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このブログを立ち上げてから2ヶ月が経った。当初はこんなにたいへんなものとは思ってもいなかったのだが、アクセス数が増えてくると、そうかこんなに読んでもらっているのだからがんばって更新しなくては、となってくる。つたなく、ほとんど金魚のフンのごとく長い文章にいつもアクセスしていただき本当にありがとうございます。ブログを立ち上げたときの最初の稿『セラの巨象』の消滅にコメントをいただいたAyakohさん、NY在住のアーティストとお見受けしました。アートの記事へのコメントは本当にうれしいです。今回は久しぶりにまたアート評論を書きました。ご高覧ください。
ほかにもトラックバックやコメントをしていただいた方々、貴重なご意見をこころから感謝しています。これからもやたら更新することだけにとらわれず、熟慮して書き、納得したものだけをポストしていきたいと思います。NY金魚から愛をこめて。 また少しタイミングがずれてしまったが、今回はヴァレンタイン・デイに絡んだ現代美術の大フェスティヴァルを紹介する。チェルシーの新ガゴシアン・ギャラリーでの、(Auction)Red と題された展覧会。世界の先鋭アーティストがヴァレンタインのテーマRedやHeartにちなんだ作品で共作するお祭りであった。最終日の2月14日、セント・ヴァレンタインの日には、あのサザビーズで作品全部をオークションにかけたという趣向であった。ロック界のスーパースタ—、U2のボーノBonoとアート界のスーパースタ—、ダミアン・ハーストDamien Hirstが主催するこのオークションの売り上げはすべてアフリカのAIDS基金に寄付されたそうだ。オークションそれ自体にはさほど興味はないが、落札価格の総額4200万ドルという天文学的数字を聞くと、日本の状況と比較してニューヨークでのコンテンポラリー・アートが市民権を得ていることにある種の感慨がある。 もともとヴァレンタインの風習は、男女を問わずふだん愛している人に対して愛が不滅であることを誓うものだから、どこかの国のように義理チョコなどという変な言葉は存在せず、帰宅途中のサラリーマン諸氏がみな伴侶のためにバラの花一本を買い求めている。ことしも僕はそれに倣った。このオークションの作品を奥方に買ってあげられるのは、相当の大金持ちでないと無理である。庶民はバラ1本、ブルジョアは現代美術という時代になった。 ダミアン・ハーストの「All You Need is Love」というビートルズ・ナンバーとおなじ表題の作品は、大きなハート型の中に本物の蝶が貼り付けられている。一見しただけだとヴァレンタイン用の実にハッピーなフィーリングの作品にみえる。 この作家は、死んだ動物(鮫や牛や羊)をホルムアルデヒドによって保存したシリーズが有名である。93年のヴェネツィア・ビエンナーレには縦に真っ二つに切断された牛と子牛をその液体に漬けた作品"Mother and Child, Divided"を出品した。1997年にグループ展「センセーション」がブルックリン美術館で開催されたとき、牛の糞を使って描いたクリス・オフィーリの聖母子像がカソリックへの侮辱だとして、当時の共和党ジュリアーニ市長の反感を買い、美術館での展示を拒否された。このときのハーストの作品は、牛を何層にも輪切りにしたもの。これらが市当局との訴訟になり、数年後ハースト側が勝訴。グループとともにますます有名になった。 たえずセンセーショナルな作品を創りつづけるダミアン・ハーストの評価は実にさまざまであるが、先日メトロポリタン美術館でみた大きな鮫の死体パッキングなどはとても美しいと感じた。この人の登場で一時低迷していた現代美術界が活気を取り戻した感は確かにある。 今回のこのハート形にちりばめられた蝶の標本はとても美しく、作者のコメントも一切書かれていないし、一見するとそういった意味でのセンセーションはほとんど感じない。ところがどっこい、かれの初期の作品を眺めると、鉢植えの植物と毛虫と砂糖と糊でペイントされた作品がある。 毛虫が蝶になった後、それをキャンバスの表面に固定した、In and Out of Love (1991)である。今回の作品の蝶の中には美しい羽に穴があいているものも見受けられるから、おそらくそれと同じコンセプトで制作されたのだろう。かれのコンセプトなどつゆも知らないで美しく変身した蝶たちには、突然ゴキブリホイホイのような地獄が待ち受けていたわけだ。どこかの大金持ちがハッピー・ヴァレンタインのプレゼントにこれを彼女に贈ったとしても、はたしてこのコンセプトを理解して素直に喜んでくれるだろうか。 この稿は現代美術の入門編としてなるべくポジティヴなイメージで仕上げようと思ったのだが、どうやら最初からつまずいている。エーッと。 ティム・ノーブルとスー・ウェブスターの合作「Fucking Rats with Heart Shaped Tail」は、小さなブリキや金属でできたジャンク彫刻で、何の意味もないように見える。ところが真横から当てたスポットライトで壁にできた影をみると、2匹のネズミがセックスをしていてそのふたつのしっぽがハート型を創っているというユーモアにあふれた作品。このカップルは影に意味を持たせることで著名なイギリスのアーティスツだが、ジャンク彫刻の素材にもそれぞれ意味があるということだ。中国や日本で今年がネズミ年ということにも充分意識しているように思える。この項は一応ポジティヴに収まった。ああ、やれやれ。 杉本博司の作品はいちばん初期の『海景』のころからの大ファンである。何度かちらとお話をおうかがいする機会があった。 今回はRedがテーマということなので紅海の海景「Red Sea, Safaga」を出品されていた。大画面の写真全体は赤ではなくほぼフラットな暗黒、じっと眺めていると画面の天地中央にうっすら水平線が浮かびあがってくる。手元にデータがないので詳細の表現は避けるが、推察するに薄暗い海(夜の海)を長時間露光されているのではないか。肉眼ではそれ以上のものは見えないが、見えないものを観る心眼を使えば、不可思議なイマジネーションが多く具現化する。 2年前にはじめてお逢いしたとき、「むかしグッゲンハイムSOHOでの個展で、蝋人形エリザベス1世像を観ていたら、写真のうしろに彼女の霊のような存在を意識して震えあがったんですけど」という僕の質問についての答え。「実は僕は生まれてからずっと、こちらの世界(この世)のことがぼうっとぼやけたようにしか見えないのです」。彼岸の世界に片足以上を突っ込んでいて、アチラの世界のほうがよく見える、というようなことも話されていた。さすがにそれ以上の彼岸の描写は聞けなかったが、この雰囲気は僕にもツー&カーと理解できる。あんなに細部の克明な蝋人形像を撮るのは、この世のピントのぼけた観えにくいものに対する逆説なのだろう。氏のコンセプトのすべてが逆説で成り立っているような気もする。氏の作品を理解する上で貴重なことばである。 杉本氏に関しては、もしもう一度深くお話を訊く機会があれば、そのあとぜひ別稿で論じてみたい。 ジェフ・クーンズは、飛びすぎて、ハイな世界から帰ることができない天使である。この場所は我々俗人から眺めると一見天国のように思えるが、実はここもやはり深刻な地獄なのだ。イタリアのポルノ女優で政治家となったチョチョリーナ孃と愛し合う全裸の自画像を見せつづけていたころは猛烈にポジティヴなエネジーを感じさせてくれたが、今回のピンク色の風船ウサギさん像を翻訳するに「巨大ではあるが空虚な男根像」というところであろうか。経験豊かな読者諸氏はよっくご承知のことと思うが、ひとは飛びすぎても飛ばなさすぎても、虚無の地獄をみることになる。 マーク・クインの「Red Sphinx」はスーパーモデル、ケイト・モスの肢体を現代のスフインクスに見立てた作品である。 この連作は無地で真っ白なものが多いのだが、この出品作だけは唇が深紅に塗られて妙に色っぽい。ヨガの体位のように自然の肉体のかたちからは外れてしまった造形が、かえって現代のヒエラルキー・ピラミッドを守護する自然なスフインクスの姿に見える。 アンセルム・キーファーは押しも押されぬドイツの地獄絵作家である。民族の歴史を痛烈に批判する伝道師。かれの作品がどこかの小屋にかかると、かならず飛んで行くようにしている。今回の出品作は比較的小振り(写真は別の作品)だが、かれの真価を味わうには、やはり巨大空間で巨大作品の連作を観るのがよい。壮大な地獄をさまよう旅人になった感があり、ギャラリーの外に出てもなかなかちゃんと現実世界にもどっていない場合があるので、ご注意。 バンクシー Banksyの、倒れてしまったがなんとか起き上がろうとしているさまの公衆電話ボックスも、全体がハート形にできている。電話ボックス氏はナタを打ち込まれて、流血し瀕死の重傷である。探偵金魚一耕助が推察するに、加害者は普遍化していく「ケータイ」氏ではないか。しかし日本からの観光旅行でたまたまこの現場に立ち会った助手の小林少年はちがう解釈をしている。公衆電話から告白する古いタイプのバンクシー氏は想う人から見事にフラれたので、自分のことばである電話機と肉体であるボックスそのものも打ち倒した。これは社会全体の愛が喪失したことによる古い通信手段そのものの自殺未遂。すなわち自然な形態で、という意味でのディスコミュニケーションなのである。ネットには決して入れ替わることのできない、古きよき世界の喪失。 おなじバンクシーの作品、Keep it Spotlessは、会場では気がつかなかったのだが、上述のダミアン・ハーストのたくさんのドットでできた作品との合体である。なるほど作者名の欄がBanksy Defaced Hirst(バンクシーがハーストを傷つけた)となっていて、ふたりのコンセプトの合体というけっこう新しい試みである。画面からの印象は、ハースト描くたくさんのドッツ、すなわちケミカル・ドラッグはもうたくさんと、バンクシー描くメイドが、それを掃き出しているようだ。バンクシーは冗談いっぱいに他のアーティストを冷やかしつづけているひとなので、ハーストを作品の上で茶化しているととれる。 ビル・ヴィオラのハイ・デフィニッション・ヴィデオ作品The Returnは、縦長のモニターにかなりの年配の悲しみに満ちたようなモノクロ女性像が映る。非常にゆっくりと舞うように動く彼女は、突然上から滝の如く降り注ぐ大量の水とその轟音に襲われる。その水に全身を濡らした彼女の像は、もはや無彩色ではなく深紅のドレスをまとっていて、新しい光に包まれている。今や表情には恍惚の文字すら読みとれる。彼女はもう一度うしろにある滝のような水の幕をくぐり、もとのモノクロの世界にReturnするために消えていく。映像/音声ともにクオリティ秀逸。 その他、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、アンドレアス・グルスキー、そして前稿「そして龍馬」でとりあげた建築家・安藤忠雄の小品にいたるまで、まさに多彩なる現代美術の一大フェスティヴァルであった。 おもえばアートとは、ダ・ヴィンチ以前からはじまり、レンブラント、セザンヌ、北斎、ゴッホ、ピカソ、ウォーホール、バスキアにいたるまで、作家の影の部分がたえずアチラの世界=彼岸=死、を映し出す鏡であり、もっといえば地獄の釜蓋をあける作業である。開かれた地獄からの光はもう一度反射して、この世をより明解に映し出す。 そして今回のこの現代美術大祭に出品されたほとんどの作品は、その彼岸を見せる作業に成功していると思うのだが、どう考えてもその彼岸どころかこちらの世界の片鱗も見せてくれない軽佻浮薄な作品もほんのすこしではあるが見受けられた。コマーシャル界にそこはかとなく近い企画ゆえに、やむを得ない部分もあるか、と少し残念に思う金魚である。 しかしながら、一軒のギャラリーのなかで地獄と天国を駆けめぐり、ひさびさに楽しく有意義なチェルシー散歩ではあった。
by nyckingyo
| 2008-02-21 00:46
| NYC・アート時評
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