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「陰陽」の限りない非対称 (1) よりつづく 9-11同時多発テロから8年になろうとする先日6日、オバマ政権で環境政策を担当していたバン・ジョーンズ特別顧問が辞任した。ジョーンズ氏は2004年に、「当時のブッシュ政権の高官が、戦争を行う口実にするため、同時テロの兆候を意図的に見逃していた」として調査を求める嘆願書に署名していたことがわかり、共和党などから批判が高まっていたという。ジョーンズ氏は、人権活動家出身で、近年は環境政策でも積極的に発言。オバマ政権では、環境ビジネスで新たな雇用を生み出す方針を掲げて環境政策を取り仕切ってきた。保守派の非難について「悪質な中傷だ」と反論していた。(2009年9月7日 読売新聞) オバマの登場以来、保守とリベラルとの二極化はかつてないレベルになった、とされているが、9-11記念日直前の、保守派のこのような神経過敏さは、もう一歩踏み込めば、やはり何かある、と勘ぐるひとも多い。年間を通せばこの種の小さなニュースはたくさんある。同時多発テロに関して、共和党サイドのこういったヒステリックにもとれる言動は、最近頓に多い。昨年のこの時期のブログでは、9-11への疑問*を書いたが、そのときの大きなクェッションマークはまったく縮まらないまま、また一年が過ぎてしまった。 大きな隠蔽。全員がそのアタマの上のクェッションマークの存在すらも隠蔽する。それはどこか、夕方のスーパーの店頭の、膨大な量の牛肉の売り場に殺到する人びとの姿にも似ている。そのなかにはむろん意志薄弱でヴェジタリアンに徹し切れない僕のようなひとの姿もある。数日前まで、牧場で生きていた、その巨大でセンシティヴな生き物の肉を切り分けたモノとはとても思えない、かれが断末魔の叫びをあげたという痕跡すらない、清潔で、クリーンなプラスティック・パック。それでも夕げのために、そこに殺到する人びとの頭脳は知っている、これはウシだ、あの牧場に行ったときに出会う、のんびりと反芻をくり返している、実に平和なイメージの巨大な動物の肉だと。まるでそれを喰らえば、あののんびりとした平和主義が得られると錯覚しているように。 この国の民にとって唯一の救いは、最近つづけて、オバマ大統領のポジティヴなことばがつづいていることだ。9月8日、新学期のはじまる日には、全米の学生にむけての教育についてのすばらしい演説。9月9日には医療保険改革に関する上院でのアドレス。いつもわれわれと対等の視線で、TVモニターから語りかけるかれのことばによって、聴いている大多数の意識が変化していくのが観える。むろん政治の世界がすべて、さほど簡単に動くとは思わないが、大統領選以来の理想を語るかれのことばたちが、数々の「マジック」を引き出したことは歴然としている。素敵なことばは他者の意識を動かす、ほぼ全員の意識を動かす、勇気を与えられる、やる気になる、世界が変わる — そんなあたり前のことすら理解できなくなっていたそれまでのわれわれの意識を、この際嘲笑すべきなのだろうか。さきほど昨年のこの日の自分のブログを読みなおしてみて、オバマ政権に変わったことで、自分の精神状態が革命的にポジティヴになっていることに気づいた。明日の9-11記念日でのオバマ大統領のことばにも最大の期待をかけている。 オバマは、9-11を「恐怖」ではなく、もっと前向きな感情や行動の象徴とすべきだと訴えている。しかしアフガニスタンの戦況は悪化の一途をたどり、9-11は現在もアメリカ社会に色濃い影を落とし、テロをどう受け止めていくかについても明確な答えは出ていない。この歴史的事件の全面的な解明は、遠い将来になるか、あるいは永遠にやってこない可能性をも秘めている。 ただこの事件がどういういきさつではじまったかを、いまこの時点でもう一度考察することは決して無駄ではないと思う。 故井筒俊彦氏が、80年代にすでに言われていたことだが、西欧と言う地球上のほんの小さな地域文化が、アメリカを触媒にして全世界に広がった地球社会化の問題がある。後年のコンピューター・IT技術とあいまって、アメリカ発のグローバリゼーションと呼ばれるこの過程が、「一様化」と「多様化」という外見上互いにまったく相反する方向に向い、ひとつの「文化的枠組み」が別の「文化的枠組み」と接触し、激突する。そこに住む人間の意識に猛烈な不調和と不均衡を生む。そしてその21世紀になっての最初の激突が、9-11というわけである。日本の誇るべき大賢者の最期の預言。 今回は、古典的(?)テロ発生の過程を、もう一度宮沢賢治の童話からの隠喩で想像してみたい。 2001年9月11日の同時多発テロからひと月のあと、前出の宗教学者で、井筒先生の後継を自認される、中沢新一氏は「圧倒的な非対称—テロと狂牛病について」と言う論文を発表された。(「緑の資本論」集英社、に収録) 人間社会の「富んだ世界」と「貧困な世界」の極端な不均衡を、もっと不均衡な動物と人間の関係に置きかえて、テロを説明されている。側面からいえば高等動物をモノとしてしかあつかわない現代人の常識が、この地球全体を狂わせているのではないか、という思考にも近づいていく。宮沢賢治の短編童話 「氷河鼠の毛皮」をテキストに、近代以降の人間と動物の、限りない非対称について語られている。 ひどい吹雪の日のイーハトヴ(「岩手」のエスペラント風発音)の駅。北極圏行きの最大急行ベーリング号がひとつポーとほえて、汽車は一目散に飛び出しました。 北極のじき近くまでいくのですから、みんな厚い壁ほどに着込み、馬油を塗った長靴を履いていました。 なかでもイーハトヴのタイチと呼ばれる富豪は、冬の着物の上に、ラッコの内外套ね、海狸(ビーバー)の中外套ね、黒狐の外外套ね、を着ています。それから、北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套ね。そして極め付きは、氷河鼠の頸のところの毛皮、450疋分で作った上着だ、ほらね、いやなんともぜいたくですな。 おまけにタイチは黒狐の毛皮900枚をとってくるんだ、と血気盛んに話しながら、車中でウエスキーを呑みはじめました。 深夜に走る車窓の片隅に、痩せて北極狐そっくりの顔をした赤ひげのひとが、なにやら車内のタイチたちの会話を、手帳に記録している様子です。もうひとりの謎の人物、黄色いジーンズの上着を着た青年も、窓にこびりついた氷のかけらをナイフで削りとり、ぼんやり車窓の先の闇を見つめています。どうやらかれは船乗りのようです。 夜がそっくり明けて東側の窓がまばゆくまっ白に光り、西側の窓が鈍い鉛色になったとき汽車が俄に止まりました。みんな顔を見合わせました。「どうしたんだろう。」そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉ががたっと開き、朝日はビールのようにながれ込みました。赤ひげがまるで違ったものすごい顔をしてピカピカするピストルをつきつけてはいって来ました。 「テロリストの登場だ。」と中沢氏は(少しうれしそうに、と感じるほどに)賢治の文章を引用しながら、書かれています。 —しかしこの場合、テロを決行しようとしているのは、白熊とも雪狐ともおぼしき北極地方の偉大な野生動物たちで、仮面やマフラーで素顔を隠しながら、この最大急行に乗り込んで来たのである。 あの赤ひげが乗客たちの告発を行なう。まっ先に告発されたのは大富豪のタイチ。数々の動物の毛皮や貴重種である氷河鼠の頸の毛皮450疋の上着を着込み、おまけにこれから黒狐の毛皮900枚をとってくるとぬかしておる。赤ひげの手帳の記載にもとづいて、罪状を告発された乗客たちが引っ立てられていった。 告発された者がうなだれて外に出ようとする、まさにそのとき、窓のところで外を見つめていた黄色いジーンズの上着を着た青年が、電光石火の早業で空中に飛び上がるとみるや、赤ひげのピストルを奪いとって人質にしてしまった。そして外にいるテロリストたちに向かって高くこう叫んだ。 「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもな、おれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけぁいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから」 「わかったよ。すぐ動かすよ」外で熊どもが叫びました。 「レールを横の方へ敷いたんだ」誰かが云いました。 氷ががりがり鳴ったりばたばたかけまわる音がしたりして汽車は動き出しました。 「さあけがをしないように降りるんだ」船乗りが云いました。赤ひげは笑ってちょっと船乗りの手を握って飛び降りました。 「そら、ピストル」船乗りはピストルを窓の外へほうり出しました。 「あの赤ひげは熊の方の間諜だったね」誰かが云いました。わかものは又窓の氷を削りました。 氷山の稜が桃色や青やぎらぎら光って窓の外にぞろっとならんでいたのです。これが風のとばしてよこしたお話のおしまいの一切れです。 動物たちのテロは、黄色いジーンズの上着を着た青年の逆襲によって失敗したようにも見える。一方赤ひげが船乗りと握手したように、ここでかれらの目的が達成されたようにも描かれている。賢治らしく、動物側にも人間側にもひとりのけが人も出ないでおさまったテロ事件。 中沢新一氏の考えた、宮沢賢治からのメッセージはこうだ。 (1) 野生動物たちは長いあいだ、人間との圧倒的非対称な関係が生みだす暴力に苦しんで来た。その関係をいっときなりとも破壊すべく、動物の主である熊たちが人間に加えようとするテロの行為は、まことにもっともである。 (2) しかし人間が動物を殺して食物にしたり、毛皮をとって着物にすることは、たとえば熊が秋の渓流で気持よさそうに鮭をすくって食べているのと同じ、自分の命を守ろうとする、やむにやまれぬ仕業なのだ。動物はすべて、他の動物や植物の命を奪って生きなければならない業をかかえている。それは仕方のないこととして、生き物同士お互い悟りあわなければならない。 (3) しかし、無法は許されない。動物同士が自分たちの命のために、他の動物との命のやりとりはしかたがないが、それはあくまで対称的な関係でなければならない。 それが生き物の世界の本来の法である。 アイヌをはじめ多くの古代狩猟民のあいだにはこのような思想がある。 —かって動物は人間とおなじようにことばをしゃべり、結婚も行ない、たがいを弟子とも親子とも認めあう仲間同士だった。人間と動物はふだん離れた村に住んでいたが、ときどき動物たちは着ている毛皮や肉をお土産にもって人間の村に客として尋ねてくる。人間も毛皮や肉を脱ぎ捨てたこれら動物の霊に、精いっぱいのもてなしをする。狩猟民たちは人間と動物のあいだに歴然と存在する非対称の現実を、思考の力で対称的に変容させた。 ここでは、人間と動物のあいだにまだ圧倒的に非対称な状況はつくられていない。 それが決定的になるのは、動物の家畜化がはじまってからだ。人間は確実に動物の肉や皮を手に入れ、好きなときに利用できるようになった。モノのようにその生命をあつかい、動物のことばは完全に奪われた。 猟師と獲物の動物のあいだにも、人間が火器を使いはじめて、極端な非対称がはじまった。それまでの弓矢や刃物ではなく、銃口を突きつけられた動物たちは、なすすべもなく殺されていく。 中沢氏がこの論文を書かれた2001年には、「狂牛病」の嵐が日本にまで飛び火した。市場には大量の肉が供給され、人間と動物のあいだの圧倒的な非対称は確立し、そのまま微動だにしないように思えたが、「狂牛病」という大きな落とし穴に遭遇したのだ。牛のくず肉の部分を骨肉粉として牛自身の飼料に混ぜてしまったのである。文化人類学者レヴィ=ストロースは、2001年に発表した「狂牛病の教訓」でこのように語る。 人間たちは、牛たちに同類の脳や内臓を飼料として与え、共食いさせることによって、かれらの脳をスポンジにしてしまった、と。 一部の人間やチンパンジーの間で行なわれていたカンニバルの風習を、圧倒的な非対称のなかで無力化させられた草食動物である牛にしいた結果、われわれの食品産業の土台を揺るがす事態が発生した。われわれの食生活全体に、大規模なテロの一撃が加えられたような印象さえ受ける。中沢氏はこのようにも補足する —これが人間によってつくり出された状況であることは明らかであるとはいえ、私たちには、まるで牛たちが自らを人間の食べることのできない毒物に変態してしまうことによって、家畜となる運命をつくりだしているこの圧倒的非対称の世界から、永遠の逃走を決行しているように思えるのだ。 こう考えてみると、狂牛病とテロは今日の文明の同じ病根から生じた、類似した構造をもつ病理であることがわかる。このような場合、狂牛病におかされたおびただしい牛たちを一括処分したり、テロリストと目された人物やグループを抹殺するというのも、こうした事態に向かい合った政府のとりうる可能な対処法のひとつではあろう。だがこうした対処法の有効期限は、残念ながらきわめて短い。ほどなくして同じ病根からは、別の形をとった狂牛病が発生するだろうし、抹殺に対する報復のテロが、以前にもまして悲惨な形でおこなわれるにちがいない。テロはグローバル文明の深い病根から発している。そうであれば、徹底した掃討戦によってテロを根絶した世界というものは、ますます家畜の世界に似てくるということになるが、家畜には家畜のやり方でのテロが可能であることを、狂牛病の発生は暗示している。実効性をともなった政治的思考が、この圧倒的な非対称世界の内部で行なわれつづけるかぎり、このような事態はいつまでもつづくことになるだろう。 まさに、この中沢氏の指摘どおりに、この時期と相前後して「鳥インフルエンザ」という新たな家畜からのテロがはじまった。この新型ウイルスは、軽やかな渡り鳥を媒介にして地球上を駆けめぐった。前出の賢治の童話「銀河鉄道の夜」のなかの雁のお菓子のように優雅な話ではまったくなく、人類への感染の危険をはらんで、世界を震撼とさせた。感染を疑われた鶏たちが、青いビニールシートの滑り台に乗って何万羽と連なり、「廃棄処分」になるために生き埋めの旅に出かける姿を見て、異様な感覚でいっぱいになった。 狂牛病で問題となった牛の骨肉粉を牛の飼料に混入することはやめたが、鶏と豚の飼料にはいまだに使用されつづけているという。因果関係はわからないが、なんともそら恐ろしい感じは拭えない。2005年から現在まで、この鶏の感染症はまさにパンデミックとなり、ヒトに感染する高病原性鳥インフルエンザが現れ、かなりの人命も奪われた。 今年に入って、こんどは豚を媒介とした「2009年新型インフルエンザ」がメキシコで発生した。豚のあいだで流行していたウイルスが農場などで豚から人に直接感染し、それから人の間で広まったとされる。詳細は専門サイトにまかせるとして、この秋からのパンデミックが深刻に危惧されていることは、どなたもご存知のとおりだ。豚は高等動物だが、家畜のカースト制度でも下位のイメージが濃く、このインフルエンザの命名からもはずされている。かれらのこのテロ行為以前から、イスラムでもヒンディーでも不浄の動物として嫌われている。いわれのない被差別と強い反逆。 例外もある。バングラディッシュの遊牧ブタは、イスラム教徒が90%の土地で、イノシシに似た古い品種のブタを遊牧している。肉質がよく離乳前の死亡率も低い。遊牧という昔ながらの飼い方や在来種が長いあいだ守られたのはイスラム国家だからだという。(池谷和信・国立民族学博物館教授・談) 鳥インフルエンザの場合にもいえることらしいが、人への感染を防ぐためのワクチンの開発が、新たなより強い性格のウイルス発生に繋がることも指摘されている。コンピューターのウイルスと同様、予防を考えれば考えるほどに、新たに強いウイルスに変化する。 おまけに今回のワクチン接種義務づけの大騒ぎで、人間界の混乱に拍車がかかり「豚側」によるテロは大成功の様相である。 西洋医学的思考にどっぷり浸かっているわれわれには、対症療法を考えるすべしかなく、そのことは宇宙の対称形をますます狂わせ、これらの家畜テロを含めて、何の根本的解決にもならないことを身をもって知ることになる。 今回は9-11のような人間によるテロや戦争を、どのような思考で縮小することができるのか、までを考察するつもりだったが、また次稿にもちこす羽目になった。しかしこの人間と動物の限りない非対称を考えれば、人間同士の限りない非対称の現実もおのずから観えてくる。非対称を対称形にもどすために、伏羲や老子や仏陀という東洋の聖人たちの考えた「陰陽の中庸」という場所が、どうやら解決にいちばん近いように思えてくる。 中沢新一氏のこの論文の結論を引用して、次稿につなぐ。 人間が非対称の非を悟り、人間と動物のあいだに対称性を回復していく努力をおこなうときにだけ、世界にはふたたび交通と流動がとり戻されるだろう。このように語る知性ははたして無力なのだろうか。それとも、それを現代に鍛え上げていくことの中から、世界を覆う圧倒的な非対称を内側から解体していく知恵が生まれるのだろうか。いずれにせよ、狂牛病とテロが対称性の知性をもういちど私たちの中に呼び覚まそうとしていることだけが確かである。(中沢新一『圧倒的な非対称』集英社「緑の資本論」に収録) 金魚のFun & Fun: 今年の9月11日は朝から雨が降りつづいていて、例年にもまして暗い記念日です。このような雨は多くの精霊が降りて来ているしるしだといいます。傘のあふれかえる広場には、生かされている人びとの顔は見えず、降りて来た精霊たちのすがたの方が、ほとんどTVスクリーンに映し出されているような感覚です。犠牲者の名を読み上げる人びとの顔にも、いまだに雨と入り混ざった涙が見てとれ、改めて事件の悲惨さを思い起こします。 グラウンドゼロの近所には、アパレルと電機製品の量販店があり、何度と足しげく通う場所ですが、その都度ふとその場所をふり返ることになります。新しく建つ予定の高層タワー群は、工事中に犠牲者の遺骨が見つかったこともあり、工事は遅々として進まず、当初の予定(2008年)は大幅に遅れていつ完成するかもわからない状態です。「フリーダムタワー」という呼称もなくなったそうです。 このブログに何度も書きましたが、天に向かって振り上げた大剣のような新しいタワーのかたちがひどく嫌いで、いまだにできればちがう案になればいいのに、と思っています。事件後もしばらく、グラウンドゼロの真下に飛び出す地獄の地下駅を通勤のターミナルとして利用していましたから、変遷をよく知っていますが、いまだに基礎工事段階で、外見は8年前とほとんど変わっていません。あの日以来、その空間は他とはまったくちがったカオスの海となり、人間の手で清潔な方向へ改変されることをひたすら拒んでいるようにも観えます。 今夜もハドソンリヴァーで恒例の、NY本願寺主催の灯籠流しに行きます。 犠牲者の方たちのご冥福をあらためてこころからお祈りいたします。 「陰陽」の限りない非対称 (3) につづく
by nyckingyo
| 2009-09-11 07:29
| 陰陽の限りない非対称
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