by NY金魚
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闇箱のなか、集合無意識は開花するよりつづく とある小さな国に、ゾーン Zone と呼ばれるひどく荒れた広大な土地があった。 宇宙空間から隕石が落下したのか? それとも宇宙人の来訪のしるしなのか? そこで何が起ったのかわからない。そこには発電所があったのだ、という噂が一番大きなものだったが、なぜそれが発電を停めたのかはだれも知らない。そこへはかって軍隊も派遣されたことがあるが、兵士はだれひとり帰って来なかったという。やがてゾーンには鉄条網が張られ、警備隊が侵入する者を拒んでいた。 そのゾーンの中心には、そこにたどり着いた人間の望みをなんでもかなえる「部屋」があるという言い伝えがあった。ゆえに禁を犯してそのゾーンの中心に侵入しようとする者たちはあとを絶たなかった。 ソ連の鬼才・タルコフスキーがチェルノブイリ原発事故の6年もまえの1979年、その預言の書のように創った映画「ストーカー」について、あえてこの時期に書く必然を感じた。(ストーカー Stalker は厳密には「狩猟管理人」あるいは「密猟案内人」と訳されるべきだが、映画のイメージから、より明快な熟語である「密猟者」と意訳してみた。)もともとこの草稿は、3-11よりずいぶん以前の2010年元旦にスタートした、シリーズ・エッセイ「ソラリスの海に泳ぐイカ」の一部として書きはじめたものだ。津波による福島の原発事故が起こったとき、いままで、タルコフスキー映画のなかでこの「発電所跡」の映画と、核戦争の恐怖をテーマにした遺作「サクリファイス」だけについてなぜか何も書いていないことに、妙な符合を感じてしまった。 福島の住民が避難をはじめて2ヵ月あまりの時点で、原発に近い街から順にゴースト・タウンとなって行く風景を見て、ネットの中で社会学者のひとりが、このタルコフスキーの映画のなかのゾーンのうす気味悪さと「そっくりである」と言及したことを、ありありと憶えている。 この映画「ストーカー」のあとのチェルノブイリ事故、そしてその四半世紀あとに起きた福島第一原発事故という時制の流れが、なぜか頭の中であいまいになり、三つのストーリーが渾然一体となって「ゾーン」という言葉だけが重くのしかかる。三つはお互いにそっくりであるゆえに、それらのイメージがアタマの中で撹拌されるのだ。これは現代の日本人ならば誰でもがかかるであろう分裂のきざしである。ゾーンとなりはてたふるさとから引きちぎられた人びとの哀しみは想いに余る。また同じエリア=ゾーンに残った者にも、より大きな不安が襲う、という矛盾がある。それは自然の所作ではなく「特定できる人間」たちの仕業なのだが、今後その加害者たち(モモが時間の国で逢ったマイスター・ホラが語るように、かれら=灰色の男たちはもともと人間などではない、と確信しているのだが)が罰せられることはないだろう。それどころか、その加害者たちとその仲間は、自分たちの起こした一大地球汚染を、さらに拡げる動きに終始しているように思えてならない。いまだに線など引けない福島の広大な「ゾーン」と、そこに住んでいた人びとの心の中に広がるネガティヴ・ゾーンに限りない相似形を想像する。 この映画の公開6年後に、当時のソ連邦・チェルノブイリ原発が大惨事を引き起こしたあと、この映画で語られたことはもはや預言でもSF映画でもなくなり、「ゾーン」という言葉は具体的な地域名とkm²という面積単位で呼ばれるようになった。つい最近2012年5月にウクライナ政府は、 原発周辺半径30km圏の1000km²(東京23区のおよそ1.6倍)を永遠に立ち入り制限地区にしたという。事故後25年にして「ゾーン」の面積はやっと明快な数値となった。だがその形状はまだ不安定で、将来ゾーンが除染され、縮小される可能性は限りなく遠い。 ドキュメンタリー映画「チェルノブイリ・ハート」では、四半世紀後の現在、隣国ベラルーシで生まれて来る子どもの85%以上が未知の心臓疾患や放射線障害を持つ、とマリアン・デレオ監督は訴えている。正視に耐えないほどの院内の子どもたちの惨状はいったいいつまで続くのだろう。マンハッタンで日本語字幕版が紹介されたとき、われわれ日本人/日系人のあまりの狼狽ぶりに、監督マリアンが「福島の状況はベラルーシとはちがう、日本人はもっときちんとできる。」と慰めるような言葉を吐かれたことが、かえって大惨事の印象を深めることとなった。その後の日本国の対応を見れば、かの女の予測は見事に裏切られている。 もう少し踏み込めば、事故後一年余の福島のゾーンとは、マリアンの言葉とはうらはらに、優柔不断な国の態度を反映して、いまだに現実感が希薄なSFの世界をさまよっている感がある。放射能禍の正確な情報も、除染の方法もわからない市民の叫びを無視しつづけ「大したことはない」と言いつづける政府。チェルノブイリに比べて、極端な人口密集地域という条件が、混乱を最大限に増幅している。太平洋を越えて、その列島の現状を観つめ、誠になさけない限りである。あるいは瀬戸内寂聴師が原発再稼動阻止のハンスト・デモのさなかに叫ばれたように、あるいはあの父母たちの世代の醜悪な大戦争よりも恥ずかしい、国家というもののふるまいではないだろうか。原発事故は戦争よりもひどいという言説は後述する。 5月はじめに訪NYCされた小出裕章氏は、日本国と電力会社が、事故の責任をまったく取らないばかりか、放射能汚染を拡大する方向に舵を切っている現状を強く弾劾され、世界に向けて発信された。小出氏も「今回の福島原発事故はまさに戦争である」と言いつづけられている。 タルコフスキーの映画「ストーカー」の冒頭シーン。ゾーンに出発するため、歯を磨いている密猟者(ストーカー)に対して、その妻は語りはじめる。それはスクリーンのこちら側の、われわれ観客に直接向けられた呼びかけのようにも聴こえる。そのわれわれ観客とは、この映画ができてから三十年後の人類であり、すでにふたつかみっつの原発事故を経験したあとの世代である。タルコフスキーがこの映画を撮った時点では、単なる可能性の問題であった原発事故を捉えて、われわれの世代の全員を告発するような台詞が飛び出す。 ストーカーの妻はいう、「どうして私の時計を取り上げたの? どこに行くのって訊いているのよ! あんたの言葉を信じてきたわ。子どもたちのことを考えたことがあるの? あんたは私を年寄り女にしただけ! 私を破壊しただけだわ!」 *以下、映画の台詞書き出しは、英語字幕版からの翻訳なので、日本語字幕版と相違があるかもしれません。金魚 そして密猟者(ストーカー)と呼ばれるかれは、妻が引きとめるのもきかず、またゾーンヘと出発する。待ちあわせのバーには二人の客がいた。「現代社会は法則づくめで退屈だ。ゾーンには、なにかインスピレーションを取り戻すものがあるんじゃないか」という作家。この映画が「チェルノブイリ以前」に撮られたことをくり返し思い出せば、作家の発言は原発事故以前のわれわれの意識と酷似しているともいえる。核兵器という人類最大の危険兵器が「常態の戦争」では使用できない、相手を脅すための「隠し球」となったとき、その隠し球に転用できる新しい「インスピレーション」を懸命にさぐり、その結果が「原子力平和利用」という名のもとに世界中に林立する陳腐な「人類の自爆装置」となった。 もうひとりは寡黙な物理学者の大学教授。かれがゾーンに行こうと思い立ったのは、作家よりもさらに複雑な事情があるように見受けられる。三人はゾーンの境界地帯にいる警備兵の銃火をかいくぐり、軌道車に乗ってゾーンへ侵入する。ゾーンはかっての文明の根幹・発電所跡のようなのだが、いまでは深い緑と汚泥に包まれた廃嘘である。そしてそこには、この土地の秘密を暴くべく派遣された軍隊の戦車の残骸や、人間の骸が雨露にさらされて転がっていた。それでも三人の乗ったトロッコがゾーンに近づくと、タルコフスキーが頻繁に使う手法—モノクロの画面が一瞬にフルカラーに転じ、画面は溢れんばかりの緑におおわれる。「とうとうホームにたどり着いた!」と密猟者。作家は「なんと静かなんだ、ここは世界一静かな場所だ。君は君自身を観ることができる。なんと美しいんだ、ここにいるのはひとつの魂だけではない」と感激さえしている風情である。 密猟者は叫ぶ。「ゾーンは複雑なシステムでできている。あらゆるところに死の罠があり、古い罠が消えても新しい罠がのべつ幕なしに仕掛けられている。ゾーンは複雑な罠で、その罠にかかれば命がない。」そして白布を結びつけたナットを投げては、秘宝のあるとされる「部屋」にたどりつく道順を恐る恐る決めていく。見えない放射能に対するわれわれ人類の及び腰を明確に象徴している。 命を賭してまで、どうしてその部屋に行こうとするのか? それは密猟者たちが「部屋」にたどり着いた者の望みをなんでもかなえる「秘宝」の存在を信じているからではないだろうか。 ゾーンによって仕掛けられた死の罠から逃れるため、白布をナットに結びつける作業をしながら、教授はつぶやく。「20年まえ隕石がここに堕ちてきてゾーンができた、と人びとはいう。」もしこの噂が正しければ、人類はどれほどに救われることだろう。ゾーンができたのは人為事故ではなく天の采配だったと弁解できるからだ。すべてを神のせいに置き換えて、子羊たちは最小限度の贖罪をする。だがいったい、偶然地球に堕ちてきた隕石が「部屋」などを造ることなどできるのだろうか。やはりゾーンは人の手によって生まれたものと考えるしかないのだろうか。 ストーカーの忠告を聞かずにゾーンに向かって前進しようとした「作家」は、「止まれ、動くな!」という姿も見えない声に怯え、たちこめてきた霧に行手を阻まれる。ゾーンの周囲は、自然が刻一刻と「変化しつづける」。風が吹き、大地が揺らぎ、そして同じコースをたどっては「現世」に戻ることもできない。 夜になり、ゾーンの罠に嵌った三人は、大きく揺らぐ大地に身を伏せ、眠るように、あるいはタルコスキー映画の観客のほとんどがそうであるように、無意識を前面に出しながら目を開けたまま横たわる。顕在意識は不思議なほどに流出を抑えられ、観客同士の(集合的)無意識が映画館内に溢れ、さまよう。 密猟者は魔女のささやきを聴く。「そして大きな地震があった。太陽は、髪の毛で編まれた喪服のように真っ黒になり、月は血のように赤く燃えた。空の星々はすべて大地に堕ちてきた。まるでいちじくの樹が強風に揺らされたとき、まだ熟れていないいちじくの実を落とすように。」 「そして空は巻物が巻き込まれたときのようにばらばらに割れ、すべての山々と島々はその場所を離れていった。地球の王、偉大なる者、富める者、屈強なる者、そしてすべての自由なる者も、山の岩のあいだの洞穴に自らを隠した。そしてかれらはその山と岩に向かって叫ぶ。『われわれのところに堕ちてこい!王座に座る者の存在と子羊の憤怒からわれわれを隠してくれ。』だが、だれがそこに立ってなどいられるものか? アハハハハ、ハハハハハ!」(英語字幕版から、金魚訳) この映画「ストーカー」は、1977年出版のストルガツキー兄弟のSF小説『路傍のピクニック』を原作としているが、20世紀のドフトエフスキーと呼びたいような映画作家・タルコフスキーの手にかかると、見事な宗教的哲学物語に変貌する。原作では、宇宙からの来訪者によってゾーンが作られたことになっているが、どちらにも原発事故などとは一句も書かれていない。が、映画のラストシーンには、密猟者が歩けない娘を背負い、巨大な発電所(多分火力)を見つめているシーンがある。当時のソ連邦が危険な原発に邁進していることへの批判を、隠した形で表現しているとしか思えない。タルコフスキーの未来を見つめる目は原作の物語を大きく逸脱し、その時もはや6年後に迫った未来のチェルノブイリの事故を鋭く観察しているような気がする。宗教と国家に引き裂かれたドフトエフスキ—とおなじく、タルコフスキーの「ソラリス」以降の晩年の作品には、すべての生命を信仰するような深い意味あいを強く感じる。この作品でも、人類の自然への冒涜を強く戒めている。ストルガツキー兄弟の原作では、ストーカーは観光客にゾーンの謎を売って歩く物売りのようだが、タルコフスキーの映画では、ストーカーには人類の失われた魂をゾーンに導く運命があり、彼の目標は魂の救済ではないかと思えてくるほどである。これはその前々作「ソラリス」における、原作者スタニフワム・レムとの意見の確執とも通じている。 かれらは、水が滝の如く流れ落ちる「乾燥室」という不思議な名のついたトンネルを通り、多くの生命を奪った「肉挽き機」と呼ばれる危険な長いバイプをくぐりぬけ、深い井戸をもつ、波紋が連なる砂丘のような部屋につく。 先頭を歩いていた作家は、更なる百年の命を与えられる啓示を受けた気になるが、「どうして『永遠の命』じゃないんだ」と欲望を増幅させながらつぶやく。 ついに「部屋」の入口にまでたどりついたことを喜ぶ密猟者。 が、そのとき物理学者の教授は、バックパックからそのむかし友人と製造した爆弾を取り出した。かれは人間が胸に秘めている最も大切な夢をかなえるというゾーン内の「部屋」が、犯罪者に利用され、人類が不幸に襲われるかもしれないと危ぶみ、「部屋」を爆破するために密猟者とともにゾーンに近づいたのである。ゾーンを心の唯一の支えに生きてきた密猟者は、必死で爆弾をとりあげようとする。 密猟者は、この部屋こそ人類の希望であり、もし爆破されればすべての人類は地球を離れなければならない、と訴える。 「希望がすべてなくなれば、ここだけがかれらが戻って来れる場所なんだ!」「あんたらだってここに来たんじゃないか!どうして『希望』を破壊するんだ!」 一方、ゾーンに新たな希望を托してやってきたはずの作家は、 ゾーンを神聖視する密猟者の態度に疑問を感じはじめていた。作家は全人類のための愛、というような教授の言動を一笑するが、同時にまた、ゾーンこそ偽善にすぎないと密猟者をもなじる。 三人はおたがいに他のふたりと対立する。作家はさらに密猟者に対して言い返す。 「おまえはおれたちの『苦悩』を使って、カネを稼いでる。いやカネだけじゃなく、おまえはここで楽しんでる。おまえは『神の苦悩』が好きなのさ!おまえは、誰が死んで誰が生き延びるかを決めようとする偽善者のシラミだ!」「密猟者よ、どうしてお前自身でこの部屋に入ろうとしないのか、いまやっとわかったよ。」 密猟者は作家に対して、ほとんど泣き叫びながら答える。 「それは誤解だ! 密猟者は『部屋』に入っちゃいけない。密猟者は秘められた動機から、ゾーンに入ることすら許されないのだ。そうだ、あんたは正しい、俺はシラミだ。俺はこの世界で何にもいいことはできない。俺の妻にさえ何も与えてやることもできなかった。どんな友だちもつくれない。でも、どうか俺のものをこれ以上取って行かないでくれ!」「かれらは有刺鉄線のうしろから、俺のものをみんな持って行ってしまった。」「だから、ここは全部俺のものだ。わかるか! このゾーンにあるものすべては俺のもんだ!」「俺の幸福、俺の自由、自分への敬意、ここにはそれが全部ある!」「俺はここに自分のような破れかぶれの、 捨てばちの、他人をひどく苦しめる人間を連れてきた。なんの希望もない、何ももたない連中さ。だれもかれらを助けられない、シラミの俺以外はな!」「連中を助けることができて、俺はとても幸せさ。だから俺は泣きたいんだ。それでおしまいだ、それ以上何も望んじゃいない。」 幽霊のような建物のなかで密猟者の叫んでいる言葉は、現代に生きるわれわれにとって、ほとんどが現実感の希薄な舞台の上での抽象的な叫びのようにしか聞こえないが、そこに「原発事故」というキーワードを挟んでみると、すべてがおどろくほど具体的な世界となって浮かび上がってくる。そのはるか未来に起こったチェルノブイリと福島の惨事。この密猟者の言葉こそが、原発事故の被災者たちの言葉なのだ。 いったいそれらの発電所でなにが起こったのか? 最終兵器に転用できるという不純な理由はあったにせよ、発電所は電気を供給するために建てられ、なんらかの理由で事故が起こった。映画ストーカーの場合は、宇宙からの隕石の落下が語られた。チェルノブイリは原子炉の運転ミス。そして福島のときは巨大な津波。目にまったく見えない放射能の風から、実に多くの人びとが逃げまどう。あるいはゾーンのなかに隠れながら住みつづけることを選ぶ者たち。どちらの選択にも、大きな恐怖と不安のなかに突き落とされつづける状況がある。「どうか俺のものを取って行かないでくれ!」 そして最悪の状況は、事故から7年後にはじまる。われわれの子どもたちから病に犯される。不安は絶望に向かってまっしぐらに奔りはじめる。 人類が何千年もつづけてきたお互いを殺し合う行為は「戦争」と呼ばれ、まことに憎むべきものである。イラクで、ヴェトナムで、ひとを何人も殺してきた元兵士ですら、過去のその自分の行為を芯から憎んでいる、と語りかけてくれた。 ひとりひとりにとって、命とはたったひとつのかけがえのないもの。家族や友だちには、自分の命よりもっと大切な場合もある。この国家によって許可された集団殺人は、いまだに留まることを知らない。このブログでも、言葉の足し算に足し算を重ね、長すぎると言われても省略などせずに、ただひたすら戦争反対を叫んできた。70年前の史上最大の世界大戦では、世界中で六千万人という途方もない数の人間が殺された。日本では当時の国家の無責任で始まった戦争で、ふたつの原爆投下、大空襲から、かろうじて生き延びた者も、住んでいた土地が突然「ゾーン」となり、空からの業火でできた屍の山を見る。苦悩と絶望のくり返しのなか、国家はやっと降伏した。まわりにひどい被害は残ったが、その後の苦悩はときとともに徐々に癒えていく。 原発事故でできてしまったゾーンの場合はどうだろうか? 「苦悩」はときとともに増幅する。7年が過ぎ、子供たちが病気になりはじめ、25年が過ぎてもベラルーシのゾーンに生まれてくる子は過半数が奇形児である。100年後のデータはないが、このタルコフスキーの映画が、その時点の地球のゾーンのイメージを運んでくる。ぼくはいま、死者の数や絶望の量を比較しようとしているのではない。ただ、ときというものが解決の手段ではなく、そこに「終戦」というものも永遠に訪れないとすれば、瀬戸内寂聴師のいわれるように「あの戦争の方がまだマシだった」という言葉に同意するしかない。この老師のことばに、ネットの若者を中心に猛反発があったようだが、それはすなわち、ゾーンの外にいても苦悩はけっして拭えないという人びとの心象風景の裏返しである。 3-11からひと月がすぎたころから、小出裕章氏も「福島の状況はまさに戦争なのです」と叫ばれていた。最初は原発内で放射能を食い止めようとする人間と原子炉の戦いだったが、数カ月がすぎ、ゾーン戦争は人びとの心の中に浸透していく。2011年8月「福島第一は破壊の程度がひどいため、事故処理にはほぼ永遠といってもいい時間がかかるだろう。チェルノブイリ原発の石棺のように巨大な構造物で建屋を覆った上、作業員の被曝を避け、放射性物質が外に漏れ出さないよう監視しながらの作業が必要だ。いま生きている日本人はだれひとり、その終わりを見ることはないのではないか。」 先日のかれのNY講演でも「戦争はつづいている」と断言されていた。「瓦礫を拡散したり、広域の除染に関しても、政府と東電は放射能汚染を拡大する方向にしか舵を切らない。」人類の過去の歴史に、いったいこれほどに醜いいくさがあったのだろうか。 映画のストーリー結末にもどる。結局教授は「部屋」を爆破するのをあきらめ、爆弾を解体する。そしてやがて、三人は「部屋」の敷居をまたがずに、ただ黙して坐り込む。はたして「部屋」とはなんだったろうか。 三人は揃ってバーに戻って来た。そこでは妻が「足の動かない娘」とともに、ストーカーを待っていた。娘を肩車し、稼動している発電所の前を歩く密猟者とその家族。タルコフスキーのこの映画はストーカーの挫折とともに終わる。わが家に戻ったかれは「作家や学者どもは何もわかろうとしない。きゃつらのどこがインテリだ! 」と叫ぶ。現代の福島と放射能に関しての、似非文化人たちの無責任な言動に怒るわれわれの意識を代弁しているようだ。くりかえし、この映画がチェルノブイリ事故の6年も以前に撮られたことに脅威する。 妻は「少し眠ったほうがいいわ」と密猟者をやさしくいたわる。そして、もう一度その妻の独白:「私の母は言った。『密猟者は呪われた永遠の囚人。ろくな子供は生れない』って。それでも好きになったんだから仕方ない。私たちは、そんな宿命だった。」 足の動かない娘は、テーブルの上のガラス器を念動力(テレキネシス)でいともたやすく揺らし、動かし、下に落とす。窓の外を列車が通り、部屋がまた「地震」のように揺れる。ひとはものを動かし、波動はまたひとを動かす。 おそろしいことに、現代では「ゾーン」はゲーム機までに蔓延し、ウクライナのゲーム・デベロッパーが作った「S.T.A.L.K.E.R Shadow of Chernobyl」が大人気という。チェルノブイリ原発事故の跡地で2006年に再び原因不明の大爆発が起きるという設定。汚染された跡地一帯は、突然変異をおこした生物の生息する「ゾーン」と呼ばれる危険地帯と化す。このゲームのゴールは「石棺」に到達したストーカーの頭の上に金貨が舞い落ちるという、実にばかばかしい設定。 タルコフスキーの映画「ストーカー」のなかでは、部屋にたどりついた者の夢をなんでもかなえる「秘宝」があるという。そして大きく挫折してしまった密猟者、その家族、作家、教授の態度からは、一見なんの夢も見つからない。 だが、われわれがもし長い苦悩をつづけたあとに、絶望をも克服し「脱原発」「核廃絶」という意識を強くもって、地球星全体の意識を「浄化」することができれば、未来の人類=私たちの子供たちの子供たちの子供たちは、より大きな「秘宝」を手に入れた、ということができる。タルコフスキーがわれわれに託したメッセージは、それしかないのでは、と直感しつつ、そろそろこの重いエッセイを綴じることにしたい。 3-11から一年余の先日、われわれの真摯な「脱原発」の意識をあざ笑うかのように、大狸にそっくりの日本の首相は、安全基準のまったくでたらめなまま、大飯原発の再稼動を宣言した。原子力保安院自身が「科学的根拠はない」というお墨付きを与えた(?)めちゃくちゃな安全基準である。首相は、責任を取るというが、いったいどうやってなんの責任を取れるというのだろう。痛ましいばかりの日本の政治の腐敗が、夏をまたずに溶けて流れ出ている。 思えば、この痛ましいばかりの日本の政治の腐敗も、原発事故から公然と露呈しはじめたわけだ。原子炉建屋の天井と壁が飛ばされ、なかの崩壊がTVに映し出されたとき、日本政府がやっていることの中身がボロボロと音を立てて全国民に観えはじめた。そのほとんどが腐敗しきっていることに、建屋の光景以上に驚いたひとりである。 タルコフスキー「ストーカー」の表現が、ソ連邦の政治腐敗を弾劾するという意味からも、チェルノブイリの預言となったことは興味深い。ソ連の体制崩壊はチェルノブイリ事故のさらに5年後だが、それまでの冷戦世界の体制を大きく転換したという意味で、革命である。日本がどう変わるか、まだまだ紆余曲折の連続とは思うが、根っこから変わるチャンスを手に入れた、と確信する。この意味でも、人びとの意識のなかに「秘宝」が育ちはじめている。 さらに原発の話題。オバマ大統領も100基以上の巨大原発戦艦であるアメリカの原発を、推進の方向に舵を切らせた。われわれの意識のなかで、かれらに対しての新しい戦争がはじまる。 武力ではなく意識革命。たとえば若狭湾の原発が全部廃炉になったとしても、その西、中国と北朝鮮の国境の白頭山は東日本大震災に関連して噴火する可能性が強いという。近くに位置する中国の赤松原発(建設中)が稼働後に、その火山が噴火することが懸念されている。中国との領土争いで武力闘争などしていては、脱原発は実現できない。地球はひとつの星で、原発はその星全体の問題なのだ。対立を最小限にとどめ、ひたすら危険を回避する方法、回避する波動をみんなで意識する。 「脱原発の意識」を、すでにゾーンができてしまった日本から発信する。われわれの苦悩は、それがひとつのステップを踏むごとに「意識の秘宝」となり、それはやがて人類全体の意識の秘宝として、われわれを勝利を導くことも、むろん直感として深く信じている。 できるのは、破壊することだけだ。 そしてきちがいじみた恥知らずの物質主義が、 この破壊の総仕上げをする。 個人の心のなかに神が存在し、 永遠なるもの、善きものを 受容する能力があるにもかかわらず、 相対としての人間は、破壊することしかできない。 人々を結びつけたものが、 理想ではなく、物質的理念だったからだ。 人間は自分の肉体をすばやく守ってきた。 だが、魂をいかに守るかについては考えなかった。 教会(宗教ではない)もその役を果たせなかった。 文明化の歴史の途上で、人間の精神的な部分は、 動物的な、物質的なものから、ますます遠ざかっていった。 そしていまや、われわれは、 無限の空間の暗闇のなかに遠ざかっていく汽車の灯を かろうじて見ることができるだけだ。 われわれの存在の第二の部分が、 呼び戻しようもなく、永遠に遠ざかっていくのだ。 - アンドレイ・タルコフスキー (「タルコフスキー日記」キネマ旬報社) ソラリスの海に泳ぐイカ(14)生け贄The Sacrificeに至る道/至らぬ道につづく 金魚のFun & Fun: むかしのタルコフスキー特集本の中に、ぼくの心の恩師=手塚治虫先生のエッセイ「新人類映画としての『ストーカー』」を見つけた。1981年に日本で初公開されたときの「ストーカー」パンフレットが初出とある。先生独特の細かな感受性がさまざまな方向に伸び、実に興味深い。原作の「路傍のピクニック」は当時日本語の全訳がまだなく、第一部だけを読んで映画と比べられている。原作と映画はまったくちがう物語としながらも、さまざまなイメージの共通点をさぐる洞察力はすごい。 —執拗に見せる「水」のイメージは”はるかなる生命の源泉”である海と、そこにはぐくまれた純粋な生命たちを、前半で見せる薄汚れて醜怪な都会の形骸と対比させるものではないだろうか。”ゾーン”はほとんど疑いなく「宇宙からの来訪者がもたらした贈り物」なのだ、とする原作の前提にはタルコフスキーも異存はなかったらしい。 この一文から、チェルノブイリ-フクシマ以降のわれわれがイメージするものは、やはり部屋の秘宝とは、「原発」という文明の異端児から、われわれ人類の意識を(脱原発という意識に)軌道修正させたことではないか。それがすなわち「宇宙からの来訪者がもたらした贈り物」だったというように比喩を重ねてみたい。 チェルノブイリ事故が起こるまで、だれもこの映画と原発事故などを結びつけなかったわけだが、先生は映画に登場する黒犬から、現人類の破局もしくは転機に見舞われる、と予測されている。 —あきらかにこの犬は(超能力者になったストーカーの)子どもやストーカーの家庭と深い因縁を持ってしまったことがわかる。黒犬→悪魔という図式ならば、この子どもと家庭は将来恐るべき破局あるいは転機に見舞われそうである。むしろそれは現人類にとってというべきなのかもしれない。もし子どもが新時代、現人類にとって変わるべき「スターチャイルド」ならば、この犬は「ゾーン」から派遣された忠実な「お目付役」のはずだからである。(「新人類映画としての『ストーカー』」手塚治虫)
by nyckingyo
| 2012-06-05 08:24
| ソラリスの海に泳ぐイカ
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