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10日ほど春の気配を濃厚に感じたあと、闇夜に雷鳴が轟きわたった。窓を覗き込むとあのエジソン氏の創作によるこの街の街灯たちが霞に溶け込み、泣き腫らした瞳のようにぼんやりとこちらを見返している。 庭の巨木は夜のうちにつづく寒さに、いまだ芽吹くのを頑なに拒んでいるようだ。 朝から晩まで、仕事をしながらビル・エヴァンスの晩年のアルバム「You Must Believe in Spring」(1977)(春はかならずやって来る)ばかり聴いている。ミッシェル・ルグラン作曲のタイトル曲だけでなく、全編悲しさに埋め尽くされた曲奏に頭が乗っ取られ、およそ今が春という季節に移りかわったとはとても信じられない。 このアルバム発表の前年、ビルは伴侶エレイン夫人を地下鉄構内の自殺で亡くし、この録音の年には、かれの音楽の最大の理解者だった音楽教師の兄ハリーがやはり銃で自殺している。ふたりに対する追悼の曲がそれぞれ完璧な音色で満たされているが、ビルにとっては弾けども弾けども満たされぬ時間帯だったに違いない。月並みな表現だが、すぐそばにいたひとたちが突然逝くことは、残された者にとって堪え難い苦痛である。 僕にとっても、地球の裏側に遠く離れてはいたものの、ごく近しい親族が逝ってほぼひと月。決してかの女の魂を憶いつづけているだけではないのだが、悲しみで自分の肉体までもがぼろぼろと亡びていくのを実感する。何をしていても苦しく、もの悲しく、ぽっかりあいたこころのなかの空白が、無の重みを持って直接肉体に跳ね返りつづけている感覚で、たまらない焦燥の連続。このビル・エヴァンスのアルバムのみが生きつづけるためのよすがとなっている。描けない、書けない。働くこと、歩くことすらままならない。太陽を観ればそのすべてがかの女のようでもあり、月を観ても然り。雲の流れも、風の香りまでもがかの女の化身と化す。いつでもどこでも話ができるから、離れて生きていたときよりかえって便利じゃないか、などと達観してみるが所詮は強がり。やはりもうどこにもかの女はいないのだと再認識する瞬間、失ったその存在の大きさを噛みしめてひたすら冥福を祈る。彼岸にはこの世を離れた無数の精霊が存在しているはずだが、いまはかれらを見極めるすべもない。まるでこの宇宙全体がかの女の精霊で埋め尽くされているような気がしてくる。そしてその再認識の瞬間は、無限に押し寄せる引き潮どきの波のごとく、くり返しくり返し僕の全存在を「向こう岸」に引き込もうとする。 あてもなく、人気の極端に少ないロングアイランドの早春の浜辺を歩いてみた。そこにはソラリスのような生命体としての海はほとんど存在せず、こんな所にまでひたすら不況に苦しむ人々の辛い想念が漂ってくる。それでもこの浜辺にもかの女の存在が見え隠れする。波打ち際の海草のなかにも、貝殻のなかにも、僕にとってのかの女が溢れている。そこに漂う生命の原点たちは、たゆたい、煌めきながら地球という星に存在していることを歌っている。これら海水のなかでの生命の揺らぎを音に置きかえると、そのままビル・エヴァンスのピアノ曲となる。 だがしかしこのような状況は、ビルのこのアルバムが奇しくも語っているように、いまだに生かされている我々の方が、彼岸の波打ち際をのぞき込む最大の機会なのかもしれない。考えることすら閉ざされ、ただ鍵盤に指を落とした瞬間から、生きている者のちからだけとはとても思えぬ奇蹟の運指がはじまる。狂った獣のごとく口から吐き出されるうめき声が、その奇蹟を意識し清聴する者にはまさに絶妙なるメロディーとして響きわたる。 悲しみにのたうつ僕のPCのマウスの周辺からも、その心象風景とはまったく異なったフォルムが吐き出され、貼りつけられる。それらを美しいと感じるのは創作している当人たちだけなのだろうか。 ふとそのかの女がこの世に生まれ育ちはじめた頃、僕にとってはもはや歴史という範疇に入る80年以前の世界の状況を振り返ってみる気になった。もちろん80年という膨大な時間帯には、かの女の実にさまざまな想念が存在し、楽しいこと、すばらしい時が多々あり、僕もその幾ばくかをかの女の生前にも伝え聞いた。ただこの世代のひとびとの話で共通して印象的なのは、あの悪夢のような太平洋戦争とその暗黒の世界に入る前夜の話であった。 あるいはかの女の精霊が直接僕に語りかけてくれているのかもしれない。 待っていたようにテキスト映像が届いた。NHK「そのとき歴史は動いた・世界恐慌はなぜ起きたのか」あの「暗黒の木曜日」の記録である。 奇しくも聴き込んでいたこの天才ピアニスト、ビル・エヴァンス (1929−1980)が生まれたのもこの年のことである。 1929年10月 24日、木曜日。 この日を境に、人類にとってはじめての体験と言ってもいい世界大恐慌がはじまる。この日までのアメリカと日本の動向を列記する。 そのほぼ10年前、第一次大戦が終わると同時にニューヨークではエンパイア・ステイツをはじめ数々の高層ビルの建設ラッシュがはじまった。疲弊したヨーロッパ経済を避けるように、世界中の富はアメリカに集中しはじめた。 ローリング・トゥエンティー Roaring 20sの波に乗り、のちの大統領ジョン・F の実父であるジョセフ・ケネディーはウォール街で大儲けをしていた。当時超人気だったRCAの株を買い占めて、株価をつり上げ、上がり切ったときに一気に売る、という単純な市場操作だった。現在ではもちろんこういった「買い占め」は禁止されているが、当時のウォール街はまだ法律の手が届かない未開地に近かった。 「市場で儲けるのは簡単なことさ、法律で禁止されそうなことを禁止される前にやればいい」とジョセフ・ケネディーはうそぶいた。 つい数年前になにやら同じようなことを宣わりつつ、実は既に厳しかったその国の法律を犯していて逮捕されてしまった某国の某君を思い出させるが、ジョセフ氏の方は実に狡猾でスマートだった。いやいやこんな人物に感心していていいのだろうか。 当時、急激に増加したアメリカの一般投資家たちは手持ちの10倍の金を動かせるというブローカーズ・ローンというものにハマっていて、資金を持たない者までが投資の世界に手を染めたという。もうけも10倍なら損をしたときも10倍、目一杯派手なこの国のカルマです、と言って済ませるには問題がありすぎる。 当時大流行のGMキャデラックの走りっぷりのごとく、欲望は加速に加速を重ね、人々はウォール街へと押し寄せた。虚像の証券が市場経済を動かし、実体のない妖怪たちがそのダウンタウンの一角で暴れ回っていた。 つい昨年2008年の夏までの、狂乱物価と実体のないマネー状況、たとえばサブプライム・ローンという妖怪が証券のなかに逃げ込み隠れてしまった現象は、これをうんと複雑にしたものと解釈できるが、基本的な部分(=お金がなくても買うことができる)は酷似している。 同じ時期の日本に目を向けてみる。やはり距離のはなれたヨーロッパが戦地だった第一次大戦の特需景気に浮かれたあと、戦争が終わると同時に景気は急速に冷え込みはじめた。 1923年の関東大震災で状況は極端に悪化。27年には東京渡邊銀行の取り付け騒ぎから、既に国内での金融恐慌が起こっている。 この時点での日本の不均衡経済とは、ほとんどが生糸の対米輸出に全面的に頼っていたことである。この図式も国家経済の規模の比較をはずし、ディテールを置きかえれば、つい最近までの状況とほとんど変わらない。 そして今からちょうど80年前のその「暗黒の木曜日」。イギリスの金利引き上げに端を発して、ニューヨーク市場の株価は大暴落する。世界経済は崩壊しこの日一日で当時の通貨で30億ドルという損失を招く。 アメリカの威信は地に落ち、物価は急暴落、1300以上の銀行が倒産、国民の4人に1人が職を失った。 アメリカは輸入品に高い関税をかけ、貿易を極端に制御。世界経済が大恐慌に陥った。 当時からアメリカと緊密な関係だった日本は、この事件以前にすでに国内恐慌に陥っていたが、この大恐慌の影響は多大だった。倒産、失業者の続出、農村では借金苦から娘の身売りがひきをきらず、昭和恐慌といわれる国家破滅寸前の状況となった。 日本は経済立て直しの突破口を中国大陸を侵略する道に求めた。その後の軍部の暴走から満州事変、日中戦争、そして遂には太平洋戦争に至る。この戦争で日本人だけで300万人以上が殺戮された。暗黒の木曜日から満州事変の勃発まで、それ以前からの国内恐慌があったとはいえ、わずか2年足らず。おそろしいスピードで戦争妖怪たちが駆け抜けた。 僕のように経済に疎い人間でも、世の中の戦争というものがほとんどすべて、富の奪い合いから起こっている、ということぐらいはわかる。 恐慌によって世界中の全員が落ち込んで、いままでとは別のルートの富への渇望を大きくする。たとえそれが不可能とわかっていてもそのような悪夢を見つづける。夜ごとの悪夢を司る悪魔はいつのまにか、ひとのこころのなかにその具現化を目論ませる。それがすでに狂気であることは当人も感じているのだが、もはや朝起きるとすぐにその狂気の具現化の脚本制作に没頭しはじめる。もはや誰にも止めることはできない。全員が各々この狂気の虜になってしまったのだから。 今までは株式市場の関係者のみに取り憑いていた妖怪たちは、インフルエンザのウイルスのように増殖し、すべての人間に取り憑くことになってしまうという構図である。 節度を失ったマネーが市場を攪乱させ、極端な不況になる。 ここまでの歴史が繰り返してしまったことは、あるいはやむを得ないのかもしれない。だがしかし、巨大に膨れあがり、なおも満たされぬその欲望を暴走させ、そのまま過去の大戦争に繋がる相似形の未来を模倣するとすれば、人類という動物は、歴史にまったく学ぶことのない馬鹿である、白痴である。 これまでの戦争をすべて「国家による暴走」ということばで片付けることは簡単だが、その国家を根底から動かしているのは(詳細な異論は認めるが)個人の欲望の集積である。 80年前のその世代の人々、あるいは彼岸のかなたに旅立たれた魂をも含めて、かれらのことばは、個々のなかに蠢くその戦争妖怪を抹殺すること、と強く提言している。 このNHKの番組のなかで経済評論家の内橋克人氏は、市場が人間をふりまわすのではなく、人間がそれを制御する経済=共生経済−人間が共同で市場を制御していく経済、を提唱されている。 人間の生存にとって基本的な食糧・エネルギー・人間相互のケアというような自給圏を造り、そのなかで人間の生存を保証できる世界。 個々が欲望を制御し、まず人類の仲間の生存を優先する社会。 我々が日々の生活に追われ、その正常な継続が難しくなればなるほど、これらの提言の不可能性のみが漂う。 だがしかし、社会経済がいかほどに破壊されようとも、おたがいの物理的生存が不可能になるあのような戦争の状況だけは、決して作り出してはならない。大量殺戮とレイプを合法にしてはならない。 やはりまだ、温かさとはかけ離れたこの不況嵐のなかで「いまこそが春だ」と信じきる勇気のようなものが必要な季節ではある。 一年のうちのほぼ半分をマンハッタンに滞在されているドナルド・キーン先生の秘書氏に、「文学界」2月号をわざわざ拙宅まで運んでいただいた。「日本人の戦争 − 作家の日記を読む」というタイトルで120ページの力作が掲載されている。太平洋戦争が始まりそして終わった時期の日本の文学者たちの日記文を紹介・評論されている。永井荷風、高村光太郎、野口米次郎、伊藤整、高見順、山田風太郎、吉田健一、ほか多数。意外な人物の意外な表現がさまざまな想いをかき立て、とても興味深い。大戦争という異常事態に、文学者である以前に日本人、あるいは人間であろうとしたかれらの本音が見え隠れしている。そしてどの文学者もその異常な社会状況を冷静にとらえることは難しかった。さまざまな歪んだ表現が歪んだ時代を象徴している。 キーン先生には「百代の過客」という日本の日記文学に関する名著があり、この本をテーマに一文を書きます、と宣言してしまったのだが、これが手強い、難航しています。およそアメリカ人の先生が日本の古典を原書ですらすら読まれるというのはどういうことだろう。もちろん才能とは努力の集積なのですが、改めて幾重にも脱帽の思いであります。 このブログはおよそ日記らしからぬが、ときどき目を通していただいていると伝え聞いた。光栄の突き当たりである。推敲を重ね、自分の書いた文章をよく読みなさい、とのお達しであった。 いやぁ、早々に春を実感してがんばらなくちゃね! さしあたって枕草子ならなんとか読み解けそうかな、むむ。しかし日本の古代語とはなんとも風情がありますね。 春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
by nyckingyo
| 2009-03-31 09:19
| 地球号の光と影
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