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「陰陽」の限りない非対称 (2) よりつづく さほどこだわっているわけではないのだが、なりゆき上、肉食と菜食の話をもうすこしつづける。 北アジアの草原からおこって、世界帝国をつくったモンゴル人は、徹底した肉食で、野菜や米を食べず、とくに野菜については、見るだけでもふるえがくるほどに嫌ったという。これはモンゴル民族にくわしい司馬遼太郎氏の「街道をゆく11、肥前の諸街道」のなかの記述だが、この騎馬民族が世界を制覇したとき、他民族にとっては、倨傲(きょごう)で傲慢そのものであったという。その他民族の統治の仕方といえば、商業民族(色目人たち)を自分たちのすぐ下に、農耕民族である漢民族をより下位においた。おなじ農民のなかでも、家畜をもつ北中国の漢人をやや優位におき、揚子江以南の稲作地帯の人びとをそれよりもさらに下位において「蛮子(マンヅ)」と呼んで卑賤視した。米や野菜を作り、それを食べているというだけで人間以下というわけである。 この実に広大な帝国の、第五代皇帝フビライは、銀による兌換制の貨幣制度をとっていたが、日本という島は全島が金銀山である、という誤った情報を信じていたらしい。この情報は皇帝からそれを聞いたマルコ・ポーロが「東方見聞録」にそのままを記述している。皇帝が直接日本に使わせた趙良弼の、日本には山ばかりで利などありません、という報告にも耳をかさず、この誤情報が元寇の直接要因となる。 1274年10月、博多湾の海岸は、2万の元軍で埋め尽くされ、迎え撃つ約1万の鎌倉武士たちの屠殺場のような惨況を呈したという。モンゴル人は固有の軽騎兵や密集陣形を駆使してユーラシア大陸を席巻したが、日本では騎兵の集団運用が地理的に適していないと知るや、漢民族伝統の、重武装した歩兵を密集的に運用する方法をとった。かたや日本の鎌倉武士団の方はといえば、戦争とは敵を大量殺傷すること、という思想がまったくなく、源平合戦のつづきで、敵を脅し、意識の上で敵に敗北を悟らしめようというやり方だったという。戦争というよりスポーツと同質の約束事が同民族のなかで成立し、慣用されていた、と司馬氏は語られている。 いざ開戦のとき、日本軍は矢合わせの儀式をおこなった。鏑矢(かぶらや)という音だけの矢を射たとき、元軍はどっと笑ったという。その次の儀式は、力自慢の武者一騎が出て来て勝負するのだが、そのえり抜きの鎌倉武士は、多数の元軍歩兵に囲まれて殺された。そのあとも華麗な甲冑武者が散発的に突出したが、ねずみの大群の上を蝶々が舞っているようなもので、戦争という形態さえ成立しなかった。あとは火薬などを使った元軍の強力兵器のまえに惨憺たるもので、日本軍ははるか後方の太宰府の先まで退却せざるをえなかった。 幸い日没前後に元軍は艦船に引き上げ、夜半、一大颶風が起こり艦船のほとんどが転覆し、かれらの侵寇は頓挫した。その七年後の夏に、元軍はふたたび来襲し、今度は14万の兵力、4400叟の艦船で北九州の海をおおいつくしたが、一夜、台風が起こり前回以上の壊滅的損害をうけ、戦いそのものが消滅した。 めずらしく合戦中継などをしてしまったが、この戦いは日本という特殊な条件下で育った民族文化と、軍事のかたちをとったおそるべき普遍性の高い文明との、最初の激突だったといえる。ここからは私見だが、断続的に輸入される大陸の文化とは別に、激突というかたちでの異文化との衝撃的なふれあいは、この接触以降、ペリーの率いる黒船まで待たねばならなかった。陸つづきの国ではそれまでにも頻繁に起ったはずのことが、ここまで遅れたこと、その激突すらも台風という自然現象で消滅したことが、その後の日本を実に独特の「文化的枠組み」のまま、奇蹟的存続をつづけさせることとなる。もちろん徳川期の鎖国という特殊な条件下でも、針の穴を通したピンホールカメラの映像のように、外国文化は輸入されつづけ、その強烈な影響力を受け入れつづけた。それは実に特殊な民族的アレンジで改変されつづけ、新しい独自の文化が生まれたことも確かである、と思う。 元軍は肉を常食とし、圧倒的な瞬発的エネジーをもって、鎌倉日本軍を圧倒した。当時の鎌倉武士団の方は、少量の魚肉を摂ってはいたが、玄米菜食が基本であったことはまちがいない。戦前に桜沢如一氏が世界にむけて提唱したマクロビオティック=正食を、中世から(あるいは古代から)世界に先駆けて実践していた民族といえる。江戸時代初期から精米法が進歩し、玄米から離れた日本民族はどんどんダメになっていった、と力説されている。僕自身も、玄米菜食をつづけた時期には、見ちがえるような精神的粘り強さが蘇えり、あふれていることを、しばしば再認識する。 元寇の合戦そのものには大敗したが、鎌倉武士の無謀ともいえる勇敢さは敵を驚愕させ、元軍はその夜も日本軍の夜襲を恐れて、陸地で車陣を組んで夜営することをやめ、艦船に戻った。そのことがその夜の台風による元軍の壊滅を招いたとすれば「神風」も決して運だけではなかったことになる。 玄米菜食は瞬発力では肉食にかなわないかもしれないが、持続力のある精神的エネジーを長時間持続できる、と桜沢先生以下マクロビを実践されている方々が口を揃えておられる。僕もまったく同感である。穀物の生命の根源ともいうべき胚芽の部分を、それが生きているときに近い状態のまま食す、そのエネジーがそのまま長時間持続して人体に反応しつづける。ここでいうエネジーとは、西洋栄養学のカロリーや栄養素のことではなく、ただ「天の恵み」ということばに例えてしまいたい衝動がある。 桜沢先生の考案された究極のダイエット療法に「第七号食」というものがある。西洋医学による処方薬をいっさい捨て、十日間、一日玄米を0.7合(おかゆでもよい)、三年番茶を三合、ごま塩をスプーン2杯で過ごすという半断食である。身体が栄養枯渇状態になれば、必死で身体の機能を維持しようと全身の持つ能力がフルに動き出す。それが自然治癒力を高め、体内の毒素を排出する働きとなる。そしてその時に玄米という最高の栄養物を少量だけ摂ることにより、身体の隅々までバランスのとれた状態になるというわけである。癌やエイズで犯された細胞、あるいはその予備軍を増殖させる余分な栄養素を与えず、病を体外に出す。玄米の「玄」には「外に出す」という意味がある。この「生命のもと」は、壊れかけた免疫細胞をもよみがえらせるという。半断食療法なので、専門家の指導が必須だが、この七号食で大病を完治された友人・親族が多数いる。当人たちはどういうプロセスで病が癒えたかを自分の身体で逐一理解しているが、まわりのマクロビを実践したことのない人びとはそれを例外なく「奇蹟」と呼んでいる。 旧約聖書・ダニエルの書に、王の贅沢な食生活をいさめる話がある。ダニエルを含めた子どもたちが、十日のあいだ「野菜と水」だけを摂ってすばらしく健康になったという話。このことについて、桜沢先生の著書、マクロビオティックスのバイブルとも言うべき「無双原理・易」のあとがきには、こんな記述がある。 — 日本語の聖書が大まちがいの訳をしている。仏文聖書(この本「無双原理・易」原版はフランス語で書かれている)では「Legumes secs と水」とあり、これは「乾燥せる五穀」という意味である。ことばの知識をいくらもっていても、生命を知らないものはこんな大まちがいをする。ことばは生命なり、生命は食なり、食は神なり。この「穀物と水のみで十日」というのは私の発明した第七号食そのものである。ダニエルはどうして私の最高貴正食法を知っていたのか。いずれにせよ「野菜と水」だけで十日間で健康になることは不可能である。(僕の手元にある1985年日本語版旧訳聖書はいまだ「野菜」という記述のままである。)ダニエルは捕虜の身で後にイスラエルの指導者になったが、妬みによりライオンの群れのなかに投げ込まれた。が、ライオンはかれを食い殺さなかったのでますます有名になった。私の第七号食はそんな霊験、奇蹟を示すものであった。私自身もライオンの群れに度々落ちたが、72歳の今日までまだ無事である。第七号食のおかげである。(桜沢如一著「無双原理・易」ダニエル書について) この稿はマクロビオティック食養生によって、身体的かつ精神的にも陰陽の中庸をめざす、ということからはじめた。この不均衡の塊のような現代社会だが、小さなバランスをとりながら中庸に生きることを選択できることだけでも、われわれは実に幸運といわなければならない。 考えてみれば戦争をしつづけ掠奪をくりかえしている当事者にとっては、精神の中庸どころではない。敵を殺さねば自分が殺される、という状況での人間の精神は、はじめからバランスが大きく崩れている。そうした精神バランスを崩しつづけ、攻撃的でありつづけるためには、あるいはモンゴル軍団のように肉食である必然があったのかもしれない。 「肉食がはじまったことで戦争が起こった」と言ったプラトン、「肉食すれば殺されて魂となった動物の意識が身体を通過する」と説いたピタゴラス、をはじめ、古今の多数の菜食の賢者がこの因果関係を語りつつ、諌めている。 しかしながら、ここでは13世紀以降のモンゴルという世界史にもまれな破天荒肉食闘争集団が、もうひとつの不思議な「文化的枠組み」の激突を起こした例をもう一度検証する。 初代ジンギス・ハーンが版図を拡げ、13世紀初頭には、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接するまでに至った。 第二代皇帝オゴタイは父の遺志をついで、そのホラズム国を完全に滅ぼし、イランを平定し、中国金王朝を攻めつぶし、一軍を西方ロシアに向かわせて更なる版図を拡げていく。かれらの征服は、謀略のみであって世界史になんの貢献もしなかったのではないか、という意見もある。確かにかれらは他の帝国や王国を見さかいもなく攻めつぶした。しかしその大征服によって世界は別の段階に前進した。かれらが出現するまでの世界は無数の障壁にはばまれ、小さな部分の割拠だけのすがただった。そのモンゴルの大征服によって、世界には大きく風が通り、四方に通商路がひらかれ、地域の文化がほかに流れた。世界は一変した。古代、アレキサンダーやローマ帝国の行なったものの数倍のスケールの、人類史上最初の軍事グローバリゼーションともいうことができる。 この攻撃の塊のような第二代皇帝オゴタイ・ハーンを指して、司馬遼太郎氏はまったくちがう指摘をされている。氏の魂の故郷を描いたような「草原の記」で、この民族の代表として、このオゴタイのことに言及されている。父の志をついで世界の支配者となったこの人物は、極端に寡欲(かよく)で、ほとんど一種の無常観の持ち主であったという。 「財宝がなんであろう。金銭がなんであるか。この世にあるものはすべて過ぎゆく」と韻を踏んで言ったという。この当時モンゴルにはチベット仏教はまだ入っていなかったから、かれのこのことばはインド思想の影響ではなく、モンゴル伝統の固有思想であると書かれている。 —この草原には、古代以来、透明な厭世思想があり、そのことも、私(司馬氏)などがこの民族の過去や現在をおもうとき、つい気体であるかのような錯覚をおぼえる一要素なのである。 オゴタイはつづける。「永遠なるものとは何か、それは人間の記憶である」 栄華も財宝も(カラコルムの)城郭もすべては幻である。重要なのは記憶である。オゴタイにすれば、自分がどんな人間であったかを後世に記憶させたい。それだけだ、という。(司馬遼太郎「草原の記」p-78 新潮文庫) 著者司馬氏は、オゴタイ・ハーンほどモンゴル的な人物は少なく、かれの寡欲にいたっては、平均的モンゴル人の肖像をみるようであるとくり返される。「奇蹟的なほど欲望少なく生きてきた民族」だと。土を耕さず、都市を造らず、永続する建造物すらも好まなかった。草原と天のあいだを馬と羊とともに動き、包(ゲル)と呼ばれる天幕のなかに住む。「火がほしければ、乾いた獣糞をひろえばよく、食べ物が必要なら、食べものたちはそのあたりの草を食んでいるのである」。 この本のなかにも似たような記述は再三出てくる。 —遊牧民は、古来、物を貯えない。不必要に多量な什器や衣類をもてば、移動ができなくなってしまうのである。このような累世の慣習のために、たいていのモンゴル人は物をほしがる心が削ぎおとされていて、むしろ日常かるがると移動することを愛してきた。 ここでわれわれは、この不思議な草原の民族に、これまで論じてきた「肉食人種」そして「異常に攻撃的」という性格と、まったくイメージの合致しない不思議なものを観ることとなる。 イスラム王朝ホラズム国との戦闘では、まるで異なった性格の軍団が対峙した。酷寒の草原から、灼熱の砂漠までを、ときには少ない食料で遠距離移動してきた質素なモンゴル軍は、強靭な精神で敵を攻める鋼の大剣のごとくであった。これに対するホラズム・シャー朝の軍は繁栄と飽食を謳歌していた生活が災いし、はじめから闘う意志すら乏しく、敵と対峙したとたん、まるでバターのように溶解し、逃げ去ったという。 世界初のこの軍事によるグローバリゼーションで、この星の大地は大きく動いた。くり返すが、モンゴルが築いた世界帝国は、自身の文化をほんのわずかしかもたず、すべて掠奪主義だった。農耕も工芸も、それを作る者をさげずみ、誇りはひたすら掠奪することであった。モンゴル人が自民族の手でなんの文化も生まなかったのは、生まないことがかれらの誇りだったともいえる。 しかしそれでも、掠奪された側の意識は大きく変わった。商業民族である色目人たちは、それまでも極東と西方に物品を動かしてはいたものの、それらの物品の底にあった、他民族の文化というものまでが突然なだれ込んできはじめたのだ。 前出の宗教学者中沢新一氏は、対談集「仏教が好き」(朝日文庫)のなかで、以下のように話されている。 —13世紀にモンゴル帝国と激突したとき、イスラーム教は素朴な性格の宗教から脱皮し、高度な宗教に成長をとげた。不思議なことにこの同じ時期に、世界中で宗教思想の革命的飛躍が起こっている。日本でもモンゴルとの接触で鎌倉仏教が起こった。そのなかから浄土真宗のような一神教に近い宗教が起こっている。チベット仏教でもこのとき飛躍的な進化がおこなわれている。ヨーロッパでもキリスト教神学が驚異的な発達をとげる。それまでアラブ世界の人たちはギリシャ哲学を翻訳していれば気が済んでいたんだけど、モンゴル帝国との衝突以後、自分たちの神学をつくり出した。驚くほどに高度なものをつくりはじめた。「アッラー」がもうほとんど(仏教でいう)「真如」と見まごうばかりの観念の高みに昇ったのもこの時期だ、と井筒先生は考えられた。 ここで井筒俊彦先生の「イスラーム哲学の原像」を紐とくと、モンゴルとイスラームが接触したこの時期に、イブン・アラビーをはじめ、神秘主義哲学の巨人が現れ、イスラ—ムが実に高度な思想を内包する宗教に転身した、とある。イスラームのスーフィズム(神秘主義)とスコラ哲学が迎合する。この完成された神秘主義のことは、本ブログ「井筒・意識と本質論」でくわしくつづけるつもりだが、人間の意識というものを多層として考えるものである。その意識の最深層を開顕させるために「観想」をし、意識はイマージュに満たされるという。かたちとしては、禅やヨガの瞑想と限りなく近い内観の世界なのだが、決定的にちがっている部分も多い。このイブン・アラビーなどの神秘主義哲学の方法で、「花が存在する」のではなく「存在が花をしている」という認識が生まれていく。 この独特のイスラーム哲学の意識論を、井筒氏は現代に展開され、最終的には仏教や東洋哲学を統合した「メタ宗教」のような論理を提唱された。この13世紀のモンゴル帝国とイスラームの接触が、すべての起点となっている。 この時期のモンゴル帝国の宗教といえば、天の観念が発達して、その天と地上とをシャーマンが媒介する国家的な規模のシャーマニズムがあった、と上述の対談集のなかで、中沢氏はさらに言われている。シャーマン=ハーンが地上を統合し、天と対峙する。イスラームがモンゴル帝国と出会ったとき、なにか宿命的に自分のなかに眠っていたものが呼び覚まされたのだ、と。 後年のモンゴル帝国とチベット仏教との遭遇までには、しばらく時をまつことになるが、この大激突の瞬間、イスラーム圏に極東の意識が大きく飛び込んでいったことはまちがいない。 時代は少し下って、第五代皇帝フビライによる日本への元寇は、おなじように日本人の精神世界を変化させた。のちに鎌倉仏教と呼ばれる宗派が、この時期と相前後して広まっていく。とくに親鸞の没後にその門弟たちが発展させた、一神教に近い浄土真宗の台頭は、グローバリズムの強いにおいを醸し出している。 ヨーロッパでも対イスラーム圏のための十字軍遠征と、東欧ではモンゴルとの接触で、キリスト教神学の意識が、かってなかったほど驚異的に高まった。 これらモンゴル帝国によるグローバリゼーションと、20世紀以降のアメリカ発のものとのあいだに、さまざまなかたちで相似形を観る。触媒となったモンゴル民族が、自らの文化をもたないままに、他民族文化を征服しつづけ、そこにはてしない不均衡をもたらす。極端な一様化と極端な多様化。接触したほうの文化は、尻を殴られた馬のごとく嘶く。刺激だけでなく殺されてしまった馬も、その子馬がもっと大きく嘶く。不均衡は限界に達し、やがてそのなかから新しい文化、新しい時代が、新しい均衡を求めて動き出す。 だがしかし、このモンゴル世界帝国の一部である元帝国は、以降1世紀を経て、オゴタイとその民族の性格どおりに、消え入るように草原の国に帰っていった。帝王自ら「この世にあるものはすべて過ぎゆく」と吟じたように、将軍も士卒もいっせいに馬に乗り、実に淡白に広大な自領を捨てて北に戻っていく。 漢人たちは「元の北帰」と呼んだ。北帰とは中国語で、しばしば雁の習性について使われていたという。秋、高原の草が枯れると遊牧民たちは南下し、春になって緑が萌えると雁のように北に帰った。また三たび、この稿に、雁という優雅な渡り鳥が登場した。 世界にはしばしある種の対称形が戻った。陰性過多の風土に住むモンゴル民族は、あいかわらず羊の肉を食べつづけて身体の陰陽のバランスをとっているが、かっての征服欲などは微塵も見当たらず、消えてしまったようでもある。あえて言えば朝青龍関や白鵬関の戦いぶりにその片鱗がかいま見え、国技館に来た客を楽しませている。現代のモンゴルにマクドナルドは見当たらないが、国産資本のハンバーガー・ショップは大人気だという。 そして現代の世界を牛耳るアメリカン・スタンダードの親分は、あいかわらず威張ってはいるが、近年はドルの生彩が急激になくなり、自ら多極化などということばをも使いはじめた。だがしかし、東洋の陰陽学からはとてつもなくかけ離れた、キリスト教という一神教がはじめた世界への席巻行為は、ヨーロッパの国々を含めて、まったく収まりというものを知らない風情である。 この現代におけるアメリカ発のグローバリゼーションが、中世のモンゴル発のものと決定的にちがうのは、資本主義というシステムを媒体にしていることだ。このシステムを導入さえすれば、対立していた共産主義国家でも参入を許されるようになった。そのなかでの矛盾と不均衡は宗教や文化だけでなく国家の主義まで絡めて、極端に拡大しているのだが、親分勢はいっこうにおかまいなしである。 21世紀の世界を見ることなく他界された、井筒俊彦氏と司馬遼太郎氏は、最後の対談で、そのときすでにやって来つつあったグローバリゼーションへの警鐘を鳴らされている。 井筒:「世界的な激突はあるいは避けられないもので、それを超えてこそ、はじめてほんとうの国際社会ができるのではないか。そこにいたる過渡期として、いま非常な危機を経ている。私は危機を経てもいいんじゃないかと思うんです。」 これに対して司馬氏は、井筒氏への追悼のことばのなかで、「危機を経てもいいんじゃないかというのは、単に語法としての碗曲さで、むしろ危機を経る、危機を経るべく人間はつくられている、とおそろしいことを言いきっておられるようでもある。古典アラビア語ではないが、言外にこの意味をよみとらねばならない。井筒さんは光明ということをいっておられるようなのである。いまは闇である。しかし前途に光明がある。一点、かすかにみえる光明を見つめていくことによって『本当の国際社会』ができるのではないか、という希望的なお答えのようでもあるらしかった。」 ここでの「激突」や「危機」ということばは、そのときにはまだ予測の世界であった2001年の同時多発テロや、現在のイラク・アフガンの状況を踏まえても、まだまだ余りがある。根本的な問題はなにひとつ解決していないし、その糸口すらも見つかっていない。対立軸としてイスラム原理主義があるらしいが、仮にその組織を壊滅できたとして、なにかが進展するのだろうか。弱くて不均衡になった患部を切り取る対症療法をして、一本足で歩くことが真のグローバリゼーションでないことはいうまでもない。 未来世界の大きな均衡は、古き東洋の智慧、それを現代にアレンジできる唯一の文化=日本の知性に鍵がある、という僕の信念のようなものは、この世界の激動のなかでも、微動だにしない。 次回は、陰陽のバランスの根源、女性原理ということを、とく東洋思想の代表選手、老子とブッダの話を中心に。また一神教のもつアンバランスをも、しつこく追求していきます。 金魚のFun & Fun: 今回も、尊敬する古今の賢者のことばを、コラージュのように張りつけていく作業が多かったのですが、たとえばモンゴルというひとつのテーマに則して、かれらの印象的なことばを組み合わせると、まるでそれを語ったのが、ひとりの、より大きい人物のように思えたりしてきます。思想というものはこんな風に複数の、いや実に多数の人物が創りあげている、というごく基本的なことをうっかり忘れていました。それが新たな対称形となり、ひとつの人格のようなものにまとまったユニティになる。ただ本を読み書き写し要約する、というコラージュ作業にもいつも新たな発見があります。さまざまなひとが、知識などそれだけでは何ものでもないといわれますが、そのことしか理解できない僕には、新しいことをはじめる「触媒」としての知識ほどすばらしいものはない、とまあ当分、知識にかじりつきっぱなしの体勢ではあります。 「陰陽」の限りない非対称 (4) につづく
by nyckingyo
| 2009-09-23 06:31
| 陰陽の限りない非対称
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