by NY金魚
検索
記事ランキング
タグ
映画(17)
モダンアート(16) 村上春樹(10) オバマ(10) 核廃絶(9) SF(7) 井筒俊彦(7) ブラッドベリ(6) ジョン レノン(5) エコ(5) 司馬遼太郎(4) 寺山修司(4) セントラルパーク(4) バガヴァッドギータ(3) オキュパイウォール街(3) 老子(3) OWS(3) インド(3) 建築(3) 原発(3) 以前の記事
2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 カテゴリ
全体 浮遊的散文詩歌 炉心溶融した資本主義 洪水からの目醒め 小説のように日記のよう ソラリスの海に泳ぐイカ ソドムの街になるまえに 街かどでOne Shot連想 天使の絵画と霊界事情 小さきものダイアローグ 悪魔の国からオニの国のあなたへ 地球号の光と影 陰陽の限りない非対称 物語を遠くからつむぐ&あやなす 見えないものとの対話 井筒・意識と本質論 多層金魚の戦争夢 座禅と火薬—蔡國強展 過去からみた化石燃料 もの申す、日本 ことばと音をコラージュする NYC・アート時評 NYCで観た映画評論 NYC Music Life 米大統領選挙 '08 北京オリンピック 未分類 フォロー中のブログ
地球と宇宙の画像 惑星テ... 小林恭子の英国メディア・... イスラムアート紀行 世に倦む日日 近藤明子の『道々日記』 夢のでこぼこブログ クーリエ・インフォ できることから、はじめたい aliquis ex v... 外部リンク
ファン
その他のジャンル
|
降霊祭/ハロウィン Hallowin が近づいてきて、毎年巷の大騒ぎにつられて天上界も大忙しだそうだ。それにことしはとんでもないドタバタ騒ぎもいろいろくっついて、対処をせまられているという。どこかの国の政界とか経済界のお話ではなく、天上界のことである。 どれか、トロピカル・ストーム(熱帯低気圧)の残り風だろうか、晴天なのに2-3日のあいだセントラル・パークに強い風が吹きつづけた。黄昏どきになっても強い紫外線の陽光に照らされて風に舞い上がる黄葉とともに、無数の精霊たちが風の粒子のごとく猛烈なスピードで視界に現れては消えていく。どのひとに憑依するでもなく、だれを守護するでもなく、精霊たちはひたすら足早にさまよい、なにか自分たちよりかけ離れて大きなものの出現を待っている風情である。 なにか大きな天変地異が起こる、いや、もはや起こりはじめている。その前触れのときからバンビの森に小動物たちの騒ぐように、精霊たちの騒ぎがそのまま聞きとれるような状景。 僕のアタマのなかも分速数マイルの速さで洗浄され、あるいは新しい精霊たちが通りすぎざまにメッセージをくれている感覚がある。それまでたまっていた世間の雑念、不景気や金策などの有象無象が瞬時にすっかりすっ飛んでしまって、実にさわやかで、心地よい。追い風にのって自分の大脳のカタチがそのまま前方へと高速で移動し、次の瞬間コナゴナになり、精霊と混じりあって消えていく。ここしばらくアルコールをひかえているのがよかったのか、それとも本当のおムカエの時期が近づいてきたのか、最近この世以外で起こっていることが、すこしばかりわかるような気になっている。思いつくままに霊界からのメッセージと思われることを書き連ねてみようか。 ふた月まえの晩夏、リヴィングのハイビスカス鉢が5年ぶりに花をつけた。早めに来たNYの秋の冷気に触れ、たった1日でしぼんでしまったが、本場ハワイに咲くのと同じ美しい大輪で、実に優雅であった。実はまだハワイでの本物を見たことがないのだが、写真と比べてNYのわが家のものは色がパープルのほうに偏り、かたちも幾分妖艶にすぎたというイメージはあった。引っ越してから部屋に冷房を付けないで我慢していたので、真夏の熱気と湿度がプラントによかったのかもしれない。 それと1年ほど前からしばらくモーツアルト (1756-1791) を毎朝聴かせていた。もちろんご主人様の寝起きの悪さをごまかす手段であったわけだが、ひょっとしてこいつも聴いているのかなという意識はいつもあった。なんだかいつの間にか植物と話ができるような気になっている。「ボブ・ディランやマイルスも悪くはないけど、あたしゃモーツアルトが好き」と江戸っ子芸者のハイビスカスがしゃべっているような気がした。先年NYでお亡くなりになった『江戸っ子芸者一代記』の著者、中村喜春さん (1913-2004) の立ち姿と、しなやかだが超然とリヴィングの一角にそびえ立つハイビスカスの花の姿がなぜか重なりあった。 実は植物は耳のないぶんよけいに、全身全霊で音楽を感じているような気もするのだが、いずれにせよ植物の機嫌がいいと部屋の空気も良くなった気になる。日がな僕と暮らしている鉢植えたちは、ロックンロールも昼夜聴いているはずなのだが、なぜかモーツアルトにだけ聞き耳を立てている風情がある。畑のぶどうにモーツアルトを聴かせ、芳醇なイタリアンワインをつくる話は有名だが、やかましくメッセージの複雑な現代の音楽など耳のない植物にはわかるまい、という人間様の優越感の裏返しなのかもしれない。ことほど左様にモーツアルトは我々の耳の表面あたりにたどり着くまでに、「良質の軽音楽」というように誤解されてしまっていて、鼓膜に達した時は既に作曲家の激情のような硬派なものを、聴き手がほとんど故意に消し去っている(というひとが多い)。 そんな折、ほぼ古文書類といってもいい隅の棚から取り出したる1編、小林秀雄 (1902-1983) の『モオツアルト』を読んだ。著者も述懐しているように、評論というよりモーツアルトの時代をめぐるフィクションというに近い。ゲーテ、スタンダアル、トルストイ、ベートーベン、ニーチェ、ワグナーと脇役陣も大物ぞろい。実に格調の高いモーツアルト論である。挿絵の代わりに8小節の楽譜が数点入っていて、その曲のCDを聴きながら読むと最高に理解が進む。 — 道頓堀を歩く若き放浪時代、(小林秀雄の)頭の中に突然『ト短調交響曲』のテーマが鳴り響く。 この交響曲40番・ト短調の第一テーマの旋律は、小林氏に限らずアーティスティックにインスピレーションが閃いたときの象徴なのかもしれない。 現に今日、42丁目のブライアント・パークの雑踏のなかを歩いていた僕の耳にもこの旋律がつんざくように高らかに鳴り響いた。この場合は多分に小林氏の文章を意識した上のことだから純粋とはいえないのかもしれない。が、次の瞬間、ミューズの女神の先鋭斥候部隊が、地上に巣食っている悪魔たちと闘うために、2008年10月の降霊祭にむけて降りて来る。これらのインスピレーションはかなり純粋であったような気がする。どうもストーリーの表現が大仰になりすぎているとは思うのだが、できるだけ感じたままを書いている。決して威風堂々のマーチではなく、ト短調の旋律から発する深い洞察を含んだ探索活動。人びとの頭脳がフラストレーションに苛まれている時期に、それらを破壊することなく、下の方から短調の旋律にのせて持ち上げる。モーツアルトの音楽に同調したミューズ神たちでなくては出来ない芸当。その状況とは、小林氏の場合は混乱を極めた終戦後の道頓堀界隈であり、現代に住む僕は、金融恐慌の混乱と新しい大統領を待ち望む、いまの時期のマンハッタンである。音楽にはじまる変革を求め、それらの状況を背景に『ト短調交響曲』のテーマが鳴り響く。 この部分をもっと深く読み解くには、ブルーノ・ワルター (1876-1962) の40番の演奏が最適である。「晩年のワルターは、よく演奏の前に楽屋でモーツアルトの霊と打ち合わせをしていた」と言う楽団員の証言がある。ワルターの演奏するなかでも、モーツアルトの曲はそれほど特出して霊界を示唆している。モーツアルトとの「打ち合わせ」のあと、その楽譜がワルターの指揮棒にゆだねられた瞬間、われわれの精神はまるで霊界そのものに迷い込んだような高揚感、不安感におそわれる。もちろんそれはそのときに発せられた音ではなく、薄っぺらいCDの版のうえから半世紀以上もときを遡らねばならないのだが、現代のどの指揮者が演奏する曲よりも、豊富な臨場感を得ることとなる。雲の上の、もしくは雲を通して降りてきた光の国からのメッセージ。自在に引き延ばされた和音の間に、精霊たちの姿がそのまま織り込まれている。モーツアルトの音楽が宗教音楽であることを深く再認識する。 天才指揮者ブルーノ・ワルターはあのルドルフ・シュタイナー (1861-1925) の提唱した神智学/人智学を深く信じていたという。この学問の原点をたどると、ダンテ以前から綿々と続く霊界と人間界のコンタクトの歴史がある。 シュタイナーは言う。 「音楽に耳を傾けるとき、われわれは自分の霊界の故郷をこの世の現実の中に映し出しているのです。霊的内容のその幻影の中で、魂はこの上ない高揚感を覚え、人間の存在そのものに限りなく近づいていきます。だからこそ音楽はどんな素朴な魂の中にも限りなく深く働きかけてくるのです。どんな素朴な魂も音楽の中に、デヴァカン界で体験したことの余韻を感取します。そして本来の故郷にいる自分を感じます。そのような折りには常に人は、『そうだ、お前は別の世界からこの世に来たのだ』と感じます。」 なるほど、このような発想でいくと僕の魂の故郷には、モーツアルトとビートルズ、エリック・ドルフィー、ショスタコヴィッチ、グレイトフル・デッド、チャーリー・パーカー、ボブ・マーレーなどが一緒に住んでいたことになる。霊界をちゃかしているわけではない。他は混乱を招きそうなのでともかくとして、モーツアルトとビートルズは僕の中でなぜか大きな共通項で囲まれ結ばれている。 16歳で既に25の交響曲を創り上げた早熟の天才は猛烈な勢いで作曲をつづけ、それでも若きエネジーが余って遊び狂っていた、と言う説もある。映画『アマデウス』のモーツアルト像は軽率にすぎるかもしれないが、かれが当時の貴族社会の窮屈さから自分の精神を解放するためには、さもあらんと言うことになる。 ビートルズのなかで若き日のかれとのキャラクターの一致を見るのは断然ポール・マッカトニーだろう。ウイングスとモーツアルトの曲を交互に聴きながら、この人たちの共通項に必然以上の不可思議さを感じるのは僕だけではないだろう。ビートルズ解散以降のポールの言動は、僕を含めた世のビートルズ・ジェネレーションの方々の顰蹙を買っていたが、それも時効となった感がある。還暦をすぎたポールが歌うむかしのビートルズナンバーは、あの40年前のアルバムの歌声そのままに美しく楽しく、そしていい意味でそこはかとなく軽い。 もうひとつ、モーツアルトの響きには、こちらの方がうんと重要な部分だと思うのだが、ジョン・レノン (1940-1980) の歌がシンクロナイズしている。たとえば前出のト長調シンフォニーをはじめ、かれの後期交響曲のすべて、協奏曲などがレノン・オノ・バンドのイメージと結びつく。ロックとクラシック・ファンのどちらにも怒られてしまいそうな発言だが、曲想が似ているとかいう具体的な話ではもちろんない。あえてことばにすれば「魂の結びつき」というようなあいまいなことばとなる。 もう一度、小林秀雄『モオツアルト』の哲学的な部分を避け、叙情的記述から引用する。 — 確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。 モーツアルトの短調音楽の真髄を象徴したようなことばだが、なぜかこの主語をジョン・レノンと置き換えてもまったく違和感がない。あるいはそのふたりの共通項は、かれらの音楽が時代を超越して、人間が人間であること、その集合体である社会が社会であることの「かなしさ」を表現しているからである。そしてそのメッセージはかれらがもはやいなくなったその後の社会にも、大きく影を落としつづけている。およそ革命家然としていない人物たちの音楽やアートから、真の革命がはじまっているのだ。 ビートルズのふたりともが輪廻転生でモーツアルトの生まれ変わりである、ということはあり得ないので、そのカブト虫たちをモーツアルトを含めたミューズ軍団が見守っていた、という発想はどうだろう。荒唐無稽と笑われるまえに、かれらの音楽をあなた自身の耳で聴きくらべていただきたい。 そしてこれらふたつの多作アーティスツを軒並みに聴きくらべて「似ていない」という結論を出される以前に、すでにあなたの部屋は、女神ミューズの斥候部隊の精霊たちで埋もれていることだろう。そこはあなたがはじめてこの世をおとずれ、あなたの両親を選ぶ以前の、あなたの魂の故郷にもどっている。かれらの音楽はあなたの魂を潤わせ、そのなかにあるハイビスカスの花を満開にさせるにちがいない。金魚のこころある小さな陰謀である。多分におせっかいと言われる方も多いかも。 ま、まずはミューズ神に乾杯。 金魚のフン& Fun: モーツアルトを聴きながら書くと、イメージが散漫になり文章がとりとめなくなるよ、と書き出す前から自重していたのですが、案の定「あふれかえる」かれの才能に、こちらのアタマにも多彩なイメージがとめどなくあふれ、「かえる」ことすらできない有様。キーボードにむかったとたん、僕も私も、と霊界からのファンが自分のことを書いてくれ、と押しかけてくる雰囲気がいっぱい。もちろん当方が自意識過剰になっているだけで、実際霊がやって来るなどありえない、と言われれば別にそれ以上反論するつもりはありません。とにかくモーツアルト氏が古今東西の大ファンに囲まれたポピュラー(人気のある)アーティストだということに異論はないでしょう。書き終わった推敲は登場人物約十数名で、文章の長さもこの倍ほどになり、まことにとりとめがなくなってしまいました。本人とまわりから「短めに、」と釘を刺されていた(?)のでバッサリ削ってしまいましたが、これらモーツアルト霊界後援会の面々は、いつか続編をポストしないと許さないわよ、という勢いであります。 この稿をポストした時期の世界情勢がフランス革命前夜と同調している、というものがあります。 そういえば、1791年に夭折したモーツアルト晩年の生活困窮のことも、ひとつの時代が末世となり、フランス革命につながる直前のことです。 — 1789年1月24日に三部会の召集が告げられ、テニスコートの誓いが半年後の6月20日、バスティーユ牢獄襲撃が7月14日。2年後の1791年6月にヴァレンヌ逃亡事件があった。(この年にモーツアルトは永眠している) — 三部会からわずか4年後の1793年1月21日に国王ルイ16世が処刑される。同年10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑。世界の歴史が大きく変わった。ヨーロッパ中が固唾をのんでフランスの刻一刻を見守っている中、旧体制の社会がガラガラと音を立てて大きく崩れ落ちた。 — まさに今、三部会召集後の疾風怒濤と同じ興奮と緊迫の中に世界がある。それに擬えて言うならば、米国ドルはブルボン王朝だろうか。グローバリズムの新自由主義世界体制は、ヨーローパ封建貴族制のアンシャンレジームと同じ運命になるのだろうか。 モーツアルトの音楽は革命以前の貴族社会に迎合していた、とされてますが、僕はそのはしばしに当時の社会に対する反体制の香り、いや作品によっては強い意志を感じます。この雰囲気によって、バッハやヘンデルの宗教音楽とは明解な一線を引けるわけです。かれがウイーンで不遇の死をとげたのも、結局は特権階級の貴族たちに、自由闊達な才能を嫉妬され、いじめぬかれた結末ではないでしょうか。特に晩年の作品のなかには、新しい時代の予感を感じているモーツアルトがいます。死の年に作曲したオペラ「魔笛」は、参加していたフリーメイソンの教義に基づいて描いているということです。が、この秘密結社そのものがフランス革命とのかかわりを指摘される反面、関係者が革命軍に多数処刑されたという事実もあり、このあたりの詮索は、今のところ研究者に任せておきます。 ジョン・レノンがカウンター・カルチャーの波にのってちからを発揮しはじめ、すぐそのあとに不可解な最期を遂げたように、この部分でもふたりに共通項のようなものを強く感じています。 ◆ 2016年10月31日:この稿を校了してはや8年がすぎ、ブルーノ・ワルター指揮の40番がYouTube にアップされていましたので、ご紹介します。
by nyckingyo
| 2008-10-26 06:15
| NYC Music Life
|
ファン申請 |
||