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たくさんのいのちが ほかのだれかによって奪われ あとに残された者たちは ひたすら 鎮魂の祈りをくり返すのみ それ以上 なにもできないこの地上の領域で 空を眺める 水を眺める 空には二條の光 水にはたくさんの灯籠 そこには ひたすら彼岸に通じる 道のようなものを感じることはできるのだが 時間の節目などあるはずもない 生き残った者たちの 10年が経ったという安堵感のようなものだけが そこを支配し 次の舞台装置の準備に励む 殺されたとされる ひどく寡黙な男という印象の 犯人像の風化は まったく新しいものを生み出さないまま 深く潜行する かれの写真の大きな口もとが動き出し 一瞬 新しい真実のかけらがつぶやかれるようにも思えるのだが やがては そこでなにが起こったか さらに おおぜいのひとがなにゆえに亡くなったかさえも 風化していく 二條の光は次の11年目の記念日のために消され 灯籠たちも彼岸にまでたどりつくまえに回収され 一年後にまたその水辺に浮かぶ 神聖なセレモニーは 年とともに ひととともに すこしづつ汚染され 生きている者の祈りだけが すこしづつそれを 浄化のほうへと押し戻す ただ その繰り返し ハドソンにたゆたう波 かってエイブラハム・リンカーンは、ゲテルスバーグの静まり返った戦場でこう言った。 「しかし深く考えてみれば、捧げることなどできないのです — 清めることも — 神聖なものにすることもできません。この戦場は、勇敢な兵士たち、生きている者も死んでいる者も含め、ここで戦った人々がすでに神聖なものにしてしまったからです。微力なわれわれに、いったいそれ以上なにができるというのでしょう。」 この言葉に対して、カート・ヴォネガットはこのように反応した。 まさに一編の詩だ!当時は戦いの恐怖と悲しみをここまで美化することができた。戦争のことを思うとき、アメリカ人は誇りと威厳と言う幻想を抱くことができた。またその他いろんな幻想も抱いていた。どんな幻想か、あえて言葉にするのはやめておこう。言わぬが花、というやつだ。(カート・ヴォネガット「国のない男」NHK出版 p-81) 金魚のFun & Fun 9-11当日のアメリカのTVは、例によって追悼式一色。朝からオバマとブッシュが分厚い幾重もの防弾ガラスの先から新しくできたWTCのモニュメントを見つめていました。まさにさまざまな想いが渦巻き、なにかを発言しようとしても口のまわりが急に重くなる感覚。「今日だけはそっとしておいて」と書かれた遺族のプラカードの文字が目に入り、アメリカ人全員による無言の言語統制のようなものが働いているようにも感じました。午後からはオバマは飛行機でペンタゴンに動き、「われわれは決してイスラムや他の宗教を攻撃することはない」と宣言。イスラムに攻撃されたとされる旅客機の胴体など通るはずもない小さな穴は、いまや完全に閉じ修復されています。ペンシルヴェニアの航空機墜落現場、最初から残骸すらも見当たらなかったなにもない空間での虚空に向けたミシェル夫人のスピーチ。大きな疑問符は膨れ上がるばかりです。 夜、中垣師主催のハドソンでの灯籠流しがはじまったちょうどその時刻には、ことしも恒例の涙雨が降ってきました。年とともに霊と雨には強い因果関係があると信じるようになってきました。 同時多発テロによるここアメリカでの犠牲者だけでなく、ブッシュ政権によるその後の戦争、その持続によってアフガニスタン・イラク・パキスタンの一般市民の膨大な犠牲者たちの霊が、毎年この地を訪ねて、アメリカに恨みつらみを語りかけているような雨です。思えばあの日以来、この国の大統領の言動にことごとく納得できず反撥し、戦争をやめさせることに声をからしている仲間たちも、この日の式典の瞬間にはアメリカ人の犠牲者のことだけで頭がいっぱいのように見えました。 そんなときやっとぼんやり、上の詩を書きはじめたわけです。 たとえ同時多発テロが一方的にイスラム過激派の起こしたこととしても、そのあとの十年間でアメリカがあれほど狂信的に攻撃的にならなければ、世界は現代のようにひどくはならなかったのではないかと。日本の米国追従政府も核兵器に転用できる原発の開発に慎重になっていたのではないかと。地震のあとのフクシマのかたちも変わっていたのではないかと。 イラク戦争のさなか、ブッシュ政権時代のカート・ヴォネガットが、上の引用の直前につぶやいていた言葉をもう一度引用することにします。 かっては、わたしもずいぶん無邪気だった。われわれのアメリカは人間的で理性的な国になる、そうわれわれの世代の多くが夢見ていた。われわれは、大不況のときもそんなアメリカを夢見ていた。仕事もないというのに、そんな夢を見ていた。その後、第二次大戦のときも、そんな夢を見ながら戦って、多くが死んだ。平和もないというのにそんな夢を見ていた。 しかしいまわたしにはわかっている。アメリカが人間的で理性的になる可能性はまったくない。なぜなら、権力がわれわれを堕落させているからだ。絶対的な権力が絶対的にわれわれを堕落させているからだ。人間というのは、権力という酒で狂ってしまったチンパンジーなのだ。われわれの指導者は権力に酔ったチンパンジーだ、などと言うと、中東で戦い死んでゆくアメリカの兵士たちの士気をくじくことにならないかって? 彼らの士気は、死体と同じで、すでに見るも無惨な状態にある。わたしの時代とは違って、いまの兵士たちは、金持ちの子供がクリスマスにもらうおもちゃみたいに扱われているのだから。(カート・ヴォネガット「国のない男」NHK出版 p-79) それまでしてきたことの因果応報とはいえ、世界中から嫌われてしまったアメリカに住む身としては、毎年この日複雑な心境におそわれます。 ヴォネガット流のアメリカン・ジョークでぶっ飛ばしておしまい。 戦争に突入と言えば、ジョージ・W・ブッシュがなぜあれほどアラブを嫌っているかについてのわたしなりの解釈を。おそらくアラブ人が代数を発明したからだ。それからわれわれの使っている数字を発明したからだ。それには無を表す数字も含まれているが、このゼロという数字はそれまでヨーロッパには存在しなかった。アラブ人はばかだって? アラビア数字を発明したのは彼らだ。一度、ローマ数字で長々しい筆算の割り算をやってみるがいい。(同書 p-85)
by nyckingyo
| 2011-09-12 06:08
| 多層金魚の戦争夢
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