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心のなかの焚書 (1)ーワイドTV劇場型政治の全盛と「華氏451度」よりつづく 小説、ブラッドベリ「華氏451」の熱心な読者以外にはあまり知られていない、人類全体に対する、最後の崇高なメッセージを紹介するために、続編を綴る。よせられたコメントの返信として、メディア論ももっと掘り下げてみる。 七夕節句の日、米4大TVネットは、マイケル・ジャクソン氏の葬儀で持ちきりだった。どの有名人の死もそうだが、そのひとが生きていた時代の意味があらためて問い直される。マイケルの場合は特別に、かれの死が意味する多岐にわたる膨大な問題提起に唖然としてしまう。 葬儀には、残された現世代の歌手が勢揃いして追悼のメロディーを歌い上げたが、かれの存在によって世界のミュージックとダンスは明らかに大きく変化をとげた。いやある意味で、論じてきたTVやエンターテインメントの世界そのものも、かれのムーン・ウォークの動きのように、フワフワと月面を歩くがごとくのダンス、あたかも前進しているかのように後退をつづけているのかもしれない。 追悼のことばのすべてはかれのすばらしい業績を讃えるものだった。かってこの大陸に奴隷として強制移住させられた者たちの子孫が、今や人種を超えた「全人類」を感動させるミュージシャンとなった。このことばに答えるべく生前のかれは、コスモポリタンとしての責務のために、自身の肉体を改造しつづけた。サイボーグcyborg という実にいやな響きの言語で、かれを揶揄するつもりは毛頭ないのだが「自然な姿ではなくなった」という悲劇的な意味をこめて、あえて使う。 肉体改造がはじまるまえに、最初に自然ではなくなったのは、もちろんかれの精神のほうであり、それはただ肌の色についての人種差別問題だけでなく、スターでありつづけることに対する世間の誹謗、超神経過敏性、孤独、過労、慢心、過剰な自信喪失、そして諦観、そのすべてが鬱積し、かれを夭折させた。 人間であること自体を「改造」しなければならない異常事態。マスメディアに翻弄されたというが、そこでスーパー・スターとして生きつづけることが即ち、すでにそういう宿命を背負っている。マリリン、エルヴィス、そしてマイケル。 いっそ、いくつかのSF作品で描かれたように、超天才的なダンスや音楽の才能を持つアンドロイドやロボットでスーパー・技術スターを創り、人間のスターの代替えをすればいい、などと考える。現にホンダ・アシモ君の人気はそのあたりの人間のスターを超えてしまったようでもある。 が、そのプロセスには誤算がある。サイボーグ・スターには、必ずかって人間であったことの痕跡がなくては人びとはスターとは認めない。マイケルのデビュー時代は歌のとびきりうまい可愛い黒人少年であった、という記憶は人びとの脳裏から決して離れない。 そして人びとはすぐその可愛い黒人少年をもう一度詰問する「次にあんたは何ができるの、何になれるの?」。マイケルは目いっぱいの変身を考える。芸能界の可愛いトリック・スターで終わってはならない。恐ろしいほどの威厳があり、人びとが畏怖するような「KING」にならなくては。マイケルはゾンビのダンス軍団を従え、墓場から蘇って、芸能界に君臨した。「でもあんたは結局白人にはなれないでしょ。石鹸でこすっても、絶対白くはなれないのよ。」今度は簡単だった。マイケルは自らの肌を最先端技術が生みだした強力な石鹸でこすりつづけた。強力な薬物や手術によって、白くて繊細なKINGが誕生したが、マイケルのこころは繕いのできぬほどボロボロになっていく。それでも人びとは次々とかれに変身の要求をしつづけた。もちろんかれが自分の欲望を満たそうとしたことも事実だが、その欲望すらも、かれを観つづける人びとの想念によって大きく変化する。かれの骨格は歪み、痩せ細り、それでもマイケルは鏡を見つづけた。「他者に観られるための自分」を見る鏡。 60年代、ニュー・ジャズの先鋭児だったエリック・ドルフィーの最期のことばにもあきらかなように、本当の音楽とは、風とともに消えていく。 故武満徹氏は、エディソンからはじまるレコードやテープやCDに録音された音、そしてフィルムにしまい込まれた映像などは、単なる電気的、電磁波的な信号を音波や映像に変換したにすぎず、そこには魂の入った音楽や演劇というものはありえない、と何度も言われている。 この意味を追求すると、正確な音楽や演劇とはライヴでなければならない、ということになる。日米のライヴのステージを比較すると、日本のロック・ファンたちの環境は著しく遅れていると言わざるをえない。確かに日本でもアメリカのロック・スターのコンサートは列島各都市で多数が行なわれ、そりゃあもう熱狂、感動の渦でっせ、と反論を試みたい方は、同じスターのアメリカでの公演とくらべてみればよくわかる。コンサートとはまさに観客の創造物だということが理解できる。日本の観客の方々は自ら表現する、ということを知らなすぎる。いくら熱狂的だと言われても、一方通行のコミュニケーションは真の感動を生まない。スターと観客の交流のスケールがちがいすぎる。 いずれにせよ、武満氏のこのオカタイことばは、われわれの魂にとってのタテマエ・理想論にすぎず、現に氏の作曲された音楽は膨大な量がCDとなって残っているし、生前の氏は無類の映画好きだった。僕も朝から晩までさまざまな音楽のCDを聴きつづけ、その電磁信号で魂が癒された、と感じることは多い。もちろんライヴの音楽はすばらしいが、その音を封じ込めて再生したものをすべて「ヴァーチャル」Virtual と呼んで毛嫌いすることは、現代を生きるには潔癖にすぎるような気もする。 ライヴ・ミュージックの話がでたので、もう少し脱線する。つい先日の夕方、散歩の途中に、セントラル・パークでのフリー・コンサートに飛び込み、ラテン・ミュージックを堪能した。舞台はアルゼンチンの前衛叙情派歌姫、ファナ・モリーナ Juana Molina。Brian Eno, Robert Fripp, John Cage を彷彿とさせる、アルゼンチン・フォーク風ロックといえばなんとなくどんな音楽かおわかりいただけるだろう。4-5年前には来日もされて、多くはないがかの女の熱狂的ファンがおられるそうだ。 涼風に触られ、夕焼けを観ながら実にいい気分だったが、どうも会場の空気がファナの歌声とどこかフィットしていない。観客の体があまり動いていない。舞台のファナも初めての観客が多いせいか、知らん顔をしてスペイン語で歌いつづける。「空気を読む」などという日本的メタファー表現が流行っているそうだが、このような場合、空気を読んで早々と退散などしてはいけない。「グッと我慢の子」となり、その場にいつづけることがコツである。 案の定2-3曲のあと、会場の全員が多少不確定なリズムと少しの不協和音にもめげず、ゆるく踊りはじめ、やがてアルゼンチンの叙情的な夕暮れがそのままそこに再現する。かの女の存在がそこに奇蹟を運んでいる。ヴェノスアイレスに残してきた自分の娘のことを訥々と英語で語るかの女が、まるで聖母のように感じられる。「こんなとこにいて、こんなことしてていいのかしら? はやく娘に逢いたいわ、まだこんなに小さいのよ」膝頭のあたりを指し、遠くを仰ぐ動作を観ていると、アルゼンチンに残してきた娘さんがすぐそこにまでやってきているような気がする。かの女の想念が奇蹟を呼ぶ。それがスターというものである。 最初の段階で、音がのらないから、と言って先に帰ったひとは、このコンサート空間の奇蹟を味わえなかったわけだ。アルゼンチンからの魔女による催眠術ロック。 映画館という空間でもこれと似たようなことが起こる。それまでひどくつまらない、退屈だと思って、ほとんど座席で眠ってしまいそうだった映画が、なにかのきっかけで突然おもしろくなる。客席の全員がいつのまにか興奮している。笑い、怒り、手を叩いて喝采をする。観客のひとりの想念ではなく、幾人かの想念が共鳴し、共鳴が増幅し、強い共同体験となっていく。アメリカでは映画館でもこういうことがよくある。日本でも観客がおとなしく、行儀がいいということから、そのことがわかりにくくみえるだけで、おなじようなことが起っているのだと思う。 いまさら言うことでもないが、音楽や文学も含めて、アートというものとのふれあいはすべて他者とのコミュニケーションである。美術館におかれた一枚の絵が語りかける世界は、アーティストとの対話だけでなく、そこにいて同時にその絵を観ている人びとの想念で微妙に変化して観える。昨年秋、ゴッホの特別展における一枚の絵をとりあげて、恐慌と闇の時代を象徴させたが、その絵はいまMoMAの常設展示に移され、なにごともなかったように多少とも減ってしまった観客に観られている。不況はつづいていて、ゴッホの表現した闇の世界はいまだにつづいているが、細かい状況は刻々と代わる。時間が経過し、その絵を観る人びとの想念はたえず変化していく。その複製を書斎の壁に張り、ひとりで楽しむのも一興かもしれないが、たくさんの人びとと(あるいは無言で)語らって楽しむことは、何十倍もの価値体験を生む。 ここでもう一度、お茶の間や家庭劇場に話を転じる。映画のDVDでも、TV番組を観ることでもいい。ここではほとんどのひとが、つまらない番組、わかりにくい番組を我慢して観つづけるということは少ないのではないか。つまらなければスイッチを切る、ちがうチャンネルにするか、ちがうDVDを入れればいい。そのことに反対する人間は、ごく少ないか、ほとんどいない。ここでは視聴者は王様である(ここではかれを観客とは呼ばない)。暴君として振る舞ってもだれも文句を言わない。だがかれはその小さな我慢をまったくしないことによって、膨大なクオリティー情報をすべて見逃してしまうことになる。まさに情報飽食の時代、食べかじり放題、である。 ネットはどうだろう。ここはもっとひどいかもしれない。初期には情報収集を波乗りにたとえて、波から波に乗り移るのが早いほどカッコいいとされていた。やたら長くてむずかしい文章をモニター上で読むなど、多くの人が最初から我慢できない。ゆえにブログ「NY金魚」へのアクセス数は、伸びてはいるものの決して飛躍的には上昇しない。上昇しないことを自慢することはないか。ヴィジュアルに凝ってみるが今度は写真だけチラと観て逃げられる。いまこの文章をここまで読んでいただいている皆さまには、本当に感謝しています。 要するに、おおぜいにとっては情報がインスタント食品である方が都合がいいわけだ。もしくはコンビニで買ってきてすぐに食べられるようなもの。そういう食品はまずくて添加物が多くてからだに悪いですよう、と叫んでも、耳を貸さない。確かにハングリーなとき、すぐに食べられるいっぱいの食べ物を見れば、僕だって多少はこころが動く。 かくてTV番組制作者は、視聴率を上げて、かつ視聴者にチャンネルを変えられないような、即座にわかり即座に楽しめて笑える即席番組を造りつづける。内容など二の次です、とうそぶく。映画も音楽産業も質的な差は多少あるものの、基本的におなじである。 こういった視聴者の横暴が番組の質低下を招いていることと同時に、質の低下した番組を慢性的に受け入れる視聴者の白痴化につけ込んで、情報操作ということも慢性的に行なわれることになる。芸能人のゴシップ情報の操作などであれば、被害者は関係者に留まるが、マスメディアが政治問題までも操作するとなると、それによって社会がそっくり動いてしまう可能性がある。 問題は膨大な人口とそのそれぞれの利害関係を抱え、多様な問題を報道するマスメディアの情報が、どこまで操作されたものか、視聴者は混乱してほとんど理解できないことだ。 60年代に、メディアそのものがメッセージである、としごくあたり前のことを言って売り出したマーシャル・マクルーハン。これを文字ったかれの著書「メディアはマッサージである」はTVメディア論である。 — すべてのメディアは、われわれのすみからすみまでを変えてしまう。それらのメディアは個人的、政治的、経済的、美的、心理的、道徳的、倫理的、社会的な出来事のすべてに深く浸透しているから、メディアはわれわれのどんな部分にも触れ、影響を及ぼし、変えてしまう。メディアはマッサージである。こうした環境としてのメディアの作用に関する知識なしには、社会と文化の変動を理解することはできない。 一部白痴化した膨大な量のメッセージで身体中を触りまくられ、それでもただのマッサージ療法だから、精神の病が完治するわけではない。この感覚はいまやネットの世界でより顕著ではないか。 かれの論は、テクノロジーやメディアが、人間の身体の拡張であるという。クルマは手足の拡張、TVは眼の拡張、というように身体の特定の部分を拡張するものである、という。このイメージのなかでわれわれの身体は巨大化していき、似非グローバリゼーションで地球の方はうんと小さくなってしまった(感じがするだけだが)。しかしかれの著書には、身体が拡張された必然的帰結として、それは衰退し「切断」を伴うものだ、とも書かれている。 くだらない番組は観ないで「切断」し、価値のある番組はグッと我慢して観つづけることが、メディアをうまく使うコツであるはずなのに、どうやら逆の思考で動いているひとが大半である、ということだ。 マイケル・ジャクソンの音楽ヴィデオ “Thriller”は、このジャンルのメディア概念を大きく変えたが、かれの住んでいた場所はやはり白痴化したTVと、深みのないコマーシャルの沼であった。たえず新しいことを求められるが、それは決して新しすぎてはいけない。 その浅い沼地で喘ぎながら、アーティスト・マイケルは自分のもった天才を充分にいかすことなく溺れてしまった。浅い沼地で溺れることは常人にはかえってむずかしくも感じるのだが、浅瀬の泥水をかぶって喘いでいるマイケルの姿には、涙をさそうものがあった。喘ぎながら、それでも自分自身を救うのではなく、自分こそが世界を救うのだと真摯に訴える態度には、無理だとわかってもどこかに可愛いらしい共感が持てた。 あるいはマリリンもエルヴィスも、同様のメディアの白痴化からはじまる不思議な伝染性の病に犯されていたといえる。システムが悪すぎたといえばそれまでだが、マイケルたちの死にはわれわれ観客の側にも責任の一端があるような気がしてならない。 マイケルのように巨万の富を稼ぎ出すことは、ほとんどの人間の夢だが、その代償に、水泳の達人が溺れるはずのない浅瀬で溺れ死んでしまうとなれば、だれもが尻込みをする。それでもやはり、このスーパースターの死はTVの内側の出来ごとで、自分の棲むTVの外側世界とは無関係で、まぁそこそこ反面教師にすればいいや、とほとんどのひとの記憶からかれの存在は消されていく。 しかしながら、すべての過剰なマネー・トリップは人間の精神を確実にサイボーグ化させるのではないだろうか。精神のサイボーグ>アンドロイド>ヒューマノイド>ロボットへの変化。本人は気づいていないが(あるいはあえて気づこうとしないか)ひとの精神のなかに巣食うこのメカニカルな方向への変化が、圧倒的多数に現れているのは、資本主義がギャンブル化してしまった、日本とアメリカに住む人びとに顕著である。マイケルのダンスが一時期、機械仕掛けのお人形の動きそのものになったとき、人類全体のロボット化が高らかに宣言されたわけだ。くしくも世界中のダンサーたちはかれの動きを忠実に写し取り、それを観た若者たちを中心に、更なるロボット化が進む。 50年前、人びとから知性というものを奪ってしまうTVというメディアに深く警鐘を鳴らし、人類の智慧の奪還を叫んだアメリカ人がいた。レイ・ブラッドベリ。ちょうどそのころから日本でもNHKの実験放送がはじまり、やがてアメリカのTV番組が怒濤のごとく列島に押し寄せる。何年かの後、われわれの世代はこのブラッドベリの提言に気づき、すでにその頃の番組が果てしなく俗悪化してしまったことに、この問題を復誦した。 半世紀前に書かれたこのブラッドベリの小説「華氏451度」のストーリー後半にもどる。 本というものを社会から抹殺しようとする政府の組織、焚書隊の隊員だったモンターグは、ふとしたきっかけで手に入れた1册の本から、書物の世界に開眼する。他のメディアといえば、政府によるお仕着せのTV番組しかなく、それも視聴者参加とは名ばかりの白痴的コミュニケーションのみである。人びとの知性はこの単純な感情操作メディアによって衰退させられていく。このブラッドベリの50年後の未来社会への想像/予測が、現在の現実社会とその多様なメディアの存在位置などにも非常に近いことにおどろくが、微妙にそして大きくも、ずれ込んでいる部分もあり、それがまたよけいに興味をそそる。 妻が焚書隊へ密告したので、モンターグの家は、隠し持った本とともに焼き払われることとなる。焚書隊長は、モンターグ自身で自分の家を焼くように命令したが、モンターグは渡された火焔放射器の先端を隊長にむけ、かれを焼き殺してしまうことになる。 逃亡者になったモンターグは、あやうくロボット犬の毒牙を免れて川に飛び込み、川沿に漂って奇蹟的に都会を離れていく。 森のなかでたき火をしている老人たちと知り合い、かれらはモンターグを歓迎する。なんとかれらはひとりひとりが一冊づつの書物を記憶し、それぞれを本のタイトルで呼び合う「ブック・ピープル」だったのだ。 リーダー格のグレンジャーは、自分のことをプラトンの「共和国」だと名乗り、仲間の「ガリヴァー旅行記」や「ダーウイン」「ショーペンハウエル」「ガンジー」「仏陀」「孔子」などを紹介する。トリュフォーの映画のなかではブラッドベリの代表作「火星年代記」を記憶した少年も登場してほほえましい。 グレンジャーは、モンターグのやってきた都会の方角を向き、モンターグに質問した。 — あなたはあの街になにを与えたのだ、モンターグ? 灰だ。ほかの人間たちは、たがいになにを与えあったか? 無だ。 こうして、ヒッピー集団のようなブック・ピープルとしての生活がはじまり、物語はひとつの決着をみる。来たるべき人類の知性の復権による理想卿を示唆しつつ終るのか、と思ったのだが、ブラッドベリの原作には、つづけて大きな極め付きがあった。 街の方を見つづけていたモンターグたちに強烈な変化が起こる。 つぎの瞬間、モンターグはさけんでいた。 「あっ、あれは!」 そして戦争がはじまリ、その瞬間におわった。 あとになって、そのときのことを思いかえしてみても、モンターグにはわからなかった。いっしょにいた男たちにしても、本当に戦争を見たのかどうかさえわからなかった!。 それはほんのすこし、空がきらめき、かすかな動きがあったにすぎなかった。確かに爆撃はあった。ジェット機も飛んだ。一瞬のうちに上空に舞い上がり,巨大な手が穀物粒を蒔くように、天空一面に,爆弾を撒きちらしたのであろう。(R. ブラッドベリ「華氏451度」宇野利泰訳・ハヤカワ文庫 p-317) 核戦争が勃発し、そしてそれはその一瞬にして終わった。 この小説が書かれた時期が、アメリカによる最初の核融合爆発の実験と重なっており、ブラッドベリの表現はまだ核を過小評価しているように思える部分があることは否めない。 モンターグは街に残してきた妻のことを案じた。もちろんかの女は生きていないだろう。あの色彩とひかりと駄弁の放送局そのものが,電波という目に見えないものともどもに滅びさった。 皮肉なことにそのときになってモンターグはやっと妻と初めて出逢ったのが、10年前のシカゴだったことを憶い出す。街はふたたび崩れ落ちて、息絶えた。死の音はあとからやってきた。 核の爆風のあおりを避けるようにモンターグは地に伏せ、もうひとつのことを憶い出した。初めて読んだ書物「聖書」のなかの「伝道の書」と「黙示録」の断片。かって完璧に記憶したと信じていたこれらの語句たちも、モンターグはどうしても憶い出せなかった。その完璧な言語たちがなぜかいまになって、脳裏からあふれだした。 男たちのひとりが小さなフライパンにベーコンを入れ、火にかけた。ベーコンはフライパンの中で音を立てて踊り出し、男たちは無言のまま、この聖なる儀式を見まもっていた。 グレンジャーは火のなかをのぞきこんでいたが、突然「フェニックスか」とさけんだ。 「なんですって」 「いや、なに、キリスト誕生以前に、不死鳥(フェニックス)というおかしな鳥がいたという。何百年かごとに、薪を積みあげて、自分自身を火葬にする。きっとあいつは、「人間のいとこ」だったんだろうな。ところが、この鳥は自分を火葬にするたびに、その灰のなかから、とび出すんだ。おなじものに、もう一度生まれ出るんだよ。そっくりもとのすがたにだ。どうだい? 私たちに似ているとは思わないかい。私たちもそれとおなじことを何度となくくり返している。ただ私たちには不死鳥(フェニックス)が持っていないものがある。私たちにはいまやったことの愚劣さがわかる。一千年ものながいあいだ、やりとおしてきた行為の愚劣さがわかるんだ。それが理解できて、しかもそのばかな結果を見てきたので、いつかは、火葬用の薪の山をこしらえたり、燃えあがる火のなかにとびこむまねをやめるときがくる。そのためにも私たちはもっともっと大勢の仲間を集めなければならない。各世代にわたって、その愚劣さを忘れずにいるひとたちを。」 「さあ、上流へむかって出発だ」グレーシャーはいった。「まず私たちは、自分たちが決して重要な人物でないことを思い知るべきだ。自分だけではなんの意味もない。いまこうして重い思いをして運んでいる荷物が、いつかだれかの役に立つのだと、それだけを心がけるべきだ。遠いむかし、手近に多くの書物をおいていたころでも、私たちはその書物から得たものを役立てようとはしなかった。私たちは死者を侮辱することしか考えなかった。 私たちはこれからも、孤独なひとたちにおおぜい出逢うだろう。かれらは私たちになにをしているのか尋ねるだろう。そのときはこう答えよう。私たちは記憶しているのです、とね。それが結局、勝利をうる道なのだ。(中略) さあ、出発だ! 手はじめは、鏡工場を建てることにしよう。来年一年間は、鏡だけを生産する。そしてそれを、じっとみつめるんだ」(R. ブラッドベリ「華氏451度」宇野利泰訳・ハヤカワ文庫 p-327-328) 文字数制限のため金魚のFun & Funはコメント欄に飛び出します。
by nyckingyo
| 2009-07-14 04:14
| 悪魔の国からオニの国のあなたへ
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