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一年前のクリスマス・イヴイヴは、ハーレムのキャセドラル教会でNYフィルのヘンデル・メサイヤと洒落込んで、天使たちとすてきな出逢いがあった。今年も何か... と考えていたとき、昨年いっしょにメサイアを聴いたクラシック愛好家の某社社長からメイルが届いた。
あの天才グレン・グールドの演奏するバッハのゴルドベルグ変奏曲(55年版)を、なんと56個のスピーカーを使い、ひとつづつのスピーカーが単音を担当して聴かせるコンサートがあるという。 Inside The 100 Foot Pianoと題されたこのコンサートはミッドタウンのウエストサイド、レガシースタジオで行われた。(写真はスピーカーを入れる以前のスタジオ)ホールそのものは思ったより小ぶりで、56台のスピーカーもすべてコンパクトサイズ。1本足で我々の耳の高さに揃えられたかれらはまるでオーケストラ団員のように整然と並んでいる。観客は一回の演奏にたった25人しか入れず家族的な雰囲気のなか、一台の巨大な幻のピアノに囲まれるように着席した。かなり暗い照明をあびて、チューニングの音もなく56個のダークスーツ姿のスピーカーたちが“演奏”をはじめた。 武満徹が生前何度も書いていたことだが、エジソンからはじまるレコードやテープやCDに録音された音、そしてフイルムの映像などは、単なる電気的、電磁波的な信号を音波や映像に変換したにすぎず、そこには魂の入った音楽・演劇というものはありえない、というわけだ。確かに武満氏の生きたように普遍的なあちら側の世界から、どんどん異常になっているこの世を観とおせば、この意見はかなりの部分理解できる。しかしこの論法でいけば現代に生きる我々の安易な娯楽である、映画・TV・録音された音楽などのほとんどのものが人為的な偽物ということになってしまう。人為物にも入魂されて完成した美しい芸術はたくさんあるはずだ。そう思い込みなおして、目の前にある56個の電磁波による変換装置から出る“演奏”に聴き耳をたて、集中することにした。 隣り合ったスピーカーが半音づつちがう音を担当し、その位置は観客から斜めの奥行きを持ってジグザグ形に置かれているので音楽はめまぐるしく動き回る。ひとつの音が響いたあとの余韻はちゃんと聴こえているのだが、距離の離れたスピーカーに移行すると、スピーカーがまるでジャンプしているように飛び上がって見えてしまう。グールドのあのごつごつした長い指の動きが、数百倍のスケールになって我々の頭上を飛び回る。もちろんバッハのこの曲が持つ子守唄のような穏やかな曲想がベースである。音量もどちらかと言えばかなり低めなので、そのあたりの誤解を招く書き方はさけたいのだが、なぜか興奮している。 やがて1本足のスピーカーたちは飛び跳ねているだけでなく、グールドの奏でる音にあわせて踊りはじめている。ディズニーのファンタジアのなか、『魔法使いの弟子』の映像で、大勢のほうきたちが水を運んで踊っているシーンを思い浮かべていただきたい。いままでまったく無機質と思っていた『もの』たちが踊っているのだ。流れるようなメロディー部分ではさすがにあちこちから飛んでくる音がぶつかったり、余韻が消えてしまったり、様々な事件が起っているのだが、それを通り越して楽しいイメージが先行している。もちろんグールドの音源そのものの力でもあるが、そのスピーカーたちの上部の空間に天使や天女が遊んでいて、めまぐるしく飛びまわっている幻も感じられる。西洋の天使像にうとい僕には、今年復元された大原三千院の舟底型天井画(写真)や平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像のなかで遊んでいる天女たちのようにみえる。 22歳の若きグールドのデビューアルバムとなったこの1955年録音のゴルドベルグは、思い切り軽妙でスピードが早く、スウィング感がある。いまとなってはバッハのピアノ曲の現代的解釈はこの演奏からはじまったと言ってもいいのかもしれない。当時ほかのピアニストの誰もが演奏せず、バッハのピアノ曲としては地味な曲想のこのゴルドベルグ変奏曲を選んだのもグールドの天才である。後年グールドはライヴ演奏を嫌い、スタジオ録音専門の演奏家となるが、このデビュー盤の時からすでに数種類のテイクを組み合わせ、つなぎ合わせることによって最終テイクを創った。彼が音楽の完璧性のために録音されたテープの編集作業を試みたということはよくわかる。僕にはもうひとつ、上述の武満の言葉とは矛盾するのだが、グールドが自分の魂の注入できた録音を選んでいるような気がしている。彼の魂がバッハの描いた『神』なるものと交信できた電磁波テープを編集し、その最高のものにあわせて更なる別テイクを吹き込んだのではないか。いずれにせよそれまでのクラシック音楽の概念からいえば、多分に作為的でアーティスティックというわけだ。ロックやジャズの世界では常識のこの手法だが、クラシック愛好家はいまだに自然じゃないと反撥する御仁も多い。こうして創造された彼の演奏は出来上がったときから、今回の実験のような新たな電磁波的編集作業を施される宿命をもっていたのかもしれない。 グールドは1981年の最後の録音にもゴルドベルグを選んでいる。こちらの方は55年盤とはまったく違ったうんとスローな演奏で、バッハの荘厳なイメージがよく現れている。ついでながら今年はグールド没後25周年ということで、デビュー版の音源を細かくデータ化し、Yamahaの自動演奏ピアノでサラウンドSACDに転換したものが発売になっている。まだ聴いていないので評価する立場にはないが、その自動演奏ピアノという発想を聞いただけで趣味が悪く、それこそグールドが生きていたら痛烈に罵倒するのではないだろうか。 今回の仕掛人アンティン・チャン女史は、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの写真科卒、音と映像のコラボレーションを作り続けて10年。今回は映像のないものではあったが、スピーカーの配置、音のまわり方などにヴィジュアルな才能をもおおいに感じる。「スピーカーたちが天使のように踊っている『ディスコ・バッハ』のようだった」という僕の発言に、女史と場内に笑いがあふれ緊張感が緩み、さわやかにスタジオを出た。 外へでると映画「ウエストサイド物語」の舞台になったエリアである。当時よりはうんと拓けてはいるがミッドタウンにしては極端に人通りが少ない。張りつめた冷気と鈍い星空とのせいか、40分以上音が走り回っている場所にいたせいか、もしくは武満氏の言葉を反芻していたせいか、若いころに読んだ不思議な教理を思い起こした。 ヒンドゥー・ヴィシュヌ派の聖典、バガヴァッド・ギーター。 ジョージ・ハリソンなどの影響で一時ハマってしまったハリ・クリシュナの聖典、ギーターの教えである。ひとが動いている姿を見たとき、ひとりの人間の肉体が連続して動いていると思っているが、それはその肉体というひとつの固定した物質が動いているのではなく、たとえば映画のフイルムがたくさんの画面の寄せ集めで作られていて、映写機にかけて映し出したときにはじめて連続体で動いているように見えるだけのことである。本当はひととか地球とかそういう物質なるものはクリシュナ意識という光子が亜高速で動いている結果であり、一瞬ごとに猛烈な速さで変化しているのだ。あなたの肉体とか眼とかいうものも変化しつづけており、ただあなたの魂のみが不変で、クリシュナがあなたの感覚を使って、すべてを存在しているように見せているだけだ、と。意識が音や物質を生み出すという最近の量子物理学の理論と、様々な意味で符合する。すでに消え去ったグールドの(巨大)ピアノの音が還ってきた錯覚に、思わず暗くなった天空を見つめる。 バッハもグールドもスピーカーたちももともと存在せず、ただ天女たちが踊りながら僕にすばらしい音楽を聴かせていたとしたら、これはこの『今浦島』にとっては最高のクリスマスプレゼントだったわけである。
by nyckingyo
| 2007-12-21 15:13
| NYC Music Life
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