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1月からMoMAで、ジェームス・ローゼンクイストの巨大代表作 F-111が展示されているのだが、何度訪れてもどこにあるかわからない。場所を尋ねてやっと出会った作品は、ぼくの盲点である4階の窓際正面の細い入り口からチラリと覗いていて、小さな正方形の部屋の壁4面を内側から巻き込むように鎮座ましましていた。 1965年、この作品が最初に展示されたSOHOのレオ・キャステリ・ギャラリーの雰囲気を再現しているつもりだろうが、今回は入れ物全体が巨大美術館なので、作品の大きさを測る感覚がまるでちがう。これではこのジャイアント・ビルボード作家の代表的超巨大作品のイメージはまったくなく、つまらない小規模な作品4点が並んでいるとしか認識できない。あきらかに展示ミスではないだろうか。 MoMA NYの代名詞であったモネの大睡蓮も、一部屋に一作品だけの展示だが、天井の低い小部屋に押し込められた印象があり、かって旧館での、睡蓮の強い香りが漂うような華麗な展示とはほど遠い。旧館のモネはさほど大きな部屋ではなかったが、壁面にピッタリつけないで、かなりの曲面壁に、部屋に対して斜めに、宙空に吊られていたと記憶する。空間の大きさだけが問題なのではない。モネの故郷パリにあるOrangerie Museumには大きく負けてしまっているが、大きなホリゾンタル・イメージの作品を曲面壁に貼るアイディアは、MoMAがはじめたのではないか。以前のその空間には、絵を観つめつづけているだけで天国の睡蓮池のそばにたたずんでいる風情があった。改装後のMoMAでは、もはやその天国は片鱗すら見あたらない。 大観客をかかえた高層ビル内の展示スペースでの詰め込みは仕方がない、と建築家の友人はいうが、すべての作品が、入れ物と展示する側のイメージの小ささによって去勢されている印象がある。数年前の大拡張の際の日本人建築家によるインテリアのひどい改悪のあと、アート作品と観客のあいだにいつも摩擦と軋轢が多く、落ちついて作品を鑑賞できない。数年後に建築開始予定の巨大MoMA Towerに期待するしかないが、建築家やキュレーターがおなじ発想で作品を詰め込めば、アートが発するオーラは極端に萎縮する。 この巨大美術館の巨大展示室にもおさまりきらなかったローゼンクイストの巨大作品は、かっての巨大アメリカの象徴であったわけだが、いまやMoMAの小仕切り室に鎮座していることが、さまざまな意味で現代のアメリカを象徴しているように感じる。この巨大作品の萎縮した展示をパースペクティヴに見せようとコラージュをしはじめたら、上のタイトル写真のように、まるで福島の原発建屋が爆発したような図になった。もちろん途中から意識しはじめた結果ではある。ついでに爆発した建屋の写真まで入れたら、これから何を言うべきかが実にはっきりしてきた。 思いおこせば、福島第一原発の原子炉はすべて、アメリカGEで設計されたものを基本としている。もともと太陽神のエネルギーを地上に復元するという実にアメリカ人的な発想は、火力発電と同じタービンを回すという部分で現世プラグマティズムの洗礼を受けて挫折した。(尤もプラグマティストの原発開発者は、まったく挫折などとは感じてはいない。)原爆を開発した晩年のオッペンハイマーがほとんど神経症になりながら、クリシュナ神と人類全員に懺悔した原子の火。アメリカ政府はその核に「平和利用」という新たなお墨付きをつけたことで、人類となかよく歩みはじめた印象を植えつけた。その言葉はもちろん、まったく「平和」など微塵も感じさせない、核技術の習得と、核兵器に転用ができるというオモテ=オモテの意味を内包していた。 日本政府は、世界唯一の核被爆国というかって味わった恐怖を、国民に対してあらん限りに覆い隠し、その巨大な超危険建造物をアメリカのいうままに建てた。被爆国という意識の隠蔽は、その危険性そのものの隠蔽となり、フワフワ、ペラペラ、グニャグニャと軽佻浮薄な意識のままで核をいじりつづけてしまった。いっぱしの核保有国になったつもりで、自分たちの開発した原発を、事故後のいまも発展途上国に売りつけている。原発事故という未曾有の人災の責任を、世界に対してもまったく感じていないことのあらわれである。まことに不思議というしかない物語は、まだ続行している。 今回はあの文字どおりペラペラの意匠のまま天井が吹っ飛んだ福島の原子炉建屋と、ペラペラのアメリカ物質文明を風刺することからはじまったポップ・アートを、象徴的に並列させ、われわれがいかに貧困なイマジネーションの世界に住んでいたかを検証する。 昭和19年、岡本天明は成田の神社境内で、神の啓示から自動筆記された「日月神示」を記す。その後日本の立て替えが二度あると示されている。日本は太平洋戦争に負けても再び勢力を盛り返すが、結局また同じことを繰り返す。そして破壊の程度は二度目の方がはるかに深刻なものになるという。 同じこと二度繰り返す仕組みざぞ。 このことよく腹に入れておいてくだされよ。出てきてからまた同じようなこと繰り返すぞ。今度は魂抜けているからグニャグニャぞ。グニャグニャ細工しか出来んぞ。それに迷うでないぞ。いま一度、悪栄えることあるぞ。心して取り違いないように致されよ。神の国、一度負けたようになって、しまいには勝ち、また負けたようになって勝つのざぞ。(日月神示) おっと、日本での巨大な原発事故のことを書き出すと、金魚の神経は尋常でなくなり、結論を急ぐあまり、記憶のなかの呪術的預言をつぶやいてしまった。この預言は太平洋戦争末期になされたものだが、将来その神の国は、二度目の完璧な敗北のあと「負けたことによって勝利する」と書かれている。このことばからどのような意味を想像できるのか。いずれにせよ現在の、魂の抜けたグニャグニャ原子炉建屋=日本の様相からはおよびもつかない。 いましばらくローゼンクイストの巨大ポップアート、MoMAでの F-111の展示はあまりにもひどいという話にもどる。思えば若き日の金魚も、クリストやロバート・スミッソンなど、実に巨大なアメリカの、巨大なアース・アートに引き寄せられてこの大陸に上陸したわけだ。 絵の大きさに関するローゼンクイスト自身の言葉を抜粋すれば — 「つまり、絵の近くにいると全体が見えないでしょう。でも遠ざかって見ると、そこに構成があることが分かる。近づけば色彩の場を強く感じることになるし、遠くから見れば『うむ、こいつは絵だ!』ということになる。だからふたつのことがあるんだ」(「美術手帖 89年2月号 Artist's Talk インタビューアー:篠田達美) 「1960年、私は表面を押し流してしまうような空間、実際の大きさよりもずっと大きな空間を、絵の中に持たせたかった。私は私自身をリアリストだとは思っていなかったが、それというのも私はただ、それがモノであるからという理由でモノに焦点を当てて描いていたにすぎなかったからだ。それは昔日の巨匠の絵画のなかの大きなアラベスク模様と同じくモノの一部なのであり、強調形なのである。そして強調のあるところはまた、感動が、色彩が、そのほか何であれ存在するところでもあるのだ」(「ニューヨーク・アーティスト50人」リチャード・マーシャル 同朋舎出版) ここで、このポップ・アーティストが語っていることは、「大きいもの」に関するアメリカ人の心情のステロタイプのようにもとれる。「実際の大きさよりもずっと大きな空間」を、描きたい。「強調」を最大限に拡げたい。アーティストなら必ず追いかける巨大なモノに対するアメリカン・ドリームは、アーティスト以外のアメリカ人も当然のように持っているはずだ。 ヒロシマ・ナガサキという大都会を一瞬にして崩壊させた超巨大な悪魔のエネルギー。その巨大な原子の力を使って、巨大な電力源にしたい。そして1951年、アイダホ州に人類初の原子力発電所で高速増殖炉でもあった EVR-I が完成した。奇しくも超巨大兵器である水爆が誕生した年でもある。もっと皮肉なことに、この原発で最初に発電された電力は、200Wの電球4個を点灯させるという「巨大」なものであったという。むろんこの頃からすでに原子の力は想像を絶するほどに危険であったのだが、その巨大な力でタービンを回すこと自体も偉大なのである、という錯覚のもとに開発がはじまった。水車小屋でも石炭でも同じタービンを回すことができるが、そんなことはどうでもいい。兵器であった原子力を平和裏に使うことがアメリカン・ドリームなのだ、と。 このような頑迷で誇大妄想的なアメリカ人の思考のなかに大きな空洞がある。大きなモノを求め、それを「強調」しつづければ、その周りに、あるいはその中心にドーナツのように空洞が生まれる。ローゼンクイストの言葉にあるように、実際の大きさよりもずっと大きな空間を絵の中に持たせようと思えば、実際の空間を強調させ、その絵の大きさ故の、精神の空洞のような空間がどこかに生まれてしまうのだ。 渡米してすぐ、300ドルではじめて買った60年代のポンコツ・ダッジは、ボンネットを開けるたびに巨大なエンジンの周りに巨大な虚空間が異様にガラガラと開いていた。その大量のガソリンを飽食して真っ黒に汚れた虚空間を見つめていると、アメリカ人の実に大ざっぱなプラグマティズムを象徴しているように思えた。そのアメ車でLAまで行き、走りはじめると、車検もスモッグ・チェックもなかった当時のカリフォルニアで、いるわいるわ、ポンコツ車のオンパレードである。エンジンがむき出しのモノ、路上で停まっているモノはザラで、異様な個人装飾を施したヤツ、自己顕示欲のかたまりのようなクルマたちで、フリーウエイはまるで奇車/変車のポップ・サーカスのようだった。 しかしながら、そういった自由な発想を自由にこねくり回すことができる文明が、デンキを創り、クルマを創り、ヒコーキを、TVを、原子力を、コンピューターを創りだした。そのなかにある空洞は空洞のまま放り出して、アメリカは文字通り世界一の巨大国となった。物質文明と罵られても、そのカウンター・カルチャーであるポップ・アートですら、おそろしく物質的なシロモノに観えてしまう。付け加えておくが、ここで物質文明の批判、風刺として登場したポップ・アートを貶しているわけではない。ローゼンクイストの F-111 は、巨大に馬鹿げていたヴェトナム戦争の巨大で痛烈な風刺である。ただその批判勢力自体が、いまやタイトルのヴィジュアルに掲げたように、中空が大きく空洞化してディスプレイされてしまっているのだ。 デンキを模し、クルマを模し、ヒコーキを、TVを、原子力を、コンピューターを模した他の国々は、その空洞というシロモノをも模さねばならぬことになる。グローバリズム経済とはそういうことである。特に日本はアメリカの指示通りにしか動けない萎縮した国家となってしまったから、そういった負の空洞の輸入超過現象が起こる。津波による原発事故はそういった負の空洞の一例にすぎない。あまりにも大きな一例ではある。しかしながら、危険な原発事故は地震や津波などなくてもさまざまな要因ですぐに勃発する。昨年一年でも米政府が発表しなかった数件の危機が、アメリカ国内の原発で起きている。対米テロを本気で考えている集団には、原発は格好の標的である。9-11の直後から、当然のように市民のあいだでささやかれていたこの問題は、いまや「空洞」として表面化している。オキュパイの運動と連動して、各地で脱原発のための真剣な市民運動がはじまっている。 巨大になりすぎた現代のアメリカという国家は、気づいてみればそういった空洞があちこちに開いてしまった、まるで1ダースの巨大ドーナツをほおばっているような国家ということができる。おまけに「経済の空洞化」現象というモノまで抱え込み、にっちもさっちもいかなくなった。精神の空洞化は本来人間が持っていたクリエイティヴな思考を麻痺させ、生殖力を削ぎ、去勢された状態にかぎりなく近づく。 村上春樹のショート・ショート「ドーナツ化」では、一度ドーナツ化してしまった人間はもとに戻らないので、そのドーナツ化した恋人と別れることになる。恋人は「あなたはまだわからないの?」と言った。「私たち人間存在の中心は『無』なのよ。何もない、ゼロなのよ。どうしてあなたはその空白をしっかり見据えようとしないの? どうして周辺部分ばかりに目がいくの?」という台詞を吐く。そして主人公の周辺の人間が次々ドーナツ化するという超短編。 2年前のホイットニー・ビエンナーレに日本人として初参加したアーティスト、アキ・ササモト(笹本晃)も、現代トーキョーの狭い個人空間を実に巧みに象徴させた作品のなかで、ドーナツのパフォーマンスをした。小さな部屋に吊るされたさまざまな小物を避けながら、大きなアメリカの観客たちが楽しげに、あるいは少し神経質に通過する。入り乱れた狭い空間が、トーキョーまたはマンハッタンに住む不安、恐怖感と同調する。ユーモアたっぷりの流暢な英語で、世界のドーナツ化現象を講義する。ぼくの隣の床に座り込んだアメリカ人男性は、かの女に「ドーナツの内側の穴から食べてください」と言われて考え込んでしまった。それでも舌を出し、歯をむき出して空洞から食べようと試みる男性に、尊敬の念すら抱いたのを思い出した。 日本人はアメリカ人個人を比喩の対象にして、その大ざっぱさ、不器用さを笑う。が、太平洋の彼岸から逆に日本列島を見渡せば、アメリカナイズして「空洞化現象」だけがすっかり身についてしまい、大ざっぱさなところが少ないだけに、よけいにペラペラのモノ文明が目につくようになっている。アメリカ人からすれば、日本は一口で喰える小さなドーナツ化が進んだ社会ということになるのか。大きくても小さくても、人間が作り出した「空洞化」は歴然と存在し、人を去勢する方向に追い込む。 最後に少しポジティヴな巨大アメリカの話で終わることにする。ニューヨークで毎年春になるとページを開く一冊の本がある。フランス文学界の英才フィリップ・ソレルスは、古い歴史に刻み込まれたパリを脱出し、たびたびアメリカに滞在した。「ニューヨークの啓示」に書かれたグリニッチ・ヴィレッジの街角には、確かにかれの言うような「開かれた、とても高い空」がある。「鮮烈かつ強烈な太陽、大洋、大洋の大気、目覚めさせる光、はっきりそれとわかる波長の長さ」。超高層ビルの少ない古風なアパート群の街ヴィレッジは、それらに切り取られる天空の面積も少ない。この本の表紙にはエンパイア・ステイトが使われているが、際立った超高層ビルの周辺にもそのビルの大きさゆえに生じるそれよりまだ大きい天空感がある。 ソレルスはさらにつづける、「ぼくにとって、フランスとパリは、むしろ停滞であり流謫だ」。かれがこの本の中で語っているのは旧大陸ヨーロッパとの比較であり、その古いイメージをニューヨークで語るだけで、言葉はほとんどすべて新しく生まれ変わる。当時すでに40歳を越えていたソレルス自身もヴィレッジに居ることでうんと若返り、軽快に、ときに辛辣に、そしてかれ特有のポジティヴなパッションをぶちまけて、語りながら青春を謳歌しているごとくである。 もちろんこれは1978年の対話であるが、かれがニューヨークについて言いたかったことは21世紀の今でも変わっていないだろう。この本はそのまま巨大な新大陸の若さということであり、そしてそれはすなわち季節に例えれば春ということになる。 4年前のこのブログ記事では、この本に書かれたアメリカについて、なんの屈託もなく春を謳歌する姿勢だった。若き黒人大統領オバマの誕生のまえであり、リーマン・ショックさえまだという時期で、アメリカは新しい希望に溢れていた。それから4年が経ち、その大統領はいまや、原発推進を語りつづける老獪な政治家に成り果てた感がある。アメリカ自身がかかえる空洞に国民全員が気づきはじめた。フツーの国になりきれないまま、この巨大な国は一体どこに行くのか、という不安が渦巻いているのを痛烈に感じる。 それでも、4年前と同じ感覚で春になるとぼくも頻繁にヴィレッジに出かけ「開かれた高い空」を呼吸することで若さを取り戻す。そこには、どういうわけか現代の日本にはまったく見当たらない底抜けの開放感があり、それは個人の精神に巣食う数々の「空洞」を包括し、消滅させる大きな空間となって存在している。 そして、高騰化しているガソリンの排気ガスを吸い込むことはあっても、運よくまだ放射能レベルの低い空気をめいっぱい呼吸できることを幸せに思う。同時にそういった空洞化の少ない、あたりまえの世界が、どんなに大切なことなのかを痛感する。日本のみんなにこの少しは当たり前に近い、ポジティヴな空気を吸ってほしい、とこころから思う。 それでもアメリカ中の原発は、いまだにモクモク、ガンガンとデンキを作りまくり、そこに住むわれわれの精神の空洞は決して埋められていない。世界中の原発を廃炉にしなくてはならない。世界中の核兵器を全廃しなくてはならない。そんな馬鹿馬鹿しい危険とともに生きるドーナツ化人生にバイバイをしなくてはならない。ふだん部屋のなかで考えていると、実現が不可能のようなことがらが、ここヴィレッジを歩いていると、そこにある青空に手を伸ばせば、簡単に手にはいるような気がしてきます。 そして何よりもまず、こころから、日本の原発の再稼動を阻止し、おたがいの精神の空洞化を消す作業を、ひとつづつはじめて行きましょう。再稼働ができなくなり、すべてを廃炉にすることが決まった時点で、はじめて日本はアメリカを追い抜き、空洞化を阻止したと、胸を張って言うことができるでしょう。
by nyckingyo
| 2012-04-13 10:34
| 洪水からの目醒め
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