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実にひらめきかゞやいてその生物は堕ちて来ます。 まことにこれらの天人たちの 水素よりもっと透明な 悲しみの叫びをいつかどこかで あなたは聞きはしませんでしたか。 まっすぐに天を刺す氷の鎗(やり)の その叫びをあなたはきっと聞いたでせう。 けれども堕ちるひとのことや 又溺れながらその苦い鹹水(かんすい)を 一心に呑みほさうとするひとたちの はなしを聞いても今のあなたには たゞある愚かな人たちのあはれなはなし 或は少しめづらしいことにだけ聞くでせう。 けれどもたゞさう考へたのと ほんたうにその水を噛むときとは まるっきりまるっきりちがひます。 それは全く熱いくらゐまで冷たく 味のないくらゐまで苦く 青黒さがすきとほるまでかなしいのです。 そこに堕ちた人たちはみな叫びます わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか 堕ちたといふことがあるのかと。 全くさうです、誰がはじめから信じませう。 それでもたうたう信ずるのです。 そして一さうかなしくなるのです。 こんなことを今あなたに云ったのは あなたが堕ちないためにでなく 堕ちるために又泳ぎ切るためにです。 誰でもみんな見るのですし また いちばん強い人たちは願ひによって堕ち 次いで人人と一諸に飛騰しますから。 一九二二、五、二一、 宮沢賢治 過去のNY金魚で宮沢賢治の作品を取り上げたのは「陰陽」の限りない非対称 (1) でビヂテリアン大祭、「陰陽」の限りない非対称 (2) で氷河鼠の毛皮があります。 金魚のFun & Fun: 津波被害者へのレクイエムともとれる、すばらしいメッセージのあとで、金魚がでてきてなにを言っても蛇足だということはわかっています。自分も津波に関してなにかを書こうとしただけで、ほとんど息が詰まりそうになり、やっと賢治さんの詩のなかに同じような感情(などということもひどく口はばったいのですが)を見つけ、この機に皆さまにもお読みいただかなくては、と思い立ちました。 海外放送でNHK「宮沢賢治の音楽会」を観て、かれが手がけたいくつかの曲を聞くことができました。番組のなかで松本隆氏がおっしゃっているように「賢治の言葉はそのまま音楽です」ということもとてもよくわかります。 賢治さんが生まれるたった2ヵ月前の1896年、明治の三陸大津波があり、かれが亡くなる前年1933年には、やはり昭和の三陸大津波があったそうです。どちらも津波の高さ30m前後といいますから、すざましい被害だったようです。津波などの地質学者の話では、明治三陸大津波で運ばれた大量の土砂、そして昭和の大津波で運ばれたやはり大量の土砂。そのあいだの、今では数ミリしかない黒い堆積物が、賢治さんの生きた37年ということになります。 かれの歩んだ短い人生だけでなく、すべての人間の営みが、津波と津波のあいだ、天の意志に挟まれた限られた時間帯であるような儚さを感じます。三陸に関していえば、高い津波は決して想定外などではなかった。想定できなかったことも、想定することさえも、天に対する冒涜のような気がしてきます。 賢治さんが上の詩を書いたのは1922年ですから、いわば三陸津波の空白期で、水に飲まれて死ぬということをどこかで客観的に表現しているようにも感じます。それゆえに、昨年の大津波を情報だけで体験した者にとっては、不思議に昇華された死と、彼岸の世界というものが、かえって真に迫ってくるのかもしれません。 今週はNYでも3-11の被災者のために数々のイヴェントがあり、大忙しです。世界中が3-11に対して大きな意識を持ちはじめています。そのことを日本人のひとりとして、はたして感激してしまってよいのでしょうか。 ● 3月5日。国連総会ホールでの鬼太鼓座コンサート。超大太鼓5帳によるオープニングは、まさに「津波が国連に押し寄せた」ようでした。海が押し寄せる、暴れる、人を、家を、クルマを、ヒコーキを飲み込む。人が叫ぶ、悲しむ、泣く、祈る。国連総会議場ですから、終止ギラギラの照明で、闇の世界がまったく描かれなかったのが多少残念でした。 もう一歩進めて、彼岸とは闇の世界ではなく、太陽光が煌煌と輝いている世界だとしたら、これ以上うってつけの公演会場はなかったようにも思えます。曲がりなりにも人類を代表した場所で、人口光ではあるにしろ、めいっぱいの光のなか、彼岸と此岸の存在が寄り集まって太鼓の音を聴いている。結構なことではありませぬか。総会議場の広い通路では、コンサートのあいだ中、数人の子どもたちが太鼓に合わせて踊り狂っていましたよ。賢治さんの別の歌、花巻農学校精神歌はこう歌っています。「日ハ君臨シ カガヤキノ 太陽系ハ マヒルナリ ケハシキタビノ ナカニシテ ワレラヒカリノ ミチヲフム。」 そしてその太鼓の音から、津波のあとも、それでも海と人は共存して生きるのだ、というメッセージは大きく伝わってきました。一年後のいま、沿岸の人はより深く海との関係を考え、より深く保ちつづける努力をしています。海なしで人は生きていけない。ソラリスの海に泳ぐイカという長いシリーズをまだ書き続けていますが、この地球星の海も、われわれの想念をかなえるひとつの巨大生物のような気がしています。そして思いを「惑星ソラリス」にもどせば、当然のことながら、海はわれわれの想念に反する大きなことも引き受けるわけです。われわれはただのイカの大群なのかもしれませんね。 世界の人々の魂に響く津波のイメージは、やはりアートや音楽の世界でしかないと強く再確認しました。全員がスタンディング・オベイション。次なる時代を東北に、ヴィヴァ鬼太鼓座! ● 3月6日。マーキン・ホールにて、黛まどか講演+パネル・ディスカッション。かの女は、俳句がことばを引き算していくことから出来上がるように「足し算の欲望経済社会からの脱却を」と訴えます。世界はグローバリズムの足し算の発想だけでモノが溢れかえり、まさに崩壊寸前です。東日本大震災は方向転換の大きな啓示であると。当方ブログでいつも書いている内容と相似形でいちいち納得しました。かの女の友人は「最近は熊野の山深い里にいてもきれいな星空を見れなくなった」と嘆いたといいます。世界は夜空の星も見えないほどに明るくなりすぎた、と。星々のために暗くする贅沢も必要なのではないかと。俳句的引き算の発想です。9-11や大震災からの啓示を厳粛に受けとめ、本気で未来を変えなければ、というかの女の意見に全面的に賛同します。そういえばこころの恩師、抽象彫刻の故堀内正和先生も、昔「引き算の彫刻」を「熱っぽく」話されていました。ここでも改革はやはりアートの世界から、という認識を深めました。 コロンビア大学関連の知日派アメリカ人のパネル・ディスカッションのほうも秀逸でした。キーン先生がいらっしゃらないのが残念。西海岸で面識があったゲーリー・スナイダーが、日本語の詩をアメリカ英語に置き換える世界一のタレント、と絶賛した佐藤紘彰氏は、やはり宮沢賢治の和風は河谷いっぱいに吹くという詩を美しい英語に訳して朗読されました。 原発事故の話が極力抑えられていたのは、主催者側の箝口令があったのでしょうか(?)まどかさんは果敢に「原発」という言葉を「足し算」しつづけ、はっきりと意見を述べておられたのが印象的でした。ファンになりました。作曲家の千住明さんと創られた新作合唱曲「そして春〜福島から世界へ」のワールド・プレミアを、ぼくのNYの友人たちを含むコーラスが歌いました。「つくろうこの手で、再びのふるさとを、まぼろばの福島を。」被災者たちが故郷福島に帰る日まで、まだ時間がかかるかもしれません。が、われわれ福島人でない者も含めて、心の中の連帯が新しい「ふるさと」をうみ出すという確信を得ました。 歌を口遊むと、眼裏にふるさとの四季が甦り、離散している人々の心が一つになるような歌にしたいと思いました — 黛まどか。 ● 3月10日。アメリカでも原発反対の意識はとても高まっていて「ノーモア福島」ピースウォークが3月2日からはじまっています。NJのオイスタークリーク原発を出発、11日NYのインディアン・ポイント原発を経由し、21日バーモント・ヤンキー原発をめざして、行進がつづいています。11日だけでもインディアン・ポイント原発まで参加するつもりでしたが、少しめげて日本の「1000万人アクション」と連動した、ダウンタウン—セントラルパークのウォークになりそうです。 「脱原発」の意識は、当然のことながら現に放射能と対峙している日本の方が高く、その意味でこれからは日本人が世界を先導していくわけです。いまこんなことをいうと、反原発派の方々から本気で怒られそうですが、紆余曲折はこれからもあるにしろ、日本国内のほとんどの原発が停まり、4月にはすべてが停止するということは、日本人の意識のひとつの勝利だと思っています。アメリカでは現実にたくさんの原発が稼動しつづけています。日本の皆さまの声を海の向こうから真摯に聴いて、半日遅れの記念日に備えたいと思います。 ● 3月10日、東部時間6:00pm、日本時間3月11日8:00am、から日本のNY領事館などが指揮をとった追悼式典がありました。かたちだけは整っていましたが、誠意やまごころといったものがどこにも感じられないひどい演出でした。ヴィデオ・メッセージに登場した被災者の子どもたちや、救助をされた医師たち、スタッフの方々には心からの敬意を表します。が、イヴェント全体の進行を見るかぎり、主催者がなにを考えているかそのうしろの姿が見えてくるのです。参加された方はなにを言っているのか、おわかりいただけると思います。ひどい失望感だけが胸を覆って会場をでました。日本の官僚組織とその命令系統がいかに形式的で、そのまま腐敗してしまっているか、この目で確かめたことが収穫だったといえます。会場のウエストサイドのチャーチには信じられない数の日本人、日系人が詰めかけ、立ち見でぎゅうぎゅう詰めのなかで見るはめになりましたが、そのことは皆の意識の高さから来たことで感動しました。観客全員には強い連帯感を感じます。 帰宅して、深夜のNHK海外放送で、今度は日本国の主催する追悼式典を観ましたが、規模と質のちがいはあれ、根底におなじような嫌な感じがありました。追悼式典ですから保守的になるのは仕方がありません。ただその式典を進行する人間関係に、被害者を尊ぶ思考があるのか、そういったことは暗黙のうちに伝わってくるのです。政府、官僚、そしてその意志を伝えるだけのマスコミの腐敗したあり方を、今後、誠意と良心と思いやりにあふれるものに変えていくのは、震災と放射能災害によって気がついた国民全員の意識からしかありません。 式典では唯一、天皇陛下のお言葉だけが、原発事故と放射能禍に言及され、今後の「困難な状況」に立ち向かう意志を明快にされましたが、夜のマスコミ各社のニュースでは、この重要な部分のお言葉を完全に割愛したそうです。いま日本の天皇が、放射能禍の苦悩を世界に向けて表現され、今後それによる被害者をひとりでも少なくするために努力するというメッセージを、どうしてカットするのでしょうか。津波による被害者の霊を弔うことは、生き残った人間が、これ以上の悲惨な被害者を出さない、と誓うことではないのでしょうか。今後、逝かれた御霊に恥じない、全員のこころがあちら側に直接伝わるような強く団結した意志を期待しています。 ● 3月11日、アメリカはこの日から夏時間になり、毎年時間泥棒に一時間をとられたような錯覚に陥ります。(むろん秋にはその一時間はちゃんと返ってくるのですが。)案の定、午後までその夏時間に気づかず、インディアン・ポイント原発までのピースウォークはむろんのこと、ユニオン・スクエアのでの脱原発デモにまで大遅刻して参加できませんでした。参加した友人の話だとフライングダッチマンの反原発ソングヒューマン・エラーをみんなで歌っていたということです。行きたかったなぁ。 午後二時半からのワシントン・スクエア近くのチャーチでの追悼祈念会には間にあいました。ここでは中垣顕實師が中心になって集まった、世界の宗教のメモリアル・ギャザーリングがありました。ユダヤ教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、カソリック、仏教、イスラム教、ジャイナ教、バハイ(ペルシャが起源の統合宗教)、プロテスタント、そして神道、各宗教の導師たちが一同に会するのは、いつも圧巻です。会場の全員がおたがいの手をつなぎ、大きな輪を描いて被災者の霊と対峙する演出は秀逸でした。なかでも最後の方で浄土真宗の中垣顕實師が読経し、みなで祈念した短い時間は、津波の被害者たちと直接ふれあえた貴重な時間としていまでも胸のなかに強く残っています。中垣さん、ありがとう。思えば宮沢賢治は敬虔な浄土真宗教徒でしたから、かれの霊も被災者の霊とともに近づいていたにちがいありません。いずれの宗教の教徒でもありませんが、宗教が媒介する超精神世界は存在する、と信じていないとつじつまが合わないことが多すぎます。 どうぞやすらかにおやすみください。こころから。 今回はなぜか、賢治さんとおなじ時代を歩んだ者の感情になりきって、文をしたためてゐます。ますますなりきって、上の詩に適当なメロディーをつけて口ずさんでゐたら、あちらから賢治さんがじっと観つめておられるのに気がつきました。かれがもし上の詩にメロディーをつけていたら、生き残ったわれわれに語りかけられたと思える最後の節を、リフレインさせて歌うのではないかという気がします。そのパラグラフをもういちどくりかえして、この偉大な先人の鎮魂歌を結びたいと思います。 あなたが堕ちないためにでなく 堕ちるために又泳ぎ切るためにです。 誰でもみんな見るのですし また いちばん強い人たちは願ひによって堕ち 次いで人人と一諸に飛騰しますから。
by nyckingyo
| 2012-03-08 07:43
| ことばと音をコラージュする
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