すことができる。充実した生命力があふれんばかりにながれておる。気孔が多ければ多いほど — わずか一センチ四方のところに、人の世の細かな出来ごとが、忠実に記されておればおるほど— あんたは、文字がつたえるよろこびに触れることができるはずだ。(「華氏451度」宇野利泰訳・ハヤカワ文庫p-167 カッコ内は各語に対応する原典の英単語/金魚註) かっては本の虫であったろうフェイバーは、明解に本の重要性を説明する。この段階ではいまだに正確には書物に接したとはいえない焚書隊員モンターグは、それでもTVに映し出された作為情報に大きな不信を抱きはじめる。TVの画面には粒子ほどの無数の「気孔」のようなものが存在するが、そのすべてが空虚で、ときにはそれは真っ赤な虚構である — これは主人公ではなくこの部分で感じた僕のTV解釈である。 たとえば郵政民営化と構造改革を連呼した、4年前の日本の総理の言動に著しい。それをTV映像で観た国民の大半が、多少の論理の飛躍を感じつつ、このひとの言っていることは(強引ゆえに)正しいのではないか、と思いはじめる。次の引用はもっと端的にそのことを示唆している。 フェイバーはモンターグたちに欠けているもうひとつは「暇」ではないか、と問いただす。モンターグは「暇なら勤務外にありすぎるほどある」と反論するのだが… 勤務外の時間はありましょうな。しかし考える時間はどうです? 勤務外に、時速100マイルで自動車を疾走させる。そのあいだ、あんたがたの頭には、危険を防ごうとする以外になにがあります? あとはどこかの部屋に腰を掛けて、テレビの壁をながめるぐらいのことだ。それもながめるだけで、相手にして議論するわけにはいかんでしょう。なぜかというと、テレビは「現実」そのものだからだ。直接的であり大きさをもっておる。こう考えろと命令してくる。正しいことであるはずだ。そう思うと(そのことが)正しいことに思われてくる。あまりにもすばやく、あまりに強引に結論をおしつけてくるので、だれもがそれに抗議しておる余裕がない。 この稿のためにハヤカワ文庫・2008年の日本語改訂版を手に入れたが、あとがきでノンフィクション作家の佐野眞一氏は、同じ箇所を引用されて、僕の論旨にかなり近い表現をされている。氏は過去に「だれが本を殺すのか」と言う著書があり、そのなかで、いま本を殺そうとしているのは、出版社か編集者か取次か、それとも書店か図書館か書評家か、いやひょっとすると著者なのか、以外に読者なのかもしれない、と書かれたという。 いまこそ明解に断言できる。ここに挙げられた「本を殺した者たち」のいちばんの確信犯は、われわれ読者である。モンターグとは逆に、潜在意識で虚構の「現実」情報とわかっているくせに、TVの方を選択し、心の中で考えるための本というものを燃やしてしまっているのだ。 深く考えるための人類の英知が詰め込まれた大切な道具を、映像の娯楽箱と交換にいとも簡単に捨ててしまった罪は大きい。その結果おおぜいの人類の頭脳にはほとんど白痴的と言ってもいい即物的回路しか残っていない。自己の専門分野にはかろうじて書物=知性を残してはいるが、仲間で共有し本当に考えねばならぬ「政治」などという分野では、実に悲惨な状況となってしまう。 そして現代のわれわれは、半世紀以上前に書かれた本「華氏451度」には登場しない、ネットという新たなメディアを持つに至った。ここにはTVにおける映像スクリーンと書物における文字情報が折衷している。文字は飛んだり跳ねたり、書物にくらべれば多少落ち着きがないが、深く読み込むためにはプリントアウトするという手もある。猛烈な情報量をどのように選択するか、という問題もある。書物と同じだけの「本質」や価値観を、ネットのすべての情報に期待することは無理だが、その次元にまで無限に近づこうと努力することは可能だ。 このブログを立ち上げたときは、書物を追い越してみたい、という大それた意気込みがあった。そしてさまざまに試行錯誤するうちに、少なくともこのブログを書物にすることは最終目標ではなくなってきた。メディアとは利用する側の解釈ですべてが決定する。 昨年の大統領選で、オバマはアメリカの若者を中心とする人びとの心を掴み、この新しいメディアを使って華麗に大統領へとのぼり詰めた。日本の政治家で、まねごとでもできる人はいないのだろうか。 「世に倦む日日」氏が呼びかけた、STOP THE KOIZUMI キャンペーンは大きな運動に発展する可能性を観た。いまこそ、こころあるブロガーたちの結集で、より確かな新しいムーヴメントに繋げる時期だ。どこかに突破口はある。より深く考えねばならない。 それでもやはり、輝く大きなモニターを離れて、両手で本を持ち、静かに読書する至福の時間帯は何ものにも変えがたい。禅のメディテーションとはまたひと味ちがう、現実と幻想の双方に向かっての深い瞑想の時間ともいえる。 より深く考えねばならない。われわれ弱者の生活を守るため、もっと大仰にいえば民主主義を深く実践するために、文字を、本を読まねばならない。 TVに映し出される劇場型政治とやらの扇動をうのみにして、醜く暗い陰謀に手を貸してはならない。生活保護を拒否され、コンビニのおにぎりが食べたかった、と餓死していく仲間たちをこれ以上増やしてはならない。仕事を切られ、友にも裏切られ、自らの精神もキレ、秋葉原で無差別殺戮をするような若者をこれ以上製造する社会であってはならない。 心のなかの焚書 (2) ー あるサイボーグ・スターの死と「華氏451度」につづく 金魚のFun & Fun: 8年も前からフランク・ダラボン Frank Darabont監督による映画リメイク版が取りざたされているが、主演俳優トム・ハンクスの降板などで難航している。ダラボン監督は、トリュフォー監督による映画を、著しくパッションに欠ける、と批判している。— 原作をなんて情熱的な本だろうと思っている私には、とてもビザール Bizarre な作品に感じられた。私は今回の作品をリメイクとは考えてはいない。まだ一度も映画化されていない本の映画化と思って取り組んでいるんだ、とのこと。 ブラッドベリ氏の目の黒いうちにと意気込んでいるようだが、はてトリフォー監督作品を超えられるか、お楽しみというところ。 ところで、ブラッドベリはトリフォー版の映画にとても満足しているという。大熱演や思わせぶりの激しい演出がないことが気に入った、と指摘されている。そういえばトリュフォーの映画はヒロイズムや熱狂的な盛り上がりを極端に嫌う。SF小説も嫌いで、近未来的キカイなど撮りたくもない、とおっしゃられていたらしい。 小説も映画もまだ体験していないという数少ない読者諸氏のために、これ以上のネタバレはしないつもりだったが、トリュフォーの映画のラストシーン=ブック・ピープルと出会うシーンは圧巻である。この森の中での撮影では、冬の雨に悩まされたり、散々であったが、とあるシーンを撮影中に雪が降り始めた。トリュフォーは臆することなく撮影をつづけ、この名場面ができ上がったという。ブラッドベリも、これにはご満悦で、アクシデントを神からの贈り物に変えたトリュフォーの才能を誉めたたえている。 トリュフォーの映画だけをご覧になって、ブラッドベリの本を未読の方、映画のこのシーンでストーリーは終わっていません。映像ではさすがのトリュフォーも飛躍できなかった最後のどんでん返しがあります。主人公モンターグが憶え切れなかった「聖書」の「伝導の書」の一部と「黙示録」の断片が、彼の頭に明解によみがえってくるシーン。ブラッドベリがこの小説に組み込んだ最大のテーマともいうべきこの真のラストシーンを、ぜひ読みのがさないでください。 そしてわれわれ「本の虫」に対する最終の警告は、この稿を書かせるきっかけになった故寺山修司氏のことばに集約されます「書を捨てよ、町へ出よう」。 続編が成り立つとすれば、TVを捨てて本に浸り、もう一度、本を捨てて町に投票に出かけたあと、ということになるでしょうか。 心のなかの焚書 (2)につづく
by nyckingyo
| 2009-07-04 00:10
| 悪魔の国からオニの国のあなたへ
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