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てくてくてくてく黄昏のセントラルパークを歩いていて、行き過ぎていく道ばたの花の名前がどんどんどんどんちがうものへと移っていき、お月さまが昇り、もう夜の9時近くだというのに太陽神氏のひかりも残っていて、世界はうっすらと輝きつづけています。 ちょっと首をのけぞらせて、そのお月さまの裏側を覗いてみると、かぐや姫を筆頭に、山で夭折した親友、親族、先輩、敬愛している偉人、過去の大芸術家など、彼岸に逝かれたおおぜいの方々の想念が押しよせてくる(ような感じがする)。 そんなとき、自分だけがもうかなり長いあいだこの星に生かされていることを本当に幸せだと感じます。 もう一度、すぐそこにある花たちに声をかけながら歩きます。こちらの動きにつれて花たちは移り変わっていきますが、赤い花、可愛い花、美しい花、とそのひとつひとつの存在が僕のなかでたまたま「花」という言葉で考えられ、語られ、かれらはその言葉のイメージを演じているというわけです。 人間の本質を解き明かそうと瞑想していくと、精妙で純粋な、限りなく透明感のある意識に近づいていき、自分自身が存在するという意識はハッキリとあるのですが、それ以外の五感はすべてなくなり、最後には「存在」としかいいようのない意識状態になります。それと同時に、森羅万象すべてのものが、存在としかいいようのないものから成り立っていると意識できるようになる。その意識状態こそが人間の本質を表しているというわけです。 僕というひとりの人間が意識することで、「花」という言語はそこに生きている「(花と呼ばれるべき)存在」にも影響をもたらします。何故ならその存在が「花」という僕の意識のなかから生まれた「花」を多様なすがたで演じてくれているからだといいます。 「花が存在している」のではなく「存在が花をしている」。これは故井筒俊彦氏が「意識と本質」というテーマで論じられていることを思い切り簡略にした要旨です。 このことを、心理学者の河合隼雄氏は、実にやさしい言葉で言い替えておられます。 —「あなたという存在は花を演じておられるのですか。私という存在は河合を演じているのですよ」とその花に語りかけたくなる、と。 井筒先生の上述の「五感がなくなり存在感だけが残る」のくだりは、まるで般若心経 Heart Sutra の導入部かあるいは禅のメディテーションをしている感覚ですが、先生のご専門はイスラームとその哲学でした。仕事が円熟期に入られると、仏教、ユダヤ教、キリスト教にも深い理解を持たれて、そういった宗教のカテゴリーを超えた「メタ宗教」とでも言うべき構想をもたれるに至ります。イスラーム教がいちばん深いところで理解している「アッラー」も、神という概念すらも超えた、仏教がいう「真如」とおなじ存在ではないか、と言われています。このあたりは、井筒哲学の後継を自認される中沢新一氏が前出の河合隼雄氏との対談「仏教が好き!」(朝日文庫)のなかで述べられています。 先日はこころが湿度の異常に多い日本の風土にあこがれ、日本の緑に思いを託しましたが、そのあと短絡的に、まったく逆の湿度の極端に少ない場所—乾燥した砂漠—アラビア砂漠—イスラームという風にいつものようにアタマだけが勝手に飛躍してしまい、じめじめした日本の仏教とカラカラの風土のなかに登場したイスラーム教と比較しようなどという無謀な試みを考えてみましたが、これはまったくの誤算でした。 井筒先生のイスラームに関する本を数冊読みましたが、この世界最大に膨張した宗教はもともと砂漠の遊牧民から発生したものではなく、ムハンマドという預言者は砂漠のなかのメッカやメディナという大オアシス都市の商人として生まれた都会っ子だったそうです。かたや当時の砂漠の遊牧民族/ベドウィンは、同一部族間での血縁、連帯感が存在の根底でした。血の連帯感ということばだけではわれわれはたいしたことがないように感じますが、砂漠的人間にとってそれは実にすざましいまでに強烈な存在感覚だ、と井筒先生は言われます。いわば全身に逆巻くものすごい情熱、理屈ではとうてい説明できない非合理的な、ほとんどデモーニッシュな力として、それが砂漠的人間の行動ものの感じ方、考え方いっさいを支配していました。そしてかれらの視覚聴覚は生き延びるために異常な発達をし、その比類ない感覚で現実から受け取る個々の形象や映像は実に新鮮で強烈ではあるが、それぞれの印象が雑然とした集塊となりそこには論理的連関性が少なかったといいます。ゆえに極端な現実主義、殺戮と掠奪の連続にベドウィンたちのこころの中も人間存在そのものの不安、実存の不安=死の恐怖が渦巻いていました。このことは、他の生命体とほとんど隔絶した灼熱の砂のなかに咲く一本のサボテンの花の孤絶感を想像しただけでも理解できます。 ムハンマドの確立したイスラームが宗教的共同体の理念をひっさげて真っ向から衝突していったのは、まさにこういう当時の砂漠的人間の荒んだ精神だったというわけです。 すでに長い歴史とともに存在していたユダヤ教やキリスト教と同じ神をもつムハンマドの新宗教は砂漠の遊牧民たちを席巻していきます。考えればこれら世界の三大一神教が生まれた土地はほとんど砂漠か半砂漠状態の風土です。大地があり満天の星がある。それ以外に神の宿る場所は少なく、そこに存在する人間の頭のなかには唯一の絶対神が生まれることが当然でしょう。東南アジアや日本のように、生命が溢れせめぎあう風土とはまったく逆ともいえます。人間をも含めたあらゆる生命にとって、生きていくそのことが非常に過酷な環境。幼かった頃、ディズニーの「砂漠は生きている」という映画を観て、その過酷すぎる風土に生きるたくさんの生物の姿に感動しましたが、生物の絶対数の分布は、この地球星のなかで異常に偏っている。そのことがまた劇的にちがう多様な文化を生み、この星をおもしろくはしているわけですが。 夏至が近づくとこの街はほとんど9時以降まで明るいものですから、その夜もまだ人出のぽつぽつ残っているパークについつい長居していました。さっきまであたりを照らしていた太陽神氏のひかりが急激に弱くなり、その何百分の一かのお月様の光までを感じるほどになりました。 その時僕がたまたま観ていたのは、世界中どこにでもあるとてもポピュラーなインペィシェンス impatiens というホウセンカの仲間の小さい花たち。短気・せっかちという意味の単語 impatience とはスペリングが少しだけちがいますが、僕はずっとおなじことばだと思い込んでいました。小さい体を寄せ合うようにして群生している姿が、ほんとはせっかちなのに、なにかをじっと「我慢」しているようにも見えたからです。ひとつひとつの花を細かく観察すると、我慢するどころか目一杯の力で円心から外側に向かって開き切っている風情でもあります。 無数と言っていいほどの薄いピンク色の花たちが、外からのひかりの弱まったのを期に、それぞれの体の内側から輝き出したように観えはじめました。黄昏とは、いままで太陽の反射光で強くくっきりと観えていた形が、いつの間にかそれ自身の内なるひかりで輝いていることが認知できる時間帯のことです。 その花たちのひとつひとつがかれらの内側から輝いていることがわかったとき、その内なるひかりの衝撃で目眩がしたほどです。太陽光やモニターを長時間見つめつづけたあとのような目眩ではまったくありません。疲れを感じない自然で弱い白色のひかりなのですが、そのときのインパクトはすごかった。どんどん闇に近づいていくまわりの環境のなかで、群生した花たちが空飛ぶ白い絨毯のように舞い上がるのが観えたのです。昼のひかりのもとではこの色がインペィシェンスの淡いピンクに変色して現れているのだと理解できました。そしてもっと驚いたことにはその花たちのひとつひとつのひかりが、僕の知人、かって語り合った人格、あるいは音楽や芸術を通じて僕の方だけが知っている人びと、に変身しているように感じたことです。 その昔、20歳のとき冬山で遭難してしまった小学校からの親友が語りかけてきました。「よう、元気でやってんのか」いやぁ、とても特徴のあるなつかしい声だったので、突然アタマのなかに彼と話すべきことがあふれ、返事をしようとするともはやかれは消え去ってしまったようです。しかしそのひとことで一体どちらの方が「元気」で生きているのか、まったくわからなくなってしまいました。 そのとなりの花にはやはり早く壮年で亡くなった父がいて、母も、愛すべき叔母も、僕が生まれたときすでに亡くなっていた祖父までもが、何かを語りかけてきました。それらはひとつづつのインペィシェンスの花に明らかに個別に出演(表現)されていて、そちらからこちらに、一方的ではあるが明解なことばとなって聞こえてきたのです。そしてそのまたとなりの花は、そのとき歩いていたパークのその場所からすぐ近くに住まれていたというジョン・レノン氏、生前神智学を追求されていたという指揮者のブルーノ・ワルター氏のあの温和な笑顔、それからなんとモーツアルトのような存在までもが(日本語のようなことばで)声をかけてくれたのです。 すべて妄想だよ、と言われれば頷くしかありません。旧友はあるいは若い時代に摂ったアシッドがフラッシュバックしただけさ、というかも知れません。 明解な記憶は残っていてもそれらのことがらが真実だったかどうかなど、これを書いているいまの僕にもハッキリとはわかりません。たいせつなのはその時の僕の意識が、そういった奇蹟をそのひとつひとつの「花」たちに対して認知していたということです。そしてその体験が僕にもたらしたもっと大きな意味は、かれらの声が聞こえたことで、いまこちらの世界に生きていることの幸福感を幾重にも感じることができたということです。 中沢新一氏の別のことばを書き写します。少し季節はずれですが、ディッケンズの「クリスマスキャロル」の守銭奴スクルージーのこころが、どうして溶け出したのか、というくだりがあります。(やはり河合隼雄氏との対談集「ブッダの夢」朝日文庫より) 中沢:スクルージーはこころのまっすぐな人だが、お金がつくるものしか信用しなかった。ひとのこころのつながりなんて信用できないから、子どもたちの語りかけることばもわからない。「メリー・クリスマス」と呼びかけられても追い返しちゃう。そんな祭のどこが楽しいんだ、というわけです。ところがかれのもとに死霊が訪れることですべてが変わります。死霊たちはかれを死霊の世界に連れて行き、そこから死霊の目から生きている世界を見せたわけです。そしてその時かれのこころが溶解しはじめた。死人の目を持つことによってはじめて「メリー・クリスマス」っていう子どもたちの声を理解できるようになったんですね。僕はあの小説が人類にとっての祭りというものの本質をとてもよく表していると思うのです。死者の目からこの世界を見ることが出来たとき、人間のこころは溶解するだろう。 ところが今の日本では、スクルージーすらいない。そこではこころも溶解しなくなってしまう。なぜかというと、死者の目で見たり、外から自分たちを見る目を失っちゃってるから。そうすると、こころは溶解し始めないんじゃないかな。ですから、まず人間のこころを溶かしていくためには、死の目が必要なんだと思います。 死霊の国への旅・3泊4日パック・希望者は現地永久残留も可、などというと交通料金もかさむだろうし、かなり引き気味になっちゃいますが、たとえばちょっとした海外旅行にでかけ、その国の文化と日本を比べて「ああやはり日本のほうがいいわい」などと感じるだけでもずいぶん客観的にいろんなものを観なおした経験がおありでしょう。死出の国へはとても遠い航海だと思いますが、イマジンするだけなら僕のように瞬間移動できるのです。この対談相手の河合氏も、もともと日本には「死」の方からこっちを見る伝統が多数あったといわれています。 河合:いま僕のやっている仕事(ユング心理学をカウンセリングに導入)というのは死のほうから生を見る仕事だと言ったほうがいいですね。みんな自分の生を延長するほうからばっかり言っとられるけど、ぽっと向こう側から見られたら、かなり変わるわけです。それは何もこっちが行ったって見つからないから、そのひとが「そっち」へ行ってみるようになるまでまつよりしょうがないわけですね。 中沢:スクルージーになれればいいんですけどね。 河合:そうそう。ときどきそういうことが起こるわけですよ。 仏教なんか完全にそうですよ。そっち側から観た世界が、あまりにもすごく堂々と書いてあるから、わからないんですよ、こっちは。 時おり自分の肉体が植物であることを夢想します。天から与えられた一区画の土と水と空気に護られたままその植物の一生が終わる。花をつけ、蜂などの協力でできたその種子が、あるいはどこか見知らぬ宙空に飛び子孫となるやも知れないが、かれらを見守り育むすべもなく、その場所から動くことはない。 ひとという動物に生まれたとて、状況は激変するわけではないと思っています。もちろんまったく動けない植物とおなじ、などというと神様の罰があたってしまいますが、人生とは世間のしがらみのなかで結構不自由なものです。歩くという運動でパークの移りゆく花を鑑賞はできますが、所詮選んだ職場や家庭という自分で築いた巣からさほど遠くにまで飛び立つことは稀なのです。地球を半分まわってこの土地・ニューヨークに移住はしてみたものの、今度はさほど頻繁に故郷に帰ることもままならなくなりました。飛行機のアテンダントにでもなれば移動は自由のようですが、それも所詮そのひとの職場が飛んで動いているにすぎなく、こころの自由とは関係ありません。 だがわれわれの存在は、時空間移動のための大きな道具を内包しています。本質的なものを考えるためのイマジネーションというものです。部屋に座り込んだまま世界を移動できる。鳥のように大空を舞うことも、鯨のように深海を泳ぐことも自由。そして死霊の国にまで到達した知の想像力をもつ者には、あるいはものごとの本質を知る智慧の門をくぐることを許されるのかもしれません。このことは上述の僕のパークでの妄想然とした想念などよりも数等深い宗教的な瞑想や、形而上的な体験というものに可能性があるということです。 そのあたりから、ものごとの「本質」というものを、かたちのあるもの、見えるもの、もっと言えば感じられるものにも、限定すべきではない、というように考えることができます。そしてそういった想念のようなものが本質をついていることがあるのだとすれば、そのことに「存在」の意味も見出せるのではないか、これが今回の思案の一部です。 しかしながら、すでに存在しているものに「名前」があることを理解しても、そのものの「本質」などというものはどこにもない。本質がなければ名前もやはりないのではないか。そういった徹底否定から井筒本質論ははじまります。 ヴァーチャルな体験で神経を摩耗し、さも現実のあらゆる世界を動き回り、地球が思い切り小さくなったような錯覚に陥ってしまう現代の偽グローバリゼーション。井筒先生はお亡くなりになる前の80年代後半、すでにはじまりつつあったこの似非地球融合を指摘され、痛烈に批判されていました。市場主義経済の暴走も、本質を見わすれた現代人の所業を象徴しているように思えてなりません。本質を追究するイマジネーションのみが、あるいは未来の地球を救うのかも知れません。 G.ガダマーのことば、真の「地平融合」を具現化する試みとして、次回も井筒先生の本質論に「花」と宗教をからめて、できるだけやさしく要約する作業をいましばらくつづけたいと思います。 井筒・意識と本質学— (2) につづく 参考文献: 稲盛和夫;「生き方—人間として一番大切なこと」(サンマーク出版) 井筒俊彦;「意識と本質」「イスラーム文化」(岩波文庫) 「イスラーム誕生」(中公文庫)「意味の深みへ—東洋哲学の水位」(岩波書店/絶版) 河合隼雄/中沢新一;「仏教が好き」「ブッダの夢」(朝日文庫) 金魚のFun & Fun: 記事中盤右にある大きな一輪のインペィシェンスの花の写真は、なんとかウォーホルのシルク作品のイメージに近づかないかと四苦八苦したものですが、Warholizerに行ったら、一瞬にしてその下左側に張ってある9枚のウォーホル画像ができました。クリエイティヴィティーは満足しないけど、自分のカオなどもポンポンウォーホルの作品になっちゃうので楽しいですね。 そういえばウォーホル氏の作品も、どれを観ても死の世界からこちらを描いている気がするのです。未読の方、当ブログ、うつし身たちの陰影(アヴェドン/杉本/ウォーホル)にもお立ち寄りください。(センデンが多いね)
by nyckingyo
| 2009-05-25 02:18
| 井筒・意識と本質論
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