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未知の贈りもの 惑星ソラリスの海に泳ぐイカ(2) よりつづく 島の定義 ライアル・ワトソンが、ジャワやバリのはるか東端にある地図にない島「ヌス・タリアン」で出会った超能力少女ティアのことに思いを馳せている。この本「未知の贈りもの」のなかでは、12歳の少女ティアが、さまざまな超常現象を起こす過程が書かれているが、かの女と対称的にかなり老齢の超能力者、イブ・スーリ(イブは母の意)も登場する。これと同様の、幼老の巫女たちが島を掌る神と人びとの生活をとりもつ物語は、世界各地に点在する島の数ほども語り継がれている。 池上永一著「バガージマヌパナス(わが島のはなし)」(文春文庫)は、八重山列島のなかの美しい島の少女に、神様からユタ(巫女)になるようにというお告げがあるが、少女は最初このお告げを断固拒否してしまうという沖縄コメディー仕立てのファンタジー小説。やはりユタの大先輩である86歳のおばば・オージャーガンマーと組んで、飛びすぎた巫女たちの痛快物語がはじまる。この少女とおばば、なにもしないでダラダラと生きるという昔ながらの島人(シマンチュ)の道をまっとうしたいという、ヤマトのひとからみれば労働倫理観ゼロ人間たちだ。おまけにこの島は、そのヤマトという極端に乱れた大国に近いゆえなのか、しっちゃかめっちゃかのドタバタ巫女物語と相成るが、その底に流れる、透明で屈託のない明るさ、色彩の豊かさ、おおらかなユーモア、ひどい俗っぽさ、が胸を打つ。かの女がユタになるための道を準備するゆっくりとした、濃密な「島」の時間帯がある。 その島をも含む、沖縄圏の島々に大きなねじれが生じたのは、いったいいつ頃からだったのだろうか。一昨日の名護市長選で、米軍飛行場の名護市辺野古への移設に反対する民意が浮上したことを喜ぶひとりだが、それらの島々はヤマトの国のなかに組み入れられたとはいえ、その大国がまた引きずられている超大国との歴史的なねじれを大きく引きずったままの世界である。本来「バガージマヌパナス」のような小説に登場するべき島の神秘的な世界の原点は、近くの島に長年のさばっている米軍基地のおかげで(決してそれだけでなく、基地ということばが代表する政治的意味合いのすべてによって)見事にかき消されてしまっている。この本の作者と島の神々は、あえて物語をヤマトの民放バラエティー番組仕立てにして、その憤りを発散しているような気もしてくる。その沖縄列島の歴史を見直せば、中国と日本の狭間で両大国に翻弄されつづけた島国の悲惨がにじみ出ている。世界中にある小さな島は、多かれ少なかれそれに似た宿命を背負っているともいえる。 かといって大きい島がいつも優位だとは限らない。島という概念からヤマトの国自身を考えなおせば、本州島は島というにはちと大きすぎると言われる方もいるかもしれないが、硬直していた徳川の幕末、そこに維新をもたらしたのは、九州や四国という、れっきとした島からの発信であり、もともとわれわれ日本人のなかにはこういった「島びと」の純粋で一途に強い感性、が大きく存在していたのではなかったのか。 考えれば、世界の島々は、火山の噴火口が海上に突出したものが多く、地球のなかに住まれて、噴火とともに出現される男性神と、母なる海の神の接点であるから、こうした巫女を中心とした超常現象がそこに出現するのは当たり前にすぎる話かもしれない。 地球の表面的な重力の関係で、本州島の心棒である富士山は現在海抜3700m余だが、日本海溝の底から測れば1万有余mとなり、ヒマラヤ山脈も及ばぬ高さとなる。 イカんイカん、また話が島からはずれて、祖国の富士山自慢に奔ってしまいそうだ。 音が色づく この連載稿は、ソラリスの物語もライアル・ワトソンの著書も、70年代といういまよりはるかに、カラフルな、自然のあふれた時代の資料をもとにしている。あるいは当時、沖縄はまだ米国の領土であり、米軍基地もいまよりうんと巨大に存在して、ヴェトナム戦争に直接加担していたかもしれないが、小さな島の端にまで超大国のスタンダードとやらを押し着せる「グロバリゼーション」というものは、まだほとんどかたちになっていなかった時代のことである。たった30年ほどのあいだに、われわれの「想念」がつくりあげたものと、それによって失ったものが、書いている僕のなかでも極端に見え隠れし、悲しいまでに神経を突き刺してくる。 70年代にスリランカに上陸した金魚は、その島の女性が歌う民謡の声が、どれだけ「カラフル」であったかを深く記憶している。そのころ南洋の島に行ったことのある方々は、そこでの「音楽」に「美しい色」や「香り」を感じたことがある、と確信している。そしてそれから十年単位で、その音から観えていた「島の色」は、みんなのなかでどんどん「色あせて」しまったのではないだろうか。 それではそのグロバリゼーションで、地球が一様に平べったくなったかといえば、全然そんなことはない。このことだけを集中して考えれば、数々の歪みを増幅しつづけ、地球号は自らが望んでいない異様な異空間にずれ込みつづけているような気がしてならないのだ。 そんなノスタルジー感覚を含めて、ライアル・ワトソンが76年に書き上げた「未知の贈りもの」(村田恵子訳 筑摩書房)のストーリーをいましばらく追いかける。 夜の海でイカたちとの不思議な遭遇をしたあと、地図にない島「ヌス・タリアン」(踊る島)に上陸したライアルは、そこで愛らしい12歳の踊り子少女、ティアに逢う。ティアには、すべての「音」についている「色」が観えるという。 海岸で「キュー」と鳴く緑サギと出逢ったとき、あの鳥は「緑色の歌」を唄う、とティアはいった。ところがその鳥の名前を緑サギだと知っているのはライアル自身だけで、実はその鳥の姿は緑色などどこにもはいっていない。どうして緑色と思うのかと訊くと、その鳥の声は新しい葉っぱやトゲのようにとがっているからだ、という。ガマガエルの声は茶色。黒い音を出すのは水牛や雷、白は砂にふれるあたりの海の音、だとティアはいう。 ライアルがすべての音に色がついているのかと訊くと、「色がなくてどうやって人の話や音楽を聴くことができるの」と哀れみに充ちた目で見たという。 「ドラムが話をするとき、やわらかい砂のような茶色の絨毯を地面に敷く。踊り手はその上に立つ。次に銅鑼が緑や黄色を呼び、私たちが動いたりまわったりして通る「森」をつくる。もし森の中で道に迷っても、フリュートや歌の白い糸が家に導いてくれるわ」。ティアだけでなく、島の子供たちの多くがみな言葉や音に色を感じ、それを当然のこととしている。 「われわれのような感覚的片輪者が幻覚剤の助けを借りて垣間見ることしかできない、視覚と聴覚が統合されたバラ色の世界にティアは永住している」と語っている。ライアルはこのことを「共感覚」と呼び、ティアの持つ予知能力も、この感覚融合に関係があるとではないかと考えはじめる。 こちらは、遠いむかしの僕自身の、実に茫漠とした記憶。「幼稚園」という、いま考えれば子供たちを馬鹿にしたような差別的名称の、おなじ年ごろの子どもたちが大量に共同生活をする空間に放り込まれたとき、みんなが放つ猛烈にハイピッチな想念の波に圧倒され、だれとも口をきけなかった苦い記憶。ほかのみんなも、特定のだれかに対してはっきりと話しているわけではなく、それまでの環境で覚えたての「ことば」というものを、無造作に、口からでまかせにつぶやいていたにすぎない。話しているほうも聴いているほうも正確な意味などまだ理解できていない世界。それでも聴こえてくるせんせいのやさしい声はピンク色、いじわるっ子が吐く毒づいた声はどす黒い煙のように室内を舞う。あまりの騒音に、いや騒色に、僕は思わず目を閉じる。すると耳に手を当てなくても、声たちは静まりかえり、閉じた瞼の裏側に、極彩色の映像だけが動いている。次に目をあけると、にこにこ笑っている男の子の顔がある。そのときの僕よりもさらに寡黙だった「しんめん君」という名の友だちができ、ふたりはいつもだまって顔を見合わせ、ただにこにこと笑っていた。 やがて音楽というものの少なかったその幼稚園に、アコーディオンをもったおじさんが訪れてきた。鍵盤という切り刻まれた音のキーボードと、無数のぶつぶつがついた不思議な玉手箱を、おじさんは両手をいそがしく動かして、音楽というものを描きはじめる。なんてすてきな音、なんてすてきな色。しんめん君は僕と顔を見合わせ、とびきりのにこにこで返事をする。自分のアコーディオンの伴奏でおじさんが歌い出す。どんな歌だったのだろう、覚えているのは歌詞の二番からはせんせいが、そのうちみんなもいっしょについて歌ったこと。最初はまさにごちゃまぜの騒色だったみんなの歌声は、やがて極彩色になり、小さな幼稚園の室内を色彩でうめつくした。もういちど隣のしんめん君と顔を見合わせてにこにこをする。かれの口からもレインボーがあふれている。ふたりの目はなぜか涙ぐんでいる。お互いにそれを見てもういちど虹とともに笑顔と笑声と笑色を吹き出す。それを、あの色のことを、ライアルは視覚と聴覚が統合されたバラ色の世界、と言ったのだろうか。確かにバラの花には目に見える色がすべて含まれているようにも思える。 小さいときには、多分みんながもっていたはずの「共感覚」の記憶。生理学者はそれを知覚融合とか共感と呼び、味と匂いという当たり前の関連でしかその問題を扱わない。しかし最終的にはひとのすべての知覚は相関しているため、われわれひとりひとりが融合された情報に依存し、微妙な感情的濃淡のある細やかな識別を行なっているはずだ、とライアルはいう。人間の視覚や聴覚は、この世界に存在するごく限定的な情報しか読みとれないから、その両方を複合した感性があるならもう少し拡大した範囲を観ることができるはず、と僕も思う。 友人に幼いときの記憶を訊きまわったが、なにせ大むかしのことゆえ、ほとんどのひとの記憶が実に茫漠としている。そのうちのひとりは、ライアルのようにおとなになってからのアシッド体験で、かれのうんと幼い時代の共感覚のようなものを明解に憶い出したという者もいた。それらをすべて人間の感覚だけで捉えた現実の定義には合わないからといって、すべては「幻覚」だと片づけてしまうのは不安をおぼえる、とライアルはいう。 しかし僕の訊いた友人たちの証言は、ほとんどのひとの記憶から、なぜかそういった感覚はきれいに消えてしまっていて、だれもがいそがしく日常茶飯事に追われていて、もうそんな(馬鹿な)こと憶い出せないよ、という。 未来が観える ヌス・タリアンに住む12歳の少女ティアにも日常茶飯事がないわけではない。舟で遠出したアブ叔父さん家の家事に追われて、学校を休んだティアに、ライアルは訊いた「アブ叔父さんはいつ帰ってくるの?」ティアは確信をもって「今日の日没までには帰ってくる」と答えた。「どうしてわかる?」「かれがやってくるのが見えた。別の舟といっしょに」。ライアルは海を見つめたが、むろんなにも見えない。 ライアルが、予知能力のようなものではないか、と感じたティアのこのことばを、かの女は島での闘鶏の話にたとえる。二羽の闘鶏が踊りはじめ、お互いのすぐ近くまで飛んで、それ以上は見えない壁に当たって進めなくなる。どちらも攻撃しようとするが何かに引き止められたように動けない。その二羽の間を注意深く見れば、そこに壁があることがわかる。それは「煙のような黒い線」であり、何かのちからがそれを押しのけるまで、二羽のあいだに「存在」する。おんどりたちが足でお互いを蹴りはじめ、どちらかの上にその煙が流れて、煙がかかったほうの鶏が必ず負けるという。 おんどりだけでなく、犬も水牛も、そしてひともみな同じ、とティアはつづける。学校でだれかが怒るとその「煙」は教室全体を覆ってしまうが、それをすぐに放棄すれば煙ははやく消えていく。強い感情はなんでも同じよ。恐怖も愛情も憎しみも、全部煙をつくるが、それぞれ色はちがう。そして全部風のなかの煙のように、吹かれて消えていくけれど、おなじ色のものが接触すると合わさって「壁」ができる。なるほど、海の中でもイカは敵に襲われると黒い煙を吐いてバリアーをつくる。強い感情を伴った音や姿は「色のついた煙」を創造する。 「そしてアブ叔父さんの舟はそういう色を創り出すわけかい」というライアルの問いに、ティアはこのように答える「普段こんなふうに海岸を歩いているだけでは、特別な色はない。でも目的をもって旅をするひとはちがう。重要な場所に行ったり、長旅から家に帰るとき、ひとは自分のまわりにかたちを作り、そのかたちが「先行して」目的地に触れる。昨夜海を見ていて、私はアブ叔父のかたちと色が観えて、かれが帰ってくることを知った。今朝はもっとはっきりとそれが見えるけど、それといっしょに未知のものも観える。新しい人たちとしか考えられないわ。」 そしてその日の午後、アブ叔父さんの乗った舟が、島には初顔のセレベスの貿易商を乗せたもう一艘とともに水平線に現れた。ティアのいう、音に色が観える「共感覚」が、未来予知という新しい人類の感覚と延長線上で結びついたわけである。 ここにいたってティアという少女のもつ目と耳が、われわれが見えないもの、あるいは見えなくなってしまったものを、かなりはっきりと感じとることが実証された。ライアルは欧米人の癖で、この不可思議な能力をできるだけ「論理的」に解明しようと試みるが、もはや僕たちの興味はそこにはない。 イカの目が、人類とおなじほどに高性能で、それを分析する頭脳のほうはほぼ空っぽではないかと、この生物学者は分析したが、機構上人類と同程度の目であっても、それが人類の目をうんと越えた性能があることも十二分に考えられる。われわれ人間が開発した科学というものでは、いまのところ理解のしようがない、というだけのことである。 そして前稿で述べたようにそれを情報収集する機構が、イカの個体のなかにはなく、どこかにそれを集積している機構が存在しているならば、その複雑多岐な「地球というひとつの生物」の存在理由がかなり明解に浮かびあがる。 ティアという少女は、音に色がついているのを見、ひとの出す「想念」を感じて(限定的ではあるが)未来を読みとることができる。かの女の視聴覚も、イカのものと同じで、いままでの科学ではなにひとつはっきりした結論は出ないだろう。だがかの女は、水平線のかなたにいる目で見えるはずのない叔父の像を感知できたのだ。 その不思議な感覚で感じたことを、かの女がライアルやほかの人間に話すということは、さほど重要ではないように思う。かの女が「イカ的なるもの」としてキャッチした情報、あるいはイカそのものも含めて、それらは「地球の海」というひとつの生命体に蓄積される。いやそれは正確には蓄積されるのではなく、生物の脈拍のように鼓動をくり返し、そのことが、「地球の海」もしくは「地球全体」が生きていることを示しているだけなのかもしれない。ここにいたって地球の海が限りなくソラリスの海に近い存在であることが観えてくる。われわれのなかの「イカ的なるもの」はまた一歩「古風な近代科学論理」を飛び越えて、母なる地球に近づいていく。 予知力とは前もって知ることである。論理という科学をナンセンスにしてしまうような形で、結果が原因に先行することを意味する。しかしいちばん不思議なことは、物理学が未来から現在への情報伝達を禁じていないという事実だろう。実は、いつも起こっていることなのだ。(ライアル・ワトソン「未知の贈りもの」村田恵子訳 工作舍版初版 p-78) このライアルの謎のような言葉が語りはじめているのは、最先端の物理学のちからでこの現象を説明する試みである。西洋の学者という学者は、すべてを論理で説明できなければ、学会では絶対に認められないという。臨床心理学者の河合隼雄氏は、あちこちの談話のなかで、欧米の学会での厳しい論理性を強調されている。日本の学者は、英語で論理に基づいた説得をするのが苦手で、それはただの論理性の欠如だけでなく、日本語のほうがヴォキャブラリーがうんと豊富で、言語として高級で、頭のなかで機能的な英語に訳すことができないこともある、と語っておられる。日本人同士が日本語で、はなはだ論理的でない部分で同調してしまうことが、世界の舞台に立てない起因、とも言われている。 われわれが洋書のすてきな日本語訳にひかれて、その英語の原典に立ち戻って見ると、無味乾燥の言葉の連続に唖然とすることが多い。ライアル・ワトソンのこの本も英語の原著を紐とくと、論理の世界に強く引き戻される。ここは日本語の妙というより、村田恵子氏の名訳に拍手したい。 ライアルのいう新物理学の論理はこうだ。ひとつのシステムにしばらく電流を流して急に止めると、いくつかのことが生じる。電流中断に先行してふたつの前兆の波が走る。最初の信号は光速で動き、もうひとつはほとんど同じ速さだが通過する媒体の影響で少しスピードが落ちる。そして最後に、もっと遅いスピードで、問題の事件(電流の遮断)がやってくるという。また飛行中のミサイルを迎撃するシステムも未来を予測しているわけだという。 未来は先決されずに予言できる。われわれは因果律—原因が結果に先行する—ということにあまりにも慣れてしまい、当然の事実と受け取っているので、それが宇宙の事実ではないなんて、とても信じられないのだという。 もっとも興味ある理論物理学の新しい概念は、前稿(2)で、イカをめぐる空間についてのものを簡単に紹介したが、スタンフォードのふたりの物理学者の「ホログラム原理」にある。折りたたまれた秩序。ニュートンの運動の法則では、空間を移動する物体は同一のものとされているが、実は物体は新しい位置でその都度作りなおされている、という説である。キャラバンのテントが「折りたたまれて」静かにその地を去り、次の地点でまた即座に組み立てられるという。ライアルはこの一連の原理が時間にも当てはまるのではないか、と示唆している。空間の中の一点が全空間の情報をもっているように、時間の中の各瞬間がすべての時間のことを知っている。すなわち、現在は過去の産物であるだけではなく、未来の産物でもある、という。 もしこれが事実なら、重要な出来ごとは、それが起こる時空領域を乱して、各方向に動く波を作る。未来の記憶より過去の記憶のほうがはるかによくあることなので、波は多分、おもに時間の中で前進しているのだろう。しかし、事件の規模と、本人の事件との近接度によって現れる逆作用があるようだ。(中略) 時空の池の時間軸をゆっくりと一定の速度で動いている状態を思いうかべてほしい。どこか前方で事件が発生し、池に波ができる。事件に近づいていくと、波を感じて事件の情報を受けやすい状態になる。自分が進みながら作る波が、むこうからの波と途中で干渉する。両方の波が作り出す干渉パターンは、もっとゆっくり動くので、詳細に観察する時間ができる。事件を事前に知覚しはじめるが、目の前で起こっているわけではなく(あくまで干渉パターンなので)それを思い出だと決めつけてしまう。頭のなかで一度経験して、波は通過し、刺激が止まると主観的に忘れていく。 そこで波の発生地点に到達する。事件が起こる。急に思い出して、これはなつかしい感じがする、これは前に経験したことだ、と思う。事実、前に経験しているのだ。これが「デジャ・ヴュー」、すべてのひとが体験する、ときには一日に何回も起こる現象である。(p-79-80) 「デジャ・ヴュー」とは過去のことではなく、未来との邂逅ではないか、というライアルの説である。たいへん説得力があるが、僕はもっと思いきり感性的に、ティアとアブ叔父さんのあいだのテレパシーのようなものと理解することにした。われわれ文明人のあいだでは、かなり正確度の低いこの感覚も、ティアたちのように小さな島で小さな社会で自然をいっぱいに食すことで、普段見たり聴いたりすることの延長線として、十分正確に感じることのできるものだと思う。何度もくり返すことになるが、地球の海という Big Boss のもと、われわれのなかの「イカ的なるもの」が、お互いのホログラム映像を認識し合うことは、「島びとの感性」のなかでは、いとも簡単である。それは欧米の学会では発表できない、ひたすら論理的ではない一アーティストの直感にすぎないが、最新理論物理学ともまったく矛盾をもたない、と自負している。次のライアルの言葉ともまったく符合している。 空間的距離を渡って伝達される高周波電磁信号を探知できる人たちのもっている超感受性は、多分時間的距離を隔ててくる情報に対しても役立つ、と私は思う。 色でものを聞くひとのほうが未来を見通せるのだろう。しかし、われわれひとりひとりが時空ホログラムの破片であることを忘れてはならない。必要な装置の使用許可をもっているわれわれはそれを使いこなすこともおぼえられるだろう。(p-81) まだ紹介していない「ヌス・タリアン」での奇蹟といっていい出来ごとがいまひとつだけ残っています。次稿ももう一度だけ、巫女として成熟していくティアと老巫女イブ・スーリ、そしてわれわれすべてを司る地球の海と、島のお話をつづけます。 惑星ソラリスの海に泳ぐイカ(4)につづく 金魚のFun & Fun: 北大西洋のアフリカ大陸の西に位置するカーボベルデ諸島出身の老巫女のような風貌の歌手、セザリア・エヴォラ Cesaria Evora の歌声には、この荒んだ大都会の空気に息切れそうになったとき、何度となく救われた記憶があります。 ティアの住む、太平洋の「ヌス・タリアン」とはまったく地球の裏にあたりますが、島から遠い水平線のかなたにある次の島、その次の島、とたどって、地球にあるすべての島の音が色づいています。ハーモニカ奏者の長いソロのあいだ、セザリアの涙ぐんでいるような素振りがあり、この曲を選んでみました。せっかくのYouTube ですが、時おりは目を瞑ってみて、音がどんな色に色づいているか、感じてみてください。僕はこのひとの曲を聴くと、地球上のたくさんの島に共通した、海と交わるパープルかかった夕陽の色がいつも浮かび、定着し、はたまた色は揺れ動き、それからおもむろに観えてくるのです。 http://www.youtube.com/watch?v=-s5DmYV62ZU
by nyckingyo
| 2010-01-27 07:06
| ソラリスの海に泳ぐイカ
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