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「徒労だ」ということばが耳の奥からガンガン響く。すでに持てるエネジーの限界を超えてまで、その重い岩を高い山の頂きまでなんとか運び上げる。そのとたん、クライアント(お客さま)という名の世にもおそろしい怪物が、ひと言も発せず僕の運んできた大きな岩をいとも簡単にとりあげ、崖の下に無造作にポイと捨てる。アゼンなんてモンじゃない、ガクゼンでもない、これがシゼンというものである、と自分にムリヤリ納得させながらすごすご山を下りる。岩を投げ捨てる役には、確かもうちょっとカッコいいゼウスと呼ばれるカミサマが演じるんじゃなかったっけ、こころの底にそういった多少の不満が、もよ存/もよ在している。が、クライアントに決して憎しみは持つべきではない、持ってはいけないと先輩たちにいわれてきた。それが僕たち=シジフォスの末裔たちのカルマなのだから。 谷底の日陰の薮のなか、その岩はひっそりと鎮座ましましていた。岩には一枚の紙片が貼りつけられていて、その表面の血のような色は夕陽に映えて、赤く腫れ上がっているようにも見える。クライアントの書いた「校正」と言う名のPDFファイルをプリントした業務命令書である。「こことここにもう10行づつコピー追加」「この平社員や派遣たちの労働風景の写真は大きすぎるから削除、クラいのはイヤだ、シャッチョさんの写真をうんと大きくするように」「おまえはデザイナーなんだからもっとうまい英文が書けるやろ」「我が社の商品をオッパイのあいだで可愛げに愛撫しているビキニ姿の美女のイラストを色気たっぷりに描くこと」「1ページを3ページに見せるほどの創造的気迫を」などと勝手な指示がゴマンと赤字で書かれている。ゆえにわれわれシジフォス軍団の兵士たちはそれを赤紙と呼ぶ。 「あほ!」「そんなモンでけるか!」とは決して叫ばない。黙々と指示書を解読し、007のごとく自分の任務を遂行する。これが岩を山に上げる僕に課せられた「労働」というものの正体である。どうせ頂上にたどりついても岩はまた蹴落とされるのだから、最初から運ばなければいいではないですか。イヤイヤそうはいかない。神話のなかの本物のシジフォスは永遠の徒労をくり返すのだが、この現世という所でかれの真似をしている僕ら偽シジフォスたちには、いつかDue Date(〆切り)という一種のチャンスがやって来る。 もちろん前もってそれが来る日をはっきりと知れされているわけではないのだが、その日に山の頂上にたどりとくとクライアント氏の横にジューイッシュの欲ボケジジイがいる。これがカミサマの次にエライ例のシャッチョさんという人物なのだ。 「シャッチョさま、こんなもんでどうでっしゃろ」「ワシの顔写真も大きなったしな。まあええやろ。それよりナンボや」僕に背を向けてふたりはごそごそと内緒話をし、やがて泥緑色の紙切れを数枚取り出し「オラ!」と言いながらイヤそうに僕に渡す。「たった5枚でっか?、10枚くれるゆうてはったやないですか」と僕が文句を言うと「も一回、イワ、落としてほしいんか」。 もう一度岩を落とされるぐらい今さらなんとも思わんが、これ以上かれの機嫌を損ねるとまさにホンモノのシジフォスそのままに永遠のタダ働きになりそうなので、ありがたくその泥緑色の商品交換券を押しいただいてその場を去る。明日の朝にはまた、麓に新しい指示書のついた岩が鎮座しているに違いない、と自分にむりやり思い込ませる。この恐慌の時代には、岩の存在のみが細い糸で繋がった一縷の希望となる。さらに卑屈に歪んでいく偽シジフォスの心象風景。 資本主義の世界では、こういったわれわれの労働力も商品化されているという。この泥緑色の交換券さえたくさんあれば、これで商品だけでなく、労働力も買える。疲れて岩を運ぶのが嫌なときは交換券で他人の労働を買えばいい。常に純粋芸術家(ど・こ・が・ヤ)であろうとする金魚はそこで、これはシジフォスの魂に対する堕落ではないかと感じてしまうのだが、神話の世ではない現代ではこの報酬という契約のことを認めねば生きていけない仕組みになってしまっている。 現実のこの資本主義の世では、ほんもののシジフォスのように無償の、まったく益を求められない労働など、ほとんど存在していないだろう。交換券という報酬のない労働はまさに神話の世界でしかない。しかしながら少しだけ見方を変えれば、現在世界に存在する「労働」というもののほとんどが、いかにこのシジフォスの行為に近いかを実感されて唖然とされることだろう。 保守派の経済学者、西部邁氏は朝日新聞の談話記事(2月2日付け「クロストーク」)でこう語る。 − 人の労働力を純粋に商品として扱えば、そのなかの最も神聖な部分が消滅し、すべての人はサイボーグやロボットとなるしかない。近代経済学では労働とは不効用、すなわち苦痛だ、と教わるが、自分の親父が失業し、ようやく次の職が見つかった時は安堵の表情を浮かべていた。労働が苦痛だけのものなら、なんでうれしそうな顔をしたのか。いったい誰が「人間は効用や不効用で行動を選ぶ」などと言い出したのだろうか。マルクス経済学でも、労働は人間の疎外でそこから解放されるべきだという。でも人間は生きている限り疎外される。男は結婚したとたん女房から疎外される。そこに生の意味が宿る。疎外から完全に解放されたりしたら、これまた人間じゃなくなっちゃう。 西部氏の改憲論や大戦時の歴史認識などは、僕とは相違が大きすぎて、とうてい同意できるものではないが、この労働の基本概念には現代の状況と照らし合わせてあらかたは納得できる。数式や抽象論ではなく身の回りのことから分析される経済学に共感が持てる。 対談相手の「丸山眞男 - リベラリストの肖像」の著作者、苅部直氏も同調する。 − 市場を「シジョウ」と読んだときから、すでに経済学はゆがみはじめている。相手の顔が見える「イチバ」なら、例えば魚が不当に高ければ、文句をつけ値切った上で取引成立。そんな具合に価格の上下もお互いが期待する水準のうちに限られる。生きた人どうしの関係の厚みを取り去って、抽象化したモデルが「シジョウ」。 苅部「米国発の金融危機の最大の原因は何でしょうか」 西部「ひとことで言えば近代の病とも言うべき合理主義です。90年代からIT革命、金融工学などが表舞台に出てきて、確率ということで収益が語られるようになった。でも経済というのは歴史現象なので…」 苅部「まったく同一の条件は二度とありえない」 西部「そうそう。だから、実体経済の先行きというのは、確率的には予測できない。それなのにアメリカは過剰な合理主義の国だから、経済現象を統計・確率という合理性の極地において計算しつくせると考えてしまった」 苅部「最近の金融商品が無限に利益を生みだすといった理論が、世界中の投機の加熱をまねいた。そうした暴走を防ぐためには、人間の限界をきびしく自覚する必要がありますね」 西部「人は間違いを起こし得るんだという謙虚さですね。日本にはそういう発想があった。本来の日本的経営は、未来は計算どおりにいかないというのが前提だった。だから人びとが集まって、ある安定した人間関係をつくることで、将来予想できないトラブルが起こったときに集団で処理、解決する」 苅部「多様な考えをぶつけあい、試行錯誤していくしかない」 西部「それを不合理だ、諸悪の根源だとぶっ壊したのが、日本における構造改革ですよ。もっとゆっくり考えればいいのに、改革だ、改革だと騒ぎ立てて、過剰な合理主義に突入してしまった」 苅部「バブルの時は日本型経営。それが崩壊するとグローバリゼーション礼賛。今度の危機でまた空気が逆転し、市場原理主義批判の大合唱に。一貫して落ち着きがありませんね」 西部「もうこうなったら『反日本主義』になっちゃおうかとさえ思うよね(笑)」 左右の論客が同時に市場原理主義を批判し,アメリカ追従の姿勢を嫌悪する。さてそれで、いったいどうなるのか。数年前国民の大半が小泉構造改革を支持したときの話が、夢のなかのことのように霞んでいる。政治がファッション化して各自のなかに実体を持たない。政治評論の雑誌などは「流行通信」というタイトルを譲ってもらえばいいのではないか。 アメリカ追従の姿勢だけが批判の対象になりつづけているが、もはやその市場原理主義という巨大な艦に地球上の人類のほとんどすべてが乗っかってしまっている。あなた方だけがどうやって降りるか。小さなボートで脱出し、どこに向かおうというのか。 それともその巨艦に乗っていることが、すでに幻想と化していて、実際はすでに新しい土地や船に移り住んでいることも考えられる。この妄想は多分に楽観的にすぎるが、精神的安堵感も大きい。 アメリカの巷でも、もう去年のようにガソリン代が上がり、トウモロコシが急騰し、一体どこの誰が儲かっているのかさっぱりわからないあのような、狂った好景気などに二度とは戻ってほしくない、とほとんどのひとがいう。 大多数のシジフォスたちはここでも毎日必死に岩を運び上げる労働に専心していたにすぎない。過剰生産だっただけですよ、などということばにまただまされて、いったいどのようにしてこんな経済恐慌が起こってしまったのか、いまだにまったく理解できていない。 あのような市場原理主義などという空虚な経済の過剰合理化が、今後も続くわけがない。少なくとも働く人がそれぞれ実感の持てる経済であるべきだ。 それ以前に、たったいままであったはずの仕事がどんどん消えてしまい、たちまち困っている。ノーテンキ合理だったアメリカ人の大半の額から、冷や汗が大量に流れはじめた。そしてそれ以外の世界各国では状況はより過酷である。 もらった交換券を、叩き売りしていたカリフォルニア・ワインと交換し、ひと舐めしつつ、昼間シジフォスであった僕は考える。 明日の朝、もし山の麓に岩と仕事の指令書が置いてなかったら、どうすればいいのか。 たとえ岩があったとしても、だれかがその場所を探り当て、先に岩を運び上げたら。報酬はすべてそいつのもんだ。明日はだれもが動かない夜明け前から岩を運びはじめるしかないのか。 ことほど左様にわれわれの労働にまつわるもともと過酷な精神的苦痛は、この恐慌時に過過過酷なまでに増大する。ひとつの岩(仕事)を大勢が取り合う。「それぞれががんばるしかない」と気勢を上げてもしょせん労働者同士の仕事の奪い合いでしかない。それまで全員が弱者だったグループのなかで新たな弱肉強食の差が生まれはじめる。派遣はまっ先に、正社員も弱い者から順に抹殺される。 「仕事がなかったらオバマ山に行くといいわ」つれあいがほろ酔い気分で宣わった。 「オバマ山だべ?」「オバマを知らないの? 最近売り出し中の歌舞伎役者で、屋号は音羽屋。最近成田屋ゼウスにかわってメキメキ売り出し中よ。かれが環境関連の岩を含めて2年間で新たに400万個の岩を創設し、麓に落っことすって言ってるわ」 「400万個?そんなたくさんの岩がどこにあるだべ」「だから創設するって」「何もねえところからどうやってひねり出すだぺ?オバマはテレキネシスを持ってるのか。オバマはカミサマか」最初は200万個の岩と言っていたものが突然倍増した。同じ予算ではたしてそんなことができるのだろうか。 ヒンドゥーの神話では、破壊の神シヴァが、現世に存在するすべての不条理を清算し、そのあとピカピカになった宇宙に創造の神ヴィシュヌ(クリシュナ)がご登場になり、新しい理想宇宙を建設する。世界とはこのような破壊と想像の無限回の繰り返しだという。ただ、これは僕の若いころ出逢った30年以前のインドでの神話であり、IT産業が牽引する現代のインドでは、やはり世界が不況になれば、過去の好景気を引きずり、ヴィシュヌのご登場はありえず、にっちもさっちもいかなくなっている、と書きつつ受話器を取るとインドなまりの英語でクレジットカードの勧誘。こういった金融業務など、ほとんどすべてが人件費が安く英語の通じるインドからただ同然になった国際電話回線でアメリカにかかってくる。20ドルのパソコンというものも大量生産するというインド。あぁわが魂の故郷よ、インドよ。こんなに近づいているのに勧誘のことばとネットだけで、あなたがたの哲学すらも語れない。 オバマ山になる前のこの連邦山脈の前任アラン・グリーンスパンが、サブプライムの不動産ローンを証券化し、そのリスクを飛ばすのに使われたCODについて語る。「私には何のことか複雑すぎて理解できなかった」。なんということだ。いまになってそんなわざとらしい述回などするな。合理性の極致をめざした市場原理主義のボスが、何をやっていたのかわからないと言いだしたのだ。責任回避の基本、私にはわかりませんでした、ふざけるんじゃねぇ。これじゃわれわれ庶民がわからなくてあたり前である。超合理主義と言いつつ、背中合わせに貼られた不条理。まさにヴィシュヌとシヴァ。 そういえばわれわれはアート系の学生であった青春時代から、合理的なものを必要以上に毛嫌いし排除しつづけていた。若さというものはいつもそういう傾向を有しているらしい。その言葉のほぼ対極にあったのが「不条理」であり、その意味を教えてくれたのがアルベール・カミュの著作だった。 − 以下のページで扱われるのは、今世紀のあちらこちらに見いだされる不条理な感性である。─不条理な哲学ではない。はっきりいってぼくらの時代はまだそれを知らないのだ。 −「シーシュポスの神話」アルベール・カミュ、清水徹訳、新潮文庫 カミュがこの本を書いたのは1942年、第二次大戦のさなかでカミュがいたアルジェリアにも連合軍の大規模な上陸作戦が決行され、北アフリカでの連合軍の勝利を確定的にしてゆく時期だった。5000万人の犠牲の上にやっと終わろうとしていたその戦争に、生き残った人たちすべてが大きな不条理を感じたのはいうまでもない。 カミュが描くシジフォスは、いとも簡単にこの不条理な感性そのものをいかにも条理的な不条理論に変えてしまう。 −不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。 − 真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学上の根本問題に答えることなのである。− ある問題のほうが別のある問題より差迫っているということを、いったい何で判断するのかと考えてみると、ぼくの答えはこうだ。その問題の惹き起こす行動を手がかりにしてだと、いまだかつてぼくは、存在論的論証の結果を理由として人が死ぬのに出会ったことがない。ガリレオは重要な科学的真理を強く主張していたが、その真理ゆえに自分の生命が危険に瀕するや、いともやすやすとそれを捨ててしまった。ある意味ではこれは当を得た振舞いだった。その真理は真理だからといってそのために火あぶりの刑に処せられるだけの値打ちはなかったのだ。 − これに反して、多くの人びとが人生は生きるに値しないと考えて死んでゆくのを、ぼくは知っている。他方また、自分に生きるための理由をあたえてくれるからといってさまざまな観念のために、というか幻想のために殺しあいするという自己矛盾を犯している多くの人びとを、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。 信仰や民族や国家のためなら死んでもいい、と宣う人に僕はひと言もない。それが他者への殺戮と繋がっている場合のみはもちろん文句を言うこともある。あるいはそのひとの思想や上記の哲学の重要な問題として熟考した上での自殺ならしかたがないのかもしれない。戦争によるほとんど自殺といってもいい自己崩壊と相手にとっての殺戮を含めて、カミュのようにはっきりと「幻想のために殺しあいするという自己矛盾を犯している」と断定することはだんだん難しくなる。人びとの不安と絶望が、いつのまにか社会全体を異常な集団自殺行為に駆り立てる。それが不況であり、恐慌というものの正体なのだ。 カミュ自身の死は友人が運転していたときの自動車事故だったが、それでも世間では助手席にいたカミュがハンドルに手を掛けたのではないか、という風評まで飛び出した。僕にはカミュほどに精神の不条理を追求した人物が、その不条理に屈服して自殺などするわけがない、と今でも強く信じている。 この不条理性を現代に写し取っての問題は、ひとが「恐慌時の労働」の不条理性のために自殺する、ということだ。そこには「現世での物品交換券の不足による自殺」という意味で、なんら哲学的命題を伴わぬ悲しい響きがある。だが実際にそうなのだろうか。 世に倦む日日氏のご推薦で知った、辺見庸氏のインタヴュー記事「生体が悲鳴を上げている」。このなかで辺見氏は「現在進みつつある“破局”は、経済だけのものではない。人間の内面性も崩壊しつつあるのではないか」と語っている。「週間金曜日」に掲載されたかれのこの談話をテキストにして書きつづけるつもりだったが、あいにく僻地ゆえに2週間たってやっと前半を掲載した雑誌が届いたにすぎない。今回は前半の要旨を書くにとどめる。 − 異質の破局が同時進行するパンデミック(爆発的感染)的な状況が世界を襲っているという。これらの破局は、経済問題としての世界大恐慌。地球温暖化を背景にした気候変動。実際の新型インフルエンザなどの病理的感染症。そしてもうひとつは目に見えないが、価値システム全体に大きな亀裂が生じているという。 この最後の「価値システム全体の大きな亀裂」という部分が、不可解ゆえに実に不条理を増幅させる。 なかでも一番危機的なのは哲学だと言う。深い反省、思索がない。いまの状況を金融工学やお金で説明するひとは掃き捨てるほどいるのだけれど、人間の生き方の問題として、この状況を背にした人間とは一体何なのか、人間がどうあるべきかということを語る人間はあまりいない。言語と思想、哲学にとってこれほど貧しい時代というのは、実はないのです。 たとえ経済だけが立ち直っても、それですべてがうまくいくのか? 辺見庸氏の問いかけにわれわれシジフォス軍団の意見はもちろん否である。そして経済そのものがまず立ち直らなければ、即刻自滅の道を歩まねばならぬのも、その軍団の宿命でもある。 膨大な隠しガネをして逮捕されそうな財界の大ボス、この御仁に代表されるように、世のシャッチョさんたちはシャカリキになっている。仕事が少なくなり、みんなの稼ぎが悪くなり、カネが動かなくなれば、この人種たちはますます隠して溜め込もうとする。いままで弱者から搾り取り、搾りきったらこの恐慌を凌ぐまで20年、隠し金とともに冬眠する。なんという悪辣な。 今宵は暗いテーマだったので、これ以上難しい論議はあとの稿につづけるとして、ひたすらジョークに徹して終わりたい。 激務の後、精神の不条理に悩むシジフォス金魚自身へのせめてもの小さな宴であるのだから。 時の人、村上春樹氏のショートショートに「もしょもしょ」というものがある。われらプロレタリアートの精神にも潜む、交換券に対する不穏な欲望を綴った超短編。 わが故郷、そしてすぐご近所に住まわれていたらしい春樹氏の故郷のことば、大阪弁とはこの手のテーマにあまりにもぴったりフィットする。ここに表現されているYESでもNOでもない優柔不断テーマというものは、あるいは日本人がもっとも得意としてきたものだったが、決して日本文学の一分野には組み込まれなかった春樹氏独自のものでもある。だがエルサレム賞をもらったその場所での氏の真意はまったく優柔不断ではないように見えた。同国の殺戮に対して鋭いジャブを応酬する氏のことばに、新たな尊敬の念を抱いた。それでもなおも、氏の持ち前のその優柔不断精神はまったく損なわれていない、と書いてしまえば氏に対して失礼にあたるのだろうか。なにげないことなにげなく書ける、唯一の日本人作家。今回はなにげなくないことを、なにげないふりをしてイスラエルから世界に発信した。ではその珠玉の大阪弁作品。 月曜日にぼちょぼちょに良いことをしたら、水曜日にもしょもしょがやって来て、お礼に紙袋を差し出し、のぞいてみるとなかにはくりゃくりゃが入っていた。 「いやあなた、いくらなんでもこんなものをいただくわけにはいきませんよ、これはくりゃくりゃじゃありませんか」僕はあわてて言った。 「なんや、くりゃくりゃはお嫌いでっか?」 「いやもちろん嫌いというのではないですが…」 結局もしょもしょはくりゃくりゃを置いていってしまった。 弱り果ててぼちょぼちょに電話したら「ええんですよ先生」とぼちょぼちょは言った「もしょもしょは税務署の対策で、いずれにせよあれ誰かにやらなあかんかったんですわ。もろときなはれ、もろときなはれ。なかなかええもんでっせ、あれ。奥さんの方には私のほうからうまいこと説明しときますさかい、そんなもんよっしゃゆうて、もろといたらええんですわ」 というわけで、僕は今くりゃくりゃを毎日のように堪能している。使ってみると、思ったよりずっといいものだ。手放せなくなりそうだ。 − 村上春樹「もしょもしょ」抜粋 最後にもう一度、辺見庸氏の短いことばを転載して、この交換券についてのエッセイを終わる。 「奈落の底で人智はどう光るのか、光らないのか、それが早晩試されるだろう」 金魚のフン & Fun:ずいぶんご無沙汰をしてしまいましたが、上述のような過酷きわまりないシジフォス的労働行為を昨年度の3倍もくり返さねばならなかったのは事実です。日々イヤだイヤだと思って働いていたものですから、帰りの地下鉄のなかで極悪性の気管支炎の菌を頂いてしまい、これがまた猛烈に強い菌であったのでありまして、いやはやもうたいへんでした。アメリカの医者は極軽度の風邪にも、濃厚な抗生物質をバンバン投与するものですから、菌のほうもグロテスクな超能力を持ったスーパーキンに変身するのですね。そんなもの頂いちゃって、医者に行かない(行けない)僕にはもうほんとに勘弁勘弁です。菌たちは現在進行形でいまだにわが体内に居座られておられます。まさに辺見庸氏の語られている複合的パンデミック(爆発的感染)で「生体が悲鳴を上げている」図を具現化してしまいました。イヤイヤこれも僕の「くりゃくりゃ」に対する認識の甘さを諭されたカミサマの啓示かもしれぬと、恐慌時には実に謙虚になってしまう金魚ちゃんではありましたが。
by nyckingyo
| 2009-02-26 07:11
| 地球号の光と影
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